偶像、偶像礼拝について
2017年10月28日、近江八幡よろこびの集い
松本 泰秀
富山集会に集っております松本泰秀(やすよし)と申します。よろしく、お願いいたします。本日は、偶像とか、偶像礼拝について、一緒に学んでみたいと思います。
私は長野県の辺鄙(へんぴ)なところで、曹洞宗の寺の次男として生まれました。小学校三年生くらいから、父に連れられて、兄と、後には、弟も一緒に、兄弟三人で、檀家の葬儀や法事に行き、お布施をもらっておりました。当時の葬儀と言うのは、三時間に及ぶほど長く、たいへんで、山あいにある離れた部落に歩いて出かけて行きましたから、一晩泊りは普通でありました。当然、学校に行っておりましたので、朝一、二時限の授業を終えてから、早退して、午後からの葬儀に間に合わせましたし、翌日は、また、一、二時間、遅れて学校に行ったものでした。午前の葬儀の場合は、前日から泊まり込みのこともありました。当時、学校は一日のうち、一時限でも出席していれば、休みとはならず、皆勤賞をいただくことができました。高校に入ってからは、土日とか、休みのときしか手伝いには行けなくなりましたけれども、その葬儀のことについて、少しお話をしてみたいと思います。
曹洞宗で葬儀に使う、三本の掛け軸や、法要に用いられます十三仏の絵が書いてある掛け軸があります。十三仏と言うと、まさに、イエス様と十二弟子だと、私には、思わされます。掛け軸は、桐の箱に収められ、葬儀に着る衣装や袈裟などを竹行李に入れた上、木箱に入れて、また、曹洞宗の場合には、多くの鳴り物を用いるということがありますので、それらも、別の木箱に入れて、迎えに来られた、檀家から派遣された二人以上の方に背負ってもらい、その家まで運んでいたものであります。
床の間の大きな家や、寺での格の高い家では、この三尊掛け軸、ひとつは釈迦、二つ目は永平寺の開祖、三つ目は總持寺(そうじじ)の開祖、これが表されたものであります。これを、床の間に掛けるわけであります。床の間の狭い家や、格の低い家には、三尊をひとつの絵にした掛け軸を掛けて、その前に祭壇を組みまして、それに向かって、お経を読み、三拝、九拝するのであります。亡くなられた方の遺体は、隣の部屋の仏壇の前に納棺されて置かれ、その前に、机を置き、供物(くもつ)だとか、ご飯、霊前等を備えまして、香が焚かれ、ろうそくに火がともされています。葬儀の段階に従って、床の間の前、仏壇の前での読経など、また、送り出すときには、どんなに寒くても、戸を開け払いまして、床の間の反対側に祭壇を作り、引導を渡したり、出棺の経を上げておりました。
この時は、三尊に背を向けて、位牌や遺体のほうを主としているわけであります。現在、こういった葬儀というものは、時代が変わりまして、まったく形態が変わって来ていると思います。葬儀の時間も、せいぜい三十分かそこらで終わるというのが普通だと思います。
寺には、多くの仏像や偶像があり、礼拝の対象でありました。こうした偶像の取り扱いは、私にとっては当たり前のことでした。疑問を感じること無く、していたのであります。それが、こうしてイエス様に出会い、信じたことにより、これらのことが虚しいもの、頼りにならないことと変えられたのであります。
前置きが長くなりましたが、聖書には、人間が偶像としているものに七つの種類があるとしてあります。先ず一番目はこっけいなものであり、ばかげたものであり、頼りにならないものです。二番目は、神が人間のために備えてくださったものですよ・・・ということですね。それから、三番目は、もともと持っていた価値が低められたものである。四番目は、悪霊が働いているものである。それから、五番目は、汚れたものである。六番目には、人を奴隷としてしまうものである。それから、七番目は、忌み嫌うべきものであるということであります。これからは、聖書を主体として読んでいきたいと思いますので、聖書の方をよろしくお願いいたします。
まず最初に、一番目、滑稽(こっけい)なものであり、ばかげたものであり、頼りにならないものということであります。
イザヤ
44:9 偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。
44:10 だれが、いったい、何の役にも立たない神を造り、偶像を鋳たのだろうか。
44:11 見よ。その信徒たちはみな、恥を見る。それを細工した者が人間にすぎないからだ。彼らはみな集まり、立つがよい。彼らはおののいて共に恥を見る。
44:12 鉄で細工する者はなたを使い、炭火の上で細工し、金槌でこれを形造り、力ある腕でそれを造る。彼も腹がすくと力がなくなり、水を飲まないと疲れてしまう。
44:13 木で細工する者は、測りなわで測り、朱で輪郭をとり、かんなで削り、コンパスで線を引き、人の形に造り、人間の美しい姿に仕上げて、神殿に安置する。
44:14 彼は杉の木を切り、あるいはうばめがしや樫の木を選んで、林の木の中で自分のために育てる。また、月桂樹を植えると、大雨が育てる。
44:15 それは人間のたきぎになり、人はそのいくらかを取って暖まり、また、これを燃やしてパンを焼く。また、これで神を造って拝み、それを偶像に仕立てて、これにひれ伏す。
44:16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
44:17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。
44:18 彼らは知りもせず、悟りもしない。彼らの目は固くふさがって見ることもできず、彼らの心もふさがって悟ることもできない。
44:19 彼らは考えてもみず、知識も英知もないので、『私は、その半分を火に燃やし、その炭火でパンを焼き、肉をあぶって食べた。その残りで忌みきらうべき物を造り、木の切れ端の前にひれ伏すのだろうか。』とさえ言わない。
44:20 灰にあこがれる者の心は欺かれ、惑わされて、自分を救い出すことができず、『私の右の手には偽りがないのだろうか。』とさえ言わない。
偶像を作った材料の後始末で、材木や切りくずは燃やされてしまうか、他の目的に使われますし、金属では、鋳造後の残り湯やかなかす、また、仕上げの屑は、いろいろな目的に利用されていると思われます。もともと、材料である金や銀や銅は、亡くなった人の形見(かたみ)であったり、家の装飾品であったり、首飾りや指輪であったものが集められ、溶炉で融かして作るのが大半であります。そこには、偶像を作るのに関わった人々の強い思いが込められており、なんと虚しいというか、汚れたものというように思われてきます。
先ほど、掛け軸のお話をいたしましたけど、掛け軸などには絵師が描いた仏画や、学問の神様、菅原道真とか、いろいろあります。さらに、書道家にいたりますと、書道家が書いた七字名号ですね。つまり、『南無阿弥陀仏』、『南無妙法蓮華経』、『南無釈迦牟尼仏』、『南無観世音菩薩』などがあります。装飾をほどこされて、通信販売でも売られているものであります。装飾の裏面、絵の裏側は糊で紙に付けられております。これらを描いた絵の具や筆、そして、糊は、いつもどのように保管されているのでありましょうか。ちょっと考えてみれば、そこに、価値を見出せないものばかりであります。人間が神様の位(くらい)にまで持ち上げられているということも、聖書の記述から見ても、非常に滑稽なことであります。
二番目になりますが、神が人間のために、備えてくださったものであるということです。
申命記
4:15 あなたがたは十分に気をつけなさい。主がホレブで火の中からあなたがたに話しかけられた日に、あなたがたは何の姿も見なかったからである。
4:16 堕落して、自分たちのために、どんな形の彫像をも造らないようにしなさい。男の形も女の形も。
4:17 地上のどんな家畜の形も、空を飛ぶどんな鳥の形も、
4:18 地をはうどんなものの形も、地の下の水の中にいるどんな魚の形も。
4:19 また、天に目を上げて、日、月、星の天の万象を見るとき、魅せられてそれらを拝み、それらに仕えないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が全天下の国々の民に分け与えられたものである。
神様が、私たちのために備えてくださったものであり、偶像として拝んではなりませんと、おっしゃっておられるのであります。
それから、三番目には、価値を低められたものであるということです。
ローマ
1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
四番目は、悪霊的なものと言うことであります。聖書から見てみたいと思います。
第一コリント
10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
10:21 あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。
サタンが偶像の中に住み込み、人間を神に背くものとして位置づけようとしておるということであります。
五番目は、汚れたものであるということです。
第二コリント
6:15 キリストとベリアル(・・・『ベリアル』と言うのはヘブル語でサタンを指します・・・)とに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。
6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。・・・
つまり、神が、私たちの心の中に住んでおられるわけであります。
6:16 ・・・神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」
汚れたものであるということであります。
六番目は、人を奴隷とするものであるということでございます。
ガラテヤ
4:8 しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは本来は神でない神々の奴隷でした。
4:9 ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
こう警告をされております。
最後に、忌むべきものとして、聖書は語っておられます。聖書の最後の方になります。
第一ペテロ
4:3 あなたがたは、異邦人たちがしたいと思っていることを行ない、好色、情欲、酔酒、遊興、宴会騒ぎ、忌むべき偶像礼拝などにふけったものですが、それは過ぎ去った時で、もう十分です。
実際には、偶像はいろいろなかたちで私たちの前に現れてまいります。
ここで、はっきりしていることは、イエス様以上に大切にしているもの、それが偶像と言うことであります。神のことばを聞き、それに従うことが礼拝であります。私たちは、神のことばを聞くと言うことができなくなっています。それどころか、神のことばを聞くと言うことの意味さえ分からなくっているのであります。私たちは、神以外のものに、聞き従うということを、長いあいだ、教育や社会通念を通して続けてまいりました。それも、私たちにとって、偶像礼拝と言えるのではないでしょうか。
現代人が行っている偶像崇拝は、科学崇拝、エゴ崇拝、また、理性崇拝、宗教を崇拝する、また、哲学といった考え方を崇拝するなど、いろんな崇拝するという言葉があると思います。これらすべてに共通するものは何でありましょうか?私たち自身が、心の中に持つ観念であります。
人間は、神の声を聴く代わりに、自分の考えに従い、自分の心の中の観念に従うようになりました。そのことで、人間は神の手を放してしまい、頼るべきものがすり替わってしまったのであります。
ここからまた、聖書に戻りまして、聖書は、私たちに、これらの偶像に対して、警告を与えております。これも六項目、ございまして、付き合ってはいけない、偶像とは付き合ってはいけない、偶像を避けなさい。それから、悪霊と交わってはならない、偶像には警戒しなさい。それから、偶像に対して、反対の証しをしなさい。それから、神に立ち返るということであります。これら、六つのことについて聖書から、学んでみたいと思います。
まず、一番目、付き合ってはいけないということは、コリント人への手紙、第一にございます。
第一コリント
5:11 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
偶像を礼拝する者、とくに―― こういう集会の中には、偶像を礼拝しながら出てくる方はいないと思いますけど―― まだ、未信者の方ですと、そう言うこともあるかと思います。
二番目は、避ける、偶像を避けるということですね。これは、同じく第一コリントのちょっと後になりますが、いろいろと語られた後に短く書いてあります。
第一コリント
10:14 ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。
それから、三番目には、悪霊と交わってはなりません・・・と書いてあります。
第一コリント
10:19 私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。
10:20 いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。
それから、四番目、偶像には警戒しなさいということ。
第一ヨハネ
5:19 私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。
5:20 しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。
5:21 子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。
あと二つありまして、五番目には、反対の証しをしなさいと書かれております。
使徒行伝
14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。」
要するに、証しをしている者だということであります。
六番目には、神に立ち返りなさい。これは、第一テサロニケの一章に、『神に立ち返る』ということで、このように書かれております。
第一テサロニケ
1:9 私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、
1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。
ベック兄弟は、『神の聖なる戒め』、『主は生きておられる』、第五巻の中で十戒の第二の戒め、『あなたは自分のために偶像を作ってはならない』のところで次のように書いておられました。『主なる神は目に見えず、私たちの感覚でさわることができず、私たちの魂で理解することのできないお方です。ただ、聖霊によって主に生かされた人間の霊にだけ、ご自身を明らかにすることがおできになり、そうしたいと願っておられます』とありました。したがって、神様は、私たちの信じる方は、かたちとして表すことのできない方であるということであります。したがって、偶像はあり得ないということになります。
最後に、聖書のみ言葉を二箇所、お読みしてしめくくりたいと思います。
エゼキエル
36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行なわせる。
このように、本当にありがたいみ言葉がここに書かれてあります。
ヘブル
10:22 そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
偶像とともにある宗教、像に限らず、人間を祭るのも宗教であります。そういった宗教、それから、古いもの、慣習、とくに近所付き合いの中にお祭りなどもあると思いますけど、そういった慣習などを持ちながら、イエス様を同時に持ち合わせるということは、主はお許しにはならないと思います。必ず、その人の破局が訪れるからであります。したがって、古いもの、全てを捨てて、新しくなった個人の器にイエス様が入っていただく以外にはないのであります。
どうも、ありがとうございました。
終わり
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