2024年4月28日日曜日

新しい契約の工程表

新しい契約の工程表
2024年4月28日、秋田福音集会
岡本雅文兄

ルカ
15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

マタイ
21:28 ところで、あなたがたは、どう思いますか。ある人にふたりの息子がいた。その人は兄のところに来て、『きょう、ぶどう園に行って働いてくれ。』と言った。
21:29 兄は答えて『行きます。おとうさん。』と言ったが、行かなかった。
21:30 それから、弟のところに来て、同じように言った。ところが、弟は答えて『行きたくありません。』と言ったが、あとから悪かったと思って出かけて行った。
21:31 ふたりのうちどちらが、父の願ったとおりにしたのでしょう。」彼らは言った。「あとの者です。」イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。

よろしくお願いいたします。

この例え話の初めの方はよく知っておられる放蕩息子の箇所ですね。もう一つの箇所も、よく似た箇所です。この例え話を通して――後も、まだありますけれども――、イエス様がこの世に来られた目的を考えてみたいと思います。

ルカ15章とマタイ21章の二つのたとえ話は、兄と弟が出てくるよく似た個所です。

二人の聖書記者によって告げられたこの箇所は、私たちに何を示そうとされているのでしょうか?

初めの例えは、ルカの15章の放蕩息子の例えとして、よく知られています。イエス様はこの例えを、イエス様を疑いながらつぶやいて、その場にいたパリサイ人と律法学者、すなわち、選ばれた民であると自負しているユダヤ人たちに話されました。

これは、今のルカの15章の2節から分かります。

【参考】ルカ
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

しかし、話を聞こうとして喜んでイエス様のみもとに近寄ってきたのは、取税人や罪人たちでした。

もう一つの例えは、マタイの21章で、イエス様は一つ目の放蕩息子の例えと同じように、選ばれた民であると自負していたユダヤの指導者の祭司長――彼らはサドカイ派と言われていた支配階級です――、祭司長や民の長老たちに話されました。これは少し前の同じマタイの21章23節に、誰に話されたかが書いてあります。

【参考】マタイ
21:23 それから、イエスが宮にはいって、教えておられると、祭司長、民の長老たちが、みもとに来て言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにその権威を授けたのですか。」

ここでは、この二つ目の例えば、『ところであなたがたはどう思いますか』と、問いを彼らに――ユダヤ人たちに――投げかけて、それから、話し始められました。

この二つ目の兄と弟の例え話が終わると、イエス様は、二人のうち、どちらが父の願ったとおりにしたのでしょうと、再び、彼ら自身に答えを要求なさいました。そうすると、彼らは――ユダヤ人たちは――あとの者です。すなわち、弟ですと答えました。その時、ユダヤ人たちは、この例えが――イエス様が言われたこの例えが――、何を言おうとしているのかわからなかったようです。

主イエス様は彼らに言われました。

21:31 ・・・・イエスは彼らに言われた。(・・・・彼らとは、祭司長、民の長老たちに言われた。・・・・)「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです。
21:32 というのは、あなたがたは、ヨハネが義の道を持って来たのに、彼を信じなかった。(・・・・バプテスマのヨハネのことですね。バプテスマのヨハネが義の道、神の義の道を持ってきたのに、彼を信じなかった。・・・・)しかし、取税人や遊女たちは彼を(・・・・ヨハネを・・・・)、信じたからです。しかもあなたがたは、それを見ながら、あとになって悔いることもせず、(・・・・ヨハネを・・・・)彼を信じなかったのです。

こうしてイエス様はルカ15章とマタイ21章の二つのたとえで、兄と弟が誰を指しているのか、告げられました。

兄は、イエス様から面と向かって告げられた選びの民と自負していたユダヤ人のパリサイ人、律法学者、祭司長、長老たちでした。一方、弟は、このようなユダヤ人に、異邦人のように忌み嫌われていた収税人、罪人、遊女たちでした。すなわち、外見上の選びの民、ユダヤ人を兄と呼び、ユダヤ人が神から見放されていた罪人と考えていた外見上の異邦人たちを弟と呼びました。

主なる神は、この二つの群れによって、神の御心を告げられました。ヨハネは――ヨハネというのは、今度は弟子のヨハネです――、イエス様が世に来られた目的を、ヨハネの福音書10章16節で、次のように告げています。不思議な言葉の一つです。

ヨハネ
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

こういうみ言葉です。

イエス様は、まずユダヤ人に福音を伝えられました。ユダヤ人という一つの囲いに属する羊を導くのが先でありました。しかし、この箇所でイエス様は、『わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります』と、はっきりと言われました。この囲いに属さない他の羊とは、ユダヤ人の囲いに属さない異邦人の羊という意味でありましょう。

ヨハネはこの10章の16節で、イエス様がユダヤ人だけでなく、異邦人もユダヤ人と同じ囲いの中に導くと告げてはおりません。

後半の『彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです』という言葉こそ、異邦の民のキリスト者にとって見逃すことができないみ言葉であり、御心ではないかと思います。

別の言葉で表現すると、異邦人は――ユダヤ人ではない異邦人は――、イエス様を拒絶したユダヤ人とは別の役割を持った群れとして導こうとされているようであります。選びの民でない異邦の民が、神の選びの民、ユダヤ人が妬むほどの豊かな恵みを与えられて、神の新しい契約の工程表をユダヤ人の前に示されました。

ヨハネが伝えた、異邦人が一人の牧者となる新しい契約です。それは、異邦人の私たちが、一つの群れ、一人の牧者へと導かれ、大いに祝福されることに、今度はユダヤ人が妬みを覚えて立ち返るというユダヤ人の回復の工程表でもありました。

ローマ書11章の11節、14節で、パウロは次のように願っています。

ローマ
11:11 では、尋ねましょう。彼らが(・・・・ユダヤ人が・・・・)つまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの(・・・・ユダヤ人の・・・・)違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。

11:14 そして、それによって何とか私の同国人に(・・・・イスラエル人に・・・・)ねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。

こうパウロは言いました。ヨハネの十章の16節の『一つの群れ、一人の牧者』の言葉は、ルカの15章の三つのたとえによっても、イエス様が、あらかじめすべての人に知らせておきたいと考えられた奥義、すなわち、私たちが一つの体となることではないかと思います。

ここまで、二つの羊の群れ、神の民、ユダヤ人と異邦人、それと、神の関係――二つの羊の群れと神の関係――を、兄と弟の例えを通して見てまいりました。

忠実な神の民であるはずのユダヤ人が謙虚さを失い、兄のように――先ほどの二つの例えの兄のように――、外面的には忠実そうな羊が大半を占める群れになり果てたことを、聖書は告げています。現代の私たちキリスト者の現実でもあるのではないかと思わされます。

このように、2000年前に、悪がこの世に満ちた時代、歴史の転換点に来られたイエス様は、ルカの15章のここで語られる恵みの福音をすべての人に告げ知らせてくださいました。

先ほどのようにイエス様の話を聞きに来た人は、すべての人を含んでいると考えられます。

ルカの15章の初めのいなくなった一匹の羊の例えでは――読んでないですけれども、開いていただいているルカの15章を開いていただいて、聞いていただればと思います――いなくなった一匹の羊の例えでは、百匹の羊の囲いに入っていた神の羊の群れの囲いの中は――最初に百匹の羊の囲いの中は――、神の家、あるいは、神の国、そのものでした。

しかし、この地上の幕屋、この地上にある神の国は、あらゆる人が出入りできるところであったようであります。この百匹の羊の囲いの中には、ヨハネの10章の1節――先ほどのヨハネの10章の1節ですね――この1節のように、盗人や強盗も入り込んでいる可能性があった、そういうところでありました。

地上では、全くの平安、100パーセント、神が完全に支配されているというところはありませんでした。ここに――ヨハネの10章の一節に、言われました。

ヨハネ
10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

外の世界に憧れる一匹の羊が、他のところを乗り越えてきた盗人、強盗に心を盗まれました。そして、この囲いから、突然、いなくなりました。しかし、一人の牧者から目を離し、囲いからいなくなった、あるいは、逃げ出した、つまり、罪を犯した一匹の羊にも、神の支配は及んでいたということが分かります。

九十九匹の正しい羊を野原に残して、いなくなった一匹の罪ある羊を見つけるまで探し続けてくださる一人の牧者の愛、ある方が一匹の羊について行かれました。どこまでも彼に付き添って、ずっと付き添っていかれたことが分かります。

囲いの外でも、牧者の声、牧者の御言葉が聞こえるところには、キリストの支配、あるいは、御霊のうめきがありました。

逃げ出した羊の潜伏先にも、一人の牧者の支配は及んでいたことがわかります。このある方が一度、イエス様を信じたもののすぐ近くにおられると、この例えは私たちに告げているのではないかと、かすかに、このみ言葉から――例えから――感じることができます。

また、この一人の牧者は、見たところ問題のない残った九十九匹にも、自分の心を楽しませる思いが、心の内に根を張っているのをよく知っておられたようであります。そして、探し出された一匹の羊に与えられた大きな恵みを見て、妬みの心を起こすことも知っておられました。残った九十九匹も、彼らの心のうちに芽生えた放蕩から我に返るようにと祈って、また、願ってくださいました。

こうして一人の牧者の愛は、百匹の羊全体を支配し、すなわち、愛していたのであります。

こうして新しい百匹の羊の群れは見かけは同じですけれども、帰ってきた一匹の羊によって、違う――前とは違う――一つの体に向かって船出することになりました。九十九匹と――元からいる九十九匹と――、回復した一匹は、新しい一つの体が目標となったはずであります。

この例えで、福音書のテーマの一つが再び、告げられました。マタイによる福音書の19章の30節、また、20章の16節、先ほどの21章のすぐ前ですね。このようにあります。

マタイ
19:30 ただ、先の者(・・・・先のものとは、おそらく、兄、九十九匹の正しい羊、選びの民ユダヤ人・・・・)があとになり、あとの者(・・・・すなわち、弟であり、一匹の家出した罪ある羊、あるいは、ユダヤ人の敵、異邦人・・・・)が先になることが多いのです。

マタイ
20:16 このように、あとの者(・・・・弟・・・・)が先になり、先の者(・・・・兄・・・・)があとになるものです。」

このように、マタイの福音書を中心に展開される先の者とあとの者、兄と弟の例えが、また再び、ルカの福音書の15章で語られました。

次に、ルカの15章の二つ目の亡くなった銀貨の例えでは、個人の罪は見当たりません。なぜなら、自分で動けない銀貨がなくなった責任は、すなわち、自分の意志で動くことのできない、命のない銀貨がなくなったのですから、その責任は、管理者の女の人にあります。

従って、この例えは、個人の問題というより、体全体、教会の問題を取り扱っているようであります。

女の人がキリストの花嫁となる教会、集会を指しているとすれば、この例えは、キリストの体である集会の内部における個人を超えた問題を取り扱っていると、私には思えます。

銀貨は、文字通り、女の人――集会――の財産、兄弟姉妹たちのことでありましょう。その財産の十分の一がなくなりました。あるいは、盗まれました。すなわち、集会というキリストの体の十分の一の部分、器官が機能不全に陥り、瀕死の状態です。

このような状態に陥った時、この例えでは、新しい働きが起こりました。女の人――集会――を構成する体全体の各器官が一つになって、まだかろうじて代わりに働ける別の器官が、あるものは明かりを用意し、別のものは部屋を照らし、またあるものは、家を掃き、キリストの体と欠けたところ――欠けた銀貨、財産、器官の修復のために、全ての残された器官が家中を探し回って働く、新しい一つの体の様子が目に浮かびます。

ここまでの二つの例え、はじめのいなくなった一匹の羊のたとえと、二つ目の亡くなった銀貨の例えを通して、私たちは、弟に代表されるただ一人の牧者による個人的なキリスト者の回心と一つのキリストの体の修復を、少しだけ見てまいりました。

最後に三つ目の放蕩息子の例えを考えて、終わろうと思っています。

まず、私たちがこの放蕩息子の例えに見るのは、父と二人の息子たちとおおぜいの雇い人たちの神の家、神の国でありました。百匹の普通の平穏そうな羊の群れでした。しかし、個々の羊たちにも、一つの羊の群れ、そのものにも隠された問題、また、永遠のテーマがあることをこの例えから見ることができます。

一人の牧者が支配する神の国の中にも、ここで展開されるそのような出来事が起こされるということは、大きな意味、また、目的があるはずです。この神の国、羊の囲いに、先ほどのヨハネの10章の1節に書かれている通り、羊の囲いに、門から入らないで他のところを乗り越えてきた盗人で、強盗が入り込みました。

姿の見えない悪霊、サタンが一匹の弟羊、弟に忍びこみました。弟の羊は、この盗人と牧者の声を聞き分けることができませんでした。盗人は、その羊の囲い、神の家、神の国から、一人の多感な誘惑に乗りそうな弟羊を選び出して、放蕩の旅に誘い出しました。

生まれながらの心の中に、羊の門を通らずに、他のところを乗り越えて忍び込んだ影の力が働いている様子を、ここだけではなく、聖書全編から思い起こすことができます。こうして、弟の羊は心を盗まれました。弟が我に返ったのは、豚の食べるイナゴ豆さえも与えるものがいなくなったとき、その時でした。その豚のいる畑に放り込まれるまで、神が定めた恵みのコースをこの弟はひた走りました。

放蕩息子のたとえで、私がもっとも心を捉えられたのは、ある人の存在です。ルカの15章の14節から19節をお読みいたします。

ルカ
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。

もう一度、ここを読みましょうか?『それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を――弟を――畑にやって、豚の世話をさせた。』

15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』

弟に豚の世話をさせたこの人こそ、初めから弟に深く関わってこられたキリストの心、聖霊ご自身ではないかと思わされるのであります。

『お父さん、私に財産のわけまえをください』と言って家出したこの弟息子に、彼の思い通りに財産を分け与えた理由が見えるようです。放蕩息子、弟の父でもある一人の牧者は、この家を飛び出そうとしている彼に、もっともふさわしい道を用意しておられるある人をよく知っておられました。ある人とは御霊、聖霊ではないかと思うのです。

ヨハネの16章の7節で約束されているもうひとりの助け主であります。イエス様が最後の夜、最後の晩餐で、十二人の弟子たちに話されました。その時にはもう一人、ユダが欠けて十一人の弟子に語った言葉です。

ヨハネ
16:7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主(・・・・聖霊・・・・)があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

私たちは聖霊の宮であるという御心が、私たちの人生、また、私たちの生活の中にどのように表されるのか、その一例をここに見ることができるようです。

この人は、弟にただ優しいだけの方ではありませんでした。もう一人の助け主、聖霊は、弟をただ優しく導くだけの方ではありませんでした。それどころか、最も嫌な、のろうべき敵、サタンとも思えるこの人が、彼の助け主となりました。キリストの心、御心をイエス様に代わって弟の心の中で語り、一瞬のうちに、イエス様の御心どおりに、彼を回心へと導きました。

イエス様がこの聖霊のうちにあって、放蕩息子、私たち自身といつも共におられました。このある人、御霊が、私たちの内にもおられることに、感謝せざるをえません。目に見えないこのある人、御霊、助け主、もう一人の助け主、このある人を通して、私たちは、キリストの体であると言われているからであります。

キリストの一つ、それは御霊を通して、キリストが死んで天に帰られた後に残された私たちが、どうしても導きたいという方の御心によって送られてきたある人が、私たちとともに、この地上に生を受けているあいだ中、ともにいてくださると、聖書は約束してくださったからであります。

ルカの15章の終わりは次のとおりです。弟が神の家に戻った時、九十九匹の羊の仮面をかぶった兄が待っていました。弟が今まで知らなかった兄でした。彼が今まで出会ったこともない人格でした。これが地上の神の国の事実です。現実であります。

先の者は後になり、あとの者は先になりました。これからが本番であると聖書は語っているようです。ルカの15章は、前半戦が終わり、そして、これからが本番だというところで終わっています。

神の国の、また、神の家の全員が、弟の全工程を今から踏んで、あとの者になるスタートが切られました。九十九匹の残っていた羊と帰ってきた一匹の羊の新たな旅の始まりです。すなわち、初めは、『行きます』と言っていかなかった兄も、後で悪いと思い直す恵みを与えられる一つの体が終点です。

頭なるキリストは御霊の中で、今、私たちの中に現実に生きておられる。これがこの例えのもっとも大切なところではないでしょうか?そして、御霊にあって、私たちを導き続け、御霊のうめきの中で忍んでおられます。

キリストは生きておられるというのは、天におられながら、御霊を通して――私たちの内に宿る御霊を通して――、キリストの心が、あの一人の人を通して実現させられる、いつも、おられる、どこにいてもどんな時にも、キリストに会うことができる――そのような新しい時代が二千年前に起こりました。

そして、もう一つの神の願いは、回心して帰ってきた弟羊に対する願いです。彼にとっても――弟にとっても――、家に戻ってきてからのこれからが本番でありましょう。おそらく、あとの者となった恵みを受けた弟は、兄の立場、兄の心に迷い込む危険にさらされることでしょう。

父と兄と弟と大勢の雇い人の神の家、神の国は、第二の例えのように、真の一つの体を目指す者たちの危機でもあり、恵みともなり得るさらに大きなチャレンジの機会が与えられました。

一匹の弟羊と、一匹の兄の羊と、兄を跡取りと見据える大勢の九十八人の雇い人たちの百人の一つの群れの歩みは、福音書の残りの御言葉、ルカの福音書で言えば、16章以降の御言葉と使徒たちの働きに受け継がれました。そして、今、二千年後の私たちの群れ、私たちの集会のこれからの歩みへと引き継がれたのではないでしょうか。

そのために、ずっとはるか昔、二千年前に、本日のために、あの三つのたとえと、マタイの例えを用意してくださったと思います。この放蕩息子の例えは、最後に、父の願いが告げられて終わっています。父の願いは、兄にすべての管理をまかそうとすることでした。

この場合の兄とは何を指しているのか、また、帰ってきた弟はどのような役割を担うのかなど、聖書はさらに、父の兄に告げた管理の仕事について、次の16章の不正な管理人の例えで、私たちを導こうとされているのではないかと思わされます。

いつかまた、ご一緒に味わってみたいと思っています。

御言葉をあと三カ所だけ、お読みして終わります。一つは。今のルカの15章の最後に、父親が兄に語った言葉です。

ルカ
15:31 父は彼に言った(・・・・兄に言った・・・・)。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

兄と弟の役割は違うかもしれません。しかし、どちらもどうしても必要な役割でありましょう。

そして二つ目、先ほどお読みしたヨハネの10章の16節であります。

ヨハネ
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。(・・・・私たちのことですね。異邦人の群れ・・・・)わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。

集会、教会とは別の群れ、そして、一人の牧者、一人の人格のようになってもらいたいという主の願いです。

そして、最後に、エベソ人への手紙の4章の2節から4節の途中まで。

エベソ
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。・・・・

終わります。ありがとうございました。

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