2022年6月6日月曜日

すぐに起こるはずのこと【第1部】2.天に秘密をあらわすひとりの神

第1部

2.天に秘密をあらわすひとりの神

黙示録1章1節から3節まで

1.黙示録の受けとり手、神のしもべの特徴
1主の愛を知ること
2主の前に立つこと
3主に礼拝を捧げること
4主の赦しを確信すること
5主のみことばを証しすること
6主のみことばを読み、聞き、守ること
7主のために苦難を負うこと
2.黙示録の特徴
3.黙示録の目的

では、黙示録の本文に入り、1章1節から3節までをごいっしょに考えてみましょう。

(1)イエス・キリストの黙示。これは、すぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため、神がキリストにお与えになったものである。そしてキリストは、その御使いを遣わして、これをしもべヨハネにお告げになった。(2)ヨハネは、神のことばとイエス・キリストのあかし、すなわち、彼の見たすべての事をあかしした。(3)この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。(黙示1・1~3)

主なる神が「隠されていることを明らかにされる」という事実は、旧約聖書のダニエル書の中に記されています。

「天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです。王さま。あなたは寝床で、この後、何が起こるのかと思い巡らされましたが、秘密をあらわされる方が、後に起こることをあなたにお示しになったのです。(ダニエル2・8、9)

黙示録の「黙示」という言葉は「隠れていることを明らかにする」、または「明らかにして教える」、という言葉に置き換えられます。「黙示を受ける」ということは、なにも難しいことを示されるのではなく、「わかりやすいことを教えられる」ということなのです。ダニエル書12章9節に「・・・・このことばは、終わりの時まで、秘められ、封じられている」とありますが、黙示録22章10節には「この書の預言のことばを封じてはいけない。時が近づいているからである。」とあります。1章3節には、「この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」とあります。このことは、決して黙示録がわかりにくい書物なのではなく、誰にでもよくわかる書物であることを示しています。

その当時、キリストの教会とユダヤ教徒とは、お互いに対立しあっていました。キリスト者は「メシヤ(救世主)はすでに来た」と言い、ユダヤ教徒は「まだ来ていない」と言っていたからです。キリスト者は「われわれはメシヤ、救世主イエス・キリストを知っている。キリストに属さない人は真のイスラエル人ではない」と主張していました。さらに、「イエス様ご自身が神の啓示そのものであり、イエス様を信じることこそが大切なのだ」と主張したのです。

なぜ、イエス様はご自身を啓示なさろうとするのでしょうか。それはイエス様の私たちに対するはかり知れない愛のゆえであるとしか言いようがありません。

黙示録で「啓示」という言葉は、一つ一つのできごとに対する裁きという意味ではなく、聖書全体の預言の成就という意味で使われています。その証拠に、啓示という言葉は原語では決して複数形では使われず、常に単数形で使われています。イエス様こそが常に黙示の中心であり、そして、イエス様ご自身こそが啓示をなさる方なのです。

黙示録の中で、父なる神が語られたのは1章8節と21章5~8節だけで、そのほかの箇所はすべてイエス様が中心となっておられます。イエス様は父なる神からあらゆる権威を委ねられたお方です。イエス様はこの使命を果たされるために、ご自身のしもべたちにまもなく起こるべきことをお教えになられたのでした。

1.黙示録の受けとり手、神のしもべの特徴


黙示録の受けとり手は、すべて「イエス様のしもべたち」です。ということは、彼らはかつて悪魔の奴隷であった身から買い戻されて、いまはイエス様のしもべとして仕えている人々だということです。新約聖書の手紙は、どれも「召された聖徒たち」に与えられたものですが(ローマ1・7、エペソ1・1、ピリピ1・1)、黙示録だけは「神のしもべたち」に与えられたものです。しかし、すべての信者が神のしもべなのではありません。神のしもべとは、イエス様に従う人々、つまり、イエス様の弟子たちのことです。パウロは、ピリピ人への手紙2章21節で、自分のことだけを考えている信者について書いています。このような信者たちは、もちろん、神のしもべということはできません。ここで神のしもべという言葉がでてきたので、私たちはこれから「神のしもべの特徴」について考えてみましょう。

[1]主の愛を知ること


第一に、神のしもべたちとは、神の愛を知る人々です。1章5節に「イエス・キリストは私たちを愛して」というみことばがありますが、これこそが神のしもべたちの喜びの源です。このみことばは決して、「私たちを愛してくださったことがある」という過去形ではなく、「私たちを今なお愛していてくださる」という現在形なのです。いまも神に愛されているということが、神のしもべたちのこの上ない喜びのもとなのです。

「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15・16)

主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」(創世記18・17)

主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。(詩篇103・7)

主はご自身を恐れる者と親しくされ、ご自身の契約を彼らにお知らせになる。(詩篇25・14)

まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない。(アモス3・7)

[2]主の前に立つこと


第二に、神のしもべたちとは、「祭司とされた者」だということです。祭司であることの特徴は、その人が神の前に立つということです。多くの信者たちは、神の前にひとりで立つのではなく、人の目を気にして、人にどう見られているかということばかり気にしているようです。このような信者たちは神のしもべではありません。

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。(ガラテヤ1・10)

[3]主に礼拝を捧げること


第三に、神のしもべたちの特徴は、「神に礼拝を捧げる人々」だということです。つまり、このようなしもべたちは、決して自分の名誉を求めることをせず、自分たちを救い出してくださった主だけにすべての栄光をお返ししようとしている人々です。

[4]主の赦しを確信すること


第四に、神のしもべたちとは、自分の罪が赦されたことを喜んでいる者たちのことです。本当の喜びの秘密は、自分の罪が赦されていることを心から知ることにあります。罪が赦されていることを知ることは、神との平和を得ることであり、また、永遠のいのちを得ることでもあります。神のしもべたちとは、日々新たにこの罪の赦しを喜んでいる者たちのことです。

[5]主のみことばを証しすること


第五に、神のしもべたちとは、神のことばを証しする人々のことです。神のしもべは、神の前に祭司として立つだけでなく、神のみことばを持って人々の前に立つ者でなければなりません。神のしもべは、自分の考えを伝えるのではなく、神のみことばを伝えるのです。神のしもべたちの揺るがない土台は、この神のみことばなのです。

私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。(詩篇119・162)

この詩篇の一節こそは、神のしもべの告白です。

[6]主のみことばを読み、聞き、守ること


第六に、神のしもべたちとは、神のみことばを読み、聞き、そして守る人々のことです。これら三つのこと、つまり、主のみことばを読み、聞き、守るということが、常に一つになっていなければなりません。

[7]主のために苦難を負うこと


第七に、神のしもべたちとは、イエス様のために苦難を負う人々です。1章9節に、ヨハネ自身も「イエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者」であると言っています。

ここまでごいっしょに学んできましたように、私たちはこれらの「神のしもべの特徴」に照らして、自分たちがどうであるかを考えてみるべきです。私たちはただ救われただけでは十分ではありません。私たちは「神のしもべ」となって、イエス様に用いられる者とならなければならないのです。

黙示録は、世界の歴史が決して偶然によってつくられたものではなく、すべてが神によって導かれていることを示しています。私たちの目には悪が勝利をおさめているかのように思われることがあるかも知れませんが、神のみことばによって、私たちは、この悪の世の中においても神がすべてを支配なさっておられることを知ります。すべての人々は、結局はイエス様の足元にひれ伏すことになるのです。

黙示録1章1節に、この黙示は神の御使いによって告げられたことが記されています。イエス様の誕生もまた、御使いを通して告げられました。イエス様の荒野での試みの時にも、御使いがそば近くにつき従っていました。ゲッセマネの祈りの時、イエス様は御使いに励まされたことが記されていますし、イエス様の復活の朝に、イエス様の復活を証ししたのも御使いでした。御使いが遣わされたのはいつもイエス様に仕えるためであり、また、イエス様にとっての神の道具としてでした。しかし、黙示録では、イエス様ご自身が啓示を与えておられるのです。イエス様ご自身がヨハネの頭に手をおかれ、教会のまっただ中を歩かれ、また、教会の中の信者たちと交わりをお持ちになっておられるのです。新約聖書全体には御使いについての記述が百七十五箇所あり、黙示録では御使いについて六十七箇所の記述があります。しかし、神がご自身をお現わしになられるのは、常にイエス様を通してであって、御使いを通してではありません。

2.黙示録の特徴


黙示録の特徴は、神のみことばとイエス様の証しと預言のみことばによって書かれていることです。ですから黙示録は、ヨハネ自身の思想を記したものではなく、ヨハネが見たこと、聞いたことを証ししているのです。この書物の目的は、祝福を与えることです。ですから、そのために三つのことが要求されています。読むこと、聞くこと、守ることです。黙示録全体を通読するためには、一時間と十五分もあれば十分です。しかし、ただ読み流すだけではなく、読んだ後、正しく聞くことを学ばなければなりません。正しく聞くことから、みことばを守ることがはじまるのです。

しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。・・・・母はこれらのことをみな、心に留めておいた。(ルカ2・19、51)

「見よ。わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いである。」(黙示22・7)

あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。(詩篇119・11)

黙示録1章3節に、「時が近づいているから・・・・」とあります。ギリシャ語では「時」を表すために二つの言葉があります。一つは「クロノス」です。「クロノス」と言うときには、時間の長さを表します。もう一つの言葉は「カイロス」です。「カイロス」はある特定の時点をさす場合に使います。黙示録で「時が近づいている」というとき、この時は「特定の時」を表わす「カイロス」が使われています。この特定の時とは、神の支配が完全に実現されるその時を指しているのです。その時とは、イエス様の再臨の時です。イエス様が再臨なさり、信者たちをご自身のみもとに引き上げられる日は、今日であるかも知れません。黙示録を通して主は、私たちもまたイエス様を待ち望むものとなることを願っておられるのです。

3.黙示録の目的


今まで学んできたことをまとめますと、黙示録には、三つの目的があります。

第一の目的は、私たちが悪魔と罪とこの世によって盲目にされないで、すべてのものをはっきりと見ることができるように私たちを備えさせることです。サタンとその道具とを明らかにすることが、黙示録の書かれた目的です。

第二の目的は、私たち信者にイエス様への服従の道を守るように勧めることです。そのために黙示録の中では、信仰、忍耐、忠実という言葉が繰り返しでてきます。

第三の目的は、私たちにイエス様の勝利を見せることです。いまは私たちには悪魔の勝利しか見えないかも知れません。しかしその中にも、隠されているイエス様の勝利があるのです。イエス様の御座が集会の中心に、また、私たちの生活の中心になければなりません。イエス様のご支配こそが黙示録の中心的な主題です。

イエス様が私たちの心の内に住んでくださることは大切です。しかし、それだけでなく、主が私たちのすべての生活の支配者となってくださらなければなりません。大部分の信者はこのことを望んでいません。大部分の信者は自分が困った時、必要な時だけイエス様を呼び求めますが、自分自身の支配権を主に明け渡すことを望んでいません。

私たちの生活のうち、ほんのわずかでも主に捧げられていない部分があるならば、それは悪魔がつけいる絶好のすきになります。もしイエス・キリストが、私たちの主として私たちを本当に支配し、導き、満たすことがおできになるなら、私たちの生活は祝福され、実を結ぶものになります。

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