2023年2月26日、市川福音集会
黒田 禮吉兄
ヨハネ
18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。
使徒信条というものがあります。多くのキリスト教会における共通した信仰の基本的な告白で、教会ではよく朗読されるそうであります。その中に、『主は、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ・・・・』うんぬんと書かれている一節があります。ピラトという名前は、ですから、クリスチャンにとって、忘れられない仇(かたき)のような名前ではないかと思います。
実は、私は救われていない時に、このピラトに親近感を持っていました。当時の私の理解では、彼は捕らえられたイエス様と面談をして、イエス様には死に値するような罪を認めなかった。そして、なんとかイエス様を救おうと、彼なりに精一杯の努力をした。結果として、イエス様を裁くことになったけれども、むしろ同情すべき男として、私の目には写りました。ですから、祭司長や宗教指導者ではなく、ピラトがイエス様を十字架にかけた張本人のように扱われるのは、納得できませんでした。
今日は、このピラトの言動を通して、主が何を語っておられるのかを学んでみたいと思います。
当時のユダヤは、ローマの支配下にあり、ピラトはユダヤ地方の総督の職にありました。彼は、過ぎ越しの祭りというユダヤ最大の祭りのために、エルサレムに登ってきました。そのピラトのもとに、ユダヤ人指導者とされる長老や祭司長、パリサイ人たちが大勢の群衆を先導しながら、イエス様を連行して来たのであります。
ルカ
23:13 ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆とを呼び集め、
23:14 こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れて来たけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。
23:15 ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは、何一つしていません。
23:16 だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:18 しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」
23:19 バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた者である。
23:20 ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らに、もう一度呼びかけた。
23:21 しかし、彼らは叫び続けて、「十字架だ。十字架につけろ。」と言った。
23:22 しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんな悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は、何も見つかりません。だから私は、懲らしめたうえで、釈放します。」
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
23:24 ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。
ユダヤ人たちが、イエス様をピラトのもとに連れて来た時、彼は、この問題に関わりたくなかったため、最初は、裁きをそのまま、ユダヤ人たちの手に委ねようとしました。しかし、死刑執行の権利が奪われていたユダヤ人たちは、ピラトに食い下がります。
そこで、次に彼が考えたのは、ガリラヤから来ていたヘロデ王のもとに、イエス様を送ることでした。このヘロデは、バプテスマのヨハネを殺した人物であります。ヘロデは、以前からイエス様に興味を持ち、その奇蹟を見たいと思っていたので、大いに喜んだのですが、イエス様は、彼の質問には何一つお答えになりませんでした。本当に求めようとしないものは、決して、真理を発見することができません。それで、イエス様は、また、ピラトの元に戻されました。
ピラトは、イエス様が無罪であることを認めながら、責任逃れをしようとしました。この責任逃れを考えたのが、彼の第一の問題であります。聖書との対決を避け、いつまでも結論を出さない人は、このピラトのように、真理を知る喜びを経験することができないのではないでしょうか。
責任逃れができないとなると、次にピラトは、妥協の道を選びました。これが第二の問題であります。彼は、今回の事件が、ユダヤ人指導者たちのねたみからの告発であると感じ、過ぎ越しの祭りの習わしとして、イエス様を釈放しようと相談を持ちかけますが、それはにべもなく突っぱねられてしまいます。そこで、彼はイエス様は無罪であることを認めた上で、むち打ちで懲らしめ、それから、釈放しようとユダヤ人たちに提案をします。
むち打ちは申し出を断られたピラトの面子を守ろうとする格好付けだったのでしょう。彼は、このぐらいしておけば、文句はないだろうと、ユダヤ人の気持ちと自分の立場を納得させようと、妥協したのであります。ピラトは、このように一貫性のない態度で、面子を保とうとしたのであります。結局、ピラトは、イエス様を十字架につけることにし、『この人の血について、私には責任がない』と、手を洗ってしまいます。
第三の問題とは、心の内側から語りかける良心の声を無視したことであります。この日、ピラトは三つの声を聞きました。その第一は、彼の胸に語りかける良心の声であります。
ローマ
2:14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。
2:15 彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
パウロが書いたように、ピラトは異邦人でありましたが、『律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法』、つまり、良心の声が律法なのですとあります。この人には何の罪も見つからないと、彼は何度も繰り返し、自分でもそう確信していました。けれども、ピラトは、その良心の声を無視してしまいました。
二つ目の声は、彼の妻を通してやってきた神の声であります。
マタイ
27:19 また、ピラトが裁判の席に着いていたとき、彼の妻が彼のもとに人をやって言わせた。「あの正しい人にはかかわり合わないでください。ゆうべ、私は夢で、あの人のことで苦しいめに会いましたから。」
しかし、ピラトは、この第二の声もはねのけてしまいます。罪の根源は、神の声を聞かなくなるという態度であり、その声に逆らう心の状態であります。
そして、三つ目にピラトが聞いた声は、怒り狂った群衆の叫びでありました。
ルカ
23:23 ところが、彼らはあくまで主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。
自らの地位を守ることに汲々としていたピラトは、民衆の暴動を恐れ、救い主を十字架につけるよう宣言してしまいました。結果としてピラトは、神の御子を裁いてしまったのであります。『その声が勝った』とは、劇的な、そして、恐るべきサタンの声でもあります。
これは、救われている私たちにも起こり得る霊的葛藤を表しているのではないでしょうか?良心の声、御霊の声とともに、私たちにはこの世の声が聞こえてきます。そして、ついにその声が勝って、私たちが妥協の道を歩み始めるとき、それは、イエス様を再び十字架につけているに等しいことを知らなければならないのであります。
ルカ
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。
22:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
22:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。
22:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。
ペテロも、このような葛藤を経験しました。ピラトが、そしてペテロが、本当に聴かなければならない声、さらには、私たちが受け取らなければならない声は、イエス様の十字架上での悲痛な声であります。
ルカ
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
イエス様の声とは、驚くべきことに恵みの声であります。このイエス様の祈りこそ、私たちを赦し、生かしてくださる主の声であります。
ヨハネ
19:19 ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王ナザレ人イエス。」と書いてあった。
19:21 そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください。」と言った。
19:22 ピラトは答えた。「私の書いたことは私が書いたのです。」
このようにピラトは、イエス様をユダヤ人の王と認め、彼なりの最後のこだわりを見せましたが、結局、単なる自己満足にすぎませんでした。ピラトは、本当に、このような男であったということが分かります。ピラトはしかし、自分の意図に反して、私たちに考えるべき重要な二つの言葉を残しています。そのことを、今からお話ししたいと思います。
その第一は、『真理とは何ですか』という問いかけであります。
ヨハネ
18:38 ピラトはイエスに言った。「真理とは何ですか。」
この言葉をもってピラトは、イエス様との会話を打ち切ってしまうのであります。しかし、『真理とは何ですか』という問いこそ、人が人生をかけて問い続けるものではないでしょうか?
冒頭に私は、ピラトに親近感を覚えたことをお話しましたが、問題と対決することを避け、この世の現実と妥協する姿は、私自身の姿であったと告白せざるを得ません。私は三十八年ほど前に、主のあわれみによって救われた者であります。けれども、その二年ほど前に、当時のベック兄との交わりの場が与えられました。そのとき、ベック兄の後について祈るように導かれましたが、祈りの最後で、私は、自分のこだわりを主張してしまい、素直に祈ることができませんでした。結果として、主が備えてくださった救いの機会を、そのとき失ってしまいました。
確かにピラトの言動は、この世における大人のやり方かもしれません。けれども、一見もっともらしくても、その実がなく、かつての私と同様、極めて不誠実であったのであります。
イエス様は、大祭司やヘロデとは、ほとんど会話をされませんでした。しかし、ピラトとは、話を交わされました。ピラトは真理をするチャンスを、自らつぶしてしまったのであります。ピラトの態度を通して、素直に正直に主のみ声に耳を傾けることの大切さを思わされます。
詩篇
86:11 主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。
86:12 わが神、主よ。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。
86:13 それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです。
ダビデのように、主の御前にへりくだって、頭を垂れる、ただ祈る者に、主は、『あなたの道』、すなわち、真理を示してくださるのではないでしょうか。
ヨハネ
8:45 しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。
8:46 あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
第一ヨハネ
4:6 私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。
真理とは、いつどんな時にも変わることのない正しい物事の筋道であります。真理とは、本当のこと、また、本当であることであります。真理とは、イエス様のなさったこと、また、イエス様ご自身であります。
第一テモテ
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。
2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。
今まで、真理とは何かということをお話ししました。もうひとつ、ピラトが言った言葉があります。それは、『さあ、この人です』という言葉であります。
ヨハネ
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
19:14 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
ピラトはイエス様を指さして言います。『さあ、この人です。』本当に、この人を十字架にかけてよいかとの確認として、彼は言ったのです。けれども、彼が指さしたお方は、まさに、主なる神が私たち人類の救いの御業を行おうとしておられるお方でした。
『さあ、この人です。』すなわち、この人を見なさいというのは、ピラト自身は意識しなかったでしょうが、彼がイエス様に発した『真理とはなんですか』に対する答えと言っても、よいのではないでしょうか?この人、すなわち、主イエス様は、真理そのものであり、私たちがどうしても、見上げなければならないお方だったのであります。ヨハネの福音書のこのことばは、ピラトの思いとは関係なく、深い意味を持つ言葉になったのであります。
最後に、ヘブル章の一節を読んで終わりにしたいと思います。
ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。
今、私たちはいったい何を見ているのでしょうか?相変わらず、見えるものばかりを追いかけているのではないでしょうか?『あなたは、わたしを見たから信じたのですか?見ずに信じる者は幸いです』と、トマスに語りかけられたイエス様のみ言葉を思い出しましょう。信仰の目を通してしか見ることのできないお方を、今、見上げていきたいものであります。
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