2026年8月27日木曜日

主に頼ろう

主に頼ろう
2016年3月3日、稲毛海岸家庭集会
ゴットホルド・ベック

詩篇
16:1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。
16:2 私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」
16:3 地にある聖徒たちには威厳があり、私の喜びはすべて、彼らの中にあります。

今、読んできてくださった箇所とは、3000年前にイスラエルの王であったダビデの告白であり、また、証しです。もちろん、心からの叫びだったに違いない。

詩篇
16:1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。

人間にとっていちばん、大切なものは何でしょうかね?祈ること、助けを求めること。助けを求めなければ、助け主を知る可能性はないからです。ですから、何があっても、答えとして、『祈ろうよ』であるべきなのではないでしょうか。

ダビデの祈りは、3000年前に捧げられたものでした。けど、時代遅れになっていない。どういうことがあっても、『詩篇を読んだら?』と言いたい。詩篇を読んで祈って、祈りながら詩篇を読めば、考え方が変わる。結果として、前向きに生活することができると言うことです。ですから、詩篇はよく、ダビデの宝物と言われています。

今日はちょっとだけ、将来のことについて一緒に考えてみたいと思います。イエス様は末の世について言われたんです。

ルカ
23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。

ちょっと、考えられないことなのではないでしょうか?もちろん、イエス様はそう言われたし、必ず、そうなります。いつになるか、はっきり分からないけども、聖書の一番最後の黙示録の中で、その実現について書かれています。

黙示録
6:15 地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、
6:16 山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。
6:17 御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」

イエス様は、はっきりと約束してくださいました。すなわち、『私は、また来るよ。』今度は、もちろん、十字架の上で、また死ぬために来るのではない。へりくだった人々、頭を下げた人々を迎えるために来ると、聖書は言ってるのです。この我々の言っている『空中再臨』のとき、イエス様の恵みによって救われた人々は瞬間的に見えなくなり、死を見ないで、墓を見ないで、そのまま、よみがえりの体を持つようになり、イエス様と一緒になる、と聖書は言ってるのです。それだけではなく、その瞬間にいわゆる恵みのときも終わります。その後のことについて、前に読みました聖書の箇所によると、多くの人々は祈るようになります。

普通の祈り会にはそんなに多くの人は来ない。けれども、ここにおいては大変、多くの人々が来ています。ここには、7つの異なったグループの人たちが挙げられています。7と言う数は聖書の中で、完全な数であります。ということは、子羊であるイエス様の救いを拒んだ全ての人々が、ここに来ていると言うことになります。

恐怖が彼らをひとつにしました。従って、最も強い者も力を失ってしまう。主なる神の提供されている救いを拒んだ思い上がった人々は、モグラのように洞穴の中に隠れようとしている。けど、これらの人たちは落ちかかってくる原子爆弾から我々を守れと言うのではなく、御座にいる方から、また、子羊の怒りから守ってくれと祈り、叫ぶのです。これらの人たちは、原子爆弾や人間の前に隠れているのではなくて、子羊である主イエス様の怒りの前に隠れようとしています。

ちょっとだけ、3つの点について考えましょうか。第一番目、いつ、彼らは祈っているのでしょうか?第2番目、誰に向かって祈るのでしょうか?3番目、何を祈っているのでしょうか。

まず、いつ彼らが祈っているのでしょうか。この祈りの時は、怒りと裁きの時であると聖書は言っています。すなわち、彼らの祈りはすでに遅すぎます。考えられない可能性です。今はもちろんまだ、恵みの時です。救いのときです。今日なお、自分のわがままを認め、悔い改めて、イエス様のもとに来る人々は、罪の赦しを受けます。それだけじゃなくて、永遠のいのちを自分のものにすることができます。

聖書においては、父なる神の怒りについては、多くのことを学ぶことができますけど、小羊であるイエス様の怒りについてはあまり多くの事を知ることができません。小羊の怒りということは、完全な破壊を意味している。その愛から、いのちを与えられたお方が、今、怒っておられます。

もっとも、主なる神の怒りを、我々のために代わりに受けてくださったそのお方であるイエス様が怒る時に、いったい誰がこれに耐えることができるのでしょうか。もし、そうであれば、もうすっかり駄目です。小羊が怒れる時には、もはや救いがない。ちょうど逆のことがローマ書の中に書かれています。すばらしい事実です。

ローマ
8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

イエス様が、我々の味方であれば、誰も我々の敵となることはできません。けど、イエス様が我々の敵となるならば、誰が救い、自由を与え、癒すことができるのでしょうか。小羊が怒れる時には、すべてがもうお終いです。

2番目の質問は、誰に対して、大勢の人々がそのとき、祈るのでしょうか。ここに書かれているように、山と岩に向かって、彼らは祈っている。このピアノに向かって祈っても同じ。まったく、意味のない空しい祈りです。イエス様の御名を呼び求める者が救われると、聖書は何回も何回も言っている。ただ、主なる神の救い主のもとにのみ、救いがあります。

イエス様は、聖書において、『岩』そのものと呼ばれています。今日もなお、イエス様に自分の支配権を委ねる人は、揺るがない永遠の岩の上に守られます。けども、この人たちは山や岩に向かって熱心に祈りますが、けども、それは意味の無いこと、まったく的外れ、無駄なことです。

ちょうど始めの人間であるアダム、また、エバが、主なる神の前から逃げようとした時のように、恐怖と不安とが、これらの人たちを捕らえています。罪と良心の呵責とが、人間を主なる神の前から逃れさせるのです。人間の過ち、人間のわがまま、そのものが、人間を結局、臆病者に、そして、神の前から逃げる者にさせるのです。もしかすると、今日、来られた方々の中で、主なる神の前から、まだ逃げている(方もいる)かもしれない。そのようなことを止めて、悔い改めて、イエス様のもとに帰ってもらいたい。イエス様こそが本当の逃れ場であり、イエス様はもちろん、待っておられるお方です。受け入れて、赦そうと思っています。

3番目の質問は、将来、おおぜいの人々は、何を祈っているのでしょうか。「我々の上におしかかれ、私たちをかくまってくれ。」と祈っている。これらの人たちは、主なる神の前に出るよりも、死のほうを望んでいます。彼らは、かつて自分の罪を認めようとしなかった。そして、小羊なる主イエス様の提供されている救いを受け入れようともしなかったのです。そして今、小羊の怒りから逃れようとしています。けども、裁きと小羊の怒りから誰も逃げることはできません。

ヘブル
9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている。

主なる神の裁きと小羊の怒りとは、恐ろしい、恐るべき事実なのです。『誰がそれに耐えられるでしょうか、』と将来の人々が叫ぶのですけど、これは心からの問いかけではなくして、単なる恐れから、心配から出た叫びです。誰も主なる神の裁きに入る時には、その裁きがどのようになるのかという疑問は持っていないのです。なぜならば、小羊であるイエス様の裁きが正しいことは、すべての人が知っているから。

3つの質問について考えましょうか。

第1番目、我々は、いつ祈るのでしょうか。今、恵みを受け入れられる時に祈るのでしょうか、それとも、恵みの時が過ぎ去り、すべてのものが揺り動かされる時に祈るのでしょうか。

イザヤ
55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

次の質問は、誰に向かって祈るのでしょうか。生けるまことの神に向かって、イエス様を通して永遠の救いを提供しておられる神に向かって祈るのでしょうか、それとも後の日に、岩や山に向かって祈るのでしょうか。

そして、何を祈るのでしょうか。一時的な自分の守りについて祈るのでしょう。それとも、不滅の魂のために祈るのでしょうか。永遠のいのちのために祈るのでしょうか。私たちが今の時に、『罪人の私をあわれんでください』と祈るのでしょうか。それとも、後の日に岩や山に向かって、『我々の上に落ちかかれ!』と祈るのでしょうか。それは、『罪人の私をあわれんでください』と祈るほうがはるかに賢明です。その人の罪がイエス様の流された血によって、おおわれている人だけが、その日には守られるのです。

詩篇の作者であるダビデは、また書いたのです。非常にすばらしい告白です。

詩篇
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

イエス様は、今の時代にはなお救い主です。けど、裁きの日には、救い主ではなくて、裁き主となります。我々の生活の基礎は、いったい何なのでしょうか。その基礎がイエス様にある人は幸せです。今日もなお、永遠の愛を持つお方の声が聞こえてきます。

詩篇
2:12 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。

イエス様を信じる人々にとって、来るべき真っ暗な裁きの日に対して、2つのことが言えるのです。すなわち、私たちにとっては、まず、まだ救われていない知り合いの人々のために、絶え間なく祈るということ、そして、その次に、それらの方々をイエス様の御許に連れてくるために、愛の労苦をするということこそ、要求されているのではないでしょうか。

イエス様を知ることこそがもっとも大切であります。私は、いろいろな人々の証しを読むと、本当にうれしくなります。一人の証しとは、次のようなものです。1623年生まれ、1662年に亡くなった男です。パスカル、名前はみな、聞いたことがあるでしょう。ずっと、病気でした。39歳でなくなった。けれど、彼は次のように言ったのです。『イエス様、私は健康になりたい、また、病気になりたいと祈ろうとしません。元気になっても、病気になっても、別にどうでもいい。しかし、生きていても死んでも、あなた様が栄光をお受けになりますように。私にとって、何がいいか、どうか、あなた様だけが知っておられるのです。あなたの望むままにしてください。与えてもいいし、取られてもけっこうです。主よ、ひとつのことだけは確信しています。あなた様に従うこととは、自分にとって最高であり、そして、あなた様を悲しませることは、自分にとって損です。私にとって必要なものは、健康か、病気か、分かりません。富か、貧しくなるのかも分からない。他の全てのことについて、考えても同じです。人間にとっても、天の御使いたちにとっても、まったく分からないものです。私にとって、何が良いか、悪いか、分かりません。これはひとつの奥義です。私はそれを知ろうとしません。私はただ、あなたを崇拝したい気持ちでいっぱいです。』こういうふうに言うことができるのは、ありがたいのではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿