イエス様の苦難と栄光
2017年10月29日、吉祥寺福音集会
西川 義方
ルカ
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
第一ペテロ
1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
1:11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。
皆さま、こんばんわ。本当に雨のなか、ご苦労様でございます。しばらくのあいだ、お付き合いをいただきたいと思います。
神の御子であられるイエス様が、この地上で受けられた苦しみは、肉体的にも精神的にも、他のどのような苦しみにも増して、厳しいものでありました。罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されなかったイエス様が、なぜそのような苦しみを受けなければならなかったのかということであります。
本日は、ただいま、お読みいただきました、二箇所の引用聖句を中心に、『イエス様の苦難と栄光』というテーマで、それぞれ見てまいりたいと思います。
さて、聖書は一貫して、イエス様の苦しみは、私たち人間を罪から救うために必要であったと述べております。そこでまず、本題に入る前に、救いについて、少し見ておきたいと思います。創世記、三章十五節、ここで主なる神は、次のようにおっしゃっております。
創世記
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
この十五節は、彼、すなわち、サタンに対する神の呪いが記されている箇所で、救い主に対する予言としては、極めて重要な箇所であるとされております。ここで、『彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく』とあります。これは最終的には、イエス様が蛇であるサタンを滅ぼされるわけですが、同時に、サタンはイエス様の十字架と復活によって打ち破られ、敗北することを意味しております。元々、この創世記三章は、人間の堕落、すなわち、アダムとエバの罪に対する責任が問われている箇所でありますが、同時に、私たち人間の罪に対する、神の救いが約束されている箇所でもあります。
もう一箇所、ヘブル人への手紙、二章十節を見ていただきたいと思います。
ヘブル
2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
ここに、『神が多くの子たちを栄光に導くために』とありますが、本来、神は御自身と交わりができるように、神の姿に似せて、私たち人間を創造されました。それは、神の栄光を反映して、私たち人間が輝くためでありました。ところが、神と人間のあいだに、ただ今、ふれましたように、罪が入り込み、栄光を反映することはできなくなってしまったのです。そこで、その罪を取り除くために、救いの創始者であるイエス様は、多くの苦しみを通して、人類をその罪から救うために、死んでくださったのです。
これまで見てまいりましたように、聖書でいう救いというのは、ある日、突然、誰かによって考えられた話ではなく、最初の人、アダムとエバが罪に陥った瞬間から、神によって、計画され、定められたということであります。
それでは、次に本日の引用聖句に戻っていただき、ルカの福音書、二十四章の二十五節を見ていただきたいと思います。この箇所は復活されたイエス様が、エマオへの途上で、二人の弟子に現れてくださったという、皆さまもよくご存知の出来事の一部であります。彼らは、復活されたイエス様が、ともに歩いてくださったのに、それがイエス様だということがわかりませんでした。それは、二人の目が遮られていたからだとあります。これまでの文脈を見ますと、この二人は、確かにイエス様に望みをかけ、イエス様に従おうとしていたことがうかがえます。
しかし、少し前の十九節から二十一節では、彼らは、イエス様を力ある預言者、また、イスラエルをあがなうお方と述べておりますことから、彼らはイエス様を、イスラエルをローマの圧政から解放してくださる偉大な預言者と、考えていたのではないでしょうか。つまり、彼らはイエス様が神の御子であり、イエス様の使命が、私たち人間を罪から救うことであるということは、信じておりませんでした。
それに彼らは、他の弟子たちから、イエスは生きておられるということを聞き、また、墓にはイエスの遺体がないということも聞いておりました。それでも彼らは、イエス様は死んで三日にもなる、エルサレムにいても仕方がない・・・・と考え、他の弟子たちから離れて、自分たちの村へ帰ろうとしていたのです。そのような二人にイエス様が現れてくださり、次のようにおっしゃったのです。
ルカ
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
イエス様は、復活の信仰を持たないまま、自分たちの村へ帰って行こうとする、二人の心を捕らえ、信仰に導いて、エルサレムの兄弟のもとへ連れ戻そうと二人に現れてくださったのです。
イエス様は、二十六節で、『キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか』とおっしゃいましたが、イエス様は、二人に聖書を解き明かされたとき、御自身の苦難と栄光については、主の生涯が予言されておりますイザヤ書を引用されたに違いありません。
そこで、イザヤ書、五十三章を見ていただきたいと思います。この箇所も、皆様にはよく引用される有名なところであります。
イザヤ
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
ここでイエス様は、キリストが十字架につけられ、私たちの罪のために、神の裁きを受けられた、その苦難の意味を教えられたことでありましょう。また、イエス様はキリストの栄光についても、説き明かされました。
イザヤ
53:10 彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。
十節には、『彼は末長く、子孫を見ることができ・・・・』とあります。また、十一節には、『彼は、激しい苦しみのあとを見て、満足する』とあります。つまり、イエス様は、ご自身の贖いの御業によって、救いに入るものの子孫が末永く続くことを、また、その苦しみは単なる苦しみに終わるものではなく、必ず苦難の後に、希望の光があることを確信しておりました。
それゆえ、彼は、『自分の苦しみを見て、満足する』のであります。イエス様は、聖書に示されているこの御言葉を示され、キリストが十字架の死という苦難から復活し、栄光を受けられ、そして、人々に復活の希望を与えられることを、この二人の弟子に、熱くお方になったものと思われます。
それでは、続いて、二番目の引用聖句、第一ペテロ、一章を中心に、イエス様の苦難と栄光について見てまいりたいと思います。この手紙は、使徒ペテロから、イエス様を信じ、イエス様に従う生活を送っていたために、様々な迫害を受けていた、小アジアのキリスト者たちを励ますために書かれたものであります。ペトロは、この少し前で次のように語っております。
第一ペテロ
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
こうありますように、彼らは激しい迫害の中にあっても、彼らが魂の救い得ていたために、大いに喜んでいたのです。ペテロは続いて、彼らが得ている救いがどのようにすばらしく、特権に満ちたものであるかを、本日の引用聖句の中で語っております。
第一ペテロ
1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。
1:11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。
1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。
この箇所は、じっくり読まないとなかなか理解に苦しむところでありますが、要は本日のテーマを含めて、三つの点について語られていると思います。
まずひとつは、十節の『この救い』とは何を意味しているのかということであります。結論から申しますと、この救いとは、先ほど八節でペテロが語った、小アジアのキリスト者たちが経験している、イエス・キリストによる救いのことでありますが、ペテロはこの救いについての知らせが、それまでの時代の人々にとって、どれほど関心の的であったのかということを語っております。神は、ずっと以前から、旧約時代の預言者を通して、キリストによる救いを啓示してきましたが、彼らはそれがいつ、誰によって、どのように起こるのかわからずに、熱心に尋ね、細かく調べていたということであります。
つまり、預言者たちは、自分たちが預言したこの救いについて、どれほど知りたがっていたかということが分かると思います。
次に、二つ目は、預言者たちが御霊によって、前もって証しされたというメッセージの内容は何かということです。十一節には、『キリストの苦難とそれに続く栄光』とありますが、これによりますと、やがて現れる救い主は、必ず苦しみを受けなければならないということです。神が遣わされる救い主が、なぜ苦しまなければならないのか、それは、彼ら、すなわち、預言者たちにとっても、理解できないことでありました。事実、イエス様ご自身が弟子たちにご自分の苦難と栄光を予告されたとき、ペテロが最初に取った行動は、ご承知のように、イエス様を引き寄せて、おいさめすることでありました。それほどに、この予言は予想外で衝撃的な内容であったのであります。
それにもかかわらず、そのことをあらかじめ語るようにと啓示を受けた預言者たちは、御霊に示されるままに語りました。そして、彼らは非常に関心を持って、それが誰を指し、また、どのような時を指して言われたのかを調べたのであります。
けれども、それを語った預言者たちにとっては、十二節にありますように、それは、自分たちの時代には実現しない預言だったということでありました。しかし、それでは預言者たちは、天から遣わされた聖霊に導かれて、後世のためにその預言を書き記したのであります。
そして、三つめは、十二節の最後の部分にあります、『御使いたちもはっきり見たいと願っていること』とはどういう意味かということです。
ペテロの言葉によりますと、その啓示の実現は、いつも神のすぐそばで仕えている御使いたちでさえも、はっきり見て確かめたいと願うほどの出来事であったのです。なぜならば、御使いたちにとっても、苦難とそれに続く栄光と言う御業は、非常に神秘的でありました。彼らは、かつて、栄光の神であるイエス様が、御自分を低くし、貧しい人となられて、ベツレヘムの飼い葉桶で誕生されたとき、多くの天の軍勢とともに夜空に現れて、賛美いたしました。つまり、救い主の誕生は、彼らにとっても驚くべき神の御業であったのです。
そして、その救い主、イエス様は、苦難の道を最後まで歩まれ、ついには復活されたのであります。それゆえに、罪のために、神から切り離され、霊的に死んでいた私たちは、イエス様に結び合わされ、永遠のいのちを与えられ、救いの道を歩むことが約束されているのであります。
小アジアのキリスト者たちも、当時、たいへんな苦しみの中にありましたが、やがてはイエス様と同じように、栄光へと導かれるのであります。これは、何とすばらしい贖いの御業であり、特権に満ちたものではないでしょうか。
これまで、イエス様の苦難と栄光というテーマで、聖書を見てまいりました。イエス様は御自身の苦難と栄光のために建てられた御父の御計画を、自ら進んで歩まれたわけでありますが、最後に、御父の御計画を達成されるために、イエス様が歩まれた苦難と栄光の目的とは何であったのかを、次の二箇所の御言葉から、考えて終わりたいと思います。
第一ペテロ
3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、・・・・私たちを神のみもとに導くためでした。
詩篇の四十篇、十六節には、『あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように』とあります。神の御許というのは、そのような楽しみ、喜ぶところであります。つまり、イエス様は、私たちを永遠に楽しみと喜びに満ちた方である神のみもとに導くために死なれ、そして、よみがえられたということであります。
ヨハネ
13:31 ・・・・今こそ人の子は栄光を受けました。また、神は人の子によって栄光をお受けになりました。
人の子が栄光を受けるということは、神が御子をよみがえらせ、御自身の右の座に着座させることであります。一方、神が人の子によって栄光をお受けになるということは、もともと、罪を犯した私たち人間は、本来ならば、神ご自身の義の故に罰せられ、滅ぼされる運命にありました。しかし、イエス様が、ご自身の十字架による私たちの罪の贖いのゆえに、神にとりなしてくださり、私たち人間を滅びから救い出してくださいました。
神にとって、御自身の義と、人間を創造された深い愛との狭間にあって、この重大な問題を解決されたのは、御父を愛しておられる御子、イエス様でありました。イエス様は、ご自分の死をもって、神に栄光を帰するために、この問題を解決されたのであります。そして、それを成し得るのは、イエス様しか、他におられなかったのであります。
ただいま、拝読いたしました二箇所のみことばから、神の御許に導かれる私たちの喜びと、イエス様の十字架によって、私たちを救われる神の栄光とは、実は、その意味するところはひとつであります。それは、私たちを愛してやまない神が、私たちと共に天の御国において、永遠に過ごされることを熱望しておられるということではないでしょうか。それこそが、イエス様の比類なき苦難と栄光の意味するところであると思うのであります。
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