2022年5月27日金曜日

すぐに起こるはずのこと【第1部】1.イエス・キリストの黙示

第1部

1.イエス・キリストの黙示

1.黙示録の概略
1著者
2書かれた時代
3受けとり手
4特徴
5解釈の方法
6目的
7内容
2.十の賛美の歌

この本で、ヨハネの黙示録を皆さまとごいっしょに学んでいきたいと思います。しかし、この学びは、決して私たちの好奇心を満足させるためではありません。また、記された預言によって将来を占うためでもありません。もちろん、いくつかの預言や未来について記されていることがらは、知る価値が十分にあるでしょう。しかし、これらをあまり強調しすぎると私たちは律法的になったり、自分の努力や力に頼るようになり、それは大変危険なことです。大切なのは、まず何よりもイエス様ご自身であり、次に私たちのうちにおられるイエス様であり、そして、同じ信仰を持つ者同士、兄弟姉妹のうちにおられるイエス様です。

ヨハネがまず最初に見たのは、来るべき将来のことではなく、イエス様ご自身でした。イエス様の啓示によって、ヨハネはちりの中に倒れ伏してしまいました。私たちもまた、このような経験をしなければなりません。このような啓示を受けてはじめて、私たちはイエス様のために戦う者となることができるのです。イエス様を仰ぎ見て、戦いのための備えをすることができるのです。イエス様こそが、私たちのすべての問題の解決ですから、私たちはまず何よりもイエス様についてはっきりと知らなければなりません。そうしてはじめて、将来のこともはっきりと見ることができるようになります。イエス様は復活なさったお方であり、勝利を得られた王の王です。ですから、これから起こる将来のすべてのことは、イエス様が主であられることの結果です。

この黙示録が書かれた目的は、まず何よりもイエス様の偉大さを証しすることです。ですから、黙示録の中にでてくる七つの封印や七つのラッパ、七つの災害などについてあれこれと議論するよりも、イエス様の偉大さをはっきりと知ることの方がはるかに大切です。

福音書の中で、私たちは救い主としてのイエス様を知りましたが、黙示録では、王の王、主としてのイエス様を知るようになります。

福音書では、イエス様の愛を知りましたが、黙示録では、イエス様の真の偉大さを知るようになります。

福音書では、イエス様の優しい眼差しに出会ってペテロは泣きました。しかし、黙示録では、ヨハネはイエス様の燃える炎のような目に出会って、死人のようになったのです。

福音書で、ご自分の群れをお呼びになったイエス様は、黙示録では、剣のように恐ろしい声でお語りになります。

福音書では、イエス様は小羊であり救い主と呼ばれましたが、黙示録では、イエス様は王の王であり、裁き主と呼ばれます。

黙示録は、イエス様の「大いなる戦い」を伝えています。イエス様の支配に対して反抗するものに、イエス様の戦いが宣告されているのです。黙示録の目的は、天のみ座におられて全てを支配なさるイエス様を証しすることです。

ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。(第一ペテロ1・3)

このみことばの意味は、「イエス・キリストの現われがこの世における唯一の望みであることを真剣に受けとめなさい」ということです。黙示録は、復活され、天に引き上げられた「イエス様の啓示」です。イエス様は世界の支配権を持っておられます。黙示録が書かれたのは、私たちがこのようなイエス様に目を向けるためです。ヨハネはイエス様の足元にひれ伏しました。私たちもまたこのような態度をとらなければなりません。このような態度をとるとき、私たちはイエス様をよりよく知ることができ、そのことによって自分の内側が変えられていくのを体験するのです。このようにして私たちは、兄弟姉妹としてのより親しい交わりを持つことができ、イエス様の再臨に対しての備えができるのです。

ダマスコへの途上で、パウロにイエス様が「現われ」られたとき、それは彼にとって「啓示」そのものでした。

私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。(ガラテヤ1・2)

この「啓示」を知らない人、つまり、みことばによってイエス・キリストが主であることを知らされたのでない人々は、主イエス様を本当の意味で知っているとは言えないでしょう。ではこれから、黙示録について七つの点から考えてみましょう。

1.黙示録の概略


[1]著者


まず最初に、黙示録の著者について考えてみましょう。

イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。(黙示1・1)

ヨハネから、アジヤにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後にこられる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から。(黙示1・4)

私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。(黙示1・9)

これらのことを聞き、また見たのは私ヨハネである。私が聞き、また見たとき、それらのことを示してくれた御使いの足もとに、ひれ伏して拝もうとした。(黙示22・8)

黙示録の著者は、いつも自分のことを「私ヨハネ」と名乗っています。このヨハネがイエス様の弟子であり、使徒ヨハネであったことは疑いありません。その当時、ヨハネという名前の人はほかにもいたのですが、パトモスという島に流されていたのはこのヨハネだけでした。古代教会の言い伝えによれば、この事実について疑いを持つ人は一人もいませんでした。

また二世紀の初め頃には、黙示録ほど熱心に読まれた書物はなかったと言われています。これもまた、黙示録の著者が弟子のヨハネだったもう一つの証明になると思います。もし著者がヨハネでなければ、それほど熱心に読まれることはなかったでしょう。

テルトゥリアンという教父の伝えるところによれば、ローマ皇帝ドミティアンはヨハネを尋問し、棒でたたき、煮立った油で痛め、パトモスへ流刑にしたということです。ヨハネは黙示録7章において、七つの山に建てられた都について語っていますが、これはローマのことです。ヨハネはこの七つの山の富について語り、また、ここで多くの血が流されたことについて語っています。ヨハネは将来のできごとについて語っていますが、その背後には彼自身がその当時、受けていた苦しい迫害があったのです。

[2]書かれた時代


二番目に、黙示録が書かれた時代について考えてみたいと思います。この黙示録が書かれたのは、紀元九十五年でした。皇帝ドミティアンは紀元八十一年から九十六年までローマ皇帝として君臨していました。黙示録の2、3章の記述から、それまでにもすでに迫害がくわえられ、殉教者がでていたことがわかります。ヨハネは、まもなくイエス・キリストを信じる人々に対する大迫害が起ころうとしていることを知っていました。すでに、主を信じる信仰者とローマ帝国との衝突が始まっていたのです。キリストを信仰することと、皇帝をあがめることとは両立しなかったのです。特に3章において、私たちは皇帝崇拝に対する戦いがあったことを知ることができます。これより以前、皇帝ネロ(紀元五十四~六十八年)もクリスチャンを迫害しましたが、それはローマ帝国内だけに限られた、地域的な迫害でした。それに、ネロが迫害した理由は、クリスチャンたちが彼を崇拝しなかったからではありませんでした。初めて皇帝崇拝をクリスチャンたちにも要求したのは、ドミティアンの時代からです。黙示録の中で取り扱われている一つの大きな問題は、「崇拝を受けるべきお方は誰か」、「礼拝を受けるべきお方は誰か」ということです。黙示録の中で、「崇拝」という言葉は二十四回でてきます。この対象が、獣、すなわち、悪魔であるのか、それとも小羊、つまり、イエス様であるのかが問題なのです。ドミティアンは自分に対する崇拝を強要した最初の皇帝でした。このことから、ヨハネはまったく新しい時代が近づきつつあるのを見てとったのです。そこで、ヨハネは当時のクリスチャンたちにそのための備えをさせようとしたのです。

[3]受けとり手


第三に黙示録の受けとり手について考えてみましょう。小アジアにある七つの教会が、まず最初の受けとり手でした。ヨハネは自分の最後の奉仕をこれらの七つの教会のために捧げたのです。「七」という数字はいつも完全をあらわす数字です。したがって私たちは、黙示録が当時の七つの教会にあてられただけでなく、あらゆる時代のあらゆる国の教会にあてられていることを知ります。七つの教会は、全教会史を通して出てくるあらゆる教会を代表しています。七つの教会はほとんど似通ったところに建てられていて、たとえば、ラオデキヤの教会とペルガモの教会とは二二五キロメートルしか離れていませんでした。しかもこの地方は当時の文化の中心であり、また、商業とあらゆる宗教の中心地でもありました。ペルガモ、エペソ、スミルナの町々は、ローマ皇帝のために神殿を建設する特権を与えられていました。エペソは、たちまちにしてローマ皇帝に忠実な町となり、神殿の守護者となったのです。

パウロは三年間、エペソで働きました。エペソは異邦人の町であったばかりでなく、キリスト者が大勢いる町でもありました。エペソにおけるキリスト者の数が次第に増加したので、エペソにある異邦人の神殿はだんだん荒れ廃れてしまったと伝えられています。

その当時、エペソにいたキリスト者にとっての危険は、異邦人の敵対的態度からくるものではなく、逆に人々の寛容な態度からくるものでした。人々はキリスト者に対して非常に寛容な態度をとりましたが、また同時にキリスト者からも寛容な態度を期待したのです。しかし、ここに危険がありました。「妥協」という危険です。従って、黙示録は偽使徒について(黙示2・2)、偽ユダヤ人について(黙示2・9、3・9)、偽預言者について(黙示2・20)、見せかけの生活について(黙示3・1)、うわべだけの豊かさについて(黙示3.7)、警告しているのです。教会は、その周辺の人々に対して「見せかけの教会」であってはならないのです。

[4]特徴


第四の黙示録の特徴について考えてみましょう。黙示録はすべての預言書の最後に位置する預言書です。私たちが創世記と黙示録を比較してみるとき、このことがはっきりします。

創世記では、天地の創造が行なわれましたが、黙示録では、天地が消え去り、新天新地の創造が語られています。

創世記では、太陽と月の創造がありますが、黙示録では、これらのものが消え去ります。

創世記では、人間の住む所はエデンの園ですが、黙示録では、天の都です。

創世記では、アダムの婚姻について書かれていますが、黙示録では、第二のアダム、すなわち主イエスの婚姻について書かれています。

創世記では、サタンの出現が語られていますが、黙示録では、サタンへの最終的な裁きのことが語られています。

創世記では、苦しみの始まりが語られ、黙示録では、もはや涙のないことが語られています。

創世記では、罪の呪いが語られ、黙示録では、呪いが取り除かれたことが語られています。

創世記では、人がいのちの木から遠ざけられたことが記され、黙示録では、人が再びいのちの木へと導かれるべきことが記されています。

創世記では、アダムとエバはキリストと教会を象徴するものとして記され、黙示録では、キリストが花嫁である教会と一つになるべきことが記されています。

創世記では、罪のはじまりのことが記され、黙示録では、罪が取り除かれたことが記されています。

創世記では、人が自分の名をすべてのものの上に置こうとしたことが記され、黙示録では、神の御名がすべてのものの上に置かれるべきことが記されています。

黙示録は新約聖書の他の手紙と同じように、その当時のキリスト者の多くの問題に対する答えとして書かれたものです。そして黙示録には、今日の私たちに対しても当てはまることが記されています。黙示録の主題は、あらゆる時代のあらゆる国民にあてはまるのです。

黙示録は旧約聖書全体を背景に持っていますが、旧約聖書のどの箇所から引用されたか、ということはとくに記されていません。黙示録は全体で四百四節ありますが、旧約聖書からの引用は約六百箇所あると言われています。イザヤ書から約百十箇所、詩篇から約百箇所、ダニエル書から約七十箇所、エゼキエル書から約六十箇所、ゼカリヤ書から約三十箇所です。

黙示録では、これらの旧約聖書の箇所は、大胆にも省略されたり、補足されたり、ほかの言葉とつなぎ合わされたりして、自由に引用されています。しかし、旧約聖書からの引用がこれほど多くの箇所にわたっているにもかかわらず、黙示録はそれ自身でまったく独自の新しい書物となっているのです。

黙示録はかつてなされた神の約束の成就の書物でもあり、また、来るべき約束の成就の書物でもあります。ちょうど、種から育った木が実りをつけるように、預言よりも預言の成就こそが実りです。この意味で、約束の成就を記している黙示録は、私たちに豊かな実りを約束するものといえるでしょう。

さらに、黙示録のもう一つの特徴として、繰り返し「主の日」について語られていることがあげられます。この「主の日」とは戦いの日のことです。この日には、主がその敵を打ち負かしてくださるのです。以上が、黙示録の主な特徴です。

[5]解釈の方法


第五に私たちは、黙示録の解釈の仕方について考えてみましょう。黙示録はすべての人のために解き明かされなければならない書物だと言えます。二世紀の頃には黙示録ほど広く伝えられ、また愛された書物はなかったほどだったにもかかわらず、今日、主の次のご命令が守られることがいかに少ないことでしょう。

「この書の預言のことばを封じてはいけない。」(黙示22・10)

黙示録の解釈にはいくつかの方法がありますが、ここではおもに四つの方法についてみてみましょう。

第一の解釈の方法は、霊的な解釈の方法です。この場合にはすべての事柄は文字どおりには解釈されないで、常に象徴的、霊的な解釈がなされます。これによると、黙示録の主な内容はあらゆる時代の教会の、悪魔に対する戦いであるということになります。

第二の解釈の方法は、黙示録に記されているあらゆる事柄が、すでに起こった過去の事柄である、というものです。従って、例えば6~11章のできごとは、ネロ時代にキリスト者が実際に体験したことになります。もしそうなら、これはすでに過去に起こってしまったことなので、もはや私たちが未来にこのようなできごとを予想する必要はないということになります。

第三の解釈の方法は、黙示録に記されているあらゆるできごとは、今まさに起ころうとしていることである、と解釈するものです。この方法によれば、黙示録に記されていることは、皇帝ネ口の時代からこの世の終わりに至るまでのできごとである、ということになります。このような解釈をとる人々は、黙示録のあらゆるできごとに対して、歴史上の事件をすべて当てはめて解釈しようとします。例えば宗教改革、第一次世界大戦、また第二次世界大戦が黙示録の特定の記事に結びつけられます。この方法によって、これらの人々は千年王国がいつ始まるかを計算しようとします。今までに二百種類に及ぶ年表が計算されてきましたが、これらすべての計算は、一度も実際と合致することがありませんでした。

第四の方法は、終末論的な解釈の仕方です。この解釈によれば、4~8章のできごとは、すべてまだ起こっていない、ということになります。1~3章までに記されていることは、おもに地上の教会に対して語られたものであり、4、5章は、天にある教会について語られています。そこに登場する二十四人の長老とは、使徒時代から新約時代にわたって天にあげられた信者たちのことです。従って、いわゆる教会の携挙は3章と4章の間で行なわれていることになります。そして、4章から9章にいたるすべてのできごとは、実は、きわめて短い期間のできごとを記していることになります。この期間は、教会時代の終わりからイエス・キリストの再臨にいたるまでのあいだですが、それはたぶん七年間くらいであると思われます。

以上、四つの解釈の方法にはそれぞれに真理の一面が含まれていると思われますが、私は最後の終末論的解釈が正しい解釈だと信じています。

[6]目的


六番目に、黙示録が書かれた目的について振り返ってみましょう。当時、小アジアにある諸教会では、信者たちが苦難に対しての備えをするために、確固とした信仰の基礎に立つことと目を醒ますこととが求められていました。黙示録は繰り返して、「小羊である主イエスに従い通す者は勝利に導かれる」といっています。「小羊」という言葉は、黙示録に二十八回でてきます。小羊なるイエス様は、再びこの地上に来られますが、それは罪の問題を解決するためにではなく、ご自身の権威を明らかにするために来られるのです。イエス様は、教会を建てるために再び来られるのではなく、新しい天と新しい地とを創造されるために来られるのです。ですから、黙示録が私たちに伝えてくれるのは、「イエス様が再び来られる」ということと、「イエス様が唯一の支配者である」ということです。

イエス様は、クリスチャンたちの苦難と試練のまっただ中において、ご自身が再び来られること、そして、ご自身が唯一の支配者であることを、主を信じる人々に啓示されたのです。

彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。(黙示21・4)

もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、・・・・もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、・・・・(黙示22・3、5)

神の都には、悲しみも苦しみももはや存在せず、主のしもべたちは主に仕え、主が永久に支配者となられることが約束されているのです。

「黙示録はイエス様のことを何と言っているのだろうか」。私たちがこのように問い続けながら黙示録を読むならば、私たちはいつも黙示録から啓示を受けることができます。

イエス様は、神の国の王であり、裁き主であり、世界の支配者であるお方です。イエス様は隠れたことを明らかにすることがおできになるただひとりのお方です。なぜならば、イエス様はすでに暗闇を通られたからです。黙示録は私たちに、混沌の中にも隠されている光があることを示しています。人間は混沌の中にあっても、やすらぎを与えられています。これが黙示録の主題なのです。イエス様はすべてを超越しておられますが、それでも、小さな私たちのことをもよく考えていてくださるお方なのです。

[7]内容


七番目に、黙示録の内容について考えてみましょう。黙示録は三つの部分に大別して考えることができます。

「そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」(黙示1・9)

第一の部分は、ヨハネが見たこと、つまり1章に記されている、天に上げられたイエス様のことです。イエス様は1章では「裁き主」として記されています。

第二の部分は、ヨハネが現に見ていたことです。これは2章と3章に記されています。ここでイエス様は「教会の審判者」、また、「教会の主」として記されています。

第三の部分は、ヨハネが見た、後に起こるべき事柄です。これは4章から9章までに記されています。ここにおいて、私たちは「勝利をおさめられた主」としてのイエス・キリストを見ることができます。

また、私たちは、この黙示録を別の仕方で分けてみることもできます。第一に、「恵みの啓示」としての部分です。これはイエス様ご自身の啓示のことであり、1章9節から3章22節までです。

第二に、「支配の啓示」としての部分です。つまり、すべてを統べ治められるイエス様のことであり、これは、4章から19章10節までです。

第三に、「栄光の啓示」としての部分で、すべてのすべてとしてのイエス様のことが記されています。これは、21章と22章に記されています。

黙示録から、将来起こるべき出来事のすべてを知ろうとするならば、それは非常に難しいことでしょう。しかし、私たちがキリスト者として、今日どのような態度をとるべきかを知ろうとするなら、黙示録は、それをはっきりと示していることがわかるでしょう。黙示録は「目をさましていなさい。イエス様は今日にもこられるかも知れないから。」と告げています。イエス様を待ち望んでいる人たちは、この世で最も幸せな人々です。私たちの主がおいでになる、という勝利の歌が私たちの心に満ちあふれていなければなりません。黙示録ほど、悪魔の力と、その手段について詳しく記している箇所はほかにありません。しかし、私たちは天に上げられた神の小羊であるイエス様が、悪魔をはるかに越えておられることを見るのです。イエス様はご自身に対して企てられるいかなる悪魔の反抗も、ことごとく滅ぼしてしまわれます。ですから、黙示録全体を通して、イエス様の前に捧げられる礼拝と賛美は絶えないのです。

2.十の賛美の歌


最後に、黙示録に記されている、「イエス様に捧げられた十の賛美の歌」をごいっしょに読んで、私たちも主を賛美しましょう。

第一の賛美の歌

イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(黙示1・5、6)

第二の賛美の歌

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。(黙示4・8)

主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。(黙示4・11)

第三の賛美の歌

あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。(黙示5・9、10)

第四の賛美の歌

ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。(黙示5・12)

御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。(黙示5・13)

救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。(黙示7・10)

第五の賛美の歌

アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。(黙示7・12)

この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。(黙示11・15)

第六の賛美の歌

万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。(黙示11・17、18)

第七の賛美の歌

今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。(黙示12・10~12)

第八の賛美の歌

あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。主よ。だれかあなたを恐れず、御名をほめたたえない者があるでしょうか。ただあなただけが、聖なる方です。すべての国々の民は来て、あなたの御前にひれ伏します。あなたの正しいさばきが、明らかにされたからです。(黙示15・3、4)

第九の賛美の歌

ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。・・・・ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。・・・・アーメン。ハレルヤ(黙示19・1~4)

第十の賛美の歌

すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。(黙示19・5)

ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。(黙示19・6~8)

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