2016年3月1日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
詩篇
32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
今、言われたように、今日は、主イエス様のまなざしについて、いっしょに考えたいと思います。このあいだ、私たちは、イエス様のまなざしとはどういうものかについて考えて、答えは、イエス様のまなざしとは、愛のまなざしです。ニ番目、イエス様のまなざしとは、希望のまなざしです。今日は、イエス様のまなざしとは、どういうものかについて考えて、答えは、イエス様のまなざしとは、憐れみのまなざしです。
ルカ
7:11 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。
7:12 イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。
7:13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
7:14 そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。
7:15 すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。
すごい贈り物だったね!
この婦人は、いろいろな人生の重荷に耐えかねて、疲れ果てたかわいそうな者でした。まず、ご主人が前に亡くなられた悲しみを体験しなければならなかったんです。それだけでなく、もうひとつの大切な問題とは、結局、ただひとつの喜びであり、支えとなった息子、一人息子も死にました。そして、イエス様は、この悲しむ婦人を見て、深い同情を寄せられたのです。イエス様はこの婦人のところに来て「泣かないでいなさい」と言われました。彼女は、「はい、わかった。かしこまりました」とは言わなかったよ。
この婦人は、おそらく涙ながらにイエス様の顔を見上げました。その時、二人の視線が出会ったのです。深い憐れみに満ちたまなざしが、そこにありました。イエス様は、もちろん、細々した事や慰めの言葉などを、くどくど仰ることはなさいませんでした。死んだ若者に向かって、ただ一言、「青年よ、さあ、起きなさい」と言いました。すると、死人は起き上がって、ものを言い始めたとあります。想像できないほどすばらしい奇蹟です。イエス様の力の表れでした。
この婦人は、イエス様の憐れみのまなざしを見るまでは、全く打ちのめされ、絶望的な状態に置かれていたでしょう。そのようなわけで、葬式に行く途中、葬りに出すところで、この婦人は、全く望みのない状態の極限にまで追い詰められたのです。
人間的に見るならば、時すでに遅く、もうどうすることもできない所まで行ってしまったのです。けれども、イエス様にとっては、決して、遅すぎるということはありません。我々にとっては、終わりと思われる最悪の状態にあっても、イエス様は助けることがおできになるお方です。人間的に見るならば、人生も滅茶苦茶になってしまっており、もうどうすることもできない状態にまで来てしまったと思う人もいるけど、その状態にあっても、イエス様にとっては遅すぎるということはない。
私たちが必要としているものは何でしょうか。イエス様の憐れみのまなざし以外の何ものでもありません。私たちの苦しみが、いかなるものであろうとも、イエス様の愛のまなざしであることを考えれば、すなわち、イエス様の愛のまなざし、希望のまなざし、そして、憐れみのまなざしは、我々に対しても向けられています。
けれども、イエス様のまなざしは、愛のまなざし、希望のまなざし、憐れみのまなざしであるのみならず、誤った者を正しい道に戻し、正しい道を教え諭すものです。すなわち、訓戒のまなざしです。
この訓戒のまなざしは、ペテロとの関係において、ひとつの姿を見出すことができます。
ルカ
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。
『主が振り向いてペテロを見つめられた。』その前のマタイ伝26章を見ると、また、このペテロについて、次のように書かれています。
ルカ
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜(・・・・再来年!と言ったならば分かるけども、今夜・・・・)、鶏が鳴く前に(・・・・結局、数時間以内に・・・・)、あなたは三度(・・・・一回だけではなくて、三度・・・・)、わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
彼は、嘘をつくつもりではなかった。本当に、心からそう思ったに違いない。かつて、ペテロは、イエス様の前に、自信に満ちた言葉をもって断言しました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは、決して申しません。」
イエス様は、弟子たちに向かって、「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈りなさい」と、注意をなさいました。ペテロは自信に満ちて、真剣に考えなかったのです。彼は、下役どもと一緒に座っていたのです。けれども、彼は、イエス様を信じようとしている人々ではなくて、反対に、イエス様を捕えよう、殺そうと思った人々と一緒でした。そして、ペテロは、そのような連中と一緒になって、結局、交わったのです。ペテロのこのような態度の結果は、以前の自信に満ちた時の状態とは全く変わって、臆病者のように、「イエス様を知らない」と言ったのです。
マタイ
26:69 ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言った。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」
26:70 しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言った。
26:71 そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言った。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」
26:72 それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言った。
26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
26:74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
自信が強すぎると傲慢になり、心の目がくらまされてしまうのです。その結果、ペテロは、イエス様の警告を無視してしまったのです。みことばの上に立たず、みことばだけを大切にしないと、悪魔の勝利になってしまいます。自信過剰からみことばを無視すると、やがては、未信者と交わるところまでもう一歩というところまで行ってしまうのです。
パウロはコリントにいる兄弟姉妹に注意したのです。
第ニコリント
6:14 不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
イエス様は、悪魔の誘惑に陥らないよう目を覚まして祈っていなさいと警告なさったのです。私たちは、もう大丈夫!という自信過剰に陥ると、まもなく、悪魔の罠に陥ってしまいます。これこそ、ペテロの体験でした。人間的に見るならば、この瞬間に、ペテロはもうだめになったでしょう。イエス様は、彼にはっきり言われました。
ルカ
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。(・・・・拒まなかった。聞き届けられた。・・・・)
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
イエス様は、サタンがペテロを試練に会わせることを願って許されたため、ペテロの信仰がなくならないように、ペテロのために祈られました。ペテロが主を知らないと言って、三度、拒んだ時、イエス様は振り返って、ペテロをじっと見つめられたのです。この時のイエス様のまなざしこそ、正しい道から離れた者に、その道を指し示す訓戒のまなざしだったのです。このイエス様の訓戒のまなざしは、ペテロの心を貫き通し、悔い改めの心を起こしめたのです。
その時、ペテロは、未信者から離れて、一人外に出て、激しく泣いたとありますね。それからの三日間というものは、ペテロにとって、すべてがもう暗闇であり、何も考えることもできなかったでしょう。ペテロは、自分が、天から来られた、約束された救い主を拒み、裏切る者となったということだけは、はっきりとわかりました。主のまなざしは、彼にとって忘れられないものとなり、いつも頭の中に刻み込まれていました。
婦人たちから、イエス様の復活のことを聞いたペテロは、本当に墓が空であるかどうかを確かめるために、急ぎました。後で、ペテロだけがイエス様と出会ったと書かれています。その時、どのようなことが話されたかは、もちろん、聖書は言っていませんから、わかりません。ペテロが、イエス様の訓戒によって、正しい道を示されたことは確かです。
イエス様が、「わたしを愛するか」と、ペテロに三度も問われた時、ペテロは、「そうです!」と、心から答えました。使徒行伝や手紙を見ても、ペテロが後で完全に回復されたことがわかります。ペテロのしっかりとした錨は、イエス様との持続的な結びつきに根差していました。ペテロの喜びは、イエス様に徹頭徹尾、より頼むところにありました。そして、ペテロの全生涯の特長は、完全な権威と力でした。イエス様を拒んだ臆病者のペテロは、後で、死をも恐れない勇気のあるイエス様の証し人となったのです。
最後に、彼はイエス様のために、殉教の死を遂げたと伝えられています。私たちもペテロと同じように、自分自身により頼むことをせず、常にみことばの上に立って、妥協したり、未信者と一緒になることから遠ざかるように、注意しなければならないのではないでしょうか。
イエス様のまなざしとは、どういうものでしょうか。今、いっしょに考えたのは、イエス様のまなざしとは、愛のまなざしであり、希望のまなざしであり、そして、憐れみのまなざし、訓戒のまなざしでもあります。
最後に、イエス様のまなざしとは、良しとされるまなざしでもある。
ヨハネ
1:45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」
1:46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」
1:47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
1:49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
1:50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」
1:51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」
このナタナエルという男の特長は、何だったでしょうか。真実、純粋、誠実でした。このような特長があれば、イエス様はそのような人を良しとなさいます。
今日、いったい、真実、純粋、誠実はどこにあるのでしょうか?今日の特長は、偽り、不真実、邪悪、不純など、およそ正反対な時代なのではないでしょうか。けれども、そのようなナタナエルといえども、イエス様を直ちに信じたわけではなく、初めは、疑っていたのです。
「ナザレから何の良いものが出ようか」と、彼は言ったのです。けれども、彼は、イエス様が本当に神の子であるかどうかを確認するために、イエス様のところへ行ったのです。彼は、約束された救い主が、ベツレヘムから出ることを、はっきり確信したために、ナザレから出たイエスは本物ではない、とても信じられなかったのです。けれども、彼は、イエス様が、ナザレから出たか、ベツレヘムから出たかということにあまりこだわらないで、直接、イエス様に会って、確かめてみようと思ったのです。
彼は、イエス様と出会って、主イエス様が、本当に神の御子であることを確信するようになりました。出会う前は、ナザレのイエスは本物ではない、救い主ではないと、100パーセント思い込んでしまったのですけど、出会ってから主イエス様が、約束された救い主であり、神の御子であることを、100パーセント信じました。
このような真実、純粋、誠実な性質は、決して、生まれつきのものではありません。いかなる人間にも、多かれ少なかれ、偽りの気持ちがあるものであります。けれども、イエス様との出会いによって、欺きや偽りの気持ちが、消えて無くなってしまうのです。
正直な心がない場合には、本当の望みと祝福とはありません。正直な素直な心を持っている者は、天が開けるとは、上からの啓示によって、イエス様をよく知ることを意味します。あらゆる偽り、欺きからの解放は、ただイエス様の十字架によってのみ成就されます。それですから、イエス様は、十字架を受け入れて、それを背負って、主イエス様に従うことを要求なさったのです。
パウロは、まさに、十字架を負って、イエス様に従う用意のできた男でした。「私はキリストとともに、十字架につけられた。生きているのは、もはや私ではなく、イエス様である」とパウロは証しすることができたのです。
私たちもイエス様に出会って、イエス様のまなざしを見る必要があります。
どういうまなざしであるかと言いますと、今、考えたように、深い愛に満ちたイエス様のまなざしは、明らかに十字架について語っています。それから、イエス様の希望のまなざしは、ご自身との交わりに入ることを望んでおられます。私たちもイエス様との交わりに入りたいという強い要求を持っているのでしょうか。そのことに対して、無関心な人は本当に災いです。そして、あわれみに満ちたイエス様のまなざしは、死人をも生き返らせる力を持っています。イエス様の訓戒のまなざしだけが、我々に正しい道を指し示し、回復してくださるゆえに、私たちにとって、どうしても必要なものです。私たちの生活の中には、回復されなければならないことが数多くあります。そのことについて、無関心である者は、しだいに心がかたくなになり、メクラにされてしまいます。
また、良しとしてくださるイエス様のまなざしは、天が開けるのを見ることを約束されています。自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に、優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするものでしょう。そのような状態にある者は、イエス様は用いることができない。知らないうちに悪魔の道具にされてしまいます。
ダビデの証しとは、本当にすごい、すばらしい祝福のもとです。
詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。
自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たりしないで、ただイエス様だけを見上げることが、祝福の道、勝利の生活の秘訣です。
イザヤ
48:10 見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。
48:17 あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。
48:18 あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに。
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