2022年9月4日日曜日

われわれはどこへ行くのか

われわれはどこへ行くのか
2022年9月4日、静岡福音集会
黒田禮吉兄

ヘブル
13:13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
13:14 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

フランスのポスト印象派の画家でポール・ゴーギャンという人がおりました。彼の最後の作品に、『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』というタイトルの絵があります。ゴーギャンというのは、波瀾万丈の生涯を送りましたけれども、四十歳を過ぎてから、いわゆる楽園を求めて、南太平洋のタヒチに渡りました。けれども、貧困や病気に悩まされ、結局、フランスに舞い戻りました。ところが、パリでは絵が売れず、妻子にも見放されると、居場所を失ったゴーギャンは、再びタヒチに渡航しました。もはや戻る場所もなく、異国の地で失意と貧困にあえぐ中で、ゴーギャンは完全に希望を失いました。そして、完成後に自殺することを念頭において、最後の作品を描いたと言われています。それがさっきご紹介した、『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』という作品であります。


実はゴーギャンは、若い頃、神学校の生徒でした。そしてそこで学んだ基本的な問答が、彼の絵のタイトルになったそうです。彼は、キリスト教に猛反発するようになりますが、この基本的な問答、この問いは終生、彼の頭から離れることはなかったのであります。ゴーギャンが残した問い、『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか』という問いは、私たち一人ひとりに投げかけられている問いでもあります。私たちは、これにどう答えるのでしょうか?

最初に、『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か』ということを考えてみたいと思います。この二つの質問の答えを、創造主なる神様抜きで考えると、それは、いわゆる進化論で説明することになります。私たちが学校教育で学んできた生命の起源、そして、人類への進化の歴史であります。進化仮説――私は進化仮説と言いたいんですけど――進化仮設の特徴を簡単に言えば、四十億年という長い長い時間の流れのなかで、突然、偶然に生じたひとつの細胞から生命が生まれ、人間に至るまでの数限りない複雑な過程を、偶然と偶然が重なって、種のバリアを乗り越え、ついに人が誕生したと言うものであります。

ここで進化論について、お話するつもりはありませんけれども、大切なことは、進化論にとどまる限りは、ひとりひとりの人間が生まれ、死んでいくことについて、つまり、私たちの人生について、その意味を認めないということであります。私たちは、偶然にこの世に生まれ、寿命が尽きれば死ぬという、そういう考えであります。

けれども、聖書によれば、いのちも人も創造主によって造られたのであります。神様は、人間をどのように創造されたのでしょうか?まず、そのことを確認したいと思います。

創世記
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
2:8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。

つまり、神様は、人間を神様のかたちに似せて造られました。地のちりから造り、神様のいのち、つまり、霊を吹き入れてくださいました。こうして人間は、ただの動物ではなく、神様との霊的な交わりを持つものとされました。けれども、サタンの惑わしによって罪が入り込んでしまい、神様との交わりも絶たれてしまいました。しかし、主なる神は、このこともご存じで、御子イエス様による救いの道を備えてくださったのです。その上で、聖書は私たちが何のために生きるのかを教えています。

ローマ
5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。

第一コリント
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

私たちが生きるのは、イエス様をとおして、私たちが神様を知り、神様を喜び、神様の栄光を現わすためであります。

『われわれはどこから来たのか、われわれは何者か』という問いについて、短くお話ししましたが、次に三つ目の『われわれはどこへ行くのか』という問いについて――今日の主題なんですが――、アブラハムの信仰から学んでみたいと思います。

へブル
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。

主なる神が、アブラハムに、『あなたの生まれ故郷を出て、わたしの示す地に出て行きなさい』とおっしゃったとき、彼はすでに七十五歳でありました。私も七十七歳になりますけれども、こんな歳に、知らない土地に行けというのは非常に酷なことであります。しかも、どこに行くのかを知らないで出て行ったと書かれています。彼はしかし、神の仰せに素直に従って、住み慣れた生まれ故郷を出て、主から示された土地、カナンに旅立ったのであります。

神は、人を用いて働かれますけれども、その時、もっとも必要とされるのは、従順さであります。聞く耳を持っているということであります。そして、彼は約束の地、カナンに着いてからも、その地で他国人、旅人として、家族たちとともに天幕生活を続けました。

目的地についたのですから、どうして、もっとしっかりした家を建てなかったのでしょうか?それは、カナンの地も、アブラハムにとって、最終の目的地ではなかったからであります。『堅い基礎の上に建てられた都』とは、天の都のことであります。アブラハムは、地上には本当の故郷はない――この世にあるあいだは、どこにいても旅人であるということを自覚していました。そして、目に見えない天の都を真の故郷として、目で見ているように確信して、日々、主なる神様に信頼しながら、この世の旅路を歩んでいたのであります。

へブル
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

アブラハムは、カナンに自分の土地を持っていませんでした。後になって、アブラハムが唯一、所有したのは、妻サラの墓地として、ヘテ人のエフロンから買い取った洞穴、ほら穴だけでした。アブラハムは、神からカナンの土地は、お前とお前の子孫に与えると言う約束を与えられていました。けれども、実際にカナンの土地を手にはしませんで。しかし、彼は、神の約束は必ず実現することを固く信じていました。イサクもヤコブも約束されたカナンの地を手にしませんでした。カナンの土地は、何世代も後の子孫が、やっとそれを受け継いだのです。

それでは、アブラハムやイサクやヤコブには、何の報いもなかったのでしょうか?彼らには受け継ぐものがなかったのでしょうか?いいえ。聖書には、『しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです』と書かれています。神様を信じる信仰に生きた人々は、神が約束された祝福のすべてをこの地上で手に入れることができなくても、『はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』

こうして主なる神に信頼して、主の仰せに従って信仰の旅をした私たちの信仰の先達は、地上における旅路の終わりに、主が用意された真の故郷である天の都に入ることができるのであります。しかし、それまでの旅路は、決して平坦な楽なものではありません。信仰の父と呼ばれるアブラハムの信仰の特徴とは、何であったのでしょうか?

創世記
15:5 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
15:6 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

アブラハムは主を信じた。それが彼の義、すなわち、正しいこととされたとあります。何よりもアブラハムは主の御言葉に従順に耳を傾け、それに従ったのであります。

ローマ
4:2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。
4:4 働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。
4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

アブラハムは、その行いによって正しいとされたのではありません。私たちは、働いた時にはそれなりの報酬を得ます。アブラハムは、神の律法を行ったから正しいとされたのではありません。ただ、主なる神を信じる信仰によって、正しいとされたのであります。だからそれは報酬ではなく、神からの恵みであると言っているのであります。

創世記
17:15 また、神はアブラハムに仰せられた。「あなたの妻サライのことだが、その名をサライと呼んではならない。その名はサラとなるからだ。
17:16 わたしは彼女を祝福しよう。確かに、彼女によって、あなたにひとりの男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福する。彼女は国々の母となり、国々の民の王たちが、彼女から出て来る。」
17:17 アブラハムはひれ伏し、そして笑ったが、心の中で言った。「百歳の者に子どもが生まれようか。サラにしても、九十歳の女が子を産むことができようか。」

ローマ
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

「あなたの子孫はこのようになる。」老人になり、一人の子供も世に残すこともできないアブラハムが、この星のように無数の子孫を持つようになるとは、とても考えられませんし、想像できません。しかし、この神の約束に、アブラハムはどう反応したのでしょうか?

もちろん、彼も百歳になった自分の体の現実を認めました。けれども、彼は単純に神を信じ、語られたことに、『アーメン、本当にその通りです』と言ったのです。語られる方の人格を信じ、この方が約束されたことだから大丈夫だとうなづく信仰であります。常識では、『ノー』というところを、理屈ではわからないが、あなたが言われることだから、アーメンですと、それは、ご自分の御子イエス様を身代わりにするほどまでに私たちを愛してくださり、あなたの罪を赦そうとおっしゃってくださるお方を信頼する信仰であります。

イザヤ
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

詩篇
91:14 彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。
91:15 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。
91:16 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。

主なる神は、私たちひとりひとりをよくご存じであり、生まれる前から私たちを選んでくださり、愛してくださり、あなたを忘れない。そして、年をとっても背負って救い出そうとおっしゃってくださるお方、人格を持ったお方であります。アブラハムの信仰の特徴とは、このような主への従順であり、それは目に見えるものではなく、信仰による霊の目を開けて、主の御言葉、約束を信じることであり、この地上の生活ではなく、最終的に天の故郷を目指す歩みであったと言えます。

第二コリント四章に、今のことが書かれています。皆さんよくご存知の言葉であります。

第二コリント
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。

ピリピ
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。

さまざまな試練を経験したパウロも、このように証しすることができました。目には見えないが、主なる神の約束を信じ、どこへ行くのかを知っていたのであります。それは神のくださる永遠の家が与えられる約束、天の御国の約束であります。

さて、この世の中に目を転じるとどうでしょうか?もはや誰の目にも、これから極めて困難な時代がやってくることがわかります。人々に愛がなく、自分のことだけを大切にし、それをよしとする社会、地球温暖化による異常気象、新型コロナ・ウイルス等による疫病、ロシアによるウクライナ侵攻、さまざまな紛争や戦争、等々、数え上げればきりがありません。聖書がはっきり述べているのは、この世はよくならないということであります。

けれども、私たち信じる者には希望があります。私たち信じる者の希望とは何でしょうか?それはよみがえられたイエス様ご自身であり、永遠のいのちであり、天の御国であります。

三か所ほど、御言葉を読んで終わりにしたいと思います。

第一コリント
15:19 もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。
15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

二つ目は、最初に読んでいただいた御言葉です。

ヘブル
13:13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
13:14 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

最後に、黙示録の22章20節を読ませていただきます。

黙示録
22:20 ・・・・「しかり。わたしはすぐに来る。」

私たちは、今日、考えてみましたように、偶然にこの世に生を受けたのではありません。創造主なる神のご計画によって生まれたのであります。その主なる神をほめたたえるために生かされているのであります。そして、私たちが到達 するべきは天の御国であることが約束されています。今しばらくは、私たちには忍耐が必要ですが、間もなく来られる主を待ち望む希望が与えられています。「しかり。わたしはすぐに来る」と言い残された方に対して、『アーメン、主イエスよ、早く来てください』と言うことができれば、本当に幸いです。

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