2022年5月11日水曜日

絶えず祈れ[17]ともに祈ることのたいせつさ

絶えず祈れ(下巻)
ゴットホルド・ベック著
[17]ともに祈ることのたいせつさ

イエス様は、つぎのように言われました。「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16・18)

ここでいう教会とは、もちろん教会の建物ではありませんし、キリスト教のひとつの教派とか、宗教団体などでもありません。教会とは「イエス様を信じ、イエス様を受け入れた人々の群れ」のことです。ですから、よく「主のからだである教会」と言われるのです。イエス様に属する人々こそが、まことの「教会」です。そして、主のみこころにかなった教会の特徴が「祈り」です。私たちがもし祈らなければ、イエス様は王の王、主の主であるということの証しにならず、また、私たち自身も信仰の進歩がなく、主からはなれてしまった信者たちも、元にもどりません。イエス様を信じる人々にとってもっともたいせつなのは、祈ることです。「イエス様の教会」を建てることができるのは、もちろん、イエス様だけです。ですから、イエス様は「わたしはわたしの教会を建てる」と言われたのです。

私たち人間にできることといえば、「主をさまたげる」ことだけではないでしょうか。けれど、そんな私たちでも、主はもちいたいと望んでおられるのです。ではどのようにして、私たちは主によってもちいられ、主とともに働くことができるのでしょうか。答えは「祈りによって」です。

初代教会の特徴は「祈り」でした。初代教会の信者たちは、聖書の知識をそんなにはもっていなかったでしょう。けれどもかれらはいつも祈っていた人々だったのです。そして初代教会の人々がともに祈った最初の記録は、使徒の働きの4章に見ることができます。

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4.31)

一同は聖霊に満たされ、神のことばをだいたんに語りだした」とあります。「一同」とあるのですから、そのとき神のことばを語る特定の「専門家」などはいなかったのです。いわゆる牧師とか神父とかはいなかったのです。初代教会では、主を信じる者ひとりひとりが伝道者だったのです。みんな、例外なく、だいたんに神のことばを語りだしたのです。ですから、五旬節からわずかのあいだに何千人もの人々がイエス様を信じ、救われるようになったのです。みんな、こころをひとつにしてだいたんにみことばを語ったからです。もちろん、みことばを語るまえにいっしょに祈らなければ、このようにはならなかったでしょう。

この章では、私たちがともに祈ることのたいせつさについて、ごいっしょに考えてみたいと思います。主を信じる者がともに祈るときの特徴はつぎのようなものです。

1.イエス様のよみがえりの事実にもとついて祈る
2.イエス様とともに働く
3.天国に影響をおよぼす
4.ともに祈ることによる現実の結果
5.信仰の祈り
6.霊的な一致をもってともに祈る

これらについて、順をおって考えていきましょう。

1.イエス様のよみがえりの事実にもとづいて祈る


救われた人々がともに祈ることの特徴の第一番目は、イエス様のよみがえり、イエス様の復活の事実にもとづいて祈ることです。もしイエス様のよみがえりがなかったなら、つまりきょうもイエス様が生きて働いていらっしゃるという事実がなかったなら、かれらはいくら祈ってもなんにもならなかったのです。イエス様が復活なさったという事実にもとづく祈りこそが、たいせつです。

聖書のなかの「使徒の働き」を読むとよくわかるのですが、初代教会の人々は、いわゆる「キリスト教」や「キリストの教え」を宣べ伝えようとはしなかったのです。かれらはもちろん「伝道しよう」という気持ちはあったのですが、かれらが宣べ伝えたメッセージはなんであったかといいますと、「キリストは復活なさった。私たちはその証人です」というものでした。イエス・キリストの復活こそが、かれらの宣べ伝えたメッセージの中心だったのです。

そしてかれらが直面し、体験したことは「地獄のにくしみ」でした。悪魔の攻撃の目標は、人間ではなくてイエス様です。父なる神は御子のイエス様を高く引きあげられました。だから悪魔はイエス様ご自身にたいしてどうすることもできなくなってしまったのです。だからイエス様のからだである教会が、悪魔の攻撃のまとになったのです。

初代教会の人々は「地獄のにくしみ」を感じました。私が卒業した神学校の創立者はよく次のように言っていました。「あなたがキリスト者として『地獄のにくしみ』を感じないようなら、あなたは主のやくにたたない者だよ」と。主を第一にするひとはかならず「地獄のにくしみ」を感じるようになります。初代教会のクリスチャンたちは、たしかに「地獄のにくしみ」を感じました。かれらは、イエス様を知ること、イエス様にたよること、イエス様のために生きることは、もしかすると殉教の死をとげる結果になるかもしれないと、よくわかっていたのです。それがわかりながら、かれらは主をほめたたえつづけたのです。

使徒の働きの4章を見ると、かれらがほんとうに主をほめたたえた人々であることがはっきりとわかります。しかもそこには「かれらは心配でいっぱいになり、おそろしさにふるえた」とは書いてありません。なぜでしょうか。このような情況にありながら、どうしてかれらは主をほめたたえることができたのでしょうか。そのわけは、かれらがはじめからこの戦いの結果をよく知っていたからです。だからかれらは不安やおそれをまったく感じなかったのです。かれらは祈ったとき、死を克服なさったイエス様、悪魔にたいして完全な勝利をおさめられたイエス様をほめたたえたのです。

そしてかれらの祈りをささえていたものは、「地の果て果てまでも、イエス様の絶対的な支配があきらかになる」というかたい確信でした。これこそがかれらの祈りの目的でした。信じる者がともに祈ることの特徴は、このようにイエス様のよみがえりの事実にもとづいて祈ることでなければなりません。

2.イエス様とともに働く


ともに祈ることの特徴の第二番目は、「イエス様とともに働く」ことです。私たちは自分の助け、解放、恵み、ゆるし、きよめなどのために祈ります。しかし、自分のための祈りだけではじゅうぶんでないと聖書ははっきり語っています。私たちは「イエス様とともに働かなければ」なりません。イエス様といっしょに働くことは、イエス様の御名がたかめられるために祈ることを意味します。主の「信用」のために働くことを意味します。私たちはもっともっとイエス様のみこころが行なわれ、イエス様のご支配と所有がひろがるようにと祈らなければなりません。「イエス様のご支配、イエス様の勝利が地の果て果てまでもあきらかになりますように」と。

私たちの小さな生活のことなどはたいした問題ではなく、イエス様の御名、イエス様の信用こそがたいせつです。イエス様の絶対的支配が、地の果て果てまでもあきらかになることこそが問題です。そして、イエス様とともに働くこと、イエス様とともに祈ることは、私たちにあたえられたすばらしい特権であり、もちろん、同時に大きな責任でもあります。

3.天国に影響をおよぼす


信じる者がともに祈ることの特徴の第三番めは、ともに祈ることによって天国に強い影響をおよぼすことです。エルサレムでつどっていた初代教会の人々が詩篇の第2篇を読んでいたことはまちがいありません。というのは、かれらの祈りは第2篇の引用だからです。けれども、かれらはこの詩篇の聖句を研究したのではありませんでした。かれらにとって、聖書のみことばはたんなる教えなどではなく、かれらが置かれている絶望的な状態、つまり自分たちへの迫害を説明するものだったのです。かれらはただ戦いというものについて抽象的に語りあったのではなく、かれらは現実に迫害にさらされていたのです。ですからかれらは詩篇の第2篇を読んだとき、このみことばを自分たちのこととして受けとったのです。このように聖書のみことばは、自分のものにすることこそがたいせつです。聖書は研究するために書かれたものではなく、自分のこととして読み、受けとるべきものです。

「わたし(主)に求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。」(詩篇2・8)

初代教会の人々はこの詩篇の第2篇を読んだとき「わたしに求めよ。わたしは与える」、つまり主は与えてくださるということを確信することができました。ですからかれらは、そのことを待ちかねて、主に祈りをささげたのです。またこの詩篇第2篇を読むと「イエス様のご支配が地の果て果てまでひろがる」ことが主のみこころであることを知ることができます。ですから主のみこころにかなう祈りとは、イエス様のご支配が地の果て果てまでひろがるようにという祈りです。聖霊が働かれる目的も、もちろんまったくおなじです。イエス様はおっしゃいました。

「御霊はわたしの栄光を現わします。」(ヨハネ16・14)

初代教会の人々がいっしょに祈ったあとで、迫害や戦いがなくなったわけではありません。もちろんかれらはそういったことのためには祈らなかったのです。かれらの祈りは次のようなものでした。そして、この願いにたいして、主は大きくこたえられたのです。

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。(使徒4・29、30)

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4・31)

「みことばをだいたんに語らせてください」。これがかれらの祈りであり、願いだったのです。それにたいして主はこたえられました。一同は神のことばをだいたんに語りだした」のです。ひとことで言うと、初代教会の人々は、復活され、高く天にひきあげられたイエス様の絶対的なご支配を証しする証しびとたちだったのです。これこそがたいせつな点です。もし私たちが「御子のご支配が地の果て果てまでもひろがるように」と祈るなら、かならず天からのお答えがあります。

悪魔のにくしみや攻撃にもかかわらず、私たちが御子イエス様のご支配を証しするいきいきとした証しびとになることができたら、ほんとうにさいわいだと思います。精神的に無力な弱い信者によっても、主からはなれた信者によっても、イエス様のご支配があきらかになりますように。

いったいなぜ、信者がともに祈ることはそんなにたいせつなのでしょうか。信者がいっしょに祈るのは、自分の考えや自分の感情を祈りをとおしてほかの信者の人々につたえるためなどでは決してありません。聖霊の願いは、ひとりひとりのこころのうちにあるはずです。聖霊が私たちひとりひとりのうちにあって祈られたいのです。そして聖霊の目的はただひとつ、「イエス様の絶対的なご支配が証しされ、主の御名がたかめられ、たたえられること」です。したがって、信者がともに祈る祈りは、信者の一致からでる祈りであるはずです。ですからイエス様は言われたのです。

「御霊はわたしの栄光を現わします。」(ヨハネ16・14)

御霊のはたらきについて考えるとき、このみことばはもっともたいせつなのではないかと思います。「御霊はわたしの栄光を現わします」。イエス様のご栄光が現われると、人間はほんとうに小さなものにすぎなくなります。人間が聖霊に満たされると、どうなるでしょうか。そのもっともよい例はバプテスマのヨハネです。かれは「イエス様だけがさかんになり私はおとろえなければならない」という態度をとったのです。

あの方(イエス様)は盛んになり私は衰えなければなりません。(ヨハネ3・30)

私たちひとりひとりの態度をとおしても、イエス様のご栄光とご支配があきらかにされなければなりません。もし私たちが信仰によってそのためにともに祈り、感謝をささげれば、かならずその結果として天からのお答えを体験するようになります。

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4・31)

聖霊ご自身が、私たちひとりひとりのこころのうちに自由に祈られることができますように。

4.ともに祈ることによる現実の結果


信じる者がともに祈ることの特徴の第四番めは、ともに祈ることによる現実の結果です。初代教会の人々の祈りは、単純でかんたんな祈りだったのです。かれらは抽象的に、また理論的に祈ったりはしなかったのです。かれらはまず、自分の住んでいる街のために祈ったのです。

事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなた(王)が油を注がれた、あなたの聖なるしもベイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。(使徒4・27、28)

当時の信者たちは、自分の住んでいる街のために責任を感じ、一生けんめいに祈ったのです。聖句のなかの「この都」というのは、もちろんエルサレムのことです。自分の住んでいる街のために責任を感じないひとは、主にもちいられません。私たちはイエス様の代表者であるべきです。主の代表として、イエス様のこ支配にたいする証しとならなければなりません。この証しはなににもましてたいせつです。しかし、悪魔は私たちが住んでいる街で、なんという大きな力をもっていることでしょう。イエス様がこの悪魔の力を完全にほろぼし、イエス様のご栄光とご支配があきらかになることをともに祈りましょう。

いままで学んできましたように、聖霊のはたらきの目的は、主のご栄光があきらかにされることです。また父なる神の望んでおられることも、イエス様にすべての礼拝がささげられ、イエス様がすべてをご支配なさることです。御子イエス様のご支配は、かならず私たちが住んでいる街においてもあきらかにされます。そして、私たちが住んでいる街においてイエス様のご支配があきらかにされることは、父なる神のみこころです。このことを確信し、よろこびをもって主のみまえに近づきましょう。

初代教会のクリスチャンたちは、「神のみことばをだいたんに語りだした」のです。これは「自分の努力の結果」ではなく、かれらの「祈りの結果」だったのです。そしてまた、弟子たちも初代教会の人々も、「主ご自身がご自分の教会を建てられなければならない」ということをよく知っていたのです。私たちが自分の力で、主のために教会を建てようといくら努力しても、みじめな失敗におわります。初代教会の支配者は、聖霊ご自身でした。そして、信じる者がなすべきことは、この聖霊とひとつになることだけだったのです。そして、その結果は、つまり聖霊による祈りの実際的な結果は、「福音は地の果て果てにまで宣べ伝えられる」ことでした。

福音は、どのようにしてサマリヤの地方に宣べ伝えられたのでしょうか。それは十二弟子の努力の結果ではありませんでした。ひとりの信者であるピリポの証しをとおして、主なる神が大きなはたらきをなさり、ご栄光を現わされたのです。

5.信仰の祈り


信じる者がともに祈ることの特徴の第五番めは、「信仰の祈り」です。祈りは信仰の祈りでなければなりません。エルサレムで初代教会の人々は、決してあわてふためいて祈ったわけではなく、落ちつきを失って祈ったわけでもありませんでした。かれらは、悪魔に負かされるかもしれないという不安はすこしも感じなかったのです。かれらにとってイエス様の十字架とよみがえりと昇天は、イエス様こそがかぎりない全能の支配者であることの証明でした。ですからかれらはこの偉大なイエス様に祈ったのです。かれらは、何かぼんやりと遠くにおられる神に祈ったのではなく、かれらのまんなかに臨在しておられる主に祈ったのです。

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。(使徒4・29)

この祈りは、かれらが絶望して主になげき叫んだことばではなく、臨在しておられる主にまったく信頼しきって祈ったことばでした。私たちは大声で叫ぶ必要はありません。主は私たちのまんなかに臨在しておられるからです。私たちの主は決して遠くにはなれてはおられません。私たちは主と親しく交わりをもつ特権をあたえられているのです。主は私たちのほんの身近におられるのです。初代教会の人々の確信もそうだったのです。だからかれらはつぎのように祈りました。

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。(使徒4・29)

6.霊的な一致をもってともに祈る


最後に、第六番目になりますけれども、信者がともに祈る祈りは、霊的な一致から生まれでた祈りでなければなりません。エルサレムの初代教会の人々は、主に向かい、こころをあわせ、声をあげて祈りました。その結果はつぎの聖句にしめされています。

信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。(使徒4・32)

エルサレムの信者たちは、生活においてひとつにむすびあわされていました。ですから、とうぜんその祈りにおいても一致があったのです。かれらは自分のために生活するという考えはなく、いっさいのものを共有していたのでした。ということは、かれらは生活だけではなく、苦しみも、悩みも、悲しみも、また、よろこびも、おたがいに分かちあい、それらを共有していたのです。

私たちはいくら「熱烈」に祈ったとしても、それによって一致を生みだすことはできません。私たちはもうすでにひとつの御霊を飲んで、主なる神によって、内在の御霊によってひとつになっているからです。

・・・・そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(第一コリント12・13)

このことを信仰の目でよく見て、はっきりと知り、主に感謝することだけがたいせつです。このことによってのみ、まことの一致が生まれてくるのです。初代教会の人々は、自分自身の問題をいっさい忘れ、ただ主のみさかえが現われることだけを祈り求めたのです。かれらはこのようなただひとつの目的をもっていたからこそ、あらゆる意味でまったくひとつだったのです。

かれらの祈りの目的は、高く天にひきあげられたイエス様のかぎりないご支配が現わされるようにということだったのです。かれらがこころをひとつにして祈ったあの祈りの数日まえに、男だけで五千人の人々が信者になったことが記されていますが、これは主のすばらしいみわざの現われでした。しかしかれらはそれでも満足しなかったのです。かれらは全世界、とおく地の果てまでも、福音が宣べ伝えられ、主のご栄光が現わされることをこころから願ったのです。まだまだ救われていない人々がおおぜいいるのです。それに、救われてはいるが完全に主に支配されていないために主のご栄光を現わすことができない信者たちもおおぜいいるのです。

主の目的は、ご自身の御子イエス様のご支配が、私たちのうちに、また私たちをとおして、私たちの家族をとおして、集会ぜんたいをとおして、ゆたかに現わされることです。

エルサレムの信者たちは、このためにこころをつくして熱心に祈ったのです。ですからかれらは、霊による祈りができ、また、天国をも動かすことができたのです。

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16・18)

このためには、主を信じる者たちが、イエス様の復活の事実にもとづいてともに祈ることがたいせつです。また、御子イエス様がご自身をあきらかにされるために、人々が御霊によってともに祈ることがたいせつです。この祈りによってはじめて、私たちは主とともに主の教会を建てることができるのです。

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