2017年12月8日金曜日

絶えず祈れ[7]祈りのかぎりない可能性

絶えず祈れ[7]
ゴットホルド・ベック著
祈りのかぎりない可能性

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33・3)

この聖句は「祈りのかぎりない可能性」を私たちに語っています。聖書を表面的に、その意味を深く考えないで読むひとでさえも、聖書のなかには、主に呼び求め、その祈りが聞きとどけられたひとびとの多くの実例があふれていることに気がつくことでしょう。ちょっと考えただけでも、アブラハム、モーセ、ハンナ、サムエル、ダビデ、エレミヤ、ダニエル、ヨナ、あるいはペテロ、パウロ、ヨハネと、その例にことかきません。かれらはみな、主がいかにかれらの祈りに答えてくださるかを経験しました。そして聖書は、「祈りのかぎりない可能性」を体験したひとびとのことが書いてあるだけではなく、私たちもまたおなじように祈り、おなじ体験をするようにとすすめています。イエス様が四つの福音書のなかでどれほど祈りの必要性をくりかえし指摘しておられるか、また書簡集のなかでどれほど信者の祈りの特権と責任がくりかえし強調されているか、そのことを考えれば、私たちも「祈りのかぎりない可能性」を体験するように強くすすめられていることがよくわかります。


聖書は「祈り」についての書物です。聖書をとおして、主が私たちに語られているのは、つぎのようなことです。

「だれが祈ることをゆるされ、いつ主のみ名が呼ばれ、私たちはどのように祈るべきか。そして私たちが主に近づくとき、なにが起きるか」。私たちがこれらのことをよく考えるなら、くりかえし自分自身につぎのように問いかけるようになるでしょう。「なぜ私はこんなにもすくなくしか祈らないのか」と。

主は私たちが祈りのひとになり、祈りの力を信じるひとになるだけでなく、「実際に祈るひと」になることを望んでおられます。なぜなら、主は私たちの祈りを聞き、それに答えたいと望んでおられるからです。私たちがあらゆる苦しみを持って主のみもとに行きさえすれば、かならず答えてくださると主は約束しておられます。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33・3)

さて、祈りにはつねに「主の側面」と「人間的な側面」というふたつの側面があります。この聖句からもそのことがわかります。主はまず「わたしを呼べ」と言われます。これはまず私たち人間が願い求めるべきであることを示しています。そしてそのあとで主は「あなたに答える」と、はっきりと約束なさっておられます。私たちが「主を呼びたい」と思うだけで、主は確実に答えてくださるのです。このように、祈るときに問題になるのはつねにふたつの人格です。そのふたつの人格とは、「願いを持ちだす人間」と、「願いに答えてくださるおかた」です。

主なる神は考えられないほど偉大なおかたです。その偉大なおかたのもとに、私たちはあらゆる願いを持っていくことがゆるされているのです。そして主はただ祈りを聞いてくださるだけでなく、答えてくださると約束しておられます。ですから、「主が答えてくださる」ためには、まず私たちが「祈りのなかで主のみもとに行き、主のまえに私たちの心をそそぎださ」なければなりません。ヤコブはつぎのように書きしるしています。

あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。(ヤコブ4・2)

莫大な富が意のままになるにもかかわらず、目をとざし、耳をふさいで貧民のように生きていくのは悲劇でなくてなんでしょうか。主は私たちを豊かに祝福したいと思っておられます。そしてそのために、主は私たちが意識的に主により頼み、「祈る」ことを願っておられるのです。主は霊的な祝福でもって私たちを祝福されたいのです。それが私たちのためによいことであり、主の栄光を現わすためであるならば、たとえ一時的、物質的なことであっても、主はちゃんと祈りに答えて与えてくださいます。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33・3)

それではこれから「人間の願いとしての祈り」、「神の答えとしての祈り」という祈りのふたつの側面について、ごいっしょに考えていきましょう。

人間の願いとしての祈り

まず第一の点、「人間の願いとしての祈り」について考えてみましょう。

私たち人間は、祈るためになにをするべきでしょうか。私たちは祈るために、なにかを暗記しなければならないのでしょうか?祈るのは、年数のたった信者たちだけでしょうか?イエス様を信じてから、あるていど年月がたたなければ、イエス様が聞いてくださるような祈りができないのでしょうか?決してそんなことはありません。

「祈りは、人間の願いである」と、エレミヤ書の聖句ははっきり言っています。

人間がすべきことはただひとつ、主が「わたしを呼べ」とおっしゃっているとおり、主にむかって叫ぶことです。

祈ることは、主に叫ぶことです。祈ることは、主によって造られた私たち被造物が造り主である主のほうを向くことです。祈ることは、神の子どもとされた私たちが、願いを持って父である主のみもとに行くことです。

それではこれから「人間の願いとしての祈り」について、「祈りの源泉」「祈りの単純さ」そして「祈りにはなんの制限もない」という三つの点について考えてみましょう。

1.祈りの源泉

祈りの創始者は人間ではなく生きておられるまことの神です。したがって主なる神が私たちに働いてくださらなければ、私たちは決して祈ろうとはしないでしょう。私たちはみな無知な子どものようなものです。私たちはみな、なにをどのように祈ったらいいのかを知りません。しかし聖書はつぎのように主のお約束をのべています。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。(ローマ8・26)

「祈りの源泉」は、私たちを祈りにかりたて、私たちに祈るための力を与え、なにをどのように祈ったらいいか教えてくださる「聖霊」です。主はまず「わたしを呼べ」と命令なさいます。そして聖霊は「その命令のとおりに従いなさい。わたしはあなたを助けます」と約束してくださるのです。

ほんとうに主のみもとに来るとき、そのひとは祈りのひとになります。祈りの源泉は、弱くてふたしかな人間などではなく、生けるまことの神ご自身なのです。

2.祈りの単純さ

つぎに祈りの単純さについて考えてみましょう。

ひとにとって、叫ぶことよりも単純なことがあるでしょうか。子どもは不安になったりなにかほしくなったりすると叫んで母親に助けを求めます。これは本能的なことであり単純なことです。

祈りとはなんでしょうか。それは主にむかって叫ぶことであり、主に助けを呼び求めることです。創世記四章二十六節は、聖書のなかではじめて祈りについて書きしるされているところですが、そこには「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた」とあります。

大きな声で祈るか小さな声で祈るかは、どうでもいいことです。祈りは主にたいする私たちの内面的な心のたいどです。あるばあいには私たちはせっばつまった状態にあり、とてもたくさんのことを祈れるようなよゆうなどないかもしれません。「主よ。助けてください。」(マタイ14・30)とだけ叫んだペテロのような状態にあるかもしれません。

祈りとは、もっとも単純なものです。いつどのようなときにも、私たちは主に助けを呼び求めることができ、主はいつでも私たちの叫びを聞いてくださるのです。

「私は祈ることができない」と言うひとがいます。しかし主はつぎのように言っておられます。「それはうそです。あなたがしなければいけないことはただひとつ、助けを呼び求めることであり、あなたの苦しみをこのわたしにうちあけることです」と。

3.祈りにはなんの制限もない

私たちが祈ることについて、なんらかの制限があるのでしょうか。その答えはつぎのようなものです。

だれでも祈ることができます。

どんなときにも祈ることができます。

どんな場所でも祈ることができます。

すべてのことについて祈ることがゆるされています。

つまり、祈りには制限などありません。もちろん祈るときには、私たちは主を信頼して自分の悩みごとをすなおにうちあけられる状態でなければなりません。また主は、信者ばかりでなく未信者にも祈るようにすすめておられます。というのは、聖書のなかでつぎのように約束されているからです。

主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。(ローマ10・13)

いつでも、すべてのことのために、またいたるところで祈ることができます。祈ることはもっともかんたんで、単純なことなのです。

主の答えとしての祈り

私たちはここまで、「人間の願いとしての祈り」について、主なる神が祈りの創始者であること、また主は決してひとびとに多くの要求をしてはおられず、だれでも祈ることができることなどを見てきました。そこでつぎに、祈りの第二の側面である「神の答えとしての祈り」について考えてみたいと思います。

主は「人間が主に呼び求めれば、主はかならず答えてくださる」と、はっきりと約束しておられます。まさに聖書につぎのように書かれているとおりです。

「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33・3)

主は私たちの祈りにかならず答えてくださいます。主に願い求めてなんの答えも得られないということは、決して決してありません。主のお約束はきわめて明快で、どんな小さな疑いもさしはさむよちがありません。主はお約束を守ってくださいます。私たちがしなければならないことはただひとつ、主を呼び求め、主に叫ぶことだけです。私たちが主を呼び求めるなら、主はかならず答えてくださいます。

つぎに私たちは、「主は私たちの祈りにどんな答えをお与えになるのか」というたいへん大きくて重要な問題について、ごいっしょに考えてみましょう。

「主は私たちの祈りにいかなる答えをお与えになるのか」。この問いについては、五つの角度から学ぶことができます。

1.特定の答えを与えられる

「主はどのような答えをお与えになるのか」という問いにたいして、主は「特定の答えを私たちに与える」と約束しておられます。
「わたしは答えたい」と主は言われます。主はどうしてもお答えになりたいのです。したがってたとえ私たちが「祈って答えが与えられない」ということを経験したいと思っても、そんなことは不可能です。主は答えたいと願っておられますから、どんなことがあってもぜったいに答えてくださいます。

私たちはなんとしばしば、人間の考えや人間の言うことをたやすく信じてしまうことでしょう。

しかしもっともたいせつなことは、主なる神のお約束を信じ、主ご自身により頼むことではないでしょうか。

実例で考えてみましょう。あなたがお金を貸してくれというので、私が小切手を書くとします。私が金額を書き入れ署名し捺印した小切手をわたしたとたん、あなたはその小切手が確実に現金になることを信じて疑わないでしょう。私たちは人間の署名や捺印を見てさえそのように信じることができるのです。もしそれとおなじように、私たちが主なる神のみことばを信じて受けとるなら、非常に大きなことを経験するのです。主がおっしゃることを信じることは、なによりたいせつです。「わたしを呼べ。そうすればわたしはあなたに答える」とおっしゃる主は、かならずご自身のお約束を実現してくださいます。この世のなにものをもってしても、主がご自身のお約束を守ってくださることをさまたげることはできません。

主は特定のお答えをくださることを約束しておられます。そしてつぎのような方法で、私たちにわかるように答えてくださいます。

主はすぐに、直接答えてくださいます。

主は私たちが期待したのとはちがったかたちで答えてくださいます。

主はすぐにはお答えにならず、あとになってはじめて答えが与えられます。

主は、私たちの願いが私たちのためによくないから、あるいはもっとよいものをくださるために、私たちの願いを拒絶することによって答えてくださいます。

これらの主が与えてくださるお答えのかたちについてもうすこしくわしく見てみましょう。

・すぐに直接答えてくださる。

主はしばしば瞬間的に答えてくださいます。私たちが主になにかを願うとき、つぎの瞬間それが私たちに与えられることがあります。それがあんまりはやく与えられるので、私たちは驚いてしまうでしょう。そこにはすこしの猶予もありません。私たちはしばしばそのように、祈りにたいするお答えを体験することがあります。私たちが小さなことのために祈ります。すると主が答えてくださいます。私たちがだれかひとりのひとの救いのために主にお願いすると、あっというまにそのひとは主のもとに導かれるのです。

・私たちが期待したのとはちがったかたちで答えてくださる。

主はたしかに答えてくださるのですが、私たちが期待したのとはちがったかたちで答えてくださることもあります。聖書にはパウロがそのような経験をしたときのことが書かれています。

パウロには肉体のとげ、つまりかれを非常にこまった状態においこむ病気がありました。かれは主に三度、いやしてくださるように願いました。しかしその結果、かれはこの病気から解放されなかったのです。パウロは、自分がこの病気から解放されるなら主はもっと自分をもちいてくださることができると思いました。しかし主のお考えはちがいました。パウロは、「主は肉のとげをとりさるよりももっといいものをくださるにちがいない」ことを知ったのです。主がパウロにそのことをわからせてくださったのです。主は「わたしはいつもあなたとともにいる」とかれに約束してくださいました。そして主は、「わたしの恵み、わたしの臨在、わたしの力、わたしの平安は、あなたを支えるものとなります」と言われたのです。

このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。(Ⅱコリント12・8~10)

このようにパウロは、願ったのとはべつのかたちで主が答えられるばあいもあるということを学びました。なぜかというと、主はいつも私たちが願っているよりもっといいことをよくこぞんじであり、私たちの最善をいつも考えてくださっているからです。主はご自身のなさることをよくごぞんじです。だから主が私たちが期待しているのとはちがうかたちで答えてくださるときには、そのことをとおして、私たちが期待したよりもずっと大きなご栄光を現わしてくださいます。それは私たちにとって最善のことです。そして私たちばかりではなく、まわりのひとびともそのことによっていっそう祝福されます。

このように、私たちが祈るとき、主はすぐに直接答えてくださり、また私たちが考えたり期待したりするのとはちがったかたちで、私たちが考える以上によく答えてくださいます。

・すぐにはお答えにならず、あとになってはじめて答えが与えられる。

そしてまた、主がすぐに答えてくださらないこともあります。すぐにではなく、あとになってはじめて答えが与えられるのです。疑いもなく主はいつも私たちの叫びを聞いてくださいます。しかしあるばあいには、主はほんとうに私たちのためを考えてくださっているからこそ、あえてすぐには答えてくださいません。

私は主イエス様を知るとすぐに、宣教師になりたいと願いました。しかし実際に宣教師になるまでには八年かかりました。その八年のあいだも、主は私の祈りを聞いてくださっていました。しかしすぐには答えてくださらなかったのです。やがて主がそなえられたときがくると、主は道をたいらにしてくださり、私は私の願いにたいする最上の答えを体験することができました。

このように、主はあるときには私たちの祈りにすぐに答えてくださらないこともあるのです。

・拒絶することによって答えてくださる。

主は私たちの祈りゃ願いを拒絶なさることもあります。これもまたひとつのお答えです。もちろん主が拒絶なさる以上、それには十分な根拠があります。子どもが刃物で遊びたいと言っても母親は許可しないでしょう。そしてなにかべつのものを与えるにちがいありません。

エリヤという預言者もちょうどそのような経験をしました。かれは「私のいのちを取ってください。私は死にたいのです」と主に祈りました。

自分は荒野ヘ一日の道のりをはいって行った。彼は、えにしだの木の陰にすわり、自分の死を願って言った。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」(Ⅰ列王19・4)

エリヤがこのように願ったとき、主はおっしゃいました。「わたしはあなたの願いを拒絶することによってあなたに答えます。あなたはいま死んではいけません。あとになればあなたにもこのほうがはるかによかったとわかるでしょう」。主はこのように答え、エリヤの願いを拒絶なさいました。

私たちはみな、主が拒絶なさることがあるということを、なんども経験しています。主が拒絶なさるのは、そのほうが私たちにとってよりよいからです。私たちが願うよりも、よりよいものをお与えになりたいから、主はあえて拒絶なさるのです。

主は生きておられます。生きておられるまことの神は私たちの叫びにかならず答えてくださいます。主は瞬間的に答えてくださるかもしれません。私たちが期待しているのとはちがった方法で答えてくださるかもしれません。ずっとあとになってはじめて答えてくださるかもしれません。また主は私たちが願ったものよりもはるかによいものを与えるために、私たちの願いを拒絶なさるかもしれません。

いずれにしても、主はつねに「ひとつの特定の答え」をお与えになります。それはしばしば私たちの考えたとおりではありません。私たちが自分で選ぶのとはちがっています。しかし主はつねに答えてくださいます。なぜならば主ご自身が、「わたしを呼べ。わたしはあなたに答える」と約束しておられるからです。主なる神はかならず、私たちのために特定の答えを約束してくださるのです。

2.個人的な答えを与えてくださる

「主はどのような答えを与えてくださるのか」という問いにたいする二番めの答えは、「主は個人的な答えを私たちに与えてくださる」ということです。「わたしはあなたに答える」と言われる主は、私たちに「まったく個人的に答えて」くださいます。

ここで、とてもたいせつなことをぜひ心にとめていただきたいと思います。祈りにたいする主の最上のお答えは、物質的、霊的な祝福をくださることではありません。もちろん私たちは、祈りの答えとして物質的、霊的な祝福をいただくことがあります。たとえば新しい車を必要としているとき、私たちはその願いを主に申しあげることができます。そして主が願いを聞きとどけてくださるなら、それはすばらしい恵みの体験となることでしょう。また私たちは心の平安を必要としているときにも、その願いを持って主のみもとに行くことができます。そして主が祈りに答えて主の平和で私たちを満たしてくださるなら、それもまたおなじようにすばらしい体験です。しかし、これらのことよりもはるかにたいせつなことは、「主ご自身の啓示」です。「わたし自身があなたに答えます」と主は約束しておられます。だから私たちの祈りが聞きとどけられるということは、主がご自身を私たちに啓示してくださることにほかならないのです。

主がひとたびご自身を啓示してくださったなら、あなたはつぎのことを知ることができるでしょう。「主はこの問題のすべてをみ手のうちにおさめてくださった。いま、すべてはととのえられている」。この確信こそが、私たちの祈りにたいする最大の答えです。

たとえ主のお答えが私たちの思いとはちがっていても、たとえ主が長いあいだお答えをのばされているとしても、また、たとえ主が拒絶のお答えをなさるとしても、それがどうだというのでしょうか。主はご自身を私に啓示してくださいました。主は行動してくださるにちがいありません。主は、主のときに関与してくださいます。私はすべてをみ手にゆだねることができます。主は責任をとってくださるのです。

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」(ルカ11・9、10)

ここで主は、つぎのように言っておられるのです。「わたしを呼びなさい。そうすればわたしはあなたに答えます。わたしはあなたを思い、配慮し、まったく個人的にあなたに答え、わたしの愛と思いやりをあなたにそそぎます」。

3.目に見える答えを与えられる

「主はどのような答えを与えてくださるのか」という問いにたいする三番めの答えはつぎのようなものです。神は「目に見える答え」を約束しておられます。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは大いなることをあなたに告げよう」と約束しておられるのです。

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。・・・・」(マタイ6・6)

ここまでがこの聖句の前半の部分です。この部分までは、祈りは秘密に行なわれ、だれもそのことを知りません。しかしそれでおわりではありません。さらにつづきをみると、おなじ聖句の後半の部分では「そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」と約束されています。このように、祈りは「目に見えない」隠されたことがらですが、主はその祈りへの答えを「目に見えるかたち」でくださいます。私たちはつぎのように言うことができます。「おお主よ。私はあなたに感謝します。そのために私は祈りました。そしてあなたはそれに答えてくださいました」と。

4.力強い答えを与えてくださる

主はどのような答えを私たちにお与えになるのでしょうか。いままで見てきたことをふりかえってみると、まず主は「特定の答え」を与えてくださいます。つぎに主は「個人的な答え」を与えてくださいます。さらに主は「目に見える答え」を与えてくださいます。

そして第四の答えはつぎのようなものです。主は「力強い答え」を与えてくださいます。まさに聖書に「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33・3)とあるとおりです。この聖句のなかの「理解を越えた」ということばは、「ほんらい到達できない」ことを意味しています。つまり、私たちが祈るとき、全能の主は、ただ主ご自身だけにしかできないようなことをしてくださるのです。

主に不可能なことがあろうか。(創世記18・14)

主は人間的に見ればまったく不可能に見えることでも、私たちのためにそのことをしてあげたいと願っておられます。

たとえばダニエルは、祈りの答えとして、秘密をあきらかにする能力を与えられました。

しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。この秘密が私にあらわされたのは、ほかのどの人よりも私に知恵があるからではなく、その解き明かしが王に知らされることによって、あなたの心の思いをあなたがお知りになるためです。(ダニエル2・28~30)

また預言者エリヤが祈ったとき、祈りの答えとして三年半ものあいだ雨がふりませんでした。そしてかれがふたたび祈ったとき、祈りの答えとして、こんどは雨がふったのです。

エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。(ヤコブ5・17、18)

エリシャは、祈りの答えとして、死者がよみがえらされるという経験をしました。

エリシャが家に着くと、なんと、その子は死んで、寝台の上に横たわっていた。エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。それから、寝台の上に上がり、その子の上に身を伏せ、自分の口を子どもの口の上に、自分の目を子どもの目の上に、自分の両手を子どもの両手の上に重ねて、子どもの上に身をかがめると、子どものからだが暖かくなってきた。それから彼は降りて、部屋の中をあちら、こちらと歩き回り、また、寝台の上に上がり、子どもの上に身をかがめると、子どもは七回くしゃみをして目を開いた。彼はゲバジを呼んで、「あのシュネムの女を呼んで来なさい。」と言いつけた。ゲバジが彼女を呼んだので、彼女はエリシャのところに来た。そこで、エリシャは、「あなたの子どもを抱き上げなさい。」と言った。彼女ははいって来て、彼の足もとにひれ伏し、地に伏しておじぎをした。そして、子どもを抱き上げて出て行った。(Ⅱ列王4・32~37)

ペテロは祈りの答えとして牢獄から導きだされました。

こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。(使徒12.5~8)

主は力強いお答えを約束しておられます。主は私たちにつぎのように呼びかけておられます。「あなたの悩みをわたしにうちあけなさい。あなたのまだ救われていない夫をわたしのところに連れてきなさい。あなたのわがままな子どもをわたしのところに連れてきなさい。あなたの最大の問題をわたしにうちあけなさい。どんなことでもわたしにとってむずかしすぎることはありません。わたしはそれを解決します。わたしは力強いこと、大いなること、考えられないようなことを行ないます。わたしは奇蹟を行なう主として、わたし自身を啓示します」。

私たちはこのお約束を信頼して主のみもとにいそぎ、エリヤのように真剣に祈るべきではないでしょうか。

5.圧倒的な答えを与えられる

主はどのような答えをお与えになるのでしょうか。最後にもうひとつ第五の答えについて考えてみましょう。主は圧倒的な答えを約束しておられます。「わたしはあなたの知らないことを告げよう」と主は言われます。主なる神は、私たちにはとても考えることができないようなことを、なしてくださいます。主はつぎのように約束しておられます。

「わたしはあなたのために、あなたがいままで経験したよりも多くのことを行なう。わたしのところに来なさい。わたしが約束を守るか守らないか、わたしをためしてみなさい」。

「あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。」(詩篇81・10)

主なる神は最大の与え主です。私たちがいくら多くのものを主に願っても、決して多すぎることはありません。かえってあまりにもすくなくしか願わない者、主にほんのすこししか期待しない者は、主のみ名をけがします。私たちは不可能なことを主に願い求め、期待するとき、そのことをとおして主をあがめているのです。

どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。(エペソ3・20、21)

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