18.世界を統治するための主の来臨
第七のラッパのさばき、第三のわざわい
黙示録11章15節から18節まで
1.遣わされた者の大きな叫び
[1]救いがもたらされる時
[2]さばきが告げられる時
[3]王が知らされる時
2.天の軍勢の答
[1]神は王である
[2]神は王となる
3.贖われた者たちの真の礼拝
[1]神の偉大な力
[2]神の不変性
[3]神の支配
[4]神の怒り
[5]死者の復活
[6]信じる者の報い
[7]主のさばき
ここからの学びに入る前に、詩篇第2篇に目を留めておきましょう。
なぜ国々は騒ぎ立ち、国民はむなしくつぶやくのか。地の王たちは立ち構え、治める者たちは相ともに集まり、主と、主に油をそそがれた者とに逆らう。
「さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの網を、解き捨てよう。」
天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。
「しかし、わたしは、わたしの王を立てた。わたしの聖なる山、シオンに。」
「わたしは主の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」
それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。(詩篇2)
黙示録の11章後半には「第七のラッパのさばき」、「第三のわざわい」のことが記されています。「第二のわざわい」については、黙示録9章13節から21節に記されていました。その後の10章から11章13節までは、二人の証人のことが記された、いわば中間的な章です。この中間的な章をはさんだ「第一、第二のわざわい」と「第三のわざわい」は、11章14節によって結びつけられています。14節には、「第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る」、と第三のわざわいがまもなく始まることが告げられています。そして第七のラッパが吹き鳴らされます。第三のわざわいは、第七のラッパから始まるさばきです。
(15)第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。
「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」(16)それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、(17)言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。(18)諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」(黙示11・15~18)
ここで、私たちは、12章から黙示録20章15節までの概観を与えられます。つまり、ここには、後の章にくわしく記されているできごとのスケッチが与えられるのです。ここから私たちは「世界審判」の最後の段階に入るのです。この箇所はその序章になっており、これから先、起こることが、短く要約されているのを見ることができます。これから先には、恐ろしいことが起こります。しかしヨハネは、ここではまだ、その恐ろしいことを見せられてはいません。ただ、これから起ころうとしていることの「影」を見ているに過ぎないのです。
ヨハネは「イエス・キリストによる世界支配」をすでに見通しています。彼はここでイエス様の勝利と支配を予見しているのです。
「第七のラッパのさばき」、つまり「第三のわざわい」では、二つのことが同時に起こります。一方では「神の怒りとさばき」が、他方では「神の報いと解放」が行なわれます。つまり、神が「人間の怒りと罪」をさばかれることと、神を恐れる者たちが神のさばきによって滅ぼされることのないように、彼らに「報いと解放」が与えられることが記されているのです。
この箇所をこれからくわしく見ていきましょう。中心となるテーマは、「神がこの世を支配するためにその御座につかれる」ということです。では、この箇所を次の三つ、「遣わされた者の大きな叫び」、これに対する「天の軍勢の応え」、「贖われた者たちの真の礼拝」に分けて考えてみましょう。
1.遣わされた者の大きな叫び
[1]救いがもたらされる時
「遣わされた者の大きな叫び」は、「神のご支配が始まることを告げ知らせる声」です。かつて学んだ第七の封印のさばきの時に主の再臨が告げられたように、「第七のラッパのさばき」の時にも主の再臨が告げられます。それは神のさばきがまもなく終わろうとしているからです。神のさばきの結果は、神ただお一人のご御支配の実現です。神のさばきはすべて、悔い改めを求める主の働きかけであり、やがて来るイエス様の再臨を告げるものです。
[2]さばきが告げられる時
「第七のラッパのさばき」には、黙示録16章以降にくわしくでてくる「七つの鉢」のさばきがすべて含まれます。次々に起こるこれらのわざわいは、「獣の王」、つまり「反キリスト」を拝む人々の上にくだされます。それに先立って、人々は、10章から11章13節までにあるように二人の証人の証しを聞き、さらに二人の昇天を目撃して、真の神を礼拝しなければならないことを教えられます。しかし、にもかかわらず、人々は反キリストを拝み続けるのです。そして「第七のラッパのさばき」があり、その後、12章から14章までは再び中間的な章が続きます。そして、16章からは、「七つの鉢のさばき」について記されているのです。
多くの人々は、「第七のラッパのさばき」を、コリント人への第一の手紙に出てくるラッパと同じものだと考えています。しかしこの考え方は正しくありません。「第七のラッパ」と「終わりのラッパ」とは決して同じものではありません。聖書ではいろいろな場合にラッパが吹き鳴らされ、その時、その時に意味があります。たとえば、救いがもたらされるときに鳴らされるラッパが、コリント人への第一の手紙15章に出てきます。
聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(第一コリント15・51、52)
この時は、イエス様がご自身の教会を迎えるために、ご自身で来られるのです。
また、王のもとに人々を集め、王の権威を知らせる時にもラッパが鳴らされます。マタイの福音書24章を見てみましょう。
人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24・31)
ここのラッパは、イスラエル人がすべて悔い改めて、救世主であるイエス・キリストを受け入れる時に鳴らされるものです。
私たちはすでに、黙示録4章で、教会が天に引き上げられたことを見てきました。その後で鳴らされるラッパは、すべてさばきを告げ知らせるためのものです。黙示録11章15節の場合もそうです。これらのさばきのあとで、イエス様はご自身の国をこの地上にお建てになります。ちょうどエリコが七つ目のラッパで陥落したようにです。イエス様も、第七のラッパとともに、この世にご自身の国を建てられるのです。第七のラッパのさばき、つまり、第三のわざわいとともに、千年王国の前の三年半の時代が始まります。そしてこの期間は、恐ろしいさばきの時代になります。
・・・・「地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。」(黙示12・12)
[3]王が知らされる時
ヨハネは第七のラッパに続いて起こるさばきを、この後に、初めて見ることになります。しかしその前に、ヨハネはそのさばきの時代の姿、「影」を見せられたのです。
恐ろしいわざわいの終わった後は、いったいどうなるのでしょうか。それを示されるため、主はヨハネに、さばきの後に来る恵みの時代の王国をお見せになりました。それは、15節にあるとおり、「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」王国です。さばきのあとに、この世の国に対する主の支配が現われるのです。
今、この世は確かに悪魔の支配下にあります。マタイの福音書には、悪魔がイエス様にこの世の支配権を与えようと言ったことが記されています。
今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ4·8、9)
今の時代は悪魔がこの世の支配権を握っているのです。そして黙示録17章では、「淫婦であるバビロン」がこの世の支配権をもっていることが記されています。
しかし、主のご支配は必ずやってきます。黙示録では、恐るべき主のさばきによってサタンの支配権が決定的に滅ぼされることと、そのあとでイエス様の支配権が確立されることが明らかに示されています。
始めに読んだ詩篇第2篇は、この時代についての預言です。つまり、神はご自身の御子をその王とするご計画なのです。しかし、この世の王も、この世の民もともにその計画に逆らいます。ですから主なる神は、彼らに対してさばきをもって応えざるを得ません。それは、イエス様が、この世の民とこの世の国々とを支配され相続される、と主によって定められているからです。
わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。(詩篇2・8)
主なる神の最後の呼びかけもまた、人々が主ご自身に自発的に従い、それによって「救いを得るか」、あるいは、神に反抗したまま「さばきを受けるか」、いずれを取るのか、ということです。
すでに救われている私たちは、天からのラッパの知らせを聞きます。私たちには、さばきを通して主の支配が現わされるということが知らされています。
2.天の軍勢の答
15節で私たちは、天からのはっきりとした声を聞くことができます。それは「主が王となられた」という声です。
黙示録の最大のテーマは、「主のご支配が現わされる」ということです。特に今学んでいる黙示録11章15節から17節、そして12章10節、19章6節にこのことがはっきりと示されています。
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」(黙示12・10)
また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。」(黙示19・6)
すでに旧約聖書でも、多くの箇所で、このことについて述べられています。そして、「神は王である」、「神は統治なさる」、「神は永遠に統べ治められる」という証しがなされています。
主はとこしえまでも統べ治められる。(出エジプト15・18)
主は世々限りなく王である。国々は、主の地から滅びうせた。(詩篇10・16)
まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。(詩篇22・28)
まことに、いと高き方主は、恐れられる方。全地の大いなる王。(詩篇47・2)
神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。まことに神は全地の王。巧みな歌でほめ歌を歌え。神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。(詩篇47・6~8)
主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。(詩篇93・1)
主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(詩篇97・1)
ラッパと角笛の音に合わせて、主である王の御前で喜び叫べ。(詩篇98・6)
主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。(詩篇99・1)
この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル7・14)
主は地のすべての王となられる。その日には、主はただひとり、御名もただ一つとなる。(ゼカリヤ14・9)
わたしは足なえを、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。(ミカ4・7)
[1]神は王である
「神は王である」という意味は、決して、神が多くの王の中の一人であるということではありません。「神だけが王である」ということです。地のすべての王たちは、神である王に仕えなければなりません。私たち個人はもちろん、すべての民族、すべての国々が「まことの神」のみを王としていただくということです。
私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。(詩篇5・2)
また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。(黙示1・5)
この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。(黙示17・14)
その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。(黙示19・16)
[2]神は王となる
旧約時代の予言者たちは、「神が王である」ことを知っていただけでなく、この地上で「神が王となられる」ことも知っていました。「神が王となられる」ということは、神が唯一の支配者であられ、神の許しがなければ何も起こりえないことを意味しています。しかし現在、この地上にはこのような「神の支配」は、まだ現われてはいません。私たちは現在もなお、「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6・9、10)と、この地上のために祈らなければならないのです。
現在、私たちの間で見られるさまざまな苦しみの原因は何でしょうか。それはまことの神があがめられずに、まことの神でないものがあがめられていることです。悩みの原因は、間違った対象への礼拝と間違った対象への賛美にあります。人々によってまことの神の御名があがめられていないことが、夫と妻の不和の原因であり、子どもと親との不和の原因であり、北と南の不和の原因であり、人間と自然との不調和の原因です。これらすべての不調和から私たちが救い出だされるのは、ただ、天地万物の創造主なる「神」だけがあがめられる時です。もし人々が、「心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえる」(ローマ15・6)ならば、すべての問題は解決され、人々に喜びがもたらされるようになります。
「真の礼拝」と、「バビロンの崩壊(黙示17・5、8」とは同時に起こります。バビロンは真の神への礼拝をやめさせようとたくらみ、「獣」、つまり、反キリストを礼拝するよう人々を誘惑します。しかし、この地上で御名があがめられないことがあったとしても、それによって王である神の神聖さが汚されることはありません。
天の御座に着いておられる方は笑う。主はその者どもをあざけられる。(詩篇2・4)
そして、まことの神は人々からのはっきりとした答を望んでおられます。つまり、神はすべての礼拝者がご自分の元に来ることを求めておられるのです。
[3]神は王となられた
私たちは、神の勝利がすでに達成されているということに気づいているでしょうか。イエス・キリストの十字架と死によって、悪魔の力はすでに滅ぼされてしまっているのです。ですから、これから先、勝利を得るかどうかは問題でなく、すでに得た勝利を、世界中に明らかにしていくことが重要なのです。黙示録11章と19章で、私たちはすでにかちとられた勝利がたたえられているのを見ることができます。
千年王国における地上でのイエス・キリストの支配が明らかにされる前に、この世界に悪の満ちる時が必ず来ます。神はいまは沈黙なさっておられます。ですから、多くの人々が「神は死んだ」と言っています。しかしそうではなく、神はいま「この世の君」である悪魔に、多くの時と機会を、許しておられるのです。
今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。(ヨハネ12・31)
わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。(ヨハネ14・30)
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。(ヨハネ16・11)
神はすでに勝利をかちとられました。そしてそれがまもなく明らかにされることを、今は沈黙して待っておられるのです。ですから大きな苦難の時である反キリストの支配は、一時的な見せかけの働きに過ぎません。悪魔の支配は、イエス・キリストの支配される国に比べれば、取るに足りないものです。まことの神から離れることにより、人類の破滅が明らかにされるとき、イエス・キリストの支配が現わされるのです。
私たちはこれまで、七つのラッパが「さばきを告げる」だけではなく、「イエス様の支配の現われ」を告げることを見てきました。黙示録16章の「七つの鉢のさばき」で、神のさばきが最高潮に達します。これらのさばきの後で、イエス様はご自身の支配をこの世に確立されるのです。
天にある神の教会は、イエス様のご支配の時をすでに前もって見ることができたので、イエス様に礼拝をささげているのです。
3.贖われた者たちの礼拝
ここで、私たちはこの「天にある神の教会の礼拝」について考えてみたいと思います。これについて、黙示録11章17、18節にその根拠が記されています。次に、ここに書かれている七つの根拠について見ていきましょう。
[1]神の偉大な力
反キリストである「獣」の力は大変大きいものですが、神の力はそれにまさっています。イエス様は偉大な勝利者です。この大きな力の前で、二十四人の長老たちは地にひれ伏し、イエス様を礼拝します。これは真の献身です。
イエス様は三つの名前で呼ばれています。それは、「主」そして「神」、そして「全能者」というものです。偉大なるまことの神が、イエス様を通して、この地上でご自身の支配を現わそうとしておられるのです。これが礼拝の第一の理由です。
[2]神の不変性
礼拝の第二の根拠は、「神の不変性」です。すべてのものは変わりますが、イエス様は決して変わることのないお方です。
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13・8)
11章17節に「常にいまし、昔います」という表現がありますが、1章4節にあった「後に来られる方」という表現は消えています。なぜなら、そのお方が「後に」ではなく、すでに「来られた」方だからです。それゆえ礼拝がささげられるのです。
[3]神の支配
礼拝の第三の根拠は、神がその偉大な力を行使されたことです。イエス様の完全なご支配が現わされたゆえに、イエス様は礼拝を受けられるのです。神は常に支配者であられます。しかし、神の支配は千年王国において、はじめて完全に現わされるのです。天にあげられた教会は、この勝利を見て、礼拝せざるをえないのです。
私たちは過去の歴史の中で、しばしば主の民が神に向かって絶望的な叫びをあげているのを見ます。「なぜあなたは、この国にいる在留異国人のように、また、一夜を過ごすため立ち寄った旅人のように、すげなくされるのですか。なぜ、あなたはあわてふためく人のように、また、人を救うこともできない勇士のように、されるのですか。」(エレミヤ14・8、9)というような叫びを聞くことがあります。しかし、この「天の教会」においては、このような「叫び」や「疑問」などはなく、ただ礼拝だけがささげられているのです。11章17節で、私たちは、千年王国の平和をあらかじめ見ることができます。18節では、それに先立つ時代をも前もって見ることができるのです。
[4]神の怒り
礼拝の第四の根拠は、神の怒りが諸国民の上にもたらされたことです。詩篇第2篇によると、「国々は騒ぎ立ち」ましたが、「焼き物の器のように粉々に」打ち砕かれてしまいました。また「国民はむなしくつぶやき」、主のご支配を受けいれようとしませんでした。
イエス様の時代にも、国民は怒り、主を受け入れませんでした。「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(ヨハネ1・11)のです。彼らは、イエス様を好まず、「この人ではない。バラバだ。」(ヨハネ18・40)と強盗の釈放を願ったのです。このイエス様に対する怒りは、後には、使徒たちやイエス様の証人たちへ向けられました。
そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。(使徒12・1、2)
すると、竜は女に対して激しく怒り、女の子孫の残りの者、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たちと戦おうとして出て行った。(黙示12・17)
パウロもかつては、主の弟子たちに向かって怒りを燃やしました。
さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。(使徒9・1、2)
これは、パウロが主の弟子たちにではなく、イエス様ご自身に対して怒りを抱いた結果であることが、次の箇所でわかります。
ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。(使徒9・3、4)
これらの諸国民の怒りに対して、神はさばきをもってこたえられます。聖書は、しばしば「神の怒り」について語っています。「怒り」のない神は「愛」のない神です。「怒り」は、傷つけられた神の愛です。この「神の怒り」は千年王国の始まる前のハルマゲドンの戦いにおいて現われます。ハルマゲドンの戦いには、神に反抗する、イスラエルに戦いを挑むすべての人々が集められます。
また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。・・・・こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。(黙示16・13、14、16)
[5]死者の復活
礼拝をささげる第五の根拠は、「死者の復活」にあります。
ハルマゲドンの戦いの後で、死者は報いを得るために復活させられます。このことについては黙示録の次の箇所にくわしく書かれています。
また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。(黙示20・4~6)
[6]信じる者の報い
礼拝の第六の根拠は、復活させられた人々が、神から報酬を与えられることです。彼らはイエス様と共に千年王国を支配するのです。
11章18節には、報いを与えらる三種類の人々が記されています。一つは、「神のしもべである預言者たち」です。預言者とはどういう人を指すのでしょうか。預言者たちとは、神の口として用いられている人々のことです。彼らは勇敢にイエス様の証しをし、そのために苦しみをも受けたのです。大きな苦難の時にこれらの預言者たちは、来るべき千年王国の預言をしました。
次に「聖徒たち」がいます。ダニエル書にはイスラエル人たちが敵の国々から迫害されることが記されています。その迫害を受けるイスラエルの主の民は、「聖徒」と呼ばれています。
しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。(ダニエル7・18)
さらに「御名を恐れかしこむ者たち」がいます。ここで記されている人々はユダヤ人ではなく、異邦人です。これらの人々は大きな苦しみのときにも「獣」を恐れることなく、神のみを恐れて生きた人々です。マタイの福音書にこういう人々のことが記されています。
「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。」すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』」(マタイ25・34~40)
これらの三つのグループの人々は、すべて大きな苦しみの時に神の側に立った人々です。「小さい者も大きい者も」というのは「すべての人々」という意味です。つまり、主は、どんな人であろうと主に忠実な人々に対して報いを与えられるのです。いかなる人も見逃されることはありません。神がさばかれるということは、神が、忠実な者とそうでない者とを分けられるということです。
今日はまだ、このように「分けられる」ということはなされていません。
「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5・45)
しかし、その時には、誰が主を恐れ、誰がそうでなかったかが明らかにされるのです。
「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。(マラキ3・17、18)
[7]主のさばき
礼拝の第七の根拠は、地を汚すものたちが、さばかれるということです。黙示録ではこれらのものは「大淫婦」、「バビロン」と呼ばれています。
「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」(黙示14・8)
「神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」(黙示19・2)
昔からその時に至るまで、地に住む人々はバビロンによって偶像礼拝へと誘われてきたのです。
地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。(創世記6・11、12)
主が「地を滅ぼす」されるのは、いつも、「神殿が汚される」ことが原因でした。
もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。(第一コリント3・17)
この地は、そこでまことの神が礼拝を受ける神殿として創られたのです。しかし、この礼拝の家は、強盗の巣にされてしまいました。
そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる。』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイ21・13)
この世の終わりの時代も、ノアの時と同じように、「堕落の時代」になるのです。そして、最後の審判が、ついに「バビロン」とハルマゲドンに集まる軍勢に下されるのです。
これまで私たちは、「遣わされた者の叫び」、「天の軍勢の答」、「贖われた者たちの礼拝」の声を聞いてきました。また、私たちはここで、「キリストの勝利」と「キリストの支配」の現われも見ました。最後に、まだ信じておられない方々のために、一言つけ加えておきたいと思います。
イエス様に自分の罪を告白し、イエス様に自分自身とその人生をゆだねた人々は、イエス様に「義」とされて、そのさばきにあうことがありません。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5・24)
これがイエス様のお約束です。永遠のいのちは、死んだ後に与えられるのではなく、現在生きている間に与えられるのです。誰でもイエス様を受け入れている人には、永遠のいのちが与えられているのです。
そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。(第一ヨハネ5・11、12)
そして、永遠のいのちを持つ人は、さばきにあうことがありません。イエス様を信じる人々もさばきの座に立たされます。しかしそれは、さばきを受けるためでなく、報いを受けるためです。罪の問題は、イエス様が十字架での死を通して、すでに解決してくださいました。したがってイエス様を受け入れた人々には「滅び」はありません。
こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ8・1)
ですから、信ずる者は喜びと希望をもって未来を見ることができるのです。なぜなら、彼らはイエス様と永遠にいっしょにいることを知っているからです。
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