2026年8月29日土曜日

ぶどうの木のたとえ

ぶどうの木のたとえ
2026年8月29日、秋田福音集会
翻訳虫

ヨハネ
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

これは、イエス様がご自身をぶどうの木に、弟子たちを、枝に例えられた有名なイエス様の御言葉です。

イエス様がぶどうの木であり、私たちは枝です。枝の役割は実を結ぶことであり、枝だけでは実を結ぶことはできません。非常に簡単な言葉だけで語られていて、誰の心にもすんなり入ってくる分かりやすい例えであると思います。

最後の夜

はじめに、イエス様がこの話を弟子たちに話された背景を考えてみます。

イエス様はヨハネによる福音書の中で、ご自身を七つのものに例えてきました。多くの兄弟がこの七つのたとえについて話されています。主は、弟子と語る中で、わたしはいのちのパンです、世の光です、また、良き羊飼い、門、道、いのちですと話され、そして、最後にぶどうの木にご自身をたとえられました。

この中で、最後のぶどうの木のたとえには大きな違いがあります。初めの六つは、イエス様が弟子たちと旅をしながら過ごされた日常の教えの中で語られたのに対し、この最後のたとえは、イエス様が捕えられて十字架につけられる前の最後の夜に語られたものです。

『いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。』主は、弟子たちとともに過ごされた最後の晩餐の席で、数時間後には自分が去っていき二度と弟子たちと会うことはないことを告げられました。この緊迫した状況の中で、このたとえは語られたのであります。

それだけでなく、弟子のひとりが自分を売り渡すこと、また、主に対する忠誠を誓ったペテロに対しては、彼が三度、主を否認することになるとまで予告されています。これを聞いた弟子たちが、たいへんな不安にかられたことは容易に想像できます。

尊敬する師を失う恐怖があり、また一方では、これまで主と完全に信頼し合っていたはずなのに、自分たちが主を裏切るとか見捨てるとか言われるのはどういうことだろうという衝撃でいっぱいになったはずです。

このイエス様のたとえは、数時間後に迫っていた弟子たちとの別れを前に、不安に怯える弟子たちを励ます最後のメッセージでもあります。

わたしは間もなく十字架で殺され、地上にはいなくなる。でも、木と枝が一つに繋がって樹液が送られるように、あなたがたとわたしはこれからもずっと一つに繋がっている。わたしの姿が見えなくても、わたしに信頼し続けなさい。そうすればあなたがたの人生には多くの実が結ばれる。

この世の別れであると知りながらあえて、『わたしにとどまりなさい』と言われたことを思うと、このことばには主のやさしさと思いやりがあふれていると思えてきます。

このことを念頭に置いて、この例えのひとつひとつの言葉を細かく見ながら、現代に生きる私たちが心に刻むべきことは何かを考えてみたいと思います。

ぶどうの木のたとえ

あらためてこの箇所をはじめからお読みします。

ヨハネ
15:4 わたしにとどまりなさい。

主は、初めにご自身の中にとどまり、キリストとの関係の中に生き続けることを求めておられます。

枝は木から切り離されたら、すぐに枯れて、朽ち果ててしまいます。同じように、人も神との関係から離れると霊的に枯れてしまうということです。

私たちが日々、祈り、聖書を読み、神を思う時間を持つのは、主とのつながりを保つためであります。

ヨハネ
15:4 わたしも、あなたがたの中にとどまります。

主はここで、ご自身の肉体が地上から離れ、弟子たちの目に見えなくなっても、霊的なつながりは決して断ち切られることはないことを教えられました。

地上におられたイエス様とお会いしたことのない私たちにも同じように、私たちがイエス様とつながっているとき、主もまた、御霊によって、私たちの中にとどまると約束してくださっています。

木と結ばれている限り、枝には養分が常に送られてきます。しかし、今に生きる私たちと主は、この世界で触れ合うことはできません。しかし、主は、ご自身と全ての信じる者たちは、いのちの底では、内なる聖霊を通して、つながっていることを確約され、弟子たちの揺れる心をつなぎ留められました。

ヨハネ
15:4 枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。

木の幹から切り取られて地面に落ちた枝はすぐに力を失い、しなびて、朽ち果てていくしかありません。そこに、美しさもみずみずしさもなくなります。イエス様から切り離された人生とは、このようなものではないかと思います。そのような枝には新しいぶどうの実を結ぶことなど到底、できません。しかし、木につながっていることによって、枝の先には実ができます。

ヨハネ
15:4 同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

主のために実を結ぶとは、私たちの生き方、私たちの言動を通して、人々が神を信じる道を選び、信仰を持ち、その信仰をさらに成長させていくということではないかと思います。

すなわち、救われたひとりひとりの信者をとおして、主を知らない人へとイエス様のみ言葉が伝わっていき、新しい信仰者が生まれることではないかと思います。そのためには、私たち自身が、常に主にとどまっていることが必要です。

ヨハネ
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。

日本では、その辺でぶどうの木を見ることはあまりないと思います。日本でよく見る果樹というと、柿が思い浮かびます。私が子供のころ、いなかの祖父の家に大きな柿の木があり、秋になると実を取らせてくれました。

柿の木は幹が真っすぐに上に伸びて、短く付きだした枝に直接、実が着いています。一方で、ぶどうは、低い木から横に枝が広がって行きます。つるが、他の枝や支柱に絡みつき、互いを支え合いながら横に伸びていくというかたちをしています。

イエス様はなぜ、『わたしは柿の木です』とは言わず、ぶどうの木ですと言われたのでしょうか?昔のイスラエルに柿なんかないだろ?と言われたら終わりなんですが、その理由として、この横に枝が広がっていくという形態上の性質もあるような気がしてなりません。

ぶどうの枝である弟子たちが、自分の力に頼ってりっぱな実を結ぼうという傲慢さを捨てて、主にすべてをゆだね、また、弟子たちが互いに支え合う姿を象徴したように思えてきます。

ヨハネ
15:5 人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。

弟子たちは、イエスさまの死後、宣教者として、恐ろしい迫害と苦難の生涯を送ることになります。当然、主はこのことを予見されていました。『わたしにとどまりなさい』というこのことばには、弟子たちがこれから来る大きな試練を乗り越え、ゆたかな実を結ぶために生き続けて欲しいという願いが込められているのではないかと思います。

主は、自分にとどまるならば、必ず実を結ぶ、しかも、多少の実ではなく多くの実を結びますと約束されています。

イエス様は、わたしはあなたがたの目の前から去っては行くが、一人ぼっちにはしない。木と枝のようにいつもひとつにつながっていると、この極限の状況の中で弟子たちに永遠の絆を約束されたのではないでしょうか。

ヨハネ
15:5 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

『何もできない』というこの最後の言葉は、弟子たちを突き放しているのではなく、枝はどんなに努力しようと自力では実を結ぶことができない。あなたがたは。全てをわたしにゆだね、つながっていればよい。自分の力だけで苦しむ必要はないという深い慈しみのメッセージが込められているのではないかと思います。

これは慰めでもあります。実を結ばせるのは人間の力、才能、努力などではなく、神であることを明確にされているからです。

私たちにとって大切なのは、この主の約束に感謝し、今日もキリストとつながって生きられるように日々、祈り、自分の力ではなく、自分を支えてくれる木である神の力にのみより頼み、また、実を結ばせるのは自分ではなく、キリストであることを常に覚えることではないでしょうか。

とどまらせてくださる主

このたとえを理解するためののカギとなるのは、繰り返し出てくる『とどまる』ということばではないでしょうか。

ヨハネ
8:31 そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」

裏返して言えば、主の言葉にとどまらなければ、彼らは弟子ではなくなります。一度だけ、またはしばらくのあいだだけ、イエス様を信じたとしても、その後の生活で継続して主が現れなければ、それは偽りの信仰であるということであります。

イエス様はまた、『わたしを離れては、あなたがたは何もできない』とも言われました。

イエス様と離れていても、あるいは、この世的な罪、犯罪を犯さず、平安な生活を送ることはできるかもしれません。これだけでは実を結ぶとはいえません。イエス様なしでは、真にキリストを崇め、自分を低くし、他者にキリストの恵みを知らせる生活はできないということであります。

とは言え、イエス様とのきずなを常に意識し、イエス様にとどまり続けるということは、しかし、簡単にできることではないのではないでしょうか。この例えはこう続きます。

ヨハネ
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

主が私たちを切り捨てて、火に投げ込む可能性があると考えると、非常に恐ろしい言葉のように思えます。しかし、ここでイエス様は、外から見ると木につながっているように見えて、実際には本当の意味でとどまっておらず、木からいのちの元である養分を受け取っていない人たちがいることを、説明されたのではないかと思います。

私たちは、言葉では主により頼むと言いながら、生活の中で困難に直面すると、すぐに主から目をそらし、この世の助けを求めようとする弱くあやふやな信仰の持ち主ではないかと思います。そのような枝は外面的にはつながっていても、いのちをもたらす本物のつながりではなく、木にはとどまっていないのであります。

しかし、本当に木にとどまっている信者、あるいは、木にとどまりたいと真に願っている枝に対しては、ぶどうの木であるイエス様は、そのままとどまっていられるように支えてくださるのではないかと思います。

ヨハネ
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

イエス様は私たちが枝から落ちそうになったときに、その枝を放っておくということはしません。枝が木から離れそうになると、その枝がぶどうの木にとどまり続けるように、神ご自身が支えてくださいます。

その例のひとつとして、はじめにもふれたぺテロがいます。十字架につけられる前夜、主に対する忠誠を誓ったペテロに対して、主はペテロが主を三度、否認することを予告されました。

ヨハネ
13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

同じ晩餐の席で、主は、シモン・ペテロにこうも言われました。

ルカ
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

この後、ペテロが捕らえられることを恐れるあまり、『イエスなど知らない』と嘘をついたことはよく知られているとおりであります。

主はシモン・ペテロが、その後、ご自身を三度も否認したという罪悪感にかられることをご存じであり、またそこに付け込んでペテロを信仰から引きはがそうとサタンが攻撃してくることもご存知でした。ですから主が、ペテロがこの攻撃から守られ、主への信仰を取り戻すように祈られたのであります。

確かに、シモンであるペテロは、主を三度、否認するという大きな過ちを犯しました。その時、ペテロという枝は、木から切り離されてぶら下がり、地に落ちる寸前まで行っていたのではないでしょうか?しかし、その枝は、完全に木から離れることはなく、枝が折れたように見えても、また、そこから元通りにつながるときが来ました。

ペテロは、後に、初代教会を築き上げ、主の福音を世界に広げるために大きな働きをしたのであります。

日々の生活の中で多くの苦しみを受け、試みを受ける私たちは、イエス様という木にとどまるための戦いを毎日、戦っていると言えます。しかし、この戦いは、私たちひとりひとりが単独で戦うものではなく、枝が木にとどまるようにと、イエス様は、今日も私たちひとりひとりのために支えてくださっているのではないかと思います。

わたしはぶどうの木です

ぶどうの木のたとえについて考えてまいりました。イエス様はご自身が十字架で殺される前の夜、信じる者たちは枝として木であるご自身につながり続け、主もまたその枝を支え続けると言われました。

よくメッセージをされる兄弟たちが、聖書の中の数節を取り上げて、この中に聖書全体が言わんとしていることが込められていると言われることがあります。私には、このぶどうの木のたとえのふたつの節に、主と信じる者の関わりがどのようなものであって欲しいかという主の御心が集約されているのではないかと思えます。

自分は木につながっている枝であることを思うと、生活の中で起こる出来事は、非常につらく苦しいものであっても、また小さな取るに足りないことであっても、すべて木である主のご支配の中にあると覚えることができます。

私たちはときに、立派な信仰者として生きなければ!とか、もっと良い実を結ばなければ!とか、焦ることもあるかもしれませんが、それに対してこのみ言葉が、あなたはただ木につながっている枝でありなさいと、諭しているようにも思えます。枝は木につながって、いのちを受けている存在であり、その結果として、木が静かに実を結ばせてくださるのであります。

だれでも日常の中で、ふと人間的な感情、恐れとか不安、怒りに支配されそうになるときがあると思います。そんなとき、このみ言葉を常にそばに置いておき、自分は主につながっている枝だろうかと問いかけてみるだけでも、この言葉は支えとなってくれるのではないでしょうか。

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