2025年11月2日、秋田福音集会
翻訳虫
雅歌
5:16 そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。
旧約聖書の雅歌という書物について、ご一緒に考えてみたいと思います。
私は、聖書を通読するのが好きで、通読表を横において、毎年、一年かけて全体を読み通すということを繰り返しております。
その理由は、大きく二つあります。
第一に、雅歌の内容は、あまりにほかの書物と違っています。
雅歌の中身は、恋愛のただ中にある花婿と花嫁が、互いへの熱い想いをひたすら伝え合うというものであります。
雅歌
1:2 あの方が私に口づけしてくださったらよいのに。あなたの愛はぶどう酒よりも快く、
1:3 あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。・・・・
このように、二人が相手の姿かたちをほめたたえ、どれだけ相手を想っているかいうことを、読んでいるほうが恥ずかしくなるくらい過剰な言葉で語り合っています。非常に煽情的と感じる表現もあります。これは、聖書の他の書物にはないものです。
それ以上に、雅歌が読むものに違和感を与える理由は、この書には、神が全く登場しないという点にあります。
聖書に収められたほかの書物には、神が世界を造られた歴史であったり、預言者を通して人間を導く神の言葉であったり、また、神を誉めたたえる人間の賛美の声であったりと、何らかの形で神と人間との関わりが描かれております。
一方、雅歌は、一組の男女のことばの掛け合いからなっています。そこに、神と人間の関わりはまったくなく、『神』ということばすら登場しません。
聖書を読み始めたころ、私は、雅歌が苦手で、この書は何かの間違いで入れられてしまったのではないかとすら思っていました。
しかし、パウロの手紙には次のようにあります。
第二テモテ
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
雅歌もまた、聖霊が明確な意図をもって人間に与えたものであります。これから、神が雅歌に込められた思い、主が雅歌を人間に与えられた目的とは何かを、考えてみたいと思います。
雅歌について
雅歌の内容を、あらためて振り返ってみます。
花婿にあたる雅歌の作者は、イスラエルの王であるソロモンあろうと思われます。相手は、『シュラムの女』と呼ばれている女性です。ところどころに花嫁のことばに呼応して言葉を掛ける賑やかしのような人たちがいて、『エルサレムの娘たち』と呼ばれています。
雅歌の内容は、恋愛関係にあるこの男と女のひたすら長く、過剰とも思える愛の言葉の羅列であります。
雅歌
6:3 私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。
ここに、神を誉めたたえる言葉はなく、また、神がそこに介入して、人間に語り掛けるということもありません。むしろ、神に背を向けて、自分たちだけで語り合っているような印象すら受けます。
しかし、聖書がすべて神の霊感によって書かれたことを鑑みれば、この書にもやはり、神から人間へのメッセージが込められていることは確かであります。
雅歌を通して、神が私たちに伝えていることは何か、この雅歌から、現代に生きる信仰者である私たちが学ぶべきことは何かを考えてみたいと思います。
[1]キリストと教会の関係
雅歌が、聖書の中に加えられた理由として、はじめに考えられるのは、この書がキリストと信仰者たちの関係を投影しているというものであります。雅歌を構成する花婿と花嫁の関係は、キリストと教会、または、キリストと個々の信者の関係の理想的な姿を示していると考えることができるのではないかと思います。
聖書の中で、キリストを花婿、教会や信者を花嫁に例えている箇所はいくつかあります。たとえば、ヨハネの黙示録では、キリストである小羊と教会である花嫁が最終的に結びつくことを預言しています。
黙示録
19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
雅歌を読む際に、男をキリスト、女の方を教会、または、個々の信者と解釈しながら、この二者のやりとりを読むと、この書も信者たちに強いメッセージを送っていることが見えてくるのではないかと思います。
雅歌には、花婿が花嫁の容姿を讃える言葉がたくさん出てきます。
雅歌
1:14 私の愛する方は、私にとっては、エン・ゲディのぶどう畑にあるヘンナ樹の花ぶさのようです。
1:15 ああ、わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。あなたの目は鳩のようだ。
このようなことばは、キリストである花婿が、花嫁としての信者を情熱をもって愛し、ひとりひとりを個人的に気遣っているという事実を暗示しているのではないかと思います。
[2]霊的な飢え渇き
3章には、花嫁が、愛する花婿の姿を求めて、夜の町をさまよう描写があります。
雅歌
3:2 「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。
3:3 町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。」
3:4 彼らのところを通り過ぎると間もなく、私の愛している人を私は見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。
この描写は、希望を失って暗闇の中でさまよう信者が、キリストとの霊的なふれあいを求める姿に重なるのではないかと思います。雅歌3章の花嫁が、花婿を探し求める姿は、情熱的に、神を求める信者の姿を現しているとみなすこともできます。
私たち信者も、信仰を持った当初は熱心に神を追い求めていても、時間が経つと、義務的に祈ったり、漫然と聖書を読みがちになることがあります。
礼拝や祈りの生活においても、人間のあいだの関係にあるような感情、情熱、献身を守り続けることが大切であると雅歌は、暗に示しているとも解釈できるのではないでしょうか。
[3]神と民との新しい関係
第一の点とも重なりますが、雅歌は、主と一人一人の人間の個人的な関係のあり方を示しているとも考えられます。
旧約聖書の時代、神と人の関係は、律法や義務によって規定される一方的なものであったと言えます。神は人間に従属的な生き方を強制し、従わない者には、罰がくだされました。
これはいわば、親と子供のような関係でした。
イエス様が世に来られたのち、神と人間の関係は全く違うものになりました。このことをもっとも明白に表しているのは、誰でも知っているヨハネ伝のこの聖句であります。
ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
神と人間は、一方向ではなく、相互を思い、相互に愛し合う関係に変わったことが、この聖句に示されました。雅歌に描かれた花婿と花嫁の交わりは、このような新しい時代の神と人の関係を予見するものであったのではないでしょうか。
あらためて雅歌を読む
ここまで考えたことを心にとめながら、あらためて、読み直してみますと、相手しか見えなくなっている恋人どおしの気持ち悪い言葉の交換としか見えなかった雅歌にも、イエス様から私たちに向けたメッセージが込められていると思えるようになってきます。
順を追って、雅歌からいくつかのみ言葉を拾ってみたいと思います。
花嫁
2:2 わが愛する者が娘たちの間にいるのは、いばらの中のゆりの花のようだ。
主である花婿は、信者である花嫁を『わが愛する者』と呼んでいます。人間を律する恐ろしい神ではなく、ひとりひとりを個人的にいつくしんでくれる新しい主と人間の関係というテーマが、冒頭で明らかにされているようにも思えます。
花嫁
2:10 私の愛する方は、私に語りかけて言われます。「わが愛する者、美しいひとよ。さあ、立って、出ておいで。
2:11 ほら、冬は過ぎ去り、大雨も通り過ぎて行った。
2:12 地には花が咲き乱れ、歌の季節がやって来た。」
花婿は花嫁に対して、ぶどう畑に春が来たから出てくるように呼びかけています。イエス様と信仰者のあいだに、豊かな実りが生まれることを暗示しているようです。
しかし、神との親密な交わりが育まれるところには、神と信者を引き離そうとする試みも生じます。
花婿
2:15 『私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や小狐を捕えておくれ。』私たちのぶどう畑は花盛りだから。
実りが生まれそうになったとき、神に近づく妨げとなるものが入り込むことも、この2章は予見しているように思えます。
4:7 わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。
人間はどれだけ好きな相手に対しても、あなたには『何の汚れもない』とまで言うでしょうか?人間から人間への誉め言葉と考えると、これはかなり過剰で気持ち悪いことばです。しかし、十字架で罪を赦された後、神が人間をこう見るようになったと考えたらどうでしょうか?
神が、『あなたには汚れがない』と言われるのは、主イエス様が十字架につき、ご自身の血潮で私たちの罪を洗い流してくださったからであります。
エペソ
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
私たちが主の犠牲によって、聖く傷のない者とされるこのご自身のご計画が成就されることを神は予見され、その事実を、『あなたには汚れがない』と言われたのではないでしょうか。
この後、花嫁から花婿に向けた言葉が続きます。
花嫁
5:16 そのことばは甘いぶどう酒。あの方のすべてがいとしい。エルサレムの娘たち。これが私の愛する方、これが私の連れ合いです。
主は、あなたには汚れはない、あなたの罪は赦されたと言われています。これに対して、信者の側、すなわち、私たちも、神への感謝と信頼をはっきりとした言葉にして語っているかということを考えるべきではないかと思います。
花嫁
6:3 私は、私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの。あの方はゆりの花の間で群れを飼っています。
花嫁は花婿のもの、花婿は花嫁のものと歌っています。ここには、相互の深い絆があります。
ベックさんは、2005年の『主の奴隷』というメッセージで言われました。
『私たちには、「自分の全てを主にささげます。私たちは自分のものではない。主のものである。だから、今日より、今より主にささげます」と言った、はっきりとしたひとつの線が引かれる日があったはずです。』
『私は、私の愛する方のもの』というのは、相手の思い通りに動く所有物になったということではなく、そこには、主に自分をゆだねて、主と向かい合いながら生きて行こうという決意が込められているのではないかと思います。
花嫁
7:12 私たちは朝早くからぶどう畑に行き、ぶどうの木が芽を出したか、花が咲いたか、ざくろの花が咲いたかどうかを見て、そこで私の愛をあなたにささげましょう。
花嫁は、よい作物を花婿のためにささげ、よろこんでもらいたいと願っています。
主への真摯な信仰を持つようになったら、主がどうすれば喜んでくれだろうという考えが、いつも心の奥底に置かれるようになるのではないでしょうか。信仰者は、主が望まないものは生活から排除し、主がよろこぶものを求める生活を送るようになります。
花嫁
8:6 私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。
聖書の中で、神はご自身をねたむ神であると言われています。聖書の神は、ご自身への愛を明白に求める、人格を持った神であられます。この人格は、私たちの主であるイエス様にも引き継がれています。
言葉では神を信じるといっても、私たちの神への信頼は、小さな試みを受けると、簡単に揺り動かされ、吹き消されそうになるものではないでしょうか。そして、神よりも、身近にあって手をふれられる別のもの、たとえば、人の助言やこの世の助けにすがってしまいます。
これは人間が日々犯す罪であります。雅歌は、この花嫁のように、何ものにも揺り動かされない絶対的な信頼を持って、主とともに生きていけるよう、私たち一人一人に呼びかけているのではないかと思います。
雅歌にこめられた想い
はじめにも言いましたように、私は長いあいだ、雅歌という書物に強い違和感を持ち、聖書を読み通す際の壁のように感じていました。しかし、ペテロはこう書いています。
第二ペテロ
1:20 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
聖書におさめられたすべての書は、人間を導くという目的をもって示された神からのメッセージであります。
雅歌の根底にあるのは、イエス様の人間への想いを、直感的に理解して欲しいという主の願いではないでしょうか。
雅歌の言葉をひとつひとつじっくり読むことで、信者たちは、イエス様の人間に対する愛を、自分の経験に照らし合わせて、現実的なものとして理解する機会を与えられるのではないかと思います。
確かに、雅歌には、神の人間への言葉を直接に伝えてはいません。
その代わりに雅歌は、イエス様と私たちの関係を恋人通しのような親密な関係として肯定しています。このことによって、神が世界を創造されたとき、ご自身と一人一人の人間とのあいだに、どのような関係を築きたいとを願っていたのか、その思いを照らし出してくれるのではないかと思います。
こう考えることで初めて、神の名が一度も現れないこの書が、聖書に収録され、何千年にも渡って読み継がれてきたことの意味を理解できるのではないでしょうか。

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