2023年2月12日、秋田福音集会
翻訳虫
申命記
30:11 まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
このみことばの背景
今、お読みしたのは、申命記30章の中で、神がモーセを通してイスラエルの民に語られた言葉の一部であります。前後の文脈を知らずに、この数節だけを取り出してみても、読むものに勇気を与えてくれる言葉ではないかと思います。
自分たちはあまりに弱く、神の掟に従う力がないと嘆くイスラエルの民に対して、神はモーセにこのメッセージを託し、そして、みことばによる守りは、手を伸ばせば、ふれられほど近くにあると語られました。
神は、遠くにいて、ひれ伏す人間を無慈悲に見下ろしているお方ではない――すがたは見えず、声も聞こえなくても、みことばは人の口にあり、御心は人の心にあるという、聖書全体で繰り返し語られるこの真実が、ここで初めて、明白に語られたのではないかと思います。
申命記の流れ
まずは、申命記という書物をひもといて、この言葉が民に告げられるようになった経緯をふり返ってみたいと思います。
長いあいだ、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出し、四十年間にわたって荒れ野をさまよいました。この歴史は出エジプト記に詳しく語られていることは、皆さんもご存じのとおりであります。
そして、約束された土地であるカナンに近づいたところで、モーセは、エジプトを脱出してからの苦しかった旅路を思い起こさせ、しかし、その苦難のあいだも神が自分たちとともにいて、守り導いてくださったことを語ります。いわば申命記は、この荒れ野の行程の復習をする書物と見ることもできます。
申命記
4:7 まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。このような神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか。
ここで、すでにモーセは、神が近くにおられる方であると告げています。
しかし、同時にモーセは、民に対して、神の教えと戒めを固く守るように命じ、それを拒むことがあれば、民は異国に追いやられて、大きな苦しみを受けると告げております。
申命記
4:28 あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。
このモーセの警告の言葉は、疑いもせず仏壇に手を合わせたり、神社でお参りしている日本人の姿を思い起こさせます。木や石の神々に仕えているというよりも、何を信じるべきかを知らずに暗闇の中を歩いている多くの人たちたちの姿ではないでしょうか。
また神は、自分に背いて偶像に仕えた人間も、決して滅びることを望まず、悔い改めてご自身のもとに戻ることを願っておられると、このみ言葉は力強く語っております。
申命記
4:31 あなたの神、主は、あわれみ深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、あなたの先祖たちに誓った契約を忘れない。
こうして、申命記の初めの部分で、モーセは、神から受けた戒めをイスラエルの民に思い出させています。そして、そのうえで、初めにお読みしたみ言葉に続く部分に入るのであります。
新しい契約
申命記の29~30章という二つの章を今度は、読んでみたいと思います。
本来であれば、せいぜい数か月とか数年で約束の地に至るはずであった民は、自分たちの不信の罪によって、四十年という年月にわたって荒れ野をさまよわうことになりました。このあいだに、死んでしまった民も多くいたことでしょう。
そして、今、モーセたちはカナンを目の前にして、ヨルダン川の東側にいます。エジプトを脱出した後に生まれた、いわば第二世代の若者たちに向かって、神は、彼らとのあいだに結ばれた契約をあらためて語ったのであります。
申命記
29:5 私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。
29:6 あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、主である。」と、あなたがたが知るためであった。
この新しい世代は、エジプトで神が行われた奇蹟を実際に見てはいません。彼らは、長い旅のあいだも、主が奇蹟を行なわれて、彼らを見守っていたことに気づいていませんでした。
ヨルダン川を目の前にしたモーセは、神の守りを信じることができずにいる若いイスラエルの民に対して、彼らの心が神のもとに戻れば、約束の地に入ることができると告げています。
申命記
30:2 ・・・・あなたも、あなたの子どもたちも、心を尽くし、精神を尽くして御声に聞き従うなら、
30:3 あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。
民は神のもとに回復するというこの約束のことばに続いて、初めに拝読したみ言葉が語られるのであります。
申命記
30:11 まことに、私が、きょう、あなたに命じるこの命令は、あなたにとってむずかしすぎるものではなく、遠くかけ離れたものでもない。
モーセはこの言葉で、神が結ぶ契約は、決してとても実現できないほど困難なものではなく、それに従って生きることは、誰にでも可能であることを明らかにしました。
申命記
30:12 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
30:13 また、これは海のかなたにあるのではないから、「だれが、私たちのために海のかなたに渡り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
30:14 まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。
同じ事実がさらに詳しく、そして、さらに親しみをもって、説明されます。人は神の真実を知り、神の知識を得るために困難な探索や努力をする必要はないのであります。
現代でも、多くの人が、信仰を持って、神に従うということに対して、とても厳しい戒律を理解して、それに従うこと、自分からは遠くかけ離れた、難しすぎるものという思いを持っているのではないでしょうか。
実際に、律法とは何かを知らなくても、信者になるということは、それまでは普通に行っていたことができなくなることだと思っているところが、誰にもあるのではないかと思います。
たとえば、私自身も、集会に集うようになるまで、教会に行って賛美歌を歌ったり、聖書を読んでお祈りするような人というのは、自分を厳しく律して生きている生まれながらの善人ばかりで、自分にはとても無理な世界と考えているところがありました。
実際には、信仰を持つことは自分にはとても無理なくらい大きな困難を受け入れることであるという考え方は、神に対する責任から逃れようとしているとも言えます。すなわち、どうせ、自分にはすべて神の戒めに従って生きることは無理だから、信仰を持つのはやめておこうという考え方です。
四十年間、荒れ野をさまよっても、カナンの地に入ることができなかった民は、自分たちには何かが欠落している、何か大きなことを行って、神を満足させなければならないのではないかと考えたとしても不思議ではありません。
しかし、この言葉でモーセは、戒めに従って生きることを選択するのは民自身である、すなわち、それは理解力や知識の問題ではなく、民の意志の問題であることを、彼らに告げました。これは、実に画期的な真実として民の心に響き、彼らを勇気づけたのではないでしょうか?
これこそ、この荒れ野の長かった旅を締めくくる結論であり、また、この四十年に渡る苦難の末に民がたどり着いた真理だったのではないかと思います。
近くに来られた主
しかし、それに続く長い時代の中で、人間はたびたびこのことを忘れてしまい、神の救いは遠くかけ離れたところにある、人間の手が届かないものであるという考えに、繰り返し支配されてしまいます。
たとえば、イスラエルの国内には、神に近づく特権を持った祭司、神官などの支配階級が生まれました。また、預言書の時代、国の指導者たちは、神から離れて強大な隣国との妥協に走りました。こういったことが起こったのは、神は自分たちを近くで支えてくれるものではないという思いに捕らわれてしまったためではないかと思います。
しかし、今から約二千年前、救いを見つけるために遠い場所を探す必要はないことを、民にはっきり知らされる出来事が起こりました。救い主ご自身が民のもとに、この地上に来てくださったのであります。
ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
モーセの時代から数千年という時を経て、救いの福音はイエス様によって、この世界にもたらされました。それは、遠く離れた、誰も手の届かないところにもたらされたのではありません。
救いは人のかたちを取って、彼らのあいだで生まれました。そして、実際の民のあいだを歩まれ、民と言葉を交わされ、そして、その血によるあたらしい契約が、民の目の前で結ばれました。
誰一人、行くこともできない天の上で結ばれたのではなく、まさに多くの人の目の前でこの救いのみわざは成されました。
申命記
30:12 これは天にあるのではないから、「だれが、私たちのために天に上り、それを取って来て、私たちに聞かせて行なわせようとするのか。」と言わなくてもよい。
イエス様はご自身が地上に来られることで、モーセの言葉を実現し、そして、実際に神の姿は見えず、声は聞こえなくても、主はいつもそばにおられ、信じるものを導いていてくださることを証明されたのではないかと思います。
パウロが語った信仰の義
主が天に戻られた後、パウロはこう語りました。
ローマ
10:6 信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
10:7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
パウロは、その中で、このモーセの言葉を引用しています。
ローマ
10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
今を生きる私たちには、直接、主の声を聴き、目の前に主の姿を見ることはできません。これは、モーセの時代の民と同じです。しかし、主の救いを受けるために、遠いところに行く必要はないことに変わりはないのです。
私たちは、自分で天国につながる道を探す必要はありません。キリストがすでによみがえられ、天に昇られたからです。また、自分の罪を償うために地の奥底に下る必要はありません。キリストがすでに十字架にかかって、私たちの罪を購われたからであります。
ローマ
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
キリストがすべてのことを完成された――人間は、その真実を心で受け入れ、口で告白するだけで、救いを受けることができます。この真実を受け入れていない人は、もっと多くのことをしなければいけないと考えてしまいます。
ある意味、既存の宗教や自己啓発のたぐいのものは、この誤解に付け込んで、人間に勉強させたり、より努力させたり、あるいは、金品を出させようとします。しかし、このようなことは、人間が持っている罪に対しては何の力も持っていません。
申命記のみ言葉は、この真理を伝えています。そして、パウロは加えて、私たちは、キリストの救いを真摯に求めさえすれば、主に近づくことができると明らかにしています。
ローマ
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
御言葉はすぐそばにある
その声を耳で聞くことはできず、目で見ることも、触れることもできなくても、主はすぐ近くにおられるというこの真理は聖書の中で繰り返し表れています。
エレミヤを通して、神はどこからでも、民に対して同じ力を持つことを語られました
エレミヤ
23:23 わたしは近くにいれば、神なのか。――主の御告げ。――遠くにいれば、神ではないのか。
23:24 人が隠れた所に身を隠したら、わたしは彼を見ることができないのか。――主の御告げ。――天にも地にも、わたしは満ちているではないか。――主の御告げ。――
不義を犯しても遠く離れた神の目には届かないと考えた民に対して、ご自身の姿は人間から見えなくても、神はいたるところに満ちていると語られました。
そして、同じ真理が、聖書の最後の書の中でも語られています。
黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。
主は、ご自身から近づいて来て、私たちのすぐ外で戸を叩いています。
私はこのみ言葉を読むたびに、本当にイエス様が今いるこの部屋の戸の外側にいてくれたら、どれほどうれしいことだろうと思います。しかし、イエス様は実際に人間の心の戸のすぐ外まで来ておられるとこのみ言葉は告げています。
その戸は、外側には取っ手がなく、内側にしかありません。この戸は中にいる人間が開けるしかありません。しかし、内側の人が戸を開けた瞬間、主は中に入り、ともに食事をすると言っておられます。
主は、遠く離れた天の上や海の向こうどころか、戸のすぐそばまで来てくださっていると言われています。これは、とても勇気を与えてくれる言葉ではないでしょうか。
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