2025年10月12日、吉祥寺福音集会
重田 定義
詩篇
20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
今日は、今、読んでいただきましたこの詩編の御言葉からですね、人間には、二通りの人間、すなわち、自分を誇る人間と、神を誇る人間があること、そして、次に、自分を誇る人間から、神を誇る人間へと変えられること、そして、それにはいったい何が必要かということについて、ご一緒に考えたいと思います。
先ほど読んでいただいた御言葉の中にすらあります。いくさ車というのが出てきますね。当時、戦のために使われておりました。馬にひかれた二輪馬車のことを言いますけれども、そのいくさ車を誇るというのは、戦に強い強力ないくさ車を持っていること、そして、持っているということは、それが、自分の誇りになる。
また馬を誇るというのも、やはり、戦いに強い足の丈夫な強靭な馬を持っているということを誇る、それが、自分の誇りになっているということを意味していると思います。
このように昔は、強力ないくさ車を持つことや、優れた馬を持つことというのは、自分の力を誇示するものであって、多くのいくさ車や、優れた馬を持っている人間ほど、強力な支配者としての位置を保つことができたのであります。
しかし、これは、現代でも同じではないでしょうか。昔のいくさ車や馬は、現代では、強い権力、高い地位や身分、立派な経歴、豊かな財産などに置き換えられるのではないでしょうか。それではなくても、他人と比べて、少しでも自分に優れたものがあると思えば、すぐに、自分を誇る、これが私たち人間ではないでしょうか。
結局、そういうことは、人間というのは誰でも、多かれ少なかれ、自分を誇るものだと言えると思います。けれども、人間が誇りとするこれらのものは、いったい私たちにどんな保障を与えてくれるのでありましょうか。
イザヤ書
31:1 ああ。助けを求めてエジプトに下る者たち。彼らは馬にたより、多数の戦車と、非常に強い騎兵隊とに拠り頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
31:3 エジプト人は人間であって神ではなく、彼らの馬も、肉であって霊ではない。主が御手を伸ばすと、助ける者はつまずき、助けられる者は倒れて、みな共に滅び果てる。
これは、イスラエルが、強国アッシリアに攻められて、エジプトに助けを求めた時のことであります。イスラエルが、エジプトに助けを求めた理由というのは、エジプトが多数の戦車と強力な騎兵隊を持っている強国であったからであります。
けれども、本当にイスラエルを助けることができるのは、イスラエルをご自分の民として選ばれた主なる神様なのであり、神様はこれまで何度となく、イスラエルの危機を救ってくださいました。
しかしながら、イスラエルは、そのことをすっかり忘れて、多数の戦車や強力な騎兵隊を持つエジプトに頼ってしまったんですね。そして、神様は何とおっしゃいましたか?エジプトに頼っても無駄だ、自分が手を伸ばせば助ける。エジプトも、助けられようとするイスラエルもともに、滅びててしまうからだと、そういうふうに言っておられるのであります。
次に、冒頭の先ほど読んでいただきました御言葉にある、『私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう』ということを考えてみたいと思います。
私たちの神様とは、言うまでもなく、聖書の神、すなわち、天地万物の創造主であり、支配者であるばかりか、愛と恵みに満ちた神様であります。
その神様を誇る人間とは、どういう人間でありましょうか。そしてまた、神を誇る人間となるためには、どうしたらよいのでありましょうか。
神様を誇る人間も、もとは、全て自分を誇る者でありました。しかしながら、ある時、神様に目を止めていただいて、自我を砕いていただいたので、その結果、神様を誇ることができるようになったのであります。
パウロも、その一人でありました。パウロは、混じりけのない生粋のユダヤ人であり、中でもベニヤ民族というイスラエル民族の中でも誇り高い部族であり、律法、すなわち、神様からイスラエルの民に与えられた命令、規定を忠実に守ろうとするパリサイ派というグループに属しておりました。
それゆえ、イエス様を救い主と信じる人たちを、律法に反する敵として迫害するということが正しいと信じて、それを実行しておりました。
しかし、これらの誇るべきパウロの血統や経歴も、彼が復活のイエス様に出会って、自我が粉々に砕かれ、ガラテア人の手紙の2章20節で、『私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の中に生きておられるのです』と、証しすることができるようになりました。
【参考】ガラテア
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
これこそ、自我が砕かれたものにしか言えない言葉ではないでしょうか。パウロはさらに、ガラテアの教会の信者に送った手紙の6章14節では、私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外、すなわち、私たち人間の神様に対する背きの罪を、身代わりによって、十字架にかかってくださったその主イエス様以外に、誇りとするものは、決してあってはなりません。このように言い切っております。
【参考】ガラテア
6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
パウロのように、イエス様だけを誇りとすると言い切ることができるためには、イエス様に目を止めていただいた私たちも、自我が砕かれることが必要なのではないでしょうか。
私自身も、なぜか分かりませんけれども、主に目を止めていただいて、自分の身勝手な育て方をしたために、私が誇りとしていた愛する一人娘を失うという大きな痛みを通して、自我が砕かれました。そして、自分を誇る者から、主を誇る者へと変えられた一人であります。
そして、パウロには到底、およびもつきませんけれども、自分は、キリストともに十字架につけられた、もはや自分が生きているのではなくて、キリストが、自分の中に生きているのだということを、証しすることができるように、これからはすべて、主におゆだねして生きていくことだけが、イエス様のご愛に報いる道であると、決心いたしました。
五十六歳の時であります。その後も、主の御心を嘆かせることの多い私でしたけれども、主はそのような私をも愛し、背負い、運んでくださって、数え切れないほどの主の御業を拝するという恵みに預かりました。聖書の学びを通して、集会の主にある多くの兄弟姉妹方との霊的な交わりが与えられたということも、そのひとつであります。
今日は、その恵みを体験させていただいたもう一つの例をご紹介したいと思います。それは先ほども少しふれましたX町田のクリスマスよろこびのコンサートのことであります。
私どもが入居しておりますX町田は、全国に数多くある高齢者施設の一つであります。こういう施設では、宗教的、政治的な行事というのは、タブーとされております。X町田も同様でありました。
しかし、十五年前から突然、変わりました。主が介入された、主が働かれたと思わざるを得ないのであります。そのことをこれから順番にお話していきたいと思います。
かつて、クリスマス・シーズンには、X町田でも、クリスマスを祝うコンサートが開かれておりました。しかし、それは、ジングル・ベルとか、サンタクロースが出てくるという世俗的なものでありました。
ところが今、申しましたように、十五年前から主が働かれ、そして、集会の兄弟姉妹がたの大きな祈りと支援を受けて、変わったんですね、そういうふうに。すべてですね。どういうふうに変わったかというと、ハレルヤを含めて、イエス様を賛美する歌ばかり合唱するという、そういうコンサートに変わってしまったんです。
その中には、日々の歌の『理解できないが』があります。どういう歌かご存知だと思いますけど、その内容を申しますと、イエス様が十字架で血を流して、私の罪をあがなわれて、すべて赦してくださったということは、到底、理解できないけれども、それは真のことである。聖書が語る御言葉は、唯一の真理である。これも、真のことであるという内容の歌なんですね。
この歌について、実は、次のようなことが起こったんです。
ある年のクリスマス・コンサートの時でありました。一人の中年の女性のスタッフ――彼女は、チーム・リーダーだったと思うんです――が、私のところに来まして、私はこの歌が大好きですと、言ったんです。驚きました。
表現こそ違いますが、これは立派な信仰告白なんです。本当に私は嬉しくなりました。主の御業が彼女に働かれたなということを感じ、本当に心から、主に感謝をいたしました。
このコンサートの合唱は、入居者、そして、スタッフ、そして、集会の兄弟姉妹からなる六十人ほどの大合唱団なんですね。ステージにずらっと並んで歌います。グロースリーベのメンバーの方の中には、車椅子の方もいます。耳の遠い人もいるんですけど、それでも一緒になって歌ってくれます。
そして、聴衆の入居者の皆さんには、一人一人、歌詞集が配られております。聞くだけでなくて、一緒に歌ってくださいと言うと、一緒に歌う人も出てきました。
歌詞集をどうして配ったかと言いますと、そのコンサートで聴くだけではなくて、それぞれの部屋に帰って、あらためて、歌詞を読んでくださいという願いが込められていたからであります。
このような高齢者施設で、未信者も、信者も一つになって、主のご生誕を祝う、喜びうたう、しかも、十五年間も続くというようなコンサートは、なかなか他には、見られないのではないでしょうか。まさに、主の御名は誇るべきかなであります。
遠くの方はご覧になりにくいかもしれませんが、これは、今年のクリスマス・コンサートの時のポスターなんです。一人のスタッフが、数日前に私のところに来まして、『ポスターができました、見てください』と言うんですね。『なんだ、10月なのに、ちょっと早すぎるんじゃないか』と、思ったんですけれども、嬉しかったですね。彼女は、一生懸命、忙しい中を作ってくれたんです。
可愛らしいポスターです。十二月になったら施設の各所にこれを貼るそうです。これは差し上げます、後で、ごゆっくりご覧ください。そういうふうなこともありました。
今までお話ししてまいりましたことから考えますと、このX町田に起こされた一連のこと、これは到底、人間の知恵や力でできるものではない。極めて緻密に、計画されたものではないかと思わざるを得ません。
到底、これは、人間の知恵や力でできるものではない。全知全能の主の恵みの御業によって、初めて可能になるものではないかと思わざるを得ません。
集会のほとんどの兄弟姉妹は、これまでに様々な辛い苦しみとか痛みを経験された、あるいは、今も経験されておる方もおられるのではないかと思います。それは、主が、その兄弟姉妹に目を留めておられる証拠なのであります。その兄弟姉妹を、しもべとして、弟子として、あるいは、友として用いて、自分の栄光を現わそうと考えておられるのであります。
しかし、そのためには、まだ私たちの中に残っておりますこの自我を砕いて、自分を誇る者から、神を、主を誇る者へと変える必要があるんです。
私たちの経験する痛み、苦しみというのは、そのための訓練ではないでしょうか。主による自我の砕き、これは私たちの肉にとっては、確かに、辛く痛いものであります。しかし、主は、私たちが耐えられないような訓練を、決してお与えになりません。ですから、私たちは、それを嘆き、悲しむのではなくて、愛のむちとして、恵みとして、お受けいたしましょう。
こうして私たちは、自我が砕かれて、自分を誇る者から、主の御名のみを誇る者へと、変えられていくのであります。
もう最後になりました。最後にもう一回、最初の御言葉をお読みして終わりたいと思います。
詩篇
20:7 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。

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