2015年4月21日火曜日

主の救いの計画(一)

主の救いの計画(一)
2015年4月21日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

伝道者
3:11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行なわれるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。

詩篇
90:2 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。

102:27 しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。

今、言われたように、テーマは、「主の御計画」、すなわち、「永遠から永遠までの主の計画」、もちろん、救いの計画について、少し一緒に考えたいと思います。

伝道者の書を見ると、『神のなさることは、すべて――九十九パーセントだけではなくて、すべて――時にかなって美しい。』しかし、人は、『神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない』とあります。モーセも、もちろん、全く同じことを言ったのですね。

詩篇
90:2 山々が生まれる前から、あなたが地と世界とを生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまであなたは神です。

我々は、この主なる神の偉大さについて、いくら考えても全く解らない。

ダビデは、「しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません。」主は、もちろん、初めのない終わりのない、永遠なる方です。この方とは、人間の永遠の幸せしか考えられないお方です。

目的は、みことばである聖書を、もっと良く知ることであり、もっと良く愛するようになることです。まず、天地創造以前の永遠について、それから、また、主なる神の三一性について、主なる神は創造の前に何をなさったか、また、悪魔は如何にして現れたか、また、創造の目的について、一緒に考えてみたいと思います。

星がまだ無かった頃、永遠の神は、もちろん、おられました。また、太陽が、その光、力をこの地上に送らなかった時、初めのない主なる神は、存在しておられました。言いたいことは、主なる神は、造られたものではありません。すべてのものを造りたもうたお方です。主のいのちは、造られたものではない。だから、このいのちは、初めもなければ終わりもありません。

創世記
1:1 初めに、神が天と地を創造した。

この節は、我々を数えることのできない過去に引き戻します。神は、いつ天地を創造されたかを、確かに知りません。けれども、主は創造された。偶然にできたものではないと聖書は言っています。ヘブライ語で、「神」という字は、単数形ではなくて、複数形になっています。おもしろいね。けれども、そうなんです。創造されたという言葉は、単数形になっています。

創世記
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

ここで、二回も、「われわれ」という表現が出てきます。複数形ですね。私たちは、もうすでに、この創世記に、主なる神の、いわゆる三位一体であることをうかがうことができます。ません。すなわち、父なる神、御子なる神、そして、聖霊なる神を知ることができます。『三つにいまして、ひとつの神』と聖書は言っています。三つの神の人格があると聖書は言っています。神は一体であるとあります。

私たちは、確かに理解することができません。初代教会の人々は、すでに表号として、三角を用いました。三角は世界で初めてできた形らしい。三角の中には、三つという数とひとつという数が調和して、ひとつになっています。ひとつの三角があります。三角は、辺を、あるいは、角を三つ持っていますが、形は、もちろん、ひとつです。

聖書を読むと、次のような主なる神の啓示が書かれています。すなわち、三位一体としての神が描かれています。これは、主なる神はひとつですけど、その主なる神が有する三つの人格に、それぞれ、区別があると言っています。主についての、この啓示を次のように言い表すことができます。第一番目、神聖の三つの人格は区別されています。第二番目、神聖の人格、おのおのは神である。三番目、この神聖の三つの人格は統一され、その統一されたものを、神と呼ばれています。

ひとつだけど、三つです。これは、確かに理解できない。理性でもってつかめない三位一体の秘密です。人間の理解力は、神をひとつのもの、または、三つのものとしたがります。けれども、人間の理解力は、二つを一緒に理解することができません。けれども、聖書は、この両方だと教えています。すなわち、ひとつだけども、三つだと教えています。

三位一体という神の本質を、たとえを持って説明することができます。なぜならば、人間の知恵で主なる神の知恵を解釈することは、全く不可能であるからです。

三位一体という秘密を、仮にたとえてみれば、太陽の光と熱のようなものです。太陽を肉眼で長いあいだ、見ることはできません。ちょっと見ても、すぐ目がくらみます。私たちが、もし太陽に近づいたとしたら、どうでしょう。たちまち焼け死んでしまいます。けれども、太陽から出る光は、地上を照らし、おかげで、いろいろなものを見ることができます。また、太陽の熱は、我々すべてのものを包み、また、高く育ててくれるのです。光と熱と、それぞれ別のものですけど、それは、分けることはできません。そのように、父なる神、子なる神、聖霊なる神は、それぞれの人格を持ち、働きを持ち、御一体のお方です。

また三位一体ということを、仮りにたとえてみれば、水の三つの形のようなものです。いっぱいの水が鍋に入れてあります。この鍋に火をつけると、水は蒸発し、蒸気になります。また、水を冷たいところに置くと氷になります。これは、元は、水の中にですけど、こういうふうに違った形を取っているのです。すなわち、水、蒸気、氷は、三つの異なった形をとってはおりますけど、元は同じものです。

次の箇所を読むと、神の統一性を知ることができます。

出エジプト記
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。
20:7 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

申命記の6章を見ても、ひと文章だけですけど、大切なことについて書いてあります。

申命記
6:4 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。
6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

次の箇所を読めば、神の人格の区別が解ります。イエス様の命令でもあります。

マタイ
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

こういうふうに、イエス様は、父、子、聖霊という言葉を使いました。パウロも、コリントへの手紙の中で、同じように、神の人格の区別について書いたのです。

第二コリント
13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

イエス様も同じように、語ってくださいました。

ヨハネ
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

父なる神、御子なる神、聖霊なる神の三つの人格は、神と名付けられています。

創世記
1:1 初めに、神が天と地を創造した。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

聖霊も、神と呼ばれています。

使徒行伝
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

『聖霊を欺いた』とあります。また、『神を欺いた』となっているのです。ですから、創世記1章1節、「初めに、神」とあります。そして、ヨハネ伝1章1節、「ことばは神であって」、14節、「ことばは肉体、人間となった」と、あります。そして、今、読みました使徒行伝五章、この箇所を読めば、聖霊を神と呼んでいることが、はっきり分かります。

父なる神、御子なる神、聖霊なる神の三つの人格は、永遠からありました。ですから、この三つの人格には、初めがなかったわけです。この三つの人格は、対等に置かれていますが、おのおの異なった使命を持っています。父なる神は、創造者と呼ばれています。御子なる神は、救い主として現れたのです。聖霊なる神は、助力者と呼ばれています。けれども、この神の三つの人格は、いつも一緒に働いています。完全な統一を保って働いています。

これを、二つの大きな出来事で見てみましょう。創造について、次のように書き記されています。

創世記
1:1 初めに、神が天と地を創造した。

私たちは、主なる神がことばによって創造され、ことばは、キリスト、なぜなら、すべてのものがことばによって造られたから、このことを知っています。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

創世記
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。

神の霊、すなわち、聖霊が、すべての生けるものを造る力の霊として、水の表を覆っていたと、聖書は言っています。救いの偉大なる働きにおいても、また、父なる神と、御子なる神と、聖霊なる神は、離れることのないひとつのものとして働かれたと聖書を見ると分かります。

第二コリント
5:19 すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

ガラテヤ書、三章を見ると、今度は、イエス様のことについて書かれています。

ガラテヤ
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。

ヘブル書の九章、今度は、御霊の働きについて、ありますね。

へブル
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって(・・・・聖霊なる神によって・・・・)神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

すなわち、父なる神は、主イエス様を通して、聖霊の力によって、すべての人間のために、救いの道をお開きになったのです。世界の歴史における二つの大きな主なる神の働き、すなわち、創造と救いにおける働きと同様に、人間の個人的な救いにおいても、この三者、すなわち、父と御子と聖霊の三者は、一緒に働いておられるのです。

私たちは、父なる神のご意志によって、そして、御子なる神の救いに基づいて、また、聖霊なる神の生かす力によって、救われ、新しく生まれ変わったのです。ヨハネは、次のように書いたのです。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

また、ヨハネはその第一の手紙に、同じ事実に付いて書いたのです。

第一ヨハネ
5:12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

パウロも、ローマにいる兄弟姉妹に書いたのです。

ローマ
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

我々の信仰生活に、この三位一体の教えは、どのような実際的な意味を持っているのでしょうか。

三つの人格を持って私たちに働きかける主なる神に対して、私たちは、はっきりとした態度を、とらなければなりません。我々の祈りの生活は、主なる神の三位一体をはっきりと認識することによって、しっかりします。私たちの生活は、三一の神の働きによって新しくされ、しっかりされ、完全になるに違いない。

今まで、いわゆる三位一体について、三つの点について、考えてきました。『三つにいまして、ひとつの神』についてですね。今度は、主なる神は創造の前に、いったい何をなさったでしょうか。神は創造の前に何をなされたかという疑問には、もちろん、答えられません。宗教改革者であるルターは、この質問に対して、次のように答えたそうです。「神は、創造される前に、藪のかげで、このようなばからしい質問をする人を罰するために、鞭を造っていた」と。

もちろん、神が、天地を創造される前に、藪はありませんでした。けれども、結局、ルターは何を言いたかったかと言いますと、このような問題そのものが、不当であることを言いたかったのではないでしょうか。多くの人が、主なる神の天地創造以前の働きについて、質問します。けれども、その人々は、ただ自分の好奇心を満足させたいだけなのではないでしょうか。けれども、この問題を聖書に尋ねるべきなのではないでしょうか。聖書は、これに対して、七つの回答を与えています。

まず、一番目、この地の始まる前に、父なる神は、天使たちを創造されたとあります。

ヨブ
38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
38:5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
38:6 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。
38:7 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。

主なる神は、取るに足りない人間にこういうふうに言ったのです。「わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。」主なる神は、どういうお方でしょうか。何をなさるのでしょうか。

二番目に言えることは、天地の始まる以前に主なる神は、その御子、主イエス様と永遠の愛の交わりを持っていたと、聖書は言っています。イエス様の告白です。有名なイエス様の祈りの中に出てくることばです。イエス様は、次のように祈られました。

ヨハネ
17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

この五節はすばらしい節です。

17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。

世の初めの前より、主なる神は、イエス様を愛しておられたとありますね。世の始まる前から、主なる神は、イエス様に栄光をお与えになったと、書き記されています。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。

世の始まる前から、主なる神は、イエス様と共におり、交わりをもたれたと書いてあります。

主なる神は、創造の前に何をなされたのでしょうか。地の始まる前に、創造主なる神は、天使たちを創造されたとあります。それから、全宇宙の始まる以前に、主なる神は、その御子主イエス様と、永遠の愛の交わりを持っていたのです。

三番目、世界の始まる前に、主なる神は、個人個人の救いの計画を定められました。

黙示録
13:8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。

結局、悪魔を拝むようになるとあります。主なる神は、世の始まる前から、誰が正直になり、素直になり、提供された救いを受け入れるようになるかを、もちろん、知っておられました。確かに、私たちは、それを理解することはできません。けれども、これが神です。もし、私たちが神を理解できるならば、それは神ではない。世の始まる前から、主なる神は、たとえば、今の二十世紀、二十一世紀の五十億人の人々の内から、誰が救われるかをはっきりと知っておられました。

四番目、世界の始まる前に、主なる神は、教会のために救いのご計画を持っておられたということです。

エペソ
3:9 また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。

3:6 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

この箇所から、どこの国の人でも救われ、救われたら主イエス様のからだなる教会に属する者になることが分かります。

五番目、世界の始まる時から、主なる神は、ご自分の民のために王国を準備されたということです。

マタイ
25:34 そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

「世の初めから」とあります。

六番目、世界の始まる前に、父なる神は、御子、主イエス様を、あらかじめ定めた救いのご計画の仲保者に定められたということです。主なる神は、すべてのご計画を、御子、主イエス様を通して、実現されたのです。世界の始まる前に、主なる神は、イエス様を仲保者に定めたのです。世界の創造も、御子イエス様の手によって成されたと書いてあります。パウロは、コロサイにいる兄弟姉妹に、この事実について、次のように書いたのです。

コロサイ
1:16 万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。

万物の造り主なる神は、イエス様を通して、イエス様によってお造りになったのです。主なる神は、もうすでに、永遠の昔に、人間が一人もいなかった時、罪の生じることを知っておられました。だから、イエス様を救い主に定められたのです。ペテロは、この事実について次のように書いたのです。

第一ペテロ
1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
1:20 キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。

最後に、第七番目、永遠の昔から、御子主イエス様の贖いの御業を、成し遂げることを決心しておられたのです。へブル人の手紙の中で、この事実について、次のように書き記されています。

へブル
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

主イエス様は、永遠の昔から、十字架に結びついていたことが分かります。ですから、後に起こったイエス様の十字架の死は、永遠の御霊によるご自分の神への捧げものだったのです。

今まで、いろいろなみことばを読みましたが、これらすべての権威のある言葉は、我々の好奇心を満足させるために、聖書に記されているのではありませんし、また、単に世界の救いの歴史について、我々の持っている考えを、知的に完成するためでもありません。主なる神の愛の大きさを、我々に示すために記されています。

実に、この世の初めの以前にさえ、実行者なる神は、あなたを、また、私の光栄を心にかけておられました。また、海が荒れ狂う波が立つ以前、地が立てられ、我々のことを考えておられました。考えられない、想像できない。けれども聖書はそう言っています。極め尽くすことができない、すばらしい事実なのではないでしょうか。いかなる人間の心も、言葉によって言い表すことのできない深淵です。私たちは、ここでただ、ひざまずいて、拝することができるだけであり、万物を愛しておられる主なる神の足元に、我々の命をゆだねることしかないのではないでしょうか。

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