2024年6月2日、市川福音集会
黒田禮吉兄
ルカ
23:27 大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。
23:28 しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。
23:30 そのとき、人々は山に向かって、『われわれの上に倒れかかってくれ。』と言い、丘に向かって、『われわれをおおってくれ。』と言い始めます。
読んでいただいたところは、イエス様が捕えられ、ゴルゴダの丘への道を歩まれた時の場面であります。『おおぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについていった』と書かれています。
おおぜいの民衆とは、自分とは関わりのないこととして、イエス様を好奇心でもって見ている野次馬のことでありましょう。そして、女たちは、イエス様が十字架にかけられるのを見て、『ああ、なんてかわいそうなことに。正しいお方なのに』と、思ったことでありましょう。しかし、女たちの嘆き悲しむ声をお聞きになったイエス様は、彼らの方に向かってこのように言われました。『エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。』
イエス様は、ここで後に来るエルサレムの破壊について話されました。そして、あなたがたは私のことで泣いているが、むしろ嘆かわしいのは、あなたがたの方だと仰せられたのです。
イエス様は、ご自分をキリストと認めないイスラエルの民に神の裁きが下ると語られ、世の終わりの時と、世の終わりの型となります紀元70年の神殿破壊のことを言われたのだと考えられています。この時、エルサレムはローマ軍によって攻められ、人々は飢餓状態に陥ったのです。不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は、幸いだと語られたのは、そのためでありましょう。あなたがたは、この主なる神に対する恐るべき反逆のゆえに、嘆きなさい、泣きなさい、祈りなさいと、イエス様は心を痛めて、彼女たちに警告されたのでした。
イエス様の十字架というのは、私たちがどんなに現実感をもってそれを受け止めたとしても、結局は、このエルサレムの娘たちの十字架の受け止め方と変わらない表面的なものなのではないでしょうか?『わがために泣くな、おのが罪のために泣け。』イエス様このようにおっしゃったのであります。
イエス様の十字架というのは、頭で理解するものではなく、体験するものでなければならない。二千年の時を超えて、イスラエルと日本という地理的な距離をも越えて、『主イエスの十字架、我がためなり』ということを、一人一人が真の体験としなければ、イエス様の十字架ということは、信じることができないのではないでしょうか?
聖書の御言葉を読むときに大切なことは、聖書と距離を置いて客観的に読むのではなく、むしろ、聖書の中に我が身を置いて考えることが必要ではないかと思います。
そのように私自身が、実は、本当に救われてない時の聖書の読み方は、今、言った通りであります。聖書に捕らわれることなく、客観的に、聖書を読み解いてやろうという不遜な気持ちをもって、聖書を読んでいました。その時には、全く聖書のことが分かりませんでした。イエス様が十字架にかけられたときに、私たちひとりひとりは、その時どこにいたのでしょうか?私たちは、自分を誰になぞらえて聖書を読んでいるのでしょうか?
皆さん、よく知られているペテロの例を見てみたいと思います。
マタイ
26:33 すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
26:34 イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
26:35 ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。
ペテロは最後の晩餐の時に、『私はあなたを知らないなどとは決して申しません』と言いました。しかし、イエス様は、ペテロの本当の姿を見抜いておられ、『あなたは三度、わたしを知らないという』と言われたのです。
この時、ペテロは、イエス様がどうしてこんなことをおっしゃるのか、分からなかったのだろうと思います。ペテロは自分の信仰、自分の気持ちの揺るがないことを信じていました。どうしてイエス様は、私のことを分かってくださらないのだろうと思ったに違いないのであります。
マタイ
26:73 しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。
26:74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。
26:75 そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエスの言われたあのことばを思い出した。そうして、彼は出て行って、激しく泣いた。
ペテロは、イエス様が裁かれている大祭司の中庭で、女中の一人に正体を見抜かれてしまいました。その時、ペテロは慌てて、そんな人は知らないと打ち消します。ところが、逃げていった入口でも正体がバレてしまい、騒ぎになりますと、必死になって、『そんな人は知らない』と、呪いをかけて誓ったのです。その時、夜明けを告げる一番鶏が鳴きました。ペテロは、イエス様のお言葉を思い出し、表に出て行って、声を上げて激しく泣いたとあります。
このような涙を流したペテロは、イエス様の十字架をどのように見たのでしょうか?『お気の毒に』と思ったのでしょうか?『祭司長たちはひどいことをする』と思ったのでしょうか?そうではなく、『ああ、私こそ十字架にかからなければならない者である』と、自分の罪を思って、胸を痛めたに違いないのです。
また、十字架の上でイエス様が、『父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです』と、そのような祈りを聞いたとき、ペテロは、イエス様が誰のために、何のために、十字架にかかっておられるのかを、はっきりと悟ったに違いありません。
第一ペテロ
2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
2:23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。
2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
イエス様は、私たちの罪を負って、身代わりとして十字架にかかってくださった。それは、私たちが罪赦されたものとなり、新しく義によって生きるものとなるためだったのだとペテロは証ししています。このような十字架の真の意味を知るためには、ペテロが流した涙が必要だったのであります。
ヤコブ
4:9 あなたがたは、苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。
4:10 主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。
第二コリント
7:10 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
7:11 ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。
自分自身の真の姿を知り、悲しみなさい、嘆きなさい、心を憂いで満たしなさい、そして、イエス様の十字架を仰ぎなさい。み言葉はこのように語っています。そうすれば、この罪深きものをどれほど大きな愛をもって、イエス様が抱きしめてくださっているかが分かります。
ペテロになぞらえて、十字架の場面を読む兄弟姉妹は多いのではないでしょうか?しかし、本当は、ペテロだけではなかったのです。弟子たちはイエス様が捕らえられた時に、一人残らず逃げ出し、イエス様が復活されたと聞いて、恐る恐る戻ってきたのであります。
本当に、私たちはそのようなどうしようもない弱いものであります。救われていなかったかつての私は、ピラトのようなものでありました。イエス様には、死に値するような罪を認めなかった。そして、なんとかイエス様を救おうとせいいっぱいの努力をした。結果として、イエス様をさばくことになったけれども、むしろ、同情すべき男として、当時の私の目には映りました。
しかし、ピラトは結局、自らの地位を守ることに汲々として、民衆の暴動を恐れ、救い主を十字架につけてしまった男であります。十字架は私には関係ないと、その当時の私は、自分自身を蚊帳の外に置いてしまった。まさしくピラトのようなものでありました。また、多くの人が、『イエス様を十字架につけろ』と叫んだ群衆の一人であったというかもしれません。
自らもその十字架の場にいたとして、自身の醜い姿を率直に読んだ詩人がいます。皆さん、よくご存知の瞬きの詩人と呼ばれた水野源三であります。
彼は、九歳の時に脳性まひを起こし、やがて話すことも書くこともできなくなったが、母親がなんとか彼と意思の疎通をしようと、五十音順を指で指し示したところ、目の動きで応答した。これが、四十七歳で召されるまでの彼の唯一のコミュニケーション能力となり、瞬きの詩人と呼ばれるようになりました。
十二歳の時に聖書を読み、十八歳の時からは詩を作るようになり、多くの神への喜びを表す純粋な詩を作りました。彼の詩を二つ紹介したいと思います。『私がいる』というタイトルです。
ナザレのイエスを十字架にかけよと要求した人許可した人執行した人それらの人の中に・・・・・・・・私がいる
もう一つ、『主よゆるし給え』という詩があります。
ナザレのイエスは、ナザレのイエスは、ほんとに知らないと、私も叫びました。私も叫びました。主よ主よ ゆるし給えナザレのイエスを、ナザレのイエスを、十字架につけよと、私も叫びました。私も叫びました。主よ主よ ゆるし給えナザレのイエスよ、ナザレのイエスよ、そこから降りてみよと、私も叫びました。私も叫びました。主よ主よ ゆるし給え
私たちは本当に、この詩人のように十字架を体験したものでありましょうか?
さて、私は、最近になって、私たちは一人残らず、実はバラバであるということに、そのことを教えていただきました。バラバは単なる強盗ではなく、人殺しであり、ローマに対する反逆者でもありました。そして、バラバとはあだ名であって、本名はイエスという名であったそうであります。
過ぎ越しの祭りの慣例となっていた罪人の恩赦にあたって、総督ピラトは何の罪も認められないイエス様の放免を期待していました。それで、バラバ・イエスか、キリスト・イエスかの選択を民衆に迫りました。しかし、祭司長たちに先導された群衆は、驚くべきことに、バラバの赦免とイエス様の処刑を要求します。
ピラトが不本意ながら、これに従ったため、バラバは釈放されたのであります。バラバは思いがけず自由の身になった。そして、罪あるバラバではなく、無実のイエス様が十字架に登ったのです。
ルカ
23:22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
23:24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。
23:25 すなわち、暴動と人殺しのかどで牢にはいっていた男を願いどおりに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。
けれども、バラバとは、いったい何者なのでしょうか?それは私たち自身です。私は、今まで自分をバラバだと思って聖書を読んだことはありませんでした。正直、それほどの悪人だとは思っていなかったのであります。けれども、バラバの中に、私たちがいます。私たちすべては有罪なのです。私たち全てが、十字架にかかって当然の罪人なのです。
しかし、ここに罪を知らない方、神の小羊がおられ、バラバの代わりに犠牲になられました。バラバはこうして思いがけず、自由の身になったのです。私たちも思いがけず放免され、自由になったのです。
ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
エペソ
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
2:3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
2:4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2:7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
罪過によって死んでいた私たちを、神はキリストによって生きるようになされたのでした。主は、私たちに新しいいのちをくださいました。バラバの命は、イエス・キリストの犠牲の死によって救われました。同様に、私たちは、イエス・キリストこそは主、そして、神の御子であると信じることによって、生かされているのです。
マタイ
9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。
マタイ
21:8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
21:9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
民衆は羊飼いのない羊です。彼らは少し前に、イエス様のエルサレム入場を、『ホサナ、ホサナ』と叫び、歓迎した群衆であります。同じ人々が指導者たちに先導されて、『十字架につけよ!』と叫びました。最初に紹介したエルサレムの娘たちと同じであります。主体性を失った群衆、それは私たちの姿です。そのような私たちには、イエス・キリストという真の羊飼いが必要です。
イザヤ
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
バラバか、キリストか?結局、バラバが許され、キリストは十字架につけられました。このことを最終的に決められたのは、私たち罪人を赦し、救おうとしておられる父なる神であります。ここに人間の罪深さに勝る大きな大きな神の愛があるのではないでしょうか。
最後に一か所、み言葉を読んで終わりにしたいと思います。
ヘブル
10:19 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。
10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。
私たちひとりひとりに、『十字架わがためなり』との思いが与えられ、イエス様の十字架に心から感謝して、新しい日々の歩みをすることができれば、本当に幸いであります。
終わりにします。ありがとうございました。
0 件のコメント:
コメントを投稿