2025年11月4日火曜日

苦しみ悲しみがあるのはどうしてか

苦しみ悲しみがあるのはどうしてか
2025年10月4日、名古屋よろこびの集い
黒田禮吉兄

第二コリント
1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

今日は、最初にこういう質問から、お話をさせていただきたいと思います。本当に神様がいるなら、今、本当に困っている人たちを、神様はなぜ助けないのか?よく聞かれる問いであります。私たち、信じる者は、このような問いに、どのように答えるべきでしょうか。

まず、このような質問をする人の質問の動機は、どこにあるのでしょうか。もしかすると、それはただ質問をして、答えに窮するのを見て、満足したいためではないでしょうか。あるいは、神を信じるという問題を回避するために行っているのではないでしょうか。もし、そうであるなら、満足のいく答えを得るのは難しいでありましょう。最初から真摯に答えを求めているからではないからであります。

実は、私はかつてこのような質問をした者であります。しかし、ある時、私にも本当に、求める思いが与えられました。本物が欲しいと願い祈りました。

その時から、聖書の御言葉が、心に響いてくるようになりました。苦難があるから神は存在しないという人の多くは、自分は安全地帯にいて、快適な環境の中でぬくぬくとしながら、神を否定しているいわゆる評論家であり、コメンテーターであります。

懐疑心とは、かやの外から悲劇を見ている傍観者から生まれるものであって、苦悩のただ中にいる人々には、そういった気持ちを持つ余裕すらないのではないでしょうか。

神がいるなら、なぜ、人々の困り果てた状態を解決しないのかという問題は、神がいるなら苦難などないはずだという人間の勝手な憶測に基づく傲慢な質問と言わざるを得ません。

イザヤ
29:16 ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった。」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ。」と言えようか。

私たちは、一人残らず、陶器師によって作られたものであります。大切なのは、人が神の性質を決めることはできないということです。人が神の性質を決めることができるとしたら、それは、まことの神ではなく、人が作った偶像の神であります。

神がどんな方かを知るには、神が聖書を通して語っておられることに耳を傾けなければなりません。聖書によると、神は苦しみの存在を許しておられるという事実であります。神は、苦しみを存在させない方ではありません。

聖書には、苦しみ、悩みの記事がたいへん多く書かれています。キリスト者になったためにかえって、苦しむことがあるとさえ書かれています。そして、イエス様でさえ、十字架を前にして、もだえ苦しまれました。

貧困や争い、苦しみが存在することは事実です。この世はまだ、パラダイスではありません。神にはそれをすぐに終わらせ、パラダイスを来たらせることも可能でしょう。しかし、神はそうされません。けれども神様は、そのこの世の終わらせ方をはっきりと示しておられます。それは、この世の終わりの時であります。

第一コリント
15:24 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
15:26 最後の敵である死も滅ぼされます。

黙示録
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

神は、神以外のあらゆる支配を滅ぼされます。その時、あらゆる苦しみもなくなります。ですから、神様は苦しみへの対処の御計画をちゃんと持っておられるということになります。

それが、人間の期待するものと違っているからといって、神がいないとは言えないということであります。苦しみは神が備えられたものであります。そして、その最終的な解決を、神はすでに用意しておられるということを見てきました。けれども、その時まで、神は苦しみの存在を許しておられるのはなぜでしょうか。

ヤコブ
4:9 あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
4:10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

どうして、苦しみなさい、悲しみなさい、泣きなさいと書いてあるのでしょうか。笑うこと、喜ぶことは本来、良いことのはずです。聖書でもいろいろな箇所で書かれています。例えば、皆さんもご存知のピリピ4章4節、『いつも主にあって喜びなさい。』また、テサロニケ第一の手紙5章16節、『いつも喜んでいなさい』とあります。けれども、このヤコブ書4章10節には、こう書かれています。『主の前でへりくだりなさい。』

主の前でへりくだりなさい。苦しみの中で、私たちは自分の力のなさを味わい、絶望感の中で、神に叫び、神の前に全く無力な自分を、明け渡さなければならなくなります。その時こそ、神がそこにおられることを、感じるのではないでしょうか。つまり、苦しみは、神を覚えるため、神により頼むために、備えられているのであります。

人がいたずらに、苦しんだり悲しんだりすることが、神の御心ではありません。しかし、主にある苦しみや悲しみは、人を救いに導くものであります。また、信仰の成長に欠かせないものであります。神に近づくものは、すなわち、求めて、主の御前にへりくだる者には、神が近づかれ、その人を高くしてくださるのであります。

ローマ人への手紙
1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
1:21 というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。

聖書は、確かなしるしを見ていながら、神の存在を信じない人が昔からいたと書いています。けれども、本当に虚心になって、この想像された世界を見るとき、へりくだるとき、目に見えない大いなる存在を、誰もが覚えざるを得ないのではないでしょうか。私たちが、真の神を知りたいと思い、探し求めるなら、必ず主は答えてくださいます。神を知りたいと思っている人には、聖書は次のように言っています。

エレミア
29:12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
29:13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
29:14 わたしはあなたがたに見つけられる。

ヨハネの福音書に書かれている、生まれつきの盲人についての記事を見てみたいと思います。

ヨハネ
9:1 またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
9:3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」

9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

この生まれつきの盲人は、生まれた時から苦しみと不幸を背負いました。しかし、それは、イエス様とお会いするための苦しみでした。神のわざが現れるためでした。そして、彼はイエス様によって、目が見えるようになっただけではなく、心の目をも開けてもらいました。苦しみを通して、真の神を知り、主を証しするものへと、変えられたのであります。

主なる神は、この生まれつきの盲人になされたように、苦しみを通して、人を救いに導こうとされます。これが、苦しみの存在の第一の理由であります。苦しみを通して、人を救いに導くということであります。

そして、第二の理由は、救われた信じる者たちの成長のためであります。

詩編
66:10 神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、私たちを練られました。
66:11 あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷を着けられました。
66:12 あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。

第一ペテロ
5:9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

さて、苦しみを乗り越える大きな助けは、苦しみを分かち合う人がいるということではないでしょうか。そして、私たちの苦しみを本当に知っておられるのは、イエス様ご自身であります。

イエス様は、他の誰よりも、深い暗闇、十字架を経験されました。聖書から確かに言えるのは、イエス・キリストは苦しむ者とともに苦しみ、悲しむ者とともに悲しんでくださる方だということです。それは、イエス様が人のすべての苦しみを負い、十字架の上で死んでくださったことで、すでに実現しているのであります。

ルカ
22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

ヘブル
2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

イエス様が、人として苦しみを受けられたので、そして、イエス様は慰めることを知っておられるので、苦しみにあった兄弟姉妹をも慰めることがおできになるのです。

苦しみが存在する第三の理由は、キリストの慰めが与えられるためであります。

詩編
119:71 苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

苦しみを通して神のおきてを学ぶ、そして、神ご自身を知るようになります。けれども、苦しみは神のおきてを学び、神の慰めを知ることだけが目的ではありません。神の慰めによって、苦しみの中にいる他の人々を慰めるためなのであります。

ヨブ
3:20 なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者にいのちが与えられるのだろう。
3:21 死を待ち望んでも、死は来ない。それを掘り求めても、隠された宝を掘り求めるのにすぎないとは。

ご存知のように、ヨブは、潔白で正しく、神を怖れる人であり、東の人々の中でいちばんの富豪でありました。ある時、そのようなヨブが、サタンの企てによって、家族や財産や持ち物のすべてを失い、さらに、自分の体をも打たれましたが、主なる神は、サタンのそのような行動を許されたのであります。

足の裏から頭の頂きまで悪性の種物によって覆われてしまったヨブを、三人の友が慰めに来ました。けれども、結局、彼らが行ったことは、ヨブの不幸の原因を探り、それは、ヨブの罪のゆえであるに違いないと、かえって彼を責め立ててしまったのであります。三人の友は、ヨブに寄り添い、苦難の原因ではなく、その苦難の目的と希望を見出すことができるように、そのように一緒に祈り続けるべきでした。

私たちは、苦しみにあったら、何かが間違っている時に、なぜ自分がこのような苦しみを受けるのか、悩んでしまいます。『なぜ』という問いが、自分の頭の中を何回も何回も駆け巡ります。そして、周囲にいる人々も、その苦しみの原因を探ろうとします。このような苦しみを受けているのは、何かが間違っている。何か間違っていることがあるからに違いない。何か欠けたものがあるからだと思います。

しかしそれは間違いです。人が受ける苦しみには、大きな目的があり、それは、私たちが神を知るためなのです。そして、神の慈愛の豊かさと、慰めを知るためなのではないでしょうか。

第二コリント
1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。

キリストの苦難とは、信仰を持っているがために受ける苦難であり、福音宣教の戦いのための苦難を指しています。そして、その苦難があふれていると書かれています。けれども同時に、『慰めもまたキリストによってあふれています』とあります。

十字架の道をたどって、全ての苦しみを人として味わってくださった主イエス様は、私たちの会う試練がどんなに激しくても、ともにいて乗り越える力と慰めをくださいます。

第二コリント
1:6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
1:7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。

パウロは数々の苦しみを受けましたが、そのためにコリントにいる人々に、慰めを与えることができました。パウロの宣教の苦しみによって、福音がコリントにもたらされ、その福音によって彼らに、イエス・キリストの慰めと救いがもたらされたのであります。

パウロは、このように証ししています。

第二コリント
1:8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危くなり、
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

パウロは、精神的にも肉体的にも、非常に大きな苦難を経験したことがわかります。けれども、パウロは、その苦難の中で神への信頼を語りました。彼には、自分が通った苦難は、神により頼むことを学ぶ機会であったという確信が与えられたのです。彼は、試練の中で自分の無力さを知り、そして、神様に信頼し、その力を体験したことがわかります。

それは、苦難よりも、キリストにある神の恵みと希望の方が、遥かに大きくパウロを圧倒していたからではないでしょうか。

ヘブル
13:12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
13:13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
13:14 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。
13:15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

イエス様は、十字架刑の執行のために、エルサレムの外に連れて行かれ、はずかしめとそしりを受けられたのです。今を生きる私たち信じる者も、あるいは、この世界において、同じようなそしりを受けるかもしれません。しかし、私たちは宿営の外に出なければいけません。私たちが主にある神との深い交わりを保つには、世の人々からのそしりを甘んじて受ける覚悟が必要です。

けれども、私たちの故郷が、この地上ではなく、天にあり、私たちの都は、天にあることを知るならば、私たちは、その苦しみをむしろ喜びをもって、受け取ることができるのではないでしょうか。

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