2022年5月9日月曜日

絶えず祈れ[16]断食とむすびついた祈り

絶えず祈れ
ゴットホルド・ベック著
[16]断食とむすびついた祈り

しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈り*によらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(マルコ9・27~29)

新改訳聖書の頁の下の脚注によれば、文中の「祈り」のあとの*の部分に、「と断食」を加えるものもある、としるされています。

この章の題は「断食とむすびついた祈り」です。

マルコの福音書9章を読みますと、ペテロ、ヤコブ、ヨハネがすばらしい経験をしたことがしるされています。主イエス様はかれらを連れて高い山にのぼられましたが、かれらの目のまえでみすがたが変わり、御衣は白くひかりかがやきました。そしてモーセとエリヤがあらわれ、イエス様と語りあいました。弟子たちは雲のなかから、イエス様についての神のことばを聞きました。「これは、わたしの愛する子である。かれの言うことを聞きなさい」と。

弟子たちをこのすばらしい経験に導かれたイエス様は、そのあとで弟子たちを山のふもとへ、すなわち罪のおもくるしい空気へ、また悪魔の支配する領域へと連れて行かれたのです。ペテロはあまりにも山上での経験がすばらしかったので、いつまでも山上にとどまり、イエス様のために幕屋をつくりたいと思ったほどだったのですが、しかしイエス様はかれらを山のふもとへ連れて行かれ、そこでかれらは大きな失望を味わうことになったのでした。

長いあいだあらゆる手をつくしたにもかかわらず、自分の息子の病気がなおらなかったひとりの父親が、「病気の息子をなおしてください」と山にのぼらずに残っていた弟子たちにたのみました。弟子たちは息子をなおそうとして、せいいっぱいやってみたのですがだめでした。かれらにはできなかったのです。それを見ていたまわりの群衆は失望しました。父親も、力のない弟子たちも失望しました。そしてイエス様が帰ってこられたとき、イエス様もまた失望なさいました。それは、失望したひとびとの集団でした。

こんにち、私たちはそのような失望した集団を見いだすのに、遠くへ行く必要はありません。目のわるいひとでさえも、そういう失望したひとびとをかんたんに見つけることができます。なぜなら私たちのまわりは、そういうひとびとであふれているからです。

さて、さきほどの父親は、こんどは直接、イエス様に向かってお願いしました。イエス様はその願いをことわられませんでした。イエス様は決してことわられることはありません。そして悪霊にとりつかれた息子は一瞬のうちに解放されたのです。

自分の力のなさに打ちのめされた弟子たちは、そのあとでそっとイエス様にたずねてみました。

「どうしてでしょう。私たちには悪い霊を追い出せなかったのですが」と。イエス様はお答えになりました。

「この種のものは、祈り(*と断食)によらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(マルコ9・29)

このみことばによって、私たちの主イエス様は「断食とむすびついた祈り」の必要性をしめしておられます。つまり、祈りが聞きとどけられるためには、「断食とむすびついた祈り」が必要な場合がたくさんあるということです。ここでイエス様がおっしゃっておられる断食ということばの意味するところはなんでしょうか。多くのひとびとは、断食とむすびついた祈りがどのようなものかを正確には知りません。かれらは祈りの生活をし、たくさんのすばらしい経験をしました。しかし、かれらは「断食」がなにを意味しているかについて、ただしく知らないのです。

「断食」が意味するもの


「断食」とはなにか。これはとてもたいせつな問題です。「断食」とは、その字のとおり、なにも食べないことだけを意味するのでしょうか。それともなにかそれ以上のことを意味するのでしょうか。

結論を言ううと、「断食」とは、自発的に、一般的にも正常で正当なことがらを放棄すること、りっばでただしいこと、ときにはやるべきことをあえて「捨てさる」こと、つまり「自発的な断念」、また、「いちばんたいせつなもののまえに、そのほかのものを犠牲にすること」を意味します。主のまえに集中して、持続的に祈るためには、それ以外のことは重要でなくならなければなりません。自分からこころをそそぎだして祈るなら、ほかのことはとうぜん二次的な位置しかしめないようになります。このことを聖書から学んでみましょう。

1.食事をとることを断念する「断食」


「断食」とは、ほんらいものを食べないことです。

ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事をとろうともしなかった。(Ⅱサムエル12・16、17)

ダビデはパテ・シェバとおそろしい罪をおかし、生まれた子が死にそうになったとき、断食をしていっさいの食事をとろうとしませんでした。聖書のべつのところでも、断食が必要であることが書かれています。エステル記によると、エステルはモルデカイあてにつぎのようなたよりをだしました。

行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私も、私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。(エステル4・16)

ニネベにたいするさばきの日が近づいたとき、ニネベの王は、つぎのように命令しました。

王と大臣たちの命令によって、次のような布告がニネベに出された。「人も、獣も、牛も、羊もみな、何も味わってはならない。草をはんだり、水を飲んだりしてはならない。人も、家畜も、荒布を身にまとい、ひたすら神にお願いし、おのおの悪の道と、暴虐な行ないとを悔い改めよ。」(ヨナ3・7、8)

これらを読むと、まことの断食には、「自発的に食事を断念すること」もふくまれていることがよくわかります。

2.ねむりを断念する「断食」


さきほどのサムエル記第2の聖句のなかで、ダビデが食事をとらなかっただけではなく、一晩中、地に伏していたと伝えています。ダビデは自発的にねむりを断念しました。なぜなら、しなければならないもっとたいせつなことがあったからです。ダビデにとって、主の御声に耳をかたむけること、主のご臨在のうちにとどまることは、ねむることよりもたいせつでした。だからダビデは「自発的にねむりを断念」しました。これもまた「断食」のひとつです。

3.楽しみや快適さを断念する「断食」


断食するひとと、断食しないひとの対比は、つぎの聖句のなかに見られます。

そして人々はそれぞれ家に帰った。イエスはオリーブ山に行かれた。(ヨハネ7・53、8・1)

だれでも、家に帰ってくつろいだり、やすんだりする権利をもっています。イエス様もまた、ゆっくりとやすみ、ねむる権利をもっておられました。そして人間としてこの地上に遣わされたイエス様は、とうぜんながらねむることをも必要とされたのです。しかしここでは、イエス様は「断食するひと」でした。イエス様は睡眠を断念し、山にのぼり、そこで一晩中、祈りに専念なさいました。「自発的に楽しみやくつろぎ、また快適さを断念なさった」のです。

4.男女関係を断念する「断食」


結婚生活における男女関係は、主によって望まれています。とうぜんのことながら結婚生活以外の男女関係は主によって禁止され、サタンによって望まれています。結婚までの男女関係は罪です。結婚生活以外の男女関係もおなじように罪です。さらに聖書には結婚生活における男女関係においても、「断食」、つまり自発的な断念が必要なときがあることがしめされています。

「彼らは三日目のために用意をせよ。三日目には、主が民全体の目の前で、シナイ山に降りて来られるからである。」それでモーセは山から民のところに降りて来た。そして、民を聖別し、彼らに自分たちの着物を洗わせた。モーセは民に言った。「三日目のために用意をしなさい。女に近づいてはならない。」(出エジプト19・11、14、15)

ここで「女に近づいてはならない」、つまり「男女関係を断念しなさい」とあるのは、主に出会うそなえをするほうがはるかにたいせつだからです。もちろんこれはかぎられた短いあいだだけでした。パウロはおなじようなことを、つぎのように書きおくっています。

妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのならかまいません。あなたがたが自制力を欠くとき、サタンの誘惑にかからないためです。(第一コリント7・4、5)

これらの聖書の箇所によってあきらかなことは、私たち信者の生活には、さらにいっそう、ほんとうに主のまえに立ちつづけ、主が働いてくださることを祈り求めるために、いろいろなことがらを「自発的に断念する」ときがなければならない、ということです。

あらゆる信者の祈りの生活のなかに、断食するとき、つまり自発的に断念するときが必要なのとおなじように、あらゆる集会や教会が成長するためにも、断食するとき、つまり自発的に断念するときが必要です。

いつ、祈りは断食とむすびつくべきか


ではつぎに、「いつ、祈りは断食とむすびつくべきでしょうか」ということについて、つぎの七つのことをごいっしょに考えてみましょう。

1.主との交わりを深めるとき
2.祈りが力をもち、勝利へと導かれるとき
3.罪があかるみにだされ、不正がとりさられるとき
4.告白がされ、罪のゆるしがなされるとき
5.主の導きを必要とし、決断がなされるとき
6.たすけと力をいただかなければならないとき
7.な目ざめがはじまり、なみだがながされるとき

1.主との交わりを深めるとき


「断食とむすびついた祈り」がもとめられる第一のばあいは、「主との交わりを深め」、信仰をあらたにする必要があるときです。

私たちはみな、ときどき主に無関心になったり、信仰がなまぬるくなったりすることを感じます。型にはまったような信仰の生活をおくるのは非常に危険なことです。私たちはみな安易な日常生活にかんたんに流されてしまい、主をもはや燃えるように愛さなくなっていることを経験します。また、私たちはみなとつぜん、主のご臨在のなかに立とうとせず、主にたよらないで、自分の力にたよってその日その日をやりくりしていることを経験します。正直な信者はだれでも、このような経験をすることをみとめざるをえません。

しかし、こういったことに気がつき、私たちに主との交わりが欠けていることがわかったら、ただひとつのことがたいせつです。

「断食とむすびついた祈り」のために時間をつくりましょう。

私たちはときに、主のみことばが信じられなかったり、私たちへの主の個入的な愛がとつぜんうたがわしく思えたり、主のご計画がまったく理解できなかったりすることがあるのではないでしょうか。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8・28)

大きな苦しみをになっているひと、わずかな希望も光も見いだすことができないでくらやみにすわりこんでいるひとにとって、このみことばを信じることは、決してかんたんではありません。そのようなひとは、第一に「断食とむすびついた祈り」のために時間をつくることだけがたいせつです。それ以外のことはたとえ重要なことであってもすべて第二、第三にしましょう。「神のご臨在を求めなさい。神のみことばに思いをひそめなさい」。その結果は「王との交わりが深められる」こと、そして信仰があらたにされることです。

2.祈りが力をもち、勝利へと導かれるとき


私たちがイエス様のみことばについて深く考えると、「断食とむすびついた祈り」は大きな力をもち、勝利へと導かれるものであり、このような祈りが必要となるばあいがたくさんあることがよくわかります。

よく、私たちはなにも起こらないと、かんたんにつぎのように言ってしまうのではないでしょうか。「いま、主は祈りにこたえてくださらない。でもいつかは必ずこたえてくださると約束してくださっています。だから私たちは待つことにしましょう」。この態度はかならずしもまちがっているとはいえません。しかしこのようなとき、私たちの祈りに「まことの断食」、自発的な断念をくわえなければならないかどうかについてじゅうぶん考えてみる必要があります。

私たちの主にとっては、のがれ道のない状態は存在せず、のりこえることのできない障害は存在せず、かたくなすぎるこころも存在しません。

祈りは戦いです。戦いがもっとも激しいとき、だれもおやつを食べたり、いねむりをしたりするひまはありません。もっとたいせつなことがあるからです。使徒の働きの12章には、ほんとうに絶望的な状況のことがしるされています。使徒ヤコブはとらえられ、つるぎで殺されました。使徒ペテロはとらえられ、死刑を待っていました。初代教会の反応はどうだったでしょうか。

こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。(使徒12・5)

「神に熱心に祈りつづけていた」ということは、祈りと断食が結びついていたのです。初代教会のひとびとの平穏な生活は、混乱におちいりました。家庭の生活は変わりました。職場の生活も変わりました。個人的な生活も変わりました。すべては、第二、第三の地位に、優先順位を下げられなければなりませんでした。なぜでしょうか。ペテロが牢屋に入れられたからです。

ヘロデ王は、神のことばを語る者の活動を禁止しました。信者たちはみな、深い苦悩におちいりました。そしてその苦悩は、絶えることのない祈りとなってあらわれたのです。信者たちはサタンの力に対決するすべを知りませんでした。ですからすべては第二、第三のことになり、なによりもまず緊急で必要なこと、「祈りと断食」に専念したのです。

私たちは、祈りが主によって聞きとどけられることをこころから願っているでしょうか。私たちは、いままで経験したことがないほどの大きな主の勝利を経験することを、こころから願っているでしょうか。それを願っているなら、私たちはもっともっと主のご臨在を求めなければなりません。主が私たちに語ってくださるようにしなければなりません。

そのためには、「多くのものを犠牲にする覚悟」をもたなければなりません。「断食とむすびついた祈り」がささげられなければなりません。

3.罪があかるみにだされ、不正がとりさられるとき


「断食とむすびついた祈り」はいつなされるべきでしょうか。ヨシュア記7章には重要な意味をもつできごとが記録されています。

しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。(ヨシユア7・1)

神の民の責任者であるヨシュアは、このことについてなにも知りませんでした。この罪はどうしてあかるみにでたのでしょうか。エリコを攻めとったあと、つぎにイスラエルが攻めとる町はアイでした。アイはちいさな町でしたが、にもかかわらず、イスラエルは敗北してしまったのです。イスラエルのひとびとは敗れて逃げたのです。神の民が、神の敵のまえから逃げたのです。どうしてでしょうか。主はもはや、かれらとともにいることがおできにならなかったのです。主はこころならずもご自分の民、神の民に敵対しなければなりませんでした。なぜなら、罪がかくされていたからです。いまも主は、私たちが不純な動機で動くとき、罪をおしとおすとき、罪への妥協を行なうとき、私たちに敵対なさいます。

イスラエルが敗北したとき、ヨシュアはおどろいて、まったく混乱した状態におちいりました。

ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、減ぼそうとされるのですか。」(ヨシュア7・6、7)

ここにはヨシュアが主に「夕方まで」叫んだ、と書かれています。かれはぜんぜん食べるひまがなく断食したのです。いうまでもなく食欲などまったくなかったにちがいありません。そして主は、ヨシュアの叫びにこたえてくださいました。

主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。イスラエルは罪を犯した。」(ヨシュア7・10、11)

それからアカンの罪は調べられ、あかるみにだされ、さばかれました。これとおなじように、私たちの生活のなかにある罪、また集会のなかにある罪は、「断食とむすびついた祈り」によってあかるみにだされ、不義がとりのぞかれます。

祈りがなされ、もっともだいじなことがたいせつにされ、ほかのことが断念されるそなえができているばあいは、主はかくされている罪をあかるみにだされます。主はそのひとが謙遜になるために恵みをあたえてくださいます。かくされた罪をあかるみにだして、すべての不義を妥協せずにとりのぞく備え、つまり罪を「自発的に断念」する覚悟が、主によってもとめられているのです。

ある町で福音伝道の集会がありました。一週間にわたって福音が宣べ伝えられたにもかかわらず、主のもとに来て救われるひとはひとりもありませんでした。伝道者はある晩、「聴衆のなかに聖霊のはたらきをさまたげるひとびとがいるので、そのひとびとは主のあかるみのもとにだされるべきです」と言いました。そうすると、とつぜんふたりの男が立ちあがり、歩みより、だまって握手しました。それがすべてでした。その瞬間からあふれるばかりの祝福がそそがれました。このふたりは、集会のなかで重い責任を負うひとびとだったのですが、それまではたいへんなかがわるく、おたがいに話そうともしなかったのでした。このようにして、妨げるものがとりのぞかれたとき、主は働くことがおできになりました。とつぜん、天のまどが開かれたのです。私たちの集会のなかでも、おそらくかくされていることがあると思います。信者の生活のなかにも、罪が黙認されていると思います。罪があかるみにだされ、不義がとりのぞかれるためには「断食とむすびついた祈り」はどうしても必要です。

4.告白がされ、罪のゆるしがなされるとき


「断食とむすびついた祈り」は、いつなされるべきでしょうか。すばらしい例がサムエル記第2の11、12章にあります。ダビデの罪と堕落について書かれているところです。

ダビデはパテ・シェバと罪をおかし、その夫を殺そうとしました。しかし姦淫と殺人をおかしたダビデは、主のまえに「私は主にたいして罪をおかした」と自分の罪を告白し、祈り、断食し、ゆるしを求め、それをいただきました。このへりくだりの結果は、詩篇の32篇、51篇にしるされています。どうかいちど、機会をみつけて主のまえにひざまずきながら詩篇の32篇と51篇をお読みください。主はそれをとおして、私たちひとりひとりのこころに語りかけてくださいます。

私たちが罪におちいっても、それを主のまえに正直に告白するならば、その罪と債務は一瞬のうちにゆるされます。

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1・9)

私たちよりもサタンがはるかにつよくて私たちが罪をおかしてしまい、神様からはなれてしまったことを経験したとき、いそいで主のみもとに行き、ゆるしてくださるよう、きよめてひきあげてくださるよう、主にお願いすることがたいせつです。

そしてまた、私たちはほんとうに主のまえにへりくだることがたいせつです。そうでないなら、私たちは罪というものをかるく考えてしまい、つぎのように言うことでしょう。「それほど大したことではない。また罪をおかしてもあやまれば、主はかならずゆるしてくださるのだから」と。

もちろん、ほんとうに悔い改めれば、どんな罪でもゆるされるということは、そのとおりです。しかし、安易な妥協をする者はわざわいです。ふたたびおなじあやまちをくりかえさないために、私たちは主のまえに特別の時間をつくり、断食するこころのそなえをもつことが必要です。

主の神聖さを見る者は、もはやかんたんに罪をおかすことができなくなります。私たちにとって、罪はひじょうにおそろしい、忌むべきものにならなければなりません。

5.主の導きを必要とし、決断がなされるとき


「断食とむすびついた祈り」はいつなされるべきでしょうか。「使徒の働き」の13章には、アンテオケの集会のひとびとが福音を宣べ伝えるために、自分たちのなかから数人のひとびとを遣わす覚悟をしたことがしるされています。しかし、遣わされるのはだれがいいのでしょうか。主は集会のひとびとに、はっきりとした導きをおあたえになりました。

彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。(使徒13・2、3)

私たちがたいへんな困難に直面し、重要な決断をしなければならないとき、私たちはなにをするべきでしょうか。しずまるための時間をつくること、つまり「断食」することです。あなたがいましなければならないこと、したいことを、しないようにしなさい。主なる神のまえにしずまって、主に語っていただくようにしなさい。そのためにはすこしのあいだ、まったく閉じこもって意識して主にすべてをうちあけることがたいせつです。なによりもたいせつなことは、主が私たちを導いてくださること、そして私たちがただしい決断を行なうことです。そのために必要な前提は、「断食とむすびついた祈り」です。

6.主にたすけと力をいただかなければならないとき


「断食とむすびついた祈り」はいつなされるべきでしょうか。主に仕える者は、だれでもいちどは次のように自分にたずねてみることが必要です。「私たちがあらゆるご奉仕にさきだって、意識して祈り、断食したならば、主は私たちをとおしてどれだけのことをなさることができただろうか」。そして、だれもが正直に告白しなければなりません。「いままでよりはるかに大きなことがおできになったはずです」と。私たちはいままでたいていのばあい、主のさまたげになっていたのです。自分の力で主に仕えようとするひと、自分の能力にたよってことを進めるひとは、主と主のご奉仕のためにはなんの価値もありません。イエス様の弟子たちは、自分の力でイエス様に仕えることをゆるされませんでした。かれらは、主なる神の力で満たされるまで待たなければなりませんでした。

このように、弟子たちは当時、主によって満たされることを待つ必要がありました。しかし、現代の私たちは待つ必要はありません。いまの時代には主ご自身が待っていてくださり、私たちに全権、知恵、勇気、感情、感情移入能力、愛をあたえたいとこころから望んでおられるのです。

7.霊的な目ざめがはじまり、なみだがながされるとき


主なる神のご臨在のうちにいるひとびとは、ひじょうに大きなよろこびを経験します。しかし、そのいっぽうでは、大きな悲しみをも経験します。これは逆説のようにひびくかもしれませんが、そうではありません。その一例はネヘミヤです。かれは主のご臨在のうちにいましたが、それゆえにこそ、大きな悲しみに満たされたのです。

すると、彼らは私に答えた。「あの州の捕囚からのがれて生き残った残りの者たちは、非常な困難の中にあり、またそしりを受けています。そのうえ、エルサレムの城壁はくずされ、その門は火で焼き払われたままです。」私はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食して天の神の前に祈って、言った。(ネヘミヤ1・3~5)

ネヘミヤはただ祈っただけではなく、主のまえにへりくだりました。ネヘミヤは断食し、神の民の苦しみを自分のものとして泣きました。ネヘミヤのようなひとびとは、こんにち必要です。信者たちの霊的な目ざめは、どうしても必要です。ネヘミヤをとおして、当時の信者たちは霊的に目ざめ、ふたたび証しびととなることができました。どうしてでしょうか。

ネヘミヤの祈りは「断食とむすびついていた」のです。ネヘミヤは信者たちの罪を自分がおかしたかのように、一体感をもちました。ネヘミヤはかわりに祈りつづけ、すわって泣きました。そしてネヘミヤの「断食とむすびついた祈り」は、信者たちが悔い改め、断食しながら主に呼び求め、すべてが新しくされるように導いたのです。神の敵によって散らされ、みじめでよろこびのない信者たちは、ふたたび大よろこびすることができました。

立ち上がって、とこしえからとこしえまでいますあなたがたの神、主をほめたたえよ。すべての祝福と賛美を越えるあなたの栄光の御名はほむべきかな。ただ、あなただけが主です。あなたは天と、天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして、天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。あなたこそ神である主です。(ネヘミヤ9・5~7)

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