五千人の給食
2017年10月15日、御代田福音集会
古田 公人
ヨハネ
6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
6:2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
6:4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。
イエス様は5000人の人に、あふれるばかりにパンをお与えになりました。このことは、いったい、何を意味するのでしょうか?今日はご一緒に、このことについて、考えたいと思います。
このイエス様がパンを与えなさったことは、6章の一番、最後にあるように、『人々は、イエスのなさったしるしを見て、まことに、この方こそ』云々とあります。ですから、しるしだったことであります。ですから、このなさった御業の奥に、主の御心があるということを、私たちは知らなければならないのではないかと思います。今日は、それを二つの点から、考えてみたいと思います。まず、どういう人がそこにいたのか、そして、二つ目はイエス様が何をしたのかというこのことであります。
まず、どういう人たちがそこにいたのかということですけど、イエス様の他には、弟子たちと、群衆と、そして、群衆の中のひとりの少年とがいました。
弟子たちというのは、この場合は働き人でした。イエス様は、ピリポに、「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか」と、おっしゃいました。ピリポは、「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」と答えました。おかしいですよね。イエス様は、どこでパンを見つけるかということをおっしゃったのに、ピリポは、お金の問題として受け止めました。そして、もう一人の弟子、アンデレは、また、おもしろいことを言ったのです。「少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っていますけど、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」最初から、それではだめだと、結論を出していました。
結局、二人とも目に見えるものだけで、それだけを見て、理性で判断しています。そして、この二人というよりも、多分、弟子たち全員だったと思うんですけど、しるしに対する霊的な備えを持っていなかったということを、私たちは知らされます。ですから、彼らは、補助的にしか用いられませんでした。人々を座らせたり、余ったパンを集めてみたり・・・。本当はイエス様は、もっと用いたかったと思います。どういうかたちで、用いようとなさったかは分かりませんけど、もっともっと用いようとしたかった。でも、弟子たちはまだ、その器ではなかったということが分かります。そして、これは現代の神学者や牧師の多くを表しているのだと思います。
つぎは、群衆ですけど、群衆はきっと、生まれも育ちも、人生経験も、様々な人たちだったに違いありません。でも、イエス様にあって、彼らはひとつになって、草の上に座って、イエスさまの手から与えられるパンを食べました。でも、残念なことに、ほとんどの人はパンを食べて、満腹しただけでした。それは、ここに書かれています。
ヨハネ
6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」
この大勢の人たちも、霊的に受け止めようとはしませんでいた。ですから、この人たちは、現代の教会と礼拝者を表しているのではないでしょうか。
そして、最後は少年です。彼は、五つのパンと二匹の魚では何に役にも立たないとは、考えませんでした。ただイエス様に用いていただきたい、イエス様に栄光を現していただきたいという思いで、自分が持っているものの全てを差し出しました。そして、実際のところ、イエス様にとっては、パンが多いか、少ないかは問題ではありませんでした。差し出されたものを用いて、あふれるばかりに祝福をお与えになりました。この少年のような人は、決して、多くはないのではないかと思いますけど、しかし、このような人たちによって、教会のいのちが保たれてきたのではないかと思います。彼は誰だったのか、名前さえ、残されていません。自分が目立ちたいなどとは、まったく思わなかったということが分かります。きっと、すぐに、群衆の中に紛れてしまって、誰だか分からなくなっていたのではないでしょうか。
そして、次はイエス様が、この給食を通して、何を知らせようとなさったかについて、考えてまいりたいと思います。まず、イエス様は、イエス様ご自身の、そして、それもこのヨハネの6章を通してお語りになったみことばから、そのことを考えていきたいと思います。なぜなら、ヨハネの6章はこの5000人の給食をもとに、はなしがずっと続いているからなのです。まず、イエス様はパンを与えることによって、ご自身を明らかになさいました。
ヨハネ
6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
6:46 だれも神を見た者はありません。ただ神から出た者、すなわち、この者だけが、父を見たのです。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
イエス様は、このようにおっしゃいました。イエス様がなさったことは、人にはできないことでした。イエス様は、この御業によって、『私は天から下ってきた』ということを明らかになさったと、言うことが分かります。
2番目にイエス様が明らかになさったことは、イエス様は、人が生きていく上でなくてはならないものを与えてくださるということを、明らかになさいました。
ヨハネ
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
6:48 「わたしはいのちのパンです。」
6:50 「しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:58 「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
イエス様は、『私は天から下ってきたパンだ』と、おっしゃいました。意味は、人が生きていく上で、なくてはならないものだ、それを私は与えるということをおっしゃったのでした。そして、それこそ、罪の許しであり、主なる神との交わりです。大切なことは、イエス様からいただくいのちのパンをいただくために、イエス様のところへ行くことです。そうすれば、罪が許され、主なる神との和解に与かります。
3つ目に、イエス様がしるしとして明らかになさったことは、御自身が永遠のいのちを与えてくださるということを、明らかになさいました。
ヨハネ
6:39 「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」
6:47 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。」
6:54 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」
6:58 「これは、天から下ってきたパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
先ほど、申しましたように、『生きていく上で、人間が生きものとして生きていく上で、なくてはならないものがパンであるように、人として、神様が愛の対象として、また、交わりを持つものとして、お造りくださった人として、生きていく上で、どうしても、なくてはならないものは私だ』ということをお語りくださいました。そして、私とパンを食べる者、私と交わりを持つものは、永遠のいのちを持つと、お語りくださいました。イエス様を信じる者は、イエス様のいのち、すなわち、永遠のいのちに与かります。そして、永遠のいのちを持つなら。もちろん、それは、この地上で永遠に生き続けることではなくて、それだったらかえって地獄ですけど、永遠のいのちを持つなら、地上の人生は死で終わるだけのものではない、霊とたましいが、天に引き上げられるための、地上の人生であって、永遠のいのちを持つ者にとって、死ぬことは、霊とたましいが、天に引き上げられることであり、生活の場と生活のありようが変わるにすぎないということであります。
だから、現実がどうあろうとも、いつも喜びと希望をもって生きることができます。これは、確かなことであります。多くの信仰の先輩たちが、それを皆、自分のものとして、本当に希望をもって、地上の生涯を終えて行ったからであります。
そして、4つ目には、今の永遠のいのちとほとんど、一組で、セットなんですけど、体のよみがえりを与えてくださるということを明らかになさいました。さっきもお読みしたところです。
ヨハネ
6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。
6:44 わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
永遠のいのちを持つものは、地上の生涯が終わる時に、その霊とたましいは、天のイエス様のみもとに引き上げられます。体は地上に残り、そして、多くの部分は朽ち果てていきますけど、イエス様が再び来られるとき、その体の残ったところから新しい体がよみがえります。それは、イエス様が天に昇られた時と同じように、朽ちない栄光の体でお出でになる、そのイエス様と同じかたちに変えられると、みことばは約束しています。
第1ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。
もちろん、既に召された者も、生き残っているものも、そして、召されたものはよみがえりの体として、イエス様に似た者、栄光の体、朽ちない体に変えられていくということが約束されています。
イエス様が5000人の人たちにパンをお与えになった時、全ての人がパンを食べて満足しただけではありませんでした。
ヨハネ
6:14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。
イエス様がなさることは、人間にはできるはずはないと、多くの人たちは考えました。受け止めました。でも、その後がよくなかったのです。
ヨハネ
6:15 そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。
世に来られるはずの預言者だと受け止めながらも、人々はイエス様を自分たちのために利用しようと考えたのです。だから、王にして、自分たちの望み通りに政治をしてもらおうと考えました。でも、それは、もちろん、イエス様の御心ではありませんでした。イエス様がおっしゃったように、仕えられるためではなく、仕えるためであり、かえって贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのですと、おっしゃっているように、イエス様は十字架にかかって罪を許し、罪から人々をあがなうために来てくださいましたから、エルサレムに行って、宮殿に住んで、王となって、人々に仕えさせるということは、まったく、イエスさまのお考えになることではありませんでした。
結局のところ、世に来られた預言者だと言いながらも、彼らはそのしるしを間違った意味に受け止めてしまったのであります。その預言者だと認めながらも、王にしようとした人たちと、イエス様に従って行こうと思った人たちの間には、最初は、ほんのわずかの違いしかなかったと思います。でも、イエス様を自分たちの思うままに使おう、王にしようと思った人たちは、結局、イエス様から離れて行ったに違いありません。ただ、イエス様が与えてくださったパンを、感謝を持って受け止めて、イエス様を見上げた人たちだけが、本当のイエス様が与えてくださる救いを手にしたと思わされるのであります。
マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
これこそが、イエス様の呼びかけです。来なさい、来なさいと、呼びかけておられます。
イザヤ
45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。
主を見上げることは、その気になれば誰にでもできます。目が見えなくても、心でできます。イエス様は、五つのパンと二匹の魚で、5000人に分け与えなさった時、そこにいる人たちが、イエス様は人にできないことができる預言者だと思っただけではなくて、見上げることを、お求めになりました。そうすればこの人たちは皆、救われたからであります。でも、多くの人はどうもそうではなかったようであります。イエス様は、とても残念だったのではないかと思います。そして、イエス様が、『私は天から来た』とか、『私はいのちのパンだ』とか、『永遠のいのちを与える』とか、『体のよみがえりをもたらす』とかと、おっしゃったことは、必ずしも、パンを食べる時に、彼らは知る必要はありませんでした。パンを食べて、イエス様について行きさえすれば、イエス様を見上げて、イエス様について行きさえすれば、彼らはやがて皆、体験的に知ることができることであったからであります。
みことばをいくつか読んで終わりたいと思います。
ヨハネ
6:28 すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」
6:29 イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」
難しいことではありませんでした。見上げることと同じように、3歳の子供にもできることであり、本当にもう、体が動かなくなって、ベッドで寝ているだけの人にも、できることなのです。神が遣わされたものを信じること、イエス様を信じること、救い主と信じること、贖い主と信じること、主と信じること、それだけであります。
ヨハネ
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」
これこそ、いのちのパンを食べた者の姿であります。決して、飢えることがなく、決して、乾くことがありません。
ヨハネ
6:56 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。」
何度もお語りになったようにイエス様は、聖書を勉強しなさいとか、教会に行きなさいとか、献金をしなさいとか、修行をしなさいとか、そんなことは何もおっしゃいませんでした。ただ、私を知りなさい、私を見上げて、私を知りなさいと、おっしゃっています。
ヨハネ
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。
イエス様のところに行って、イエス様を見上げたいと思います。そうすれば、罪の赦しと永遠のいのちが与えられ、過去からも、良心の呵責からも、自分からも、解放されます。よろこびと希望をもって、限られたこの地上の人生を歩み通したいと思うものであります。どうも、ありがとうございました。
終わり
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