絶えず祈れ[3]
祈りへのまねき
私たちのキリスト集会では、福音のメッセージや証しが録音されているカセットテープをたくさん作っていますが、何年かまえ、そのカセットレーベルを新しくしました。そこには「祈れ!」ということばが印刷されています。これはたんなる標語などではなく、まさに主なる神のご命令そのものをここにはっきりとしるしたものです。またそのレーベルには、一条の明るい光がうえからさしこんでいるさまがデザインされています。私たちが祈るとき、主からの明るい光が私たちの心や私たちの周囲にさしこんできます。そしてその結果、問題があかるみにだされ、また傷があかるみにだされるだけでなく、それらがいやされるのです。
主は、全国のキリスト集会が「祈りの集会」となることを心から望んでおられます。祈りほどたいせつなものはありません。そして祈りほど必要なものはありません。ですから、「絶えず祈れ」というテーマについて、さらによく考えてみましょう。
いったい「祈り」とはなにを意味するのでしょうか。「祈り」とは、ひとことで言えば「主イエス様のみもとに行くこと」です。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)
このみことばは祈りへのまねきです。
まことの祈りをとおして、私たちは主から多くのおくりものをいただくのです。「わたしは与えよう」。これはイエス様の願望です。
「あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」(ルカ12・32)
たくさんのひとびとがイエス様を信じ、救いの確信を持ち、喜びにあふれて生活しています。「私の罪と債務は赦された!」ということが、このひとびとの喜びのみなもとになっています。いっぽう、このすばらしい喜びをまったく知らないひとびともまた、おおぜいいるのです。「祈れ!」、つまり「イエス様のみもとに行きなさい」という要求は、イエス様を信じているひとにも信じていないひとにも、これらすべてのひとびとに向けられているのです。
私たちはなぜ、イエス様のみもとに行くのか。なぜなら、イエス様は罪を赦してくださるからです。イエス様はどのような困難な状態からも、のがれでることのできる道をこぞんじだからです。そしてイエス様は、私たちを完全に満たしてくださり、決して私たちを失望させないおかただからです。
イエス様は約束しておられます。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ1・9)
「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6・37)
「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14・13、14)
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15・7)
「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15・16)
「その日には、あなたがたはも.はや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが樹ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16・23、24)
「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。」(ヨハネ16・26)
ここに書かれているとおり、私たちは無制限の祈りのお約束をいただいているのです。「求めなさい。そうすれば与えられるのです」。これこそ全知全能の神が私たちに提供してくださるものです。このすばらしいお約束によって、私たちはいつも、主に多くのことを願い求めるようにはげまされるのです。ではつづいて、「祈りが聞かれる条件」について考えてみましょう。
1.ただイエス様の栄光が現われることを願うこと
まえに引用したみことばのなかには「わたしの名によって」ということばが六回もでてきます。またさらにもういちど、おなじことをべつの表現で「あなたがたがわたしにとどまるなら」とも書かれています。
これこそが、「祈りが聞かれる条件」なのです。
私たちはまず、「イエスの名によって祈る」ということがなにを意味しているかを正しく知らなければなりません。なぜなら、これこそが祈りが聞きとどけられる条件であり秘訣だからです。ではいったい「イエスの名によって祈る」とはどういうことなのでしょうか。「イエスの名によって祈る」とは、「主イエス様との交わりのうちにとどまる」ことです。それは、イエス様にすべてより頼むことであり、自己中心の思いや欲望、つまり自己支配や自己決定などとは正反対のものです。したがってそれはまた、主のうちに生き、主のうちにとどまることをも意味します。
イエス様はまたつぎのようにもおっしやっておられます。
「わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそキリストだ。』と言って多くの人を惑わすでしょう。」(マタイ24・5)
多くのひとびとは、自分では「私はイエスの名によって、主なる神に祈っている」と思いこんでいます。しかし、かれらはまどわされていることが多いのであり、自分自身をあざむいていることが多いのです。
「イエスの名によって祈る」とは、祈りの最後に「イエスの名によって」とつけくわえるという意味ではありません。多くのひとは自分のことだけしか考えていません。そういうひとたちの祈りは、ぜんたいがただ自己中心な思いや望みを言いあらわしているにすぎず、たとえ祈りの最後に「イエスのみ名によって」とつけくわえたとしても、そのような祈りは聞かれないのです。
悪い動機で願うこともできる、と聖書は言っています。
願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。(ヤコブ4・3)
くりかえしますが、祈りの最後に「イエスのみ名によって」ということばが使われるかどうかがたいせつなのではありません。たいせつなのは私たちの心の状態です。「主イエス様だけがすべてにまさって栄光をお受けになっていただきたい」という思いが、私たちの心を支配しているかどうかがたいせつなのです。
イエス様は「父が子によって栄光をお受けになるため」であれば私たちの祈りが聞かれると言っておられます。
わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」(ヨハネ14・13)
私たちの祈りが、自分の富とか健康とか、または成功とか快楽とか、さらには奉仕についてだけを目的としているようではいけません。ただ主イエス様の栄光が現わされることだけが、私たちの祈りのほんとうの目的であるべきです。
2.流された血潮によってまことの神に近づくこと
キリスト者は、イエス様が十字架のうえで私たちの身代わりとなって流された血潮によってあがなわれ、罪を赦され、主のまえに義と認められています。そしてイエス様の血潮の赦す力を体験した者だけが「イエスの名によって祈る」ことができるのです。
あるひとは「神は信じるが、イエスは必要ない」と言います。ある非常に頭のいい裁判官もそのようなひとのひとりでした。かれの妻はキリスト者だったので、ムーディーという有名な伝道者のところに行き、夫と話してくれるように頼みました。しかしムーディーは断りました。いくら話しあっても、議論しても、むだだと知っていたからです。それからムーディーはその裁判官のために祈りはじめました。その結果、その裁判官はそれからまもなく救われたのです。
裁判官が救われたときのようすはこんなふうでした。
祈りの答えとして、裁判官は心に不安と動揺を感じるようになりました。ある晩、妻が祈り会に行っているあいだに、かれの心のなかにある動揺はおそろしく大きくなりました。そこでかれはすぐに寝ようと思いましたが、とうとう一晩中眠れませんでした。翌朝、朝食もとらずに事務所に行くと、事務員に休暇を与え、事務所を閉めました。そしてかれは祈りはじめたのです。「神よ。私の罪を赦してください」。しかしかれの祈りはまったく価値がないように思われました。最後にかれは絶望的になって、とつぜん大声で叫びました。「主よ!イエスの名によって、イエスのゆえに、私を赦してください」。その瞬間、平安がかれの心を満たしたのです。このようにして裁判官は救われました。
主イエス様こそ、生けるまことの神を知るためのただひとつの道です。私たちは、十字架のうえでイエス様が流された血潮のゆえにのみ、生けるまことの神に近づくことができるのです。「イエスのみ名によって祈る」ことは、流された血潮によって、生けるまことの神に近づくことを意味するのです。
3.み心を知り、み心だけがなることを願うこと
「イエスのみ名によって祈る」とはどういうことでしょうか。現代人にもよくわかるように、たとえ話で考えてみましょう。
「イエスのみ名によって祈る」とは、サイン入りだが金額欄になにも書かれていない小切手を銀行に持っていって現金に換えるようなものです。たとえば私が三菱銀行に預金口座を持っていれば、そこに小切手を持っていって現金にすることができます。またその小切手に私の署名があれば、私以外のだれでも、それを持っていって現金に換えることができます。しかし私の署名がなければ、私の子どもであってもお金をもらうことはできません。祈りとはこのように、金額の記載されていない署名入りの小切手のようなものです。イエス様は言っておられます。「なんでもほしいものがあれば、その無記入の小切手に記入して、わたしに願い求めなさい。そうすれば、わたしはあなたの願ったものを与えましょう。ただし、わたしの名によって与えましょう」。
また、たとえば私が富士銀行になんの預金口座も持っていないなら、富士銀行からはなにももらうことができません。おなじように、イエス様により頼んだ生活をしていないなら、またイエス様と結びついていないなら、私たちは天国になんの口座も持っていないのです。そういうとき、私たちの願いは満たされず、また私たちの祈りは聞かれないのです。
しかし、イエス様のみ名によって祈る者の祈りは聞きとどけられます。イエス様の豊かさは尽きることがありません。イエス様の天国の口座は、私たちがいくら引き出しても、いつもいっぱいなのです。だから私たちは、いくらでも願い求めるようにイエス様から命じられているのです。
主は私たちにたくさんのものを与えたいと望んでおられます。しかし、イエス様のみ名がそこなわれず、すべての誉れが主に帰されるときにだけ、主は私たちに与えてくださることがおできになるのです。また私たち自身もそこなわれないときにだけ、主は祈りを聞きとどけてくださるのです。
「イエス様のみ名によって祈る」ということは、主のみ心を知ること、そして主のみ心だけがなるようにと願うことです。このような心のそなえがあれば、どんなばあいでもその祈りはかならず聞きとどけられるのです。
主なる神は私たちひとりひとりのために、それぞれの道をそなえておられます。ですから私たちは祈るまえに、私たち自身のために主がそなえられた道、つまり「主のみ心」がなんであるかを正しく知ることがたいせつです。主のみ心を知るならば、私たちは自由に祈ることができます。そしてひとつの願いだけを、つまり「主のみ名があがめられる」ことだけを、心から望むようになるのです。
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。(1ヨハネ 5・14)
私たちはつぎのことに十分気をつけましょう。「イエスの名によって祈る」ということは、主のみ心を知ることであり、主のみ心にもとついて祈り、主のみ心を自分のものとすることです。ですから、主なる神のみ心を知らない者は、イエスの名によって祈ることができません。
「イエスの名によって祈る」とは、「自分の名まえによって」ではなく、「イエス様の名まえによって」なにかを願い求めることです。
この世のなかには、だれかの保証人になったり、実印をついて自分の名まえを使うことを許してしまったことを、たいそう後悔しているひとがたくさんいます。なぜならそのひとたちはだまされてしまったからです。信用できないひとに「自分の名まえを使う権利」を与えることはできません。聖書のなかにもそういう例がでてきます。預言者エリシャのしもべであるゲバジがそうでした。ゲバジはエリシャの名まえを使いましたが、それは主の栄光が現われるためではありませんでした。かれは自分だけのことを考えて、金持ちになりたいと思っていたのです。たしかにかれは金持ちにはなりました。しかし主の祝福がなくなってしまいました。そして呪われたことのしるしとして、かれはらい病におかされてしまったのです。
そのとき、神の人エリシャに仕える若い者ゲバジはこう考えた。「なんとしたことか。私の主人は、あのアラム人ナァマンが持って来た物を受け取ろうとはしなかった。主は生きておられる。私は彼のあとを追いかけて行き、必ず何かをもらって来よう。」ゲバジはナァマンのあとを追って行った。ナァマンは、うしろから駆けて来る者を見つけると、戦車から降りて、彼を迎え、「何か変わったことでも。」と尋ねた。そこで、ゲハジは言った。「変わったことはありませんが、私の主人は私にこう言ってよこしました。『たった今、エフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若い者が私のところにやって来ましたから、どうぞ、彼らに銀一タラントと、晴れ着二着をやってください。』」するとナァマンは、「どうぞ。思い切ってニタラントを取ってください。」と言って、しきりに勧め、二つの袋に入れた銀ニタラントと、晴れ着二着を、自分のふたりの若い者に渡した。それで彼らはそれを背負ってゲバジの先に立って進んだ。ゲバジは丘に着くと、それを彼らから受け取って家の中にしまい込み、ふたりの者を帰らせたので、彼らは去って行った。彼が家にはいって主人の前に立つと、エリシャは彼に言った。「ゲバジ。あなたはどこへ行って来たのか。」彼は答えた。「しもべはどこへも行きませんでした。」エリシャは彼に言った。「あの人があなたを迎えに戦車から降りて来たとき、私の心もあなたといっしょに行っていたではないか。今は銀を受け、着物を受け、オリーブ畑やぶどう畑、羊や牛、男女の奴隷を受ける時だろうか。ナァマンのらい病は、いつまでもあなたとあなたの子孫とにまといつく。」彼は、エリシャの前から、らい病にかかって雪のように自くなって、出て来た。(1列王5・20~27)
4.自分自身を主にゆだねてただ主の栄光だけを願うこと
ここで、いままで見てきたことをまとめてみましょう。
「イエスのみ名によって祈る」ということは、聖霊により頼みながら、み心にかなった祈りをすることです。
「イエスのみ名によって祈る」ということは、主が望まれることを望み、主が願われることを願うことです。
「イエスのみ名によって祈る」ということは、聖霊が持っておられるのとおなじ目的を持つ、つまりどんなことがあってもただ主の栄光だけを求めることです。
主なる神のみ心が私たちの願いとならなければなりません。そして、すこしも妥協しないで、自分自身をすべて主にあけわたしたときにだけ、私たちは「主のみ心がなることだけ」を願うことができるのです。私たちの心がまえが正しければ、私たちは「主のみ名によって祈る」ことができるのです。
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15・7)
求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。(1ヨハネ3・22)
私たちが主のお望みになることを行なうなら、主は私たちが望むことを行なってくださいます。どうか主の声を聞いてください。そうすれば、主はあなたの声を聞いてくださるのです。
測り知れないほどの富が、私たちに提供されています。しかしそれにはたったひとつだけ条件があります。その条件とは、「主のうちにとどまる」ことであり、「イエスの名によって祈る」ことです。そしてこのことは、私たちが主のみ心を知るときにだけ可能なのです。だからこそ、私たちは日々、「主のみ心、主の願い、主のお考えを知りたい」と、心から求めるのです。
私たちはみな、神のみ心こそ私たちにとって最高のものであると知っています。また私たちは主が私たちを祝福したいと望んでおられることを知っています。そして私たちは、主は私たちをおもちいになりたいということも知っています。さらに私たちはみな、自分の意思に従えば、自分自身だけでなく、ほかのひとにも害になることをよく知っています。主のみ心を求めないならば、私たちの生活はまさに悲劇そのものです。ですから私たちは自分の欲望を追求することをやめて、自分自身を主にゆだねようではありませんか。
私たちが祈ってもなんの答えも得られないときには、それは主の責任ではありません。かえって、まちがった心がまえで主に向かっている私たちのほうに責任があるのだということを知る必要があります。私たちが祈ってもなんの答えも得られないのは、主のお約束が信頼できないからではなく、私たちが不信仰だから、あるいは不従順だからなのです。
私たちが祈ってもなんの答えも得られないとき、それは私たちの最善だけを願っておられる主が、私たちを悔い改めと徹底的な献身へとまねいておられるときなのです。
5.み心を知るためのそなえ
「私たちはどうしても主のみ心を知らなければなりません」。これはいままでにも、なんどもくりかえし強調してきたたいせつなことです。
しかし、ほんとうに「主のみ心を知る」ことはできるのでしょうか。
神のみことばである聖書は、はっきりと「み心を知ることはできる」と答えています。
私たちには、キリストの心があるのです。(1コリント2・16)
主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。(詩篇25・14)
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。(ピリピ 2・5)
私たちがほんとうに主のみ心を知りたいと願い、み心を行ないたいという心のそなえができているときにだけ、主はみ心をあきらかにされます。このことはとてもたいせつです。つまり「神のみ心を知る」ことと「神のみ心を行なう」ことは切りはなすことができないのです。だからもし、「私はまず神のみ心を知りたい。み心を行ないたいかどうかは、そのあとで考える」と思っているひとがいるなら、そのひとの一生はみじめな敗北に終わります。
「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」(ヨハネ7・17)
神のみ心は、聖書のなかにあきらかに示されています。イエス様がみことばのなかで約束しておられることは、「主のみ心の現われ」です。たとえば、私たちは知恵をいただきたいという期待をもって祈り求めることができます。なぜなら私たちにはそのためのはっきりしたお約束が与えられているからです。
あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1・5)
み心にかなう祈りびとになりたいと心から望むひとは、主のみ心を知るために聖書を読まなければなりません。キリスト者はだれでも聖霊を持っているという事実は、大きなはげましです。聖霊は「祈りの助け手」として与えられているのです。
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。(ローマ8・26、27)
このみことばからつぎのようなことがわかります。
つまり、私たちがなにを祈るべきかわからず、望みのない状態におかれているなら、それは大きなさいわいです。そのようなときこそ、聖霊が私たちを導いてくださるからです。
しかし、祈ろうとしない者は、主にたいしてなんのいいわけもできません。「絶えず祈りなさい」。これは、私たちを愛していてくださる神のご命令です。しかし私たちはただたんに「祈らなければならない」だけではなく、「祈ることができる」のです。なぜならば「祈りの助け手」として、聖霊が与えられているからです。
中途はんぱなキリスト者であることは、なんの価値もありません。意識してイエス様に従わない者は、主のためにも人間のためにも、実際には価値がないのです。日常生活のなかで「たったひとつの罪ぐらいはたいしたことはない」、と考えているような信者を、主はおもちいになることができません。そんな信者からは、主はあらゆる喜びや希望を取りさり、私たちの祈りは実りのないものとなってしまうのです。
たいせつなのは、私たちがパウロとおなじように「主よ、私はなにをなすべきでしょうか」とたずねつづけることです。それだけでなく、主のお力によって、主のみ心を行なう心のそなえができていることもまたたいせつです。パウロは主にたずねました。そしてかれは明確な答えを得ることができました。パウロが得た答えは、私たちにもあてはまります。
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ 3・12~17)
6.私たちの主は「祈るキリスト」
つぎに、私たちが信じ、愛し、仕えたいと思っているイエス・キリストは、「祈るキリスト」である、ということをよく考えてみましょう。
私たちの主、イエス様は「祈るキリスト」なのですから、イエス様のみ名によって祈りたいと願う者もまた、「祈りの生活」を知らなければなりません。この地上におられたとき、イエス様にとって、祈りはいちばんたいせつなものでありました。そしていまも、天におられるイエス様にとって、祈りはいちばんたいせつなものなのです。だから、私たちにとって、祈りがいちばんたいせつなものになっていないならば、私たちはまちがった状態にいるのです。イエス様は、ひとの姿をとってこの地上にいらっしゃるあいだ、絶えず祈っておられました。つまりイエス様は、絶えず父なる神と祈りによって結びついておられ、決してこ自身でかってやわがままをしようとはなさらなかったのです。
イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1・35)
それから、(イエスは)群衆に別れ、祈るために、そこを去って山のほうに向かわれた。(マルコ6・46)
イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。(ルカ 6・12)
群衆を帰したあとで、(イエスは)祈るために、ひとりで山に登られた。(マタイ14・23)
この地上でのイエス様の生涯は、祈りの生涯でした。つまり、完全に主なる神により頼んだ生涯、信頼の生涯、そして献身の生涯だったのです。
パウロはつぎのように証ししています。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2・20)
イエス様は、聖霊によってすべての信者のなかに生きておられます。それだけではありません。イエス様は、ただ私たちのうちに生きておられるだけでなく、私たちをとおして働きたいと願っておられます。そして、私たちの生涯の特徴が「主により頼むこと」になるときにだけ、イエス様は私たちをとおして働くことがおできになります。つまり、私たちの生涯は、主により頼むこと、信頼すること、そして献身することによって特徴づけられる必要があるのです。これこそまことの祈りの生活です。そして、このようなまことの祈りの生活は、イエス様の栄光のための生活であり、まことの満たしにあずかる生活であり、そして実を結ぶ生活なのです。
「祈るキリスト」は、いつも痛切な願いを持っておられます。それは、父である主の栄光が現われることと、人間が救われることです。
この「祈るキリスト」は、イエス様のからだである教会に、そのかしらとして与えられています。かしらであるイエス様と結びついている者だけが、祈りの生活をおくることができるのです。
現代の多くのキリスト者は、残念なことに、一種の分裂症的な状態にあるようです。すべての信者のかしらはキリストです。そしてこのキリストは、さきほどからなんどもくりかえしているとおり、「祈るキリスト」です。イエス様はかしらであり、私たちはイエス様のからだです。そしてかしらであるイエス様の生活の特徴は、祈ることであり、願い求めることであり、またとりなしをなさることにあります。ですから、もし私たちの生活の特徴が、祈り、願い求め、とりなしの祈りをすることでないならば、私たちはかしらであるイエス様との一致がなく、まさに分裂症的な状態にあるのです。
このように、イエス様に祝福していただきたいと願う者は、「とりなしのご奉仕」にはいらなければなりません。「とりなしのご奉仕」とは、祝福され、その祝福をひとりでも多くのかたがたにわかち与える道、主によって定められた道です。イエス様のみ名は、このご奉仕を行なうために、私たちに与えられているのです。
私たちはこれまで、まず自分で考え、計画し、働いて、そのあとで「主よ。祝福してください」と願い求めていたのではないでしょうか。しかし、ほんとうは、私たちはなによりもさきに、主のみ心を知らなければなりません。それから、私たちが自己追求的なすべてのものを犠牲にして、すべてを主にささげると、主はまったく自動的に私たちを祝福してくださるのです。そして私たちが祝福されると、その祝福は自動的にほかのかたがたにもおよんでいくのです。
「私にとどまりなさい」。これはイエス様の心からの願いです。イエス様は、「とりなしびとであるわたしとの交わりのうちにとどまりなさい。そうすればあなたがたはわたしの名によって祈る力を与えられ、わたしはあなたがたがわたしの名によって願い求めることを行なおうとおっしゃってくださっているのです。
7.イエス様の権威によって
イエス様のみ名によって祈るということは、イエス様の権威を行なう力を持つことを意味します。使徒たちは実際にそれを行ないました。そのため、足の悪いひとがイエス様のみ名によって一瞬にしていやされるといったことが起こりました。そしてそのあとで使徒たちは、パリサイ人、聖書学者たちにつぎのようにたずねられたのです。
あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。(使徒4・7)
使徒たちはイエス様の名によって、つまりイエス様の権威によって行動しました。イエスのみ名によって祈るということは、イエス様の権威を行使することを意味します。
名まえそれ自体は力ではありませんが、名まえがおよぼす影響は、偉大な力です。
十字架における犠牲の死のあと、イエス様にはすべての名にまさる名が与えられた、と聖書は言っています。それは「イエス」という名まえです。この名まえは、すでにお生まれになったときからイエス様に与えられていました。しかし十字架の死によって、また高く引き上げられたことによって、その名はひとつの変化を経験しました。つまり、イエスの名によってすべてのひざがかがめられるようになったのです。
イエスの名はすべての名にまさっています。イエスはすべてにまさって高く引き上げられました。すべての力は主のみ手のうちにあります。そしてこのイエスの名を、私たちは自由にもちいることができ、またもちいることをゆるされているのです。私たちは実際に、主なる神の全能にあずからなければなりません。
偉大な主なる神は、ご自分の力を、私たちが自由に使うことができるように提供しておられます。つまり主なる神は私たちを信用しておられるのです。イエス様ご自身が私たちに託されているのですから、私たちは主なる神の権威を自由にもちいることがゆるされています。
豊かな友人が実印と預金通帳と小切手帳を私たちにくれるなら、私たちはそれでほしいだけのお金を引き出すことができます。またそれによってその友人は私たちにたいして大きな信頼を示していることになります。それとおなじように、私たちは、イエス様の名を託されていることによって測り知れないほど大きなものを主からゆだねられているのです。
8.なぜイエスの名がゆだねられているか
イエスの名によって祈られることは、かならず成就します。主なる神ご自身がその責任をとってくださるからです。
現代の特徴は、全能なる主が、主のからだである教会をもちいたいと思っておられるということです。主はこ自身が行動されることではなく、主のからだである教会をもちいたいと思っておられます。主はご自身で奇蹟を行なうことではなく、主のからだである教会をとおして奇蹟を現
わしたいと思っておられます。
ですから、まだイエス様を知らず、救われていないひとびとは、すでに救われているひとびとをとおしてイエス様のみもとに導かれなければなりません。イエス様を信じている者はだれでも、イエス様のみ手のうちにある器となり管とならなければなりません。主イエス様は、信者をとおして、またからだなる教会をとおして活動したいと望んでおられます。そのためにこそ私たちに「イエスの名」がゆだねられているのであり、イエス様のみ力が私たちに託されているのです。
「イエスの名によって語る」ということは、「イエス様ご自身が語りたいと思われることを語る」ということです。「イエスの名によって行なう」ということは、「イエス様がなさりたいと思われることを行なう」ことです。
主のからだである教会は、主の代わりに「イエスの名」によって、また主の権威によって語り、行動する権威を持っています。主なる神はそれによって、私たちが理解できないほど大きな責任をとってくださるのです。
9.イエスの名は十字架と結びついている
イエスの名をもちい、神の全能の力をもちいるための「土台」とは、なんでしょうか。それは、私たちがほんとうに打ち砕かれていること、ほんとうにより頼んでいること、徹頭徹尾献身していることです。パウロはイエスの名をもちいました。その「土台」とはどういうものだったのでしょうか。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2・20)
イエスの名によって、罪人の罪は赦されると約束されています。
「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。」(ルカ24・47)
イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。(使徒10・43)
主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(1コリント6・11)
主のからだである教会とは、なんでしょうか。主のからだである教会とは、「イエスの名とイエスの権威がゆだねられているひとびとの群れ」のことです。私たちは、イエスの名によって、悔い改める罪人に罪の赦しを告げることがゆるされています。
また、イエスの名は、悪霊を追い出すためにも私たちに与えられている、と聖書ははっきりと言っています。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、」(マルコ16・17)
幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。(使徒16・18)
「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。」(ルカ10・19)
主イエスの名によって、私たちには悪魔の支配や力にうち勝つ権威が与えられているのです。
私たちは祈ります。「主よ。私は弱く、頼りにならず、役に立たないものです。しかし私はイエス様のみ名によってみまえに近づきます」。そうすれば、私たちの祈りは聞かれるのです。
「もっとりっぱな信者になって、罪を犯すことがすくなくなれば、自分の祈りが聞かれるだろう」と思っているひとがいます。しかしこの考えはまちがっています。なぜなら私たちは、自分を正しいとする「義」にもとついてではなく、主イエス様の流された「血潮」にもとついて主のみまえに近づくのだからです。私たちは、自分の「義」にもとづいてはなにもできないのです。私たちは自分自身の名まえによってではなく、「イエスの名によって」近づくのです。私たちは、自分の持っているものにもとついてではなく、「主イエス様ご自身のものにもとついて」はじめて、まったく信頼して権威をもって祈ることがゆるされるのです。
つぎのことをぜひ覚えていただきたいと思います。「イエスの名、つまりイエス様の権威は、十字架と結びついている」ということです。ですから、私たちが自分自身を否定し、聖霊に支配していただけるように自分自身のすべてをあけわたすときにだけ、私たちはほんとうに主のみ名によって祈ることができ、奇蹟を体験することができるのです。
どうか主が、このことにたいして、私たちの心の目を開いてくださいますように。そして、どうか私たちが新しく自分の使命を知り、ほんとうに主の名によって祈ることができますように。そのためにまず、私たちが中途はんぱに妥協することなく、すべてを主にあけわたすことができますように。
最後に、はじめに見たヨハネの福音書の箇所をもういちど思いだしてみましょう。
「わたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14・13、14)
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15・7)
「わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15・16)
「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16・23、24)
「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。」(ヨハネ16・26)
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