2024年5月12日、秋田福音集会
翻訳虫
第一ペテロ
5:10 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。
私たちが集っている集会のある姉妹が、長い間、脊柱管狭窄症という病気を患っています。治療を受けても、ひどい痛みが消えず、一時的に苦痛が和らいだように思えても、また元に戻ってしまうそうです。手足も動かすことができなくなり、痛みのせいで、気力もなくなって行く一方であるとのことでした。
このことから、痛みの中で祈るということについて、いろいろと考えるようになりました。今日は、このことについてお話しをしたいと思います。
主を信じている人も、信仰を持たない人と同じように痛みを経験します。
聖書の中には、神の助けで人が病から解放される話がたくさん出てきますが、現代に生きている私たちは、祈りによって痛みが消えるということはありません。痛みを消して欲しいという願いを、神が拒んでいるとしか考えられないこともあると思います。そのようなときも、み言葉によって祈ることの意味を考えてみたいと思います。
ペテロ
このことを考えるきっかけとして、はじめに、イエス様とペテロの会話を取り上げてみます。
十字架にかけられる前の夜、主は弟子たちを集めて、彼らと別れる時が来たと、お告げになりました。ペテロはその主のことばに答えてこう言っています。
ヨハネ
13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
自分のイエス様に対する忠誠心は、何があろうと崩れたりしないと、ペテロは絶対的な自信をもっていました。しかし、ペテロの信仰は、死の恐怖の前で簡単に崩れ去ってしまいます。ペテロが、自分の身を守るために、イエス様など知らないと三度も否認したことは、誰もがご存じのとおりであります。
さて、イエス様は十字架にかけられたのち、復活され、ガリラヤ湖の岸べで、再び弟子たちの前に現れました。この時、主は、このペテロに特別に語りかけました。
ヨハネ
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
同じこのやりとりが三度、繰り返されました。よみがえられたイエス様は、大きな挫折を経験をしたペテロが、主に対する揺るぎない愛と信仰を持った使徒として生まれ変わったことを、この会話で認めてくださったのであります。
しかし、次の節で主がペテロに投げかけられたのは、非常に恐ろしい言葉でありました。
ヨハネ
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
この言葉は、ペテロにとって非常に大きな衝撃であったと思います。
21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」
たった今、イエス様は、ペテロが心から悔い改めていることを認めてくれました。しかし、そのペテロに対して、主は、ペテロが自分と同じように十字架に向かって歩き、神の栄光を現わすために、苦しみの中で、むごたらしく殺されることを告げられたのであります。
『あなたは若かった時には』、すなわち、主を知らず自分だけで生きてきた時代には、『自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩いた。』すなわち、痛みも苦しみもなく、自由で気ままに生きてきました。
しかし、『年をとると』、すなわち、本物の信仰を持った真実の弟子となると、『人が、あなたの行きたくない所に連れていく。』すなわち、これからの人生を、絶え間ない迫害と苦痛の中で生きることになります。
これと同じ言葉が、現代に生きるキリスト者たちにもかけられているのではないかと思います。
真実の信仰を持つことによって、人間は苦しみから解放され、痛みのない生活を与えられるわけではありません。むしろ、その痛みの中で、心を主に向けて、神の栄光を現わすために生きる人生を歩むことになります。
痛みの中で、今に生きる信者たちに求められているものは何なのか。その答えが説明されているローマ書のことばを見てみます。
苦しみの中で神の栄光を表す
パウロは、次のように書いています。
ローマ
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
ここでパウロは、どのような苦難、迫害も、自分を主キリスト・イエスにある神の愛から、引き離すことはできないと宣言いたしました。この『苦しみ』には、絶え間なく続く痛みも含まれているのではないかと思います。
私たちも、痛みの中にあっても、主に対する信頼を捨てることなく、キリストを褒めたたえる者であり続けるなら、その様子を見た人たちの目には、キリストの恵みの大きさを表す何よりも大きな証しとなります。
その時、私たち自身が、痛みから解放されることよりも、キリストを持つことの方がはるかに大きな価値を持つという事実の生きた証拠となるのであります。
それは、書物に書かれた知識ではなく、目の前にある客観的な証拠となります。その証拠を、私たち自身が世に示すことができれば、それこそ、私たちが神の栄光を現わすことになると言えるのではないでしょうか。
支えとなってくれる御言葉
しかし、実際には、私たちのほとんどは、使徒たちのような強靭な精神を持ち合わせていません。痛みの中にある時に、全く動揺せずに耐えるということは、誰にでもできることではありません。
幸いにも、聖書には、痛みの中で、神が苦しみの中でもともにいてくださることを教えてくれるみ言葉が、たくさん与えられております。ここで、痛みの中で勇気を与えてくれるみ言葉のいくつかを拾い上げてみたいと思います。
パウロは、使徒となってから、それまでの恵まれた生活からは考えられないほどの苦しみを味わいました。そのパウロは、第二コリントで次のように書いています。
第二コリント
1:4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1:5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
十字架に付けられたイエス様は、人間が味わう痛みをご存じであります。そして、また、痛みの中で父なる神に助けを求めても、何も答えてくれない絶望的な孤独をも経験されました。
痛みのために、私たちの心が圧倒されてしまい、助けてくれる人もいないように思えるような時も、イエス様が私たちのすぐそばにいて、慰めを与えてくださることをこのみ言葉は思い出させてくれます。
次のことばも、私にとっては、個人的に大きな力となったものです。
ガラテヤ
3:13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
主と結ばれている私たちが、罪に定められることは、もうありません。
イエス様ご自身が十字架にかかって、私たちを罪に定める呪いを取り去ってくださいました。私たちが抱える痛みは、のろいではなく、神からの懲罰でもなく、天国に続く光の道であることをこの言葉が教えてくれます。
イエス様は、痛みの中で希望を失いそうになる人間の弱さを理解してくださっているお方です。次のことばは、そのことを表しております。
ヘブル
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
主は、人間と同じ苦しみをお受けになりましたが、それでも父なるの神の真実を疑うことはありませんでした。
私たちの方はと言えば、痛みの中で主から目をそらし、この世に救いを求めるという罪を犯しそうになることがあります。このみ言葉を噛み締めながら、私たちが主だけにいつも信頼できるように、私たちの信仰を支えてくださるようにお願いしたいと思います。
もうひとつペテロのことばをご紹介します。
第一ペテロ
4:1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。
4:2 こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。
肉の苦しみを受けるものは、罪から逃れるとあります。
痛みの中にあっても、自分の『欲望のため』、すなわち、苦しみから逃れることだけを考えるのではなく、痛みの中で神の栄光を表すことを願いながら過ごすようにイエス様は招いてくれています。人間と同じ痛みを経験された主イエス様は、私たちの苦しみを実りあるものにする手段を与えてくださるのであります。
ラザロ
痛みの中で慰めを与えてくれる聖句を探してきましたが、聖書には、もっと大きな力となってくれる言葉があります。実は、ここまでにご紹介した聖句の全てを超えるほどの破壊力を持つ御言葉ではないかと、私は個人的に思っています。そのみ言葉をご紹介して終わりたいと思います。
福音書に戻って、やはり、イエス様が神の栄光を現わされた例として、ラザロという人について考えてみます。
ヨハネ
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
マリヤ、ラザロ、マルタという三人は、イエス様の仲の良い友人でした。そのラザロが重い病気にかかりました。
ヨハネ
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
マリアとマルタは、遣いを送って、早く助けに来てくれるようにお願いしましたが、それを聞いた主の答えは次のようなものでした。
ヨハネ
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
ラザロが病気であることを聞いたイエス様は、すぐにこの病気を『神の栄光』と結びつけました。
ヨハネ
11:5 イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
5節には、イエス様が、この三人を格別に愛していたことがあらためて強調されております。
ヨハネ
11:6 そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
イエス様は、すぐにベタニヤに駆け付けてラザロを助けることをせず、ラザロが死へと向かうのを待たれました。5節と6節は『そのようなわけで』という言葉でつながれています。これはよく考えると、不思議なことばです。
子供の頃、国語のテストで、二つの文章のあいだをつなぐ正しい接続詞を選びなさいという問題がありました。『今日は良い天気だ。』・・・・『おもてに遊びに行こう。』この二つをつなぐ適切な言葉を選びなさいというようなものです。
イエス様はこの三人を愛していた。『それなのに、イエスは、その場所にとどまった』とあるなら、文章として意味は通じます。しかし、実際には、主は三人を愛していた。『そのようなわけで』、すなわち、ラザロを愛していたので、この場所に二日間とどまり、主はラザロを死なせました。
この『そのようなわけで』という言葉には、人に対する神の愛の性質が現れているのではないかと思います。
イエス様の人間に対する愛とは、痛みを取り除くことではなく、死から救うことでもないのです。4節から6節をまとめて読むと明らかになることとは、人が神に愛されるということは、その人を通して、神の栄光が現わされるということであります。
ヨハネ
11:15 「わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」
ラザロが病気の中で死んで、そのために、村人たちが神を信じられるようになり、このようなかたちで、神の栄光が現わされたことを、主はよろこばれました。
しかし、それでいて、主は、マリアが泣いているのをご覧になると、『心の動揺を感じ』られたとあります。
ヨハネ
11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、・・・・
痛みの中で、何よりも力を与えてくれるみ言葉であると私が思うのは、その次の短い一節であります。
11:35 イエスは涙を流された。
ラザロの死は、神の栄光が現れるために、主ご自身が計画され、容認されたことでした。それでもなお、ラザロが苦しみの中で死に、その死によって、姉妹の心が引き裂かれたことに、主は悲しみの涙を流されました。
イエス様には、神の栄光だけが大切で、そのために人間が苦しむことは無関心なわけではありません。イエス様は雲の上から、神が栄光を受けるためなんだから、アンタたちはガマンしなさいよと、突き放した目で見ているのではありません。
このベタニヤの出来事の後、主はご自身が十字架に釘付けられ、誰も経験したことがないほどの苦痛を経験されました。
その上でなお、イエス様は、人が受けるこの痛みは神の栄光のためであると言われます。神の栄光が現れるための痛みの恐ろしさをご自分の経験として知っている主は、今も、私たち一人一人のために涙を流されているのではないかと思います。
痛みの中の祈り
痛みの中で力となってくれる御言葉を聖書の中から探してみました。
痛みの中にある時は、誰もが癒しを求めて祈ります。
もし、祈りの結果として、どんな病気も治り、ひどい痛みもたちどころに消えるということになれば、誰もが神を信じるでしょう。世界中がキリストの信者であふれかえり、教会には人々が殺到するかもしれません。
しかし、主は、そのように、この世のご利益を求める偽の信仰を望んでいません。
神が望んでおられるのは、主を信じるキリスト者が、他の人たちと変わらない肉体的な痛みを受けながらも、信仰を捨てることを拒み、主の栄光が現れるように願い続けることであります。
私たちは、人が大きな痛みの中にある時は、どうか、この痛みから解放してあげてくださいと祈ります。これは当然のことであります。そして、同時に、この人の信仰が苦痛によって揺らぐことのないようにお守りくださいとも祈ることが必要なのではないかと思います。
『イエスは涙を流された。』この主が、今も私たちひとりひとりのことをご存じであり、苦しみの中でも私たちの信仰が消えないように支えてくださっています。この事実が何よりも大きな力を与えてくれると思います。
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