2025年10月4日、名古屋よろこびの集い
田中順治兄
第一コリント
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
ですから、すでに私は聖書のことをほとんど知っているという方は、安らかにお休みになっていただければと思います。あるいは、昨日よく寝たから、今はうまく寝られないという方がいらっしゃいましたら、皆さん、未信者返りをして、まだイエス様のことを知らなかった時の自分になって聞いていただければ感謝です。
今、本当に、兄弟にお読みいただきました第一コリントは、『私があなたがたに最も大切なこととして伝えた』ということばから始まっています。それは何かというと、キリスト・イエス様は、私たちの罪のために死なれたこと、そしてまた、葬られたこと、また、聖書に従って、三日目によみがえられたこと、それから、弟子たちですね、ケパに現れ、それから、十二弟子に現れれたことです。これが、この分厚い聖書が言っているもっとも大切なことといったことが言っています。
今日のメッセージはこれで終わります。
これで十分なぐらいの確かにそれだけだと思います。それ以上のことは信仰を持つためには、あまり必要がほとんどいらないかもしれない。このことをあなたは信じますか?聖書はそれを私たちに問いかけているものだと思います。
全然、話はここで変わっちゃうんですけれども、キリスト集会に長く集っておられるご兄姉であれば、どなたもご存じのことだと思いますけれど、今から40年ぐらい前、1980年ぐらいですか、40年くらい前、軽井沢――その当時は御代田がありませんでした――軽井沢のキャンプ、あるいは、第一ゲスト・ハウス福音センターが、御代田に建てられたその頃の御代田のキャンプは、ともかく熱気にあふれていました。古い方は、もう皆さんご存じだと思います。
今日もかなり熱気にあふれていると思いますけれども、昔はそれが、毎日のように熱気にあふれていた、そんな感じがします。
その頃、集会がそんなに熱気に包まれていた頃、私はイエス様を信じる者に変えられました。あの当時は、ベックさんのお嬢さんで、リンデちゃんですね、二十歳で癌で召されたリンデさんのことが書かれた『実を結ぶ命』、それが、聖書とともにですね、全員がバイブルと同じような感じで読んでいました。
そして、使徒行伝の16章にはこの御言葉がありますね。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』この使徒行伝の御言葉が、集会に集っている人たちの合言葉みたいになっています。
そういう状況にあった当時、吉祥寺集会の姉妹方の祈り会では、何がいちばんのテーマになっていたかというと、まだ、救われていないご主人――僕なんかそうだったんですね、私はほとんど救われる見込みのなさそうな人でした――、まだ救われていないご主人の救いが、どの祈り会でも祈りの課題として熱心に祈られていました。その結果、聖書などほとんど読んだことのない未信者のご主人たちが、続々と救われてきた。そういう事例がありました。
これはもう、私だけの専売特許の呼び名なんですけれども、その当時の集会のことを、私は、『吉祥寺集会のクリスチャン粗製乱造の時代』という風に呼んでいます。
全然、救われる、あんな人が救われたのかという人が救われて、洗礼を受けて、可愛くなっちゃってね。とても不思議な時代だったと思います。私自身が粗製乱造された者の一員だった次第です。そういうわけですから、今でも私はまだ粗製乱造の名残が色濃く残っています。
それはさておき、集会に集い始めた頃の私、まだ未信者だったというのも、私は、イエスさまの十字架とかよみがえり、それは到底、信じられない話でした。でも集会に集っておられる皆様が、とっても皆さん喜んでいる、そのことだけは分かりました。
でも、なぜ皆さんが喜んでおられるのか、その理由になると、全く私は分かりませんでした。そんな私でしたけれども、ひとつだけ理解できたことがあります。それはどういうことかというと、この集会は、ご利益宗教のいわゆる宗教団体では全くない。そのことだけは、理解できました。
世の中には、いろいろな宗教団体があって、いろいろお金が巻き上げられちゃったり、いろいろあります。生きていて困ったことがあったら、その困った事態を何とか直してほしい。何とか、私は楽になりたい――それが原因で、宗教団体に集って、財産を巻き上げられてしまう。そういうような感じのところがたくさんあります。
最初、私も、うちの先に救われた奥さまに誘われた時に、ここもそういう吉祥寺集会行っても、そういうところも違いないと思って断っていました。なんとかかんとかベックって、日本人みたいな名前をした外人がいると、怪しいんじゃないかとか思って、近づかないようにしていました。でも、集っているうちに、全くそういうことはないということが実際に分かりました。
ご利益宗教の集団ではないというふうに申し上げましたけれども、確かにイエス様を信じたらお金持ちになるのでしょうか。なったらいいんですけど、ならない。なるかもしれないし、ならないかもしれない。それは信仰を持っても持たなくても、同じことなのかもしれない。信仰を持ったからお金持ちになったということは、まだあり得ません。
もうやめた方がいいですか?ありがとうございます。どこまで話したんでしょうねえ?
イエス様を信じたら、お金持ちになるということはない。同じようにイエス様を信じたら、病気に一切、かかわらないかというと、そういうことはない。イエス様を信じたら、人間関係がすごくうまくいっているのか。そういうことも全くなさそうでした。
実際、私が集い始めた頃、お交わりをしていただいた兄弟姉妹がたの中には、本当に経済的に困っておられた方もいらっしゃいました。それから、もう末期の癌で、あと三か月とか、そういう重篤な病にかかられて、苦しんでおられる方もたくさんおられました。会社や家族の人間関係が破綻して、孤独な日々を送らざるを得ない――そういう方もおられました。
そういう方とのお交わりをいただいたわけですけれども、信仰を持ったら、そういう問題が一切なくなった――そういうわけでは、全然なかったのです。イエス様を信じた後も、信じる前と同じように、大きな問題、同じ問題を抱えながら、集会の兄弟姉妹がたは、一切の思い患いから解放されて、大いに喜んでおられた。そのことに私はちょっとびっくりしたんです。
今でもそういうこのキリスト集会に集って、信仰を持つ人は同じようなことを、覚えられるのではないかと思います。
どんなにつらいことがあっても、きっと意味がある。私の好きな言葉ですけれども、あなたがたは今は分からないけれども、後で分かるようになります。きっと意味がある。全てのことに意味がある。どんなにつらいことにも意味がある。イエス様がそうおっしゃっている。
そういうふうに思えると、生きていて、生かされていてよかったなというふうに思うことができます。それらのことを前提にして、私たちに喜びを与えてくださるイエス様とは一体、どういうお方なのか。そのことについて短い時間ですけれど、聖書からご一緒に、見ていきたいと思います。
三つほど、項目を挙げさせていただきました。
第一に、イエス様が私たちの罪のために死なれたということの意味は何なのか。信仰を持っている方々には、当然の話でありますけれども、イエス様が私たちのために、罪のために死なれた、それは一体、どういうことなのか。二番目にどうしたら、イエス様を信じることができるのか。三つ目、イエス様を信じたら、なぜ喜ぶことができるようになるのか。その三つについて、簡単に見ていこうと思います。
最初に、松本兄弟に読んでいただいたもっとも大切なことの中で、いちばん、最初に書かれていたのが、第一コリントの15章3節、この文章でした。最も大切なこととして伝えたのは、罪のために死なれたこと。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと。
イエス様が私たちの、イエス様が僕の罪のために死なれたということは、一体どういうことなんでしょうか。その前に、罪とは一体、何なんでしょうか。この聖書はそこからスタートしなければいけないと思います。
いったい、聖書が言っている罪とは何なのか。このような学びの時に、いつも私は同じ場所を言いなさっていただくのですが、イエス様ご自身が、私たちの罪を分かりやすく説明している場面があります。
マタイ
5:21 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
これはとても有名なモーセの十戒、十の戒めの中の一つですね。人間と人間のあいだを定める戒めの一つあるわけですからそのうちの一つです。十戒の一つ。そして、イエス様が、そのモーセの十戒を生み出された後の22節。
5:22 しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
このようにイエス様はおっしゃいました。燃えるゲヘナというのは、言ってみれば、地獄と同じようなものだと思います。
ですから、誰かのことをあの『バカ』と口に出したり、思っただけでも、アウトなんだと思います。誰かのことを、あのバカというふうに思ってしまったら、その瞬間に、私たちは罪を犯したことになります。そして、その罪のために、私たちは、ゲヘナに落とされなければいけない。すなわち、死刑ですね。あのバカ野郎と思っただけでもう死刑なんです。
ですから、僕なんかも、、日に五、六回、死刑になる。テレビの最近の政治のニュースなんか見ると、どんどん死刑宣告を私が受けてしまう。バカ!そうすぐ思ってしまう。
ですから皆さん、同じようなものではないかと思いますけど、私はそんなことないっていう方は、もう出てってくださってけっこうです。皆さんもだいたい、同じではないかというふうに考えると、ここの会場は名古屋にある死刑囚、まだ期日が未定の死刑囚の雑居房なんだと思いますね。
皆さん、罪という意味では、罪に対する自分の立場は同じだと思います。罪を犯していない、私は犯していないということはあり得ないです。聖書のイエス様の言葉によります。
ですから聖書の罪の判断というのは、この世の刑法とか、そういった六法全書の考え方とは、全然、違ったものであります。そして、十戒からもう一つ引用がありまして、姦淫に対する戒めがあります。これも同じようです。『姦淫してはならない。』これもモーセの十戒にあります。
マタイ
5:27 『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:28 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。
5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。・・・・
なかなか厳しいイエス様の言葉だと思います。ここの姦淫に関する御言葉を読む度に、私は一人のとても大好きな兄弟の証しを思い出すんです。
その兄弟は、この御言葉を自分のお証しの中で引用してくださって、イエス様はこういうふうにおっしゃった。えぐり出して捨ててしまいなさい。これじゃ、目がいくつあっても足りやしない。その兄弟が証しの中でおっしゃったのですが、彼はもう何年も前に天国に召されましたから、本当に大好きな兄弟だったのですが、もう少ししたら私も召されて、天国でその兄弟ともう一度、再会、お会いすることができる。それが楽しみでありますけれど、一つだけ気になっていることがあります。それは、果たしてその兄弟に目が二つ揃っているのかどうか。これが心配であり、楽しみであり、お互いに目がないかもしれませんが、それはともかく本題に戻ります。
今のイエス様の罪に対する考え方はこうでした。あの馬鹿者と思ったり、あるいは、道を歩いてて、『ああ、きれいな女の人だ!』と思ったり、人生を振り返ってみると、私たちは、数え切らないほどの様々な罪を、これまで犯してきたものだと思わざるを得ません。
あんなことを言わないよかったのに、あんなことをやらなければよかった、あの時あの人にもう少し、もうちょっとでいいから優しいことをしてやればよかった。そういう思いは皆さんどなたでもお持ちだと思います。良心の呵責という言葉で置き換えたらいいかもしれない。自分の心の奥に静かに隠した罪意識と言い換えてもいいかもしれない。それが、聖書で言う罪にあたるというふうに私は思っています。
私たちの人間の罪は、それがわかっても、でも私の罪はこういうものだというのが認識しても、でもそれでも、あの時は私は、そうせざるを得なかったのだという自己弁護をしてしまう。それが罪の全体像かもしれません。
ただ悪いだけじゃなくて、その悪い自分も正当化してしまう。そこも含めて、私たち人間の罪ということではないでしょうか。自己弁護。それから、自己憐憫。自己保身。自己愛。そういう全ての言葉に自己をつけたもの、要するに自分は正しいとする態度、言葉を変えると自我という一言で置き換えられるかもしれません。それこそが人間の罪の正体だと、聖書はそのように言っていると思います。
でも昔にさかのぼって、人生を私たちがやり直すことは不可能な話です。そこで、イエス様の十字架が大きくクローズ・アップされていく。そういうことになります。
もう一度さっきのパウロの第一コリントの言葉に戻りますと、キリストは、私たちの罪のために死なれたと書いてあります。イエス様の十字架の上での死、それは、私たち人間が自分の罪のために、本当は自分の罪のために自分が死ななければいけなかったはずなのですけれども、その私の身代わりとなってイエス様が死んでくださった。
そのことによって、私たちの全ての罪がもう全部なくなったことになる。そして、イエス様、神様がその罪をもう二度と思い出さないとおっしゃっている、それが聖書でいちばん大切なことだと思うんです。
それが信仰。信仰はそれだけだと思っていいかもしれません。イエス様の十字架は、私の罪を赦してくださるためでした。そう信じたその瞬間に、私たちはそれまでの人生の罪意識の重圧から完全に解放されることができます。
その罪はもう思い出さない。神様はそうお約束してくださっていますので、その神の約束を信じることができれば、私たちはもはや、良心の呵責から完全に解放されて、御前に幼子のように、毎日をよろこんで生きることができるようになります。
イエス様が十字架で死なれたのは、何のためだったかというと、この私の罪のために身代わりとなって死んでくださった。それがいちばん大切な聖書の、イエス様の十字架の意味です。
それで、二番目になります。
二番目に、どうしたらイエス様――私たちの罪のために死んでくださったイエス様――を、信じる信仰を持つことができるようになるか。どうしたらイエス様を信じることができるか。これもかなり難しいようで簡単なんですよね。
とくに、何かをしなければいけないということはありません。信仰を持つためには、私たちは何かしなければいけないと思いがちなんですね、私たち人間は。ですけれども、そんなことはありません。
教会の会員になることでしょうか。あるいは、たくさん献金をすることでしょうか。良い行いを積み重ねることでしょうか。聖書を勉強することでしょうか。信仰を持つためにはそういったことは、全く関係がないと思います。
良い人になるようにがんばる。それも、仰を持つための方向ではありません。そもそも、私たちは良い人なんかになれるわけがないからです。もともと罪の性質がありますから。
良い人になろうと思って決心したとします。せいぜい三日間くらいはなれるかもしれないけど、四日目からまだ元に戻ってしまいます。
聖書は、イエス様を信じるためにどうしたらいいか。何て言っているか。これは簡単です。イエス様を心に信じて、口で告白すれば救われる。聖書にはそう書かれています。イエス様は天地を創造された、全知全能のすべての創り主の神様の一人子です。イエス様は神様の一人子と、よく分からないけれどもそのまま信じることです。
そして、神の子であるイエス様が、この僕の罪を赦してくださるために、十字架にかかって死んでくださった。これも理解できません。ですけども、それを信じて感謝をすることです。そして、次に、そのイエス様を、私はよく分からないんだけど、信じさせてくださいと祈ることです。そして、最後に、これがいちばん難しいのかもしれないですけども、イエス様を信じようと決心することです。
以上です。とくに、難しい裏技みたいなのがありません。イエス様を信じることは本当に簡単です。
今からもう十年近く前になりますけれども、天に召されたベック兄弟、ベックさんが救われることは簡単だよって、いつもおっしゃっていました。皆さんも覚えておられると思います。ありがとう。ごめんなさい。そして、これからもよろしく。それだけだよって、繰り返しおっしゃっておられました。本当にその通りだと思います。
これが二つ目、どうしたらイエス様を信じることができるかと、とくに難しい技は必要ありません。
三つ目の今日の件は――これで終わりになります――、イエス様を信じたら、なぜ私たちは喜ぶことができるようになるのか。イエス様を信じると、喜ぶことだらけだから、だからイエス様を信じると喜ぶことだらけだから、私たちは喜ぶことができるようになります。聖書をお読みします。
ヨハネ
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
イエス様を信じると、私たち、信じた者が飢えることも渇くこともない。それがイエス様の約束です。信仰を持つ前の私たちは、というか信仰を持つ前の私は、こんなふうに考える人間でした。俺は何をやってもうまくいかない。私はダメな人間だ。そう思って私は、人生の表舞台から消え去りたいと思うような、そういう極めて消極的な人間でした。
人の前で話したりするのは、すごく嫌でした。すごく嫌だったんですね。たいへん人の前で何か話すことはしないと思ったんですけど、信仰を持ってから、もしかしたら、人の前で話すのが、好きなんじゃないかと思うように、変わったような感じがします。
でも、私は自分はダメな人間だと思うタイプの人間であります。かつては、そういう自分を人と比較して、不平不満だらけの人生を歩んでいた者でありました。ですけれども、こんな私でも、イエス様を信じると、人生に満ち足りることを覚えるものに変えられました。それは、イエス様を信じて、新しいいのちが与えられたから、そう思います。
同じヨハネの6章の47章に、素晴らしい言葉があります。
ヨハネ
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。
十字架の上で死なれて、そして、三日後によみがえられたイエス様を信じると、私たちに永遠の命が約束されています。これは本当に考えられない恵みです。死への恐れから完全に、解放されることができるからです。これもちょっと頭で考えても、分かりません。小さい幼稚園に通うか通わないかくらいの子どもたちと同じようなレベルで信じる話だと思うんです。
根拠があるから、数学の問題を解くみたいに、こうこうであり、こうこうであるがゆえに、永遠のいのちがあるとか、そういう証明はできません。ただ信じるだけ。永遠のいのちが与えられている。これを信じると、死への恐れから完全に解放される。信じられない話かもしれないんですけども、こればかりは信じてみないと分からない。
信仰を持つ前の私は、人間はもう死んだらそれでおしまいと、軽く簡単に割り切っていました。ですから、死んだら何もなくなっちゃうんであって、というふうに思っていましたから、お葬式に行くことは嫌いでした。何を話していいかよく分からないからです、お葬式に行っても。
遺族の方がおられるところに行って、このたびはご愁傷さまでしたと、ちっちゃな声で言うんですけど、ご愁傷さまって、意味そのものがよく分からないし、それ以上に何も言うことができない。お力を落とさないようにと言っても、皆さん、お力を落としている方ですから、もう意味がないし、天国がありますよねと言っても、自分自身が信じていないから、言葉に力が入らない。
そういうことで、信仰を持つ前は、お葬式にだけは行きたくありませんでした。でも、私は信仰を持つか持たないか、その超瀬戸際にあった頃に、このキリスト集会の葬儀に行きなさい。私の信仰の先輩であるかみさんに、何、節子姉妹に誘われました。で、二回くらい断ったんですけど、知らない人の葬儀なんかに行くのって、なんか、かっこよくないねとか、不謹慎なんじゃないかと思って、断ったんですけど、三度目くらいに、そんなに言うなら行ってみようと思って、キリスト集会の葬儀に出席しました。
そうしたら、この世の葬儀とは全く違うということが、すごくよく分かりました。信仰なんか持っていませんでしたけども、この世の中のお坊さんがまったく分からないわからないお経をあげて、お線香の匂いばっかりしている、そういうものとは、全く違うということが分かりました。
でも、集っている人も、遺族の人も、なんか悲しいんだけど、寂しんだけど喜んでいる、また、死んじゃった、親しいあの人と再会できる、そのように本当に信じておられるようでした。死は終わりではない。永遠のいのちへの出発点なのだ。もう少しして、私が天に召される時には、先に召された懐かしい人たちと、必ず再会ができる。そういうふうにみんなで喜び合っておられたんですね。
これは、私には本当にショックな話でした。こういう信仰をまだ完全に持っていなかったんですけども、私が死んだらこういう葬儀で送ってほしいというふうには、確かに思いました。聖書にはこう書かれています。
ヨハネの福音書
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
これがイエス様の問いかけでした。イエス様を信じる者は、死んでも生きる。そして、決して死ぬことがない。そういうふうにおっしゃっておられる。イエス様ご自身が、『このことを信じますか』と、最後におっしゃっておられる通り、なかなか、死んでも生きるという約束は、にわかには信じ難いことなんですね。
イエス様は、そのことを十分ご承知で、このことを信じますか、死んでも生きるんですよというふうにおっしゃっていると思うと、何だか楽しくなります。
死んでも生きる。この約束は確かに、にわかには信じられません。ですけれども、信じる者には最高のプレゼント。死んでも生きる。この約束こそが私たちに、今日を生きる喜びと、今日を生きる希望、そして、今日を生きる力を与えてくれる源泉になっている、そのように思われます。
長くなって申し訳ありませんでした。最後に、ヘブル人の手紙の御言葉を読んで終わりたいと思います。
ヘブル
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
10:23 約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。
10:24 また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。
10:25 ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
ヘブル書に書かれている通り、私たちも集まることをやめたりしないで、一緒に御心を聞いて、そして、弱い私たちをお互いに励まし合いながら、共に再臨の日を待ち望む者でありたいというふうに思っています。

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