2026年10月5日月曜日

公的祈りと個人的祈り

公的祈りと個人的祈り
2026年10月4日、吉祥寺学び会
重田定義兄

詩篇
150:1 ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。
150:2 その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。
150:3 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。
150:4 タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。
150:5 音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。
150:6 息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。

あらためておはようございます。お久しぶりにまた、今回、ズームですけれども、このようにして町田集会の兄弟姉妹とお交わりをすることができます。ありがとうございます。

相変わらず、こういう状態で、酸素がなければ生きていけないような毎日を送っていますけれども、それで少し話をしたり、ちょっと歩いても息切れがするような毎日ですけれども、それでも主から平安が与えられ、主におゆだねして、祈りと賛美の日々を過ごしております。本当に感謝です。

今日は、今、読んでいただいた詩篇の150編の引用聖句から、まず、公の祈りと個人的な祈りという題でメッセージをさせていただきたいと思います。

毎週、この日曜日に行われる礼拝、これは信者にとって最も重要な行事でありまして、これは公的な祈りと呼んでもいいと思います。

この祈りというのは――公的な祈りというのは――、天地万物を創造して支配されているだけではなくて、ご自分と親しく交わろうと造られた人間が、ご自分に背くという罪を犯したにもかかわらず、自らのいのちをもってあがなってくださり、そして、その者たちに永遠のいのちも与えてくださって、さらに、神の家族として迎え入れてくださる、そのような考えられないような愛に満ちたお方、そのお方を心から賛美もうし上げる――これが聖日礼拝の公的な祈りであります。

これに対して、個人的な祈りというのがあります。具体的に申しますと、まだ救われていない家族、親族、あるいは、友人、知人の救いを祈る。そしてまた、今、このような大雨や地震や台風など、毎日毎日、世界中を襲っているこのような災害がありますけれども、そのような災害に自分たち家族が会わないように、守られるように祈る。これも個人的な祈りでありますし、そしてまた、試練や病で苦しんでいる兄弟姉妹方に対しても祈る。そしてまた、自分の信仰が、主のお導きから離れないように、霊肉ともに主におゆだねして日々を過ごすことができるようにという祈り、これも個人的な祈りであります。

この個人的な祈りというのは、主との結びつきを強めるためには大変に大切な祈りであります。そして、御言葉に『絶えず祈れ』とありますように、この個人的な祈りというのは、いつでもどこでも、時と場所を問わず、選ばずにすることができる祈りであります。個人的な祈りというのは、祈れば祈るほど、効果――と言っていいんでしょうか――があります。

だからと言ってですね、この個人的な祈りを、公的な――先ほど申しました公的な――礼拝の祈りに混入してもよいかと言うと、それはよくないですね。そういうことはしてはいけないと思うんです。

公的な祈りであるこの礼拝の祈りについて、私たちにとってたいへん有意義なことをベック兄が、次のように言っておられるのでご紹介したいと思います。これは、『主は生きておられる』の8号の中で詳しく述べておられるんですけれども、次のようにおっしゃっています。

『聖日の朝に時々体験することですが、集会での礼拝が礼拝でなくなっていることがあります。「礼拝」でなくて「祈り会」になっているのです。礼拝においては、「自分のために」、また、「人のために」祈る必要はありません。礼拝の中心はあくまで十字架の上で犠牲になり、私たちの代わりに死んでくださった「イエス様」であるべきなのです。イエス様の犠牲について、またイエス様の愛について思いをひそめ、へり下って心から祈ると、集会中が感謝でいっぱいになり、喜びが湧き上がってきます。ですが、どなたかが自分のことを声高に祈っても、あるいは人のことについて祈っても、イエス様だけを中心になった時のような喜びは湧き上がってこないでしょう。また、祈りの中に説教、個人的な体験、考えなどが入っていることも決して適切ではありません。礼拝の祈りとは、あくまで主イエス様だけに向かって捧げられるべきです。十字架の救いのみわざをなし遂げてくださったイエス様、よみがえられて今も神の右の座について支配しておられるイエス様、近いうちに来てくださるイエス様への感謝と賛美だけが礼拝の中心であるべきです。』

公の祈りとはこのような祈りでなければならないことを、私たち信者はわきまえる必要があります。まことにその通りであると思います。

私たちもこれから、このことをしっかりと意識して、この私たちに与えられたすばらしい恵みであるこの礼拝の祈りを主に捧げようではありませんか。ありがとうございました。

0 件のコメント:

コメントを投稿