2024年5月19日、吉祥寺集会
重田定義兄
詩篇
57:7 神よ。私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません。私は歌い、ほめ歌を歌いましょう。
ご覧のように、私は、今、酸素を吸入しながら、お話をしております。静かにしている時は、酸素がなくても、とくにどうということはないんですけれども、何かする時に、酸素がありません――吸入しませんと、途端に息苦しくなってしまいます。しかし、私は、この酸素というのは、イエス様の愛に例えることができるのではないかなと今、ふと考えたんです。イエス様の愛は、普段、私たちに注がれてはいるんですけども、あまり気にしないでも、すんでおりますけども、いざという時に、イエス様の愛がないと、途端に、私たち、とくにイエス様を信じるものは、呼吸困難に陥ってしまうのではないか?そのようなことを、今ちょっと考えました。
これは余談ですけれども、これから、今、公人兄弟に読んでいただきました詩篇の57篇の7節から、ご一緒にイエス様の御心を考えてみたいと思います。
この箇所、57篇7節のとくに前半、これは主なる神様に対するダビデの不動の信頼を表す言葉であります。『私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません』と、二度も繰り返している言葉の中に、主なる神様に対する彼の信頼が、いかに深いかをうかがい知ることができます。
この時、ダビデはサウロ王から命を狙われ、その追跡の手を逃れて、洞窟に潜んでおりました。命の危険にさらされている時に、どうしてこのように言えるのでありましょうか?
ダビデの神様に対するこの揺るぎない信頼は、いったい、どこから生じたのでありましょうか?それは、ダビデが主なる神様との人格的、霊的な交わりを通し、自分がどんなに主に愛され、守られているかを知って、いかなる逆境にあっても、主に自分の全てをゆだねることこそが、最善の道であり、それこそ主の御心であると、確信できたからではないでしょうか。
主が、サウロの手からダビダを救い出された日に、彼は次のように、主を賛美しました。第二サムエルの22章からお読みいたします。
第二サムエル
22:2 ・・・・「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、
22:3 わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。
22:4 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。
22:5 死の波は私を取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。
22:6 よみの綱は私を取り囲み、死のわなは私に立ち向かった。
22:7 私は苦しみの中に主を呼び求め、わが神に叫んだ。主はその宮で私の声を聞かれ、私の叫びは、御耳に届いた。
22:17 主は、いと高き所から御手を伸べて私を捕え、私を大水から引き上げられた。
22:20 主は、私を広い所に連れ出し、私を助け出された。主が私を喜びとされたから。
22:47 主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの岩なる神。
ダビデと主なる神様との交わりは、彼が羊飼いであった少年の時に遡ります。神様は、少年ダビデに目を留められ、御心にかなわぬサウル王を退け、ダビデを次の王として選ばれ、それから後、彼にさまざまな厳しい試練を与えて、訓練なさいました。
それは、ダビデをただ主にのみ、より頼む信仰の人にふさわしく成長させ、用いようという主の御心でありました。その試練の一つがサウル王の部下として連戦連勝して、民衆の人気を得たダビデを嫉妬したサウロ王に、命を狙われたことだったのでありました。
王になってからも、ダビデは何度となく、困難な状況に陥りましたが、そのような状況にあっても、彼の死に対する揺るがぬ信頼は、決して軽くなることはありませんでした。例えば、ダビデは自分の息子のアブシャロムからさえも、命を狙われましたけれども、その時に、彼は、主に次のように祈っております。
詩篇
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。
3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。
3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
また、ダビデがペリシテ人に、捕らえられた時にも、次のように、主に信頼して動じませんでした。
詩篇
56:1 神よ。私をあわれんでください。人が私を踏みつけ、一日中、戦って、私をしいたげます。
56:2 私の敵は、一日中、私を踏みつけています。誇らしげに私に戦いをいどんでいる者が、多くいます。
56:3 恐れのある日に、私は、あなたに信頼します。
56:4 神にあって、私はみことばを、ほめたたえます。私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう。
しかし、主なる神様は、ダビデのみならず、ご自分がお選びになったものを、試練という方法で訓練してくださいます。それは、ご自分のしもべとして、また、子として用いるために、ご自分にのみより頼むように、その者の信仰を成長させようという主の御心なのであります。
ヘブル
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。
しかしながら、私たちを愛してくださるがゆえに、主は訓練と同時に、それから逃れる道をも備えてくださっておられます。
第一コリント
10:13 ・・・・神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。
主は、ご自分が選ばれた者に対して、常に最終的な責任を負ってくださいます。ですから、どんな困難に直面しても恐れるということはないのであります。
ローマ
8:31 ・・・・神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
私たち信者は、主の一方的なあわれみによって、救いの対象に選ばれました。そして、主は、その私たちに対して、ご自分に対するゆるぎない信頼を求めておられます。それは、救われた私たちが主のしもべとして、主の子供として用いらられるために、ぜひとも必要なことであるからであります。
では、主に対するゆるぎない信頼の根拠となるものは、いったい何でありましょうか?
それは、次の事実によっております。第一は、キリストが私たちのために、十字架の上で尊い血を流し、私たちの罪をあがなってくださったという事実であります。
神の御子であられながら、人としてこの世に生まれてくださり、十字架の上できよい血を流し、尊い命を捨ててまでして、神様に逆らい自分勝手に生きていた私たちを愛してくださり、そのままでは滅びしかない私たちの罪を負ってくださったいうというその事実こそ、私たちの主に対する揺るがぬ信頼の根拠であります。
第一ペテロ
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために(・・・・すなわち、義なる神様に従うために・・・・)生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
また、主に対する揺るぎない信頼の根拠となるものは、主イエス・キリストがよみがえられ、信じる私たちにご自分のよみがえりの命を与えてくださったという事実によってであります。
ヨハネ
11:25 ・・・・「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。・・・・」
第一コリント
15:17 そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。
15:18 そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
このようにあります。また、主に対する揺るぎない信頼の根拠となるものは、主イエス・キリストが、私たちを決してお見捨てにならないという主のお約束によってであります。第二コリント四章でパウロはこう言っております。
第二コリント
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
このように言っており、そして、へブル人への手紙の13章、には、次のようにあります。
へブル
13:5 ・・・・主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
13:6 そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」
最後に、神に対するゆるぎない信頼の根拠となるものは、信じる者に宿ってくださっている御霊が、これまでに述べてきた数々の主の約束、全てを保証してくださるという事実によってであります。第二コリントの一章でパウロは次のように言っております。
第二コリント
1:20 神の約束はことごとく、この方(・・・・すなわちイエスキリスト・・・・)において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。
1:21 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油(・・・・すなわち、聖霊・・・・)を注がれた方は神です。
1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。
今日の世界は、手のつけられないような大混乱に陥っております。今まで、安心、安全と信じて依存していたものがすべてガラガラと崩壊し、世界中の人々がこの先どうなるか、どう生きていけるのか、不安と恐怖におののき、おびえております。
目に見えるものがいかに堅固に見えても、それがどんなに脆いものか、そのようなものに依存して生きていることがいかに愚かなことであるかを、如実に示しているのが、今日の世界ではないでしょうか?
そして、このような嵐の荒れ狂う世界に生きている私たち信者も、ともすれば、この世の人々と同じように恐れたり、動いしたりしてしまいます。しかし、嵐の中にあっても、日々、私たちが主にゆるがぬ信頼を置いていれば、主という固い岩にしっかりと信仰の土台を据えてさえいれば、どんな嵐が吹き荒れようとも、決して倒れるようなことはありません。このことをイエス様は例えによって、私たちに約束してくださっております。
ルカ
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たち(・・・・それを行うというのは、主を信頼して従うということですが・・・・)がどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
6:49 聞いても実行しない人(・・・・すなわち、主を信頼しない人・・・・)は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」
イエス様がおっしゃっているように、私たちはイエス様という固い岩の上に、深く土台を据えた信仰の家を建てたいものであります。
かつて、イエス様は弟子たちとともにガリラヤ湖を小船で渡っておられたときに、大暴風が起こり、船が沈みそうになったことがありました。弟子たちは、溺れ死ぬではないかと恐れおののきました。しかし、イエス様はそのような時にも、ぐっすり眠っておられたのです。弟子たちは、イエス様を起こし、『助けてください』と叫びました。目を覚まされたイエス様は弟子たちにおっしゃいました。『なぜ怖がるのか信仰のうすい者たちだ』と。
もし、弟子たちがイエス様に全き信頼を置いていれば、嵐の中でも安らかに眠っておられるイエス様を目の前にした時に、イザヤ書の41章10節に、
イザヤ
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
とありますように、イエス様が自分たちと同じ船におられるという安心、平安な心で、嵐も恐れることなく、揺れる小舟に身を任せることができたでありましょう。けれど、もし私たちが、弟子たちのように主に信頼しなければ、イエス様は共におられても、不安と恐れを覚えて、うろたえてしまうのであります。
今、世界中に吹き荒れている嵐は、聖書で予言されているとおり、世の終わりを示す前兆であり、それは、また、主のご再臨の間近い印でもあります。
この時にあって、私たち信者は、自分の上に何が起ころうとも、たとえ命の危険にさらされようとも、主に全き信頼を置いて、ダビデのように、『主よ、私の心はゆるぎません。私の心はゆるぎません』ということができる信仰に固く立って、主にある兄弟姉妹と心を一つにして、日々、ご再臨を待ち望みつつ、主を証しする信仰の歩みを続けることができるように、御霊のお導きと支えを心から祈る次第であります。
最後に、詩篇16篇のみ言葉をお読みして終わります。
詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
ありがとうございました。
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