2017年12月6日水曜日

絶えず祈れ[5]祭司としての奉仕

絶えず祈れ[5]
祭司としての奉仕

キリスト者はその生活のなかで、いつも「主はなにを望んでおられるのだろうか。主に喜ばれることはいったいなんだろうか。主がいちばんたいせつにしておられることはなんだろうか」という疑問に直面します。それをたずね求めるために、主は私たちに「絶えず祈れ」と呼びかけておられます。主の恵みによって「祈りのひと」になりましょう。そうすれば私たちは、まったくべつのひとに生まれ変わることができるのです。それを見て、私たちの家族や友だちも変わりますし、それだけでなく、私たちの周囲の環境すら変わってしまうのです。

きっとあなたは「そうなることが私の願いです。私も祈りのひとになりたい」と言うでしょう。ではいったいどうしたら、「祈りのひと」になることができるのでしょうか。

イエス様はあらゆる時代をとおして、もっとも偉大な「祈りのひと」でした。イエス様が十字架にかかられたとき、イエス様の横でやはりはりつけの刑に処されていた犯罪人のひとりはこう言いました。


イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。(ルカ23・42)

みなさん、これこそが祈りです。このようにイエス様とともに語ることこそが祈りです。祈りとはイエス様と語りあうことです。

犯罪人は「イエスさま。私を思い出してください」と祈りました。そしてイエス様は、この祈りに答えて、つぎのように言われました。

「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23・43)

「あなたは救われた」と、イエス様は言われたのです。なぜ犯罪人は救われたのでしょうか。

なぜなら犯罪人は「私は罪人だ。罪のために死ななければならない。私は減びるのだ」ということを知っていたからです。それだけでなく、犯罪人は「イエス様は私の罪、私のわがままを赦し、私を救うことがおできになるかただ」ということも知っていたのです。だからこそ犯罪人はイエス様に祈ったのです。「イエスさま。私を思い出してください」と。

イエス様はこの犯罪人の祈りを心にとめられ、あわれにお思いになられました。そしてその祈りは聞かれ、犯罪人は恵みによって救われたのです。

私たちはみな、「私の罪は赦された」と確信しているでしょうか。もしまだ確信していないかたがおられたら、きょう、この犯罪人が祈ったように、イエス様に祈ってください。

「主よ。私を思いだしてください。私は罪人です」。

「主よ。私を思いだしてください。私は悩みのなかにいます」。

「主よ。私を思いだしてください。私はのがれ道を見つけることができません」。

「主よ。私を思いだしてください。私はあなたの喜びと満足を心から願っています」。

これらの祈りに、イエス様はかならず答えてくださいます。イエス様はまちがいなく答えてくださいます。イエス様はいままで何千万人、何億人ものひとびとに答えてくださったのですから、あなたにもかならず答えてくださいます。

また、あなたがすでにイエス様を受け入れているとしても、やっぱり祈ってください。

「主よ。私を思いだしてください。私にはほんとうの喜びがありません」。

「主よ。私を思いだしてください。私はまだ祈りのひとではありません」。

「主よ。私を思いだしてください。私をみ心のとおりに実を結ぶ者としてください」。

あなたが自分の計画や思いを捨てさるなら、イエス様はあなたに答えてくださいます。

イエス様はもっとも偉大な「祈りのひと」です。そのイエス様は、あなたのうちでみ心のままに自由に祈ってくださることができるのでしょうか。あなたは、イエス様が自由に祈れるように、あなたの意思やあなたの計画をすべてイエス様にあけわたしているでしょうか。

あなたが祈らないなら、イエス様はどうしてあなたを祝福することがおできになるでしょうか。祈らないひとは、イエス様に祝福していただく機会を自分のほうから捨てさっているのです。

じつは、この原稿を書いているとき、ずいぶん昔に私が書いたメモがでてきました。それは、のちにがんで天国に召されることになる娘のリンデが生まれたとき、いろいろなかたがたが送ってくださった手紙のなかから、私がぬき書きしたメモだったのです。それらの手紙には、みなさんがリンデのために祈ってくださっていることが書かれていました。

リーベンセラー宣教団の指導者、リンハルト・フラウム牧師は、つぎのように書いてくださいました。「私たちはこの子が主の名誉、あなたがたの喜び、ひとびとの祝福となることを心から祈っています」。アイドリンゲン・ムッターハゥスのゲアトルート・ロロ姉妹はこう書いてくださいました。「主がこの子を祝福してくださり、主のために多くの豊かな実を結ぶひととしてくださいますように祈っています」。そしてウィースバーデンの伝道者エミール・ヘンスさんは、「この子が主の恵みによってはやく救われますように。それから主のしもべとして、祝福された奉仕をなすことができますように祈ります」と書きおくってくださいました。

これらの多くのかたがたの祈りは、その後、すべて成就されました。この地上でのいのちの最後の瞬間まで、イエス様のために実を結ぶことはリンデの心からの願いでした。私はこれらの手紙の祈りのメモを読みかえしたとき、リンデのために主にあらためて感謝せずにはいられませんでした。心から主を礼拝せずにはいられませんでした。(編集注・リンデの生涯についてはG.ベック編・著「実を結ぶ命」をご参照ください)

よく「キリスト教も仏教も同じではないか」と言うかたがおられます。たしかに仏教でも祈ったり拝んだりします。しかしそれらは木や石を拝むのです。なんとむなしいことでしょうか。

私たちの主は、生きておられる神です。これこそ私たちの大きな喜びです。

ではこれから、「祭司としての奉仕」について、出エジプト記を中心にごいっしょに考えてみましょう。聖書の「祭司」ということばは、日本ではこれにぴったりの概念がないので、すこしわかりにくいようですが、聖書にもとづいて、「祭司」としての奉仕をよく見てみましょう。

主なる神は、「祭司としての民」、つまり「まことの祈りびとである民」を持とうと思われ、まずイスラエルの民を選ばれました。

「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト19・5、6)

また聖書のつぎの部分では、主はイスラエルの民のなかでも、とくにアロンとかれの息子たちを「祭司として主に仕えさせるために」選びわけられたことがわかります。

「あなたは、イスラエル人の中から、あなたの兄弟アロンとその子、すなわち、アロンとその子のナダブとアビフ、エルアザルとイタマルを、あなたのそばに近づけ、祭司としてわたしに仕えさせよ。」(出エジプト28・1)

ここに書かれていることは、じつは現代のすべてのキリスト者にもあてはまるのです。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。(1ペテロ2・5、9)

また、「祭司」についての聖句としては、つぎの箇所もよく知られています。

また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(黙示1・6)

ここには、「私たちを祭司としてくださった方であるキリスト、キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように」とあります。また「祭司」についてつぎのようにも書かれています。

彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示5・9、10)

これらの聖句からもわかるように、「仕えるために救われる」というのが聖書の基本原則です。そして、主に喜ばれる奉仕とは、「祭司としての奉仕」なのです。キリスト者はだれでも「祭司」として、つまり「祈りびと」として主に仕えるために召しだされています。この「祭司としての奉仕」とはなんでしょうか。またどうしてそんなにたいせつなのでしょうか。それらについて、七つの項目をとおして考えていきましょう。

1.すべてのひとは主に出会い、主に結びつけられなければならない

すべての人間は、主なる神に結びつけられなければなりません。これこそが「祭司」のたいせつなつとめであり、「祭司」としての奉仕の第一番めです。神と人間のあいだには、橋わたしができないほどの深いみぞがよこたわっています。そして主は、その「破れ口を修理する者」、つまり多くのひとびとの身代わりとして主のまえに悔い改め、心から恵みを願い求める者、祭司を探しておられるのです。

エゼキエルの時代には、この「祭司」としてのつとめをする者はひとりもいませんでした。

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」(エゼキエル22・30)

しかしモーセの時代にはモーセがこのつとめを行なっていたために、ひとびとは滅びからまぬがれることができました。

それゆえ、神は、「彼らを滅ぼす。」と言われた。もし、神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れに立たなかったなら、どうなっていたことか。(詩篇106・23)

すべてのひとは主に出会い、主に結びつけられなければなりません。このことこそがたいせつなのです。まだイエス様を知らないあなたの家族のひとりひとり、あなたの親戚、あなたの友だち。これらのひとびとは一日もはやく主に出会い、主と結びつく必要があります。では、そのためにはいったいどうしたらいいのでしょうか。

ただ主ご自身の奇蹟によってのみ、ひとは主に出会い、主と結びつくことができます。そして私たちがほんとうに祈り、犠牲をはらうときにだけ、主は奇蹟を行なってくださいます。愛するみなさん。私たちはこの犠牲をはらう用意ができているのでしょうか。

「祭司」としてのつとめは、まず、祈ることです。祈ることはどうしてそんなにたいせつなのでしょうか。それはひとびとが神と結びつけられなければならないからです。

2.神のご臨在があきらかにされなければならない

このように、祭司としてのつとめ、つまり祈ることは、なによりもたいせつです。それは「す
べてのひとは主に出会い、主に結びつけられなければならない」からです。そしてまた、祈りをとおして「神のこ臨在があきらかにされなければならないから」です。これが「祭司」としての奉仕のふたつめです。

真剣な祈りがなされるときにだけ、神のご臨在が啓示されます。主は奇蹟を行ないたいと思っておられ、ご自身をあきらかにしたいと願っておられます。またひとびとを助け、救い、解放したいと思っておられます。そして主は、真剣な祈りがなされるときにだけ、その答えとしてこれらのことをしてくださるのです。

あらゆる時代をとおして、主の願いと目標はつぎのようなものです。

そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」(黙示21・3、4)

ひととともにある。人間とともに住む。ご自身のご臨在があきらかになる。これこそが主の心からの願いです。

初代教会は、祈りの群れでした。そしてこの祈りの群れのなかに未信者がはいったとき、かれらは「主なる神がこのひとびとのまんなかにおられる」と言わずにはいられなかったのです。主ははたして私たちのうちに、また私たちをとおして、ご自身を啓示なさることがおできになるのでしょうか。私たちのうちには、主が働かれるよちがあるのでしょうか。主が私たちの生活を支配しておられるのでしょうか。ひとびとは、あなたと出会うことをとおして主にふれているのでしょうか。

3.主イエス様が証しされなければならない

祭司としてのつとめはなぜたいせつなのでしょうか。三つめの答えは「イエス様が証しされなければならないから」です。

イスラエルの民は、主に導かれてエジプトから旅だちました。約束の地にいたるまでのその旅のあいだじゅう、「契約の箱」を運ぶのはレビ人の役目でした。祭司とレビ人の奉仕は、この「契約の箱」と密接な関係がありました。この「契約の箱」をとおして、主はご自身の民であるイスラエルのひとびとに語られました。この箱はまた「あかしの箱」とも呼ばれました。そしてこの「契約の箱」は、主のご臨在を現わしていました。レビ人は主のご臨在を現わす箱を運んだのです。愛するみなさん、私たちの使命もまた「主のご臨在を運ぶ」ことです。

あるときペリシテ人がこの箱を奪ったことがありました。ところが主の怒りとのろいがかれらのうえにのぞんだので、かれらはいそいでこの箱をイスラエルに返しました。

この「契約の箱」があるところには、いつもなにかが起こりました。つまり主のご臨在が、あるいは恵みのかたちで、あるいはさばきのかたちで現われたのです。そしていまもイエス様が証しされるところでは、かならずなにかが起こります。そのときひとびとは光にたいして心を開き、悔い改めて主の救いを経験するか、それともますます心をかたくなにするかのどちらかです。

イエス様はこの地上におられたとき、隠れていることができませんでした。ですから悪霊は、はるか遠くからイエス様を見て悲鳴をあげました。「私たちを滅ぼさないでください。私たちを地獄に追いやらないでください」と。

ヨハネはイエス様の証しびとでした。かれは黙っていることができませんでした。このヨハネがさびしいバトモスという島に追放されたのは、まさにイエス様を証ししたからです。

主と結びついている信者ひとりひとりのまいにちの生活をとおして、イエス様が証しされます。

4.主は器を必要としておられる

祭司としての奉仕はどうしてそんなにたいせつなのでしょうか。いままで見てきたことをまとめてみましょう。ひとつには「ひとびとが生けるまことの神と結びつかなければならないから」です。また「神のご臨在があきらかにされなければならないから」です。そして「主イエス様が証しされなければならないから」です。

それではこれから四つめの答えについて考えてみましょう。それは「主は器を必要としておられる」ということです。

まえにも書きましたとおり、神のご計画はイスラエルぜんたいを「祭司」の王国にしよう、ということでした。もういちどつぎの聖書の箇所を見てみましょう。

「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」(出エジプト19・5、6)

ところがイスラエルは国民としては挫折してしまいました。それでアロンとかれの家族だけが任命されたのです。しかしそのアロンもまたまどわされてしまい、その結果イスラエルの民をまどわしました。このことについては出エジプト記三十二章にくわしく書かれています。

民はモーセが山から降りて来るのに手間取っているのを見て、アロンのもとに集まり、彼に言った。「さあ、私たちに先立って行く神を、造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。」それで、アロンは彼らに言った。「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪をはずして、私のところに持って来なさい。」そこで、民はみな、その耳にある金の耳輪をはずして、アロンのところに持って来た。彼がそれを、彼らの手から受け取り、のみで型を造り、鋳物の子牛にした。彼らは、「イスラエルよ。これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言った。アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そして、アロンは呼ばわって言った。「あすは主への祭りである。」そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。
モーセは向き直り、二枚のあかしの板を手にして山から降りた。板は両面から書いてあった。すなわち、表と裏に書いてあった。板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。ヨシュアは民の叫ぶ大声を聞いて、モーセに言った。「宿営の中にいくさの声がします。」するとモーセは言った。「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。そして手からあの板を投げ捨て、それを山のふもとで砕いてしまった。それから、彼らが造った子牛を取り、これを火で焼き、さらにそれを粉々に砕き、それを水の上にまき散らし、イスラエル人に飲ませた。モーセはアロンに言った。「この民はあなたに何をしたのですか。あなたが彼らにこんな大きな罪を犯させたのは。」アロンは言った。「わが主よ。どうか怒りを燃やさないでください。あなた自身、民の悪いのを知っているでしょう。彼らは私に言いました。『私たちに先立って行く神を、造ってくれ。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったのか、私たちにはわからないから。』それで、私は彼らに、『だれでも、金を持っている者は私のために、それを取りはずせ。』と言いました。彼らはそれを私に渡したので、私がこれを火に投げ入れたところ、この子牛が出て来たのです。」モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。そこでモーセは宿営の入口に立って「だれでも、主につく者は、私のところに。」と言った。するとレビ族がみな、彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられる。おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ。」レビ族は、モーセのことばどおりに行なった。その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた。そこで、モーセは言った。「あなたがたは、おのおのその子、その兄弟に逆らっても、きょう、主に身をささげよ。主が、きょう、あなたがたに祝福をお与えになるために。」(出エジプト32・1~6、15~29)

このなかで「だれでも、主につく者は、私のところに」というモーセの言葉に、「レビ族がみな、彼のところに集まった」と書かれています。このみことばのとおり、イスラエルの民ぜんたいが主の命じられたことにそむいたとき、主のがわに立ったのはレビ人たちでした。そしてこのとき、「おのおの腰に剣を帯び、宿営の中を入口から入口へ行き巡って、おのおのその兄弟、その友、その隣人を殺せ」という恐ろしい命令がレビ人たちに与えられました。

このようにイスラエルの民は、ぜんたいとしては挫折してしまったので、そのなかのレビ人だけが器としてもちいられたのです。かれらには自発的に主にもちいられるそなえがあったのです。

「このとき、あなたがたは、わたしが、レビとのわたしの契約を保つために、あなたがたにこの命令を送ったことを知ろう。――万軍の主は仰せられる。――わたしの彼との契約は、いのちと平和であって、わたしは、それらを彼に与えた。それは恐れであったので、彼は、わたしを恐れ、わたしの名の前におののいた。彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。」
「見よ。わたしは、わたしの使者を遣わす。彼はわたしの前に道を整える。あなたがたが尋ね求めている主が、突然、その神殿に来る。あなたがたが望んでいる契約の使者が、見よ、来ている。」と万軍の主は仰せられる。だれが、この方の来られる日に耐えられよう。だれが、この方の現われるとき立っていられよう。まことに、この方は、精練する者の火、布をさらす者の灰汁のようだ。この方は、銀を精練し、これをきよめる者として座に着き、レビの子らをきよめ、彼らを金のように、銀のように純粋にする。彼らは、主に、義のささげ物をささげる者となり、・・・・(マラキ2・4~6、3・1~3)

イスラエルの民は、みな主の救いにあずかっていました。しかし妥協してしまったので、主はイスラエルを民ぜんたいとしては器としてもちいることができなくなってしまわれたのです。

いまの時代の状態もこの時代とよく似ています。多くの信者がいます。しかし器として主にもちいられる者のかずはごくわずかです。なぜでしょうか。多くの信者は祭司としての奉仕をしないからです。主のまえに立ちつづけることも、祈りつづけることも、主がなさる大きなみわざに期待することも忘れてしまっているからであり、犠牲をはらいたくないと思っているからです。

使徒パウロの時代にもやはりおなじような状態だったようです。というのはパウロは当時の信者たちのために、かれらが自分の使命に気がつき、召しにふさわしく歩むようにと心をつくして祈っているからです。もし当時の信者たちがみんな真剣な祈りびとであったなら、パウロはこんなにも真剣にかれらのために祈る必要はなかったでしょう。

愛するみなさん、いまの状態に満足などしないようにこころがけましょう。破壊と堕落のまっただなかにあって、主はいまも、喜んでみ心にかなった祈りびととなるひとびとを探し求めておられるのです。

5.祭司のつとめをとおして、いのちがわかちあわれる

祭司の奉仕はなぜたいせつなのでしょうか。五つめの答えは、そのことをとおしていのちがわかちあわれるからです。

たいせつなのは聖書の知識ではありません。なによりもたいせつなのは、「イエス様のいのち」がひとびとの心をとらえることができるかどうか、ということです。祈りがなされると、ひとは回心を経験します。祈りがなされると、いのちの泉があふれでます。祈りがなされると、ひとはイエス様をよりよく知るようになります。いのちがわかちあわれるようになります。

まごころから祈っていない教会は、みじめで実りがありません。まことの祈りがなされていない教会は、あいまいになり、いのちよりも形式をたいせつにするようになってしまいます。まことの祈りがなされていない教会は、もはやイエス様によってもちいられる器となることができず、山のうえにある光でもなく、証しにもなりえないのです。

6.信者は戦いのなかに投げこまれた者である

祭司としての奉仕はどうしてそんなにたいせつなのでしょうか。六つめの答えは「信者は戦いのなかに投げこまれた者だから」です。

イエス様と結びついている者は、この地上では異分子です。しかし、イエス様により頼む者は決して孤独ではありません。イエス様により頼む者は、ゆるぎない土台のうえに立っているからです。そのひとはまわりの状況にすこしも影響されない、ゆるぎない喜びを知っています。そのひとはあらゆる理性を超越した神の平和を経験しています。

私たちの戦いは、いろいろな思想や人間にたいするものではありません。私たちの戦いは、この世をこえた力、悪霊の世界にたいして行なわれるのです。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6・12)

こんにち、信者でさえなんと無関心に、また怠慢になっていることでしょう。多くのひとが妥協してしまい、ほかのひとを主のみもとに導くどころではないことは驚きです。

モーセとパウロは、この戦いそのものを経験しました。かれらは断固として自分中心の行動をしませんでした。そしてそのことをとおして、まことの祈りびとになりました。

モーセはつぎのように祈りました。

今、もし、彼らの罪をお赦しくだされるものなら――。しかし、もしも、かないませんなら、どうか、あなたがお書きになったあなたの書物から、私の名を消し去ってください。(出エジプト32・32)

そしてパウロはつぎのように祈りました。

もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。(ローマ9・3)

ここには自分のことをかえりみない献身、どんな犠牲でもはらう覚悟、徹底した奉仕があらわれています。つまりイエス様の霊は、モーセをとおして、またパウロをとおして祈ることができたのです。

では私たちはどうでしょうか。主なる神の霊は私たちのうちでいったいどれほどのよちをしめているのでしょうか。主は私たちをおもちいになることができるのでしょうか。

7.キリスト者の成長のためのただひとつの道

祭司としての奉仕はなぜたいせつなのでしょうか。その七つめの答えは、「それがキリスト者の成長のためのただひとつの道だから」です。

「霊的なひと」とはどんなひとでしょうか。自分の力ではなにひとつできないひと、またしようと思わないひとです。かれらは徹頭徹尾イエス様により頼むしかないということをよく知っています。また「霊的なひと」は信仰によって歩み、目に見えるものによっては動かされません。

イスラエルの民は荒野を旅したとき、目に見えるものに頼って歩みました。かれらはなにか目に見えるものがほしかったのです。それでアロンはかれらのために金の子牛をつくりました。しかしモーセは「霊的なひと」でしたから、なにひとつ見たいとは思わなかったのです。

モーセについては聖書にこう書かれています。

信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。(ヘブル11・27)

またペテロは信者たちにつぎのように書きおくっています。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(1ペテロ1・8)

目に見えるものにより頼んでいては、祭司としてもちいられることができません。

イスラエルの民は目に見えるものを求めました。そして「私たちに神々をつくってください」と叫びました。それがどういうことを意味するか、かれら自身は自覚していなかったでしょう。アロンは妥協してしまい、悪魔はこおどりして喜びました。

このとき、イスラエルの民はみな、自分たちが持っていた金の耳輪を提供しました。たしかにかれらも犠牲をはらいはしました。しかしそれは主のための犠牲ではありませんでした。かれらが提供した金の耳輪から金の子牛がつくられました。そしてイスラエルの民はこの金の子牛を崇拝しました。つまり神の民はもう主の証しびとではなくなってしまったのです。

モーセは、民が乱れており、アロンが彼らをほうっておいたので、敵の物笑いとなっているのを見た。(出エジプト32・25)

生けるまことの神の証しびとであったイスラエルの民は敵のものわらいとなってしまったのです。金はほんとうは主の幕屋をつくるため、つまり主の住まいをつくるためにもちいるべきだったのです。それなのにかれらはそれを使って偶像をつくってしまったのです。悪魔の策略によって金は偶像のために使われてしまいました。そして偶像崇拝とは悪魔崇拝にほかなりません。

そのときこの悪魔の策略を見ぬくことができたのはレビ人、つまり祈りびとだけでした。そしてかれらだけが妥協せずに主に従ったのです。まえにもすこしふれましたが、それはかれらにとってかんたんなことではありませんでした。というのは自分の家族にたいしてさえ戦いを宣言しなければならなかったからです。私たちはこのことをとおして、神がいかなる妥協をもみすごすごとができないということを知ることができます。

剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。(ルカ2.35)

「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」(ルカ17・33)

主は祈りびとを探し求めておられます。喜んでこのご奉仕に従うそなえのあるひとはだれでしょうか。犠牲をはらい、みずから犠牲になるそなえのあるひとはだれでしょうか。

「主よ。私はここにいます。私をもちいてください」と言うことができるひとは、ほんとうにさいわいだと思います。

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