2022年8月29日月曜日

すぐに起こるはずのこと【第2部】5.霊を見分けることを示されたテアテラの教会

第2部
天に上げられたイエス様が教会に与えられたみことば

5.霊を見分けることを示されたテアテラの教会

黙示録2章18から29節まで

1.イエス様に賞賛された少数の信者たち
[1]愛
[2]信仰の忠実さ
[3]奉仕
[4]忍耐
2.イエス様の非難を受けた大多数の信者たち
[1]主のみことばだけに聞き従わないこと
[2]教会に規律がないこと
[3]純粋な教えがないこと
3.勝利を得る者に与えられた大きな約束
[1]世界の支配権
[2]明けの明星


(18)また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。(19)「わたしは、あなたの行ないとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行ないが初めの行ないにまさっていることも知っている。
(20)しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。(21)わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。(22)見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。(23)また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。

(24)しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。(25)ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。(26)勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。(27)彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。(28)また、彼に明けの明星を与えよう。(29)耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』(黙示2・18~29)

黙示録のこの部分で、私たちはイエス様がテアテラの教会に与えられたみことばを学びましょう。天に上げられたイエス様は、ご自身の教会に対して決して沈黙なさることなく、今も語っておられます。

イエス様は、豊かで活発だったエペソの教会に向かって「悔い改めて初めの愛に帰りなさい」と語られました。

また、迫害によって苦しんでいたスミルナの教会に向かっては「死に至るまで忠実でありなさい」と語られました。

また、戦いながら証しをしているペルガモの教会に向かっては「この世と妥協しないでわたしに従っていなさい」と語られました。

そして、テアテラの教会に向かっても、イエス様はご自身を現わし、語っておられます。そのみことばは、次の三つの項目に分けることができます。
1.イエス様に賞賛された少数の信者たち
2.イエス様の非難を受けた大多数の信者たち
3.勝利を得る者に与えられた大きな約束

テアテラは、ペルガモの東南約六〇キロにある町で、今ではアキサールと呼ばれています。この町は工業都市で、毛糸の染色で有名でした。この町は、ペルガモとサルデスの間に位置し、商業都市としても栄え、町には異邦的な宗教が広がっていました。

テアテラは、性道徳が乱れ、たいへん評判の悪い町でした。この町にどのようにして福音が伝えられたかはわかりませんが、パウロによって回心したルデヤはこの町の出身でした。

テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。そして、彼女も、またその家族もバプテスマを受けたとき、彼女は、「私を主に忠実な者とお思いでしたら、どうか、私の家に来てお泊まりください。」と言って頼み、強いてそうさせた。(使徒16・14~15)

ルデヤは家族とともにイエス様を信じ、きっとテアテラに行ってイエス様のことを証ししたことでしょう。ルデヤは彼女の経験したことを親戚や友達に語り伝えようとしたことでしょう。そして彼女の証しを通して、多くの人々は飢え渇きを感じ、救いを求めるようになり、救い主を見いだしたことでしょう。このようにしてこの町に教会ができたのです。この教会の目的は、主の宮となってイエス・キリストを証しすることでした。つまりこの教会は地の塩、世の光となるはずでした。

しかし、この教会は、内部分裂を起してしまったのです。なぜかというと、この教会の中に、異なった霊が入り込んだからです。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。(第一ヨハネ4・1)

このみことばの勧めは、特にテアテラの教会に対してあてはまります。

では、このテアテラの教会について、より深く考えてみましょう。

この教会の少数の人々は、イエス様の承認を得た人々でした。この人々は黙示録2章19節、24節にあるように、ほめられ、慰めを受け、そして忠告を受けました。これに対して、この教会の他の大多数の人々はイエス様の非難を受けました。この大多数の人々は、裁きを予告された人たちでした。そして、勝利を得た人々に対しては、イエス様はご自身とともに諸国の民を支配する権威を与えると約束されたのです。

1.イエス様に賞賛された少数の信者たち


最初に私たちは、この教会の少数の人々について考えてみたいと思います。この教会の少数の信者たちだけが、イエス様からの承認を受けていたのです。ここでは、人間的な評価は問題となりません。「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の御子」の評価だけが決定的です。神の御子は、ご自身に従わない者たちへの裁き主として、ご自身を現わしておられます。神の御子はすべてを知り、すべてを見ておられます。

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。(ヘブル4・13)

神の御子の目は、欺かれることのない、聖なる目です。イエス様はすべてを見ておられます。神の御子は、すべての罪とすべての汚れとを見ておられます。神の御子は罪を見逃すことがおできになりません。罪を見逃すことは、罪を肯定することですから。

私たちは、このようなイエス様の目の前に、自分をさらけ出すことができるでしょうか。私たちはイエス様が、私たち自身をさぐり、調べられることを受け入れることができるでしょうか。

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139・23、24)

主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。(詩篇26・2)

私たちは、全てを見通すことができる目を持ってはいません。私たちが人を見る時、ただ人の表面を見るだけです。これに対してイエス様は、飾られた人の表面の内側を見通すことがおできになるのです。私たちは人の言葉によって簡単にだまされますが、イエス様は人の言葉によってだまされるようなお方ではありません。

その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。(黙示1・14、15)

「しんちゅうのような足」は、裁きが近づいていることを現わしています。イエス様は、すべての不従順な者たちを裁くために近づいておられるのです。イエス様は、「わたしは、・・・・死病によって殺す」(黙示2・23)と言っておられます。

正しいさばきをし、思いと心をためされる万軍の主よ。(エレミヤ11・20)

正しい神は、心と思いを調べられます。(詩篇7・9)

神の御子は、目の見えないお方ではなく、すべてのものを正確に見、人の心の奥底までも探るお方です。神の御子は、口をきかないお方ではなく、教会に語りかけるお方です。神の御子は、動かないお方ではなく、行動するお方です。イエス様は裁かれ、そして判決を下されます。

燃えた鉄がすべてのものを焼き尽くすように、イエス様の裁きのみことばも、これに従わないすべての人々を討ち滅ぼしてしまうのです。

教会に対しても、イエス様は欺かれることのない裁き主です。

イエス様は私たちの罪に対して、妥協をなさることはありません。イエス様はご自身の聖さのゆえに、罪には裁きを加えざるをえないのです。

しかしイエス様は、すべての裁きを通して、救いと解放を与えようとなさっておられます。罪に対してはっきりとした態度をとらず、罪をもてあそんでいる人々はわざわいです。私たちの罪のせいで、神の御子が死ななければならなかったのです。ですから、私たちも罪を憎まなければなりません。

私たちはどうでしょうか。私たちとイエス様との交わりは断ち切られ、すべてのものが見せかけになってしまってはいないでしょうか。私たちは、はたしてイエス様を私たちの生活の中心にし、イエス様に私たちの生活の全てを導いていただいているでしょうか。

私たちは、私たちの霊をもう一度、新しいものにしていただこうではありませんか。もしイエス様が私たちの生活の中心になられ、私たちがイエス様を愛するようになるなら、私たちは当然、罪を憎むようになるはずです。

イエス様は、まずテアテラの教会の忠実な少数の人々をほめておられます。この少数の信者に対しては、イエス様は満足しておられます。これらの信者たちは、イエス様との生きた交わりを求めていました。そしてイエス様を、「初めの愛」をもって愛していたのです。そして彼らの心はイエス様によって満たされ、その結果、彼らの働きにはめざましいものがあったのです。

イエス様は、人の行ないと人の動機とを同じように見ておられます。つまり、人の外面的な行ないと、人の内面的な本質を同じように見ておられるのです。

テアテラの教会の忠実な信者の場合には、すべてのことがイエス様との交わりの結果として行なわれていました。ですから、これらの信者は証しをすることができたのです。

ここでイエス様と結びつくことの結果を、四つの項目に分けて見てみましょう。

[1]愛


イエス様に対する愛が、この信者たちのしるしでした。イエス様への愛のあるところには、他の信者への愛も生まれてきます。イエス様への愛が他の何にもまして大きなところでは、全ての問題がイエス様によって解決されます。私たちの行ないが、イエス様への愛によって支配されているなら幸いです。

イエス様に対する愛は、三つの態度となって現われます。

・まず、イエス様をよりよく知ろうとする思いが強くなります。ですから、私たちは、イエス様のみことばを、聖書を学ぼうとするのです。

・いつも「イエス様、わたしは何をするべきでしょうか」という問いかけが起こります。ですから、私たちは、自分の考えや、感情や、そして思いを捨てて、いつもみこころに従おうとします。つまり「自己を否定する」ようになります。

・主の憎まれるものを、すべて憎むようになります。罪とこの世とサタンに対して、妥協のないはっきりとした態度をとるようになります。イエス様は、かつてペテロに「あなたはわたしを愛するか」と問われましたが、私たちにも同じことを問いかけておられます。

[2]信仰の忠実さ


私たちがイエス様と結びつくことによって、私たちの内にはイエス様への愛とともに、イエス様への信仰の忠実さが現われてきます。

テアテラの教会の一部の信者たちは、イエス様にすべてを明け渡したために、他の人々から迫害され、誤解され、そして異分子にされてしまいました。しかし、それゆえに、彼らはイエス様への信仰に忠実であり、少しも迷うことがありませんでした。イエス様が彼らにとっての全てとなり、何ものも彼らをイエス様から引き離すことはできなかったのです。彼らを打ちのめそうとする全ての試みは、彼らをかえってイエス様のほうに近づける結果となりました。

[3]奉仕


私たちがイエス様と結びつくことによって、イエス様への奉仕が生まれてきます。そしてイエス様に対する奉仕は、常に兄弟姉妹に対する奉仕に結びついています。ローマ人への手紙12章とコリント第1の手紙12章には、信者の奉仕のいろいろな賜物のことが記されています。そして、このような賜物がテアテラの教会の中にも見られたことは疑いありません。

信者たちは全力を尽くし、いっさいの安楽を退けていました。信者たちは自分のことは考えないで、イエス様のご栄光だけを考え、そして兄弟姉妹のことだけを考えていたのです。

そしてこのようなイエス様との結びつきの中から、イエス様への愛とともに、イエス様への信仰の忠実さが現われ、イエス様への奉仕が現われただけではありません。イエス様との結びつきの中から、忍耐が生まれてきたのです。

[4]忍耐


この忍耐は長続きする忍耐であり、どのような誘惑にもまどわされることのない強い忍耐でした。この忍耐には、経済的な貧しさに対する戦いがあり、友人のあざけりがあり、信者たちとの間での苦しい経験があり、自らの苦しみと弱さへの抵抗などがあります。しかし、テアテラの信者たちは、これらすべてのことに対して打ちのめされることのない強い忍耐を持っていたのです。

私たちの場合はどうでしょうか。私たちはイエス様によってこの点を試みていただこうではありませんか。なお、今まで学んできたような少数の信者たちについては、後に再び触れることにしましょう。

2.イエス様の非難を受けた大多数の信者たち


テアテラの教会の大多数の人々に対しては、黙示録2章の20節から23節で、裁きのみことばが与えられました。この裁きは、三つの非難に要約されます。
1.主のみことばだけに聞き従わないこと。
2.教会に規律がないこと。
3.純粋な教えがないこと。

テアテラの教会の大多数の人々には、非難されるべきところがあったのです。したがって、イエス様はこれらの人々に対して、「あなたには非難すべきことがある。」と言っておられます。誰かが私たちに対して、何か非難する心を持つということは重大なことですが、イエス様が私たちに対して非難すべきことがあると言われることは、もっともっと重大なことです。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8・31)

しかし、黙示録のこの箇所では逆のことが言われています。それは、イエス様がテアテラの教会の味方でなく、非難者だということです。この箇所でイエス様は、テアテラの教会を弁護するお方ではなく、逆に訴えるお方となっておられます。それはなぜでしょうか。「あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。」とあります。なすがままにさせているということは、イエス様に対して悪いことを積極的に行なうということではありませんが、しかし、悪いことを「黙認する」ことです。

「黙認する」ことはつまり、「肯定する」ことです。悪いことを黙認していることが、このテアテラの教会の罪でした。この場合、間違った教えが教会の中に存在していただけではなくて、テアテラの教会を支配していたのです。

エペソの教会では、このような間違った教えが徹底的に憎まれていました(黙示2・6)。

ペルガモの教会では、間違った教えに対して妥協が行なわれていました。しかし、このような妥協を行なう者は、少数の者でした(黙示2・14、15)。

しかし、テアテラの教会では、このような間違った教えに従う人々が大勢いたのです。神のしもべたちが大勢だまされていたのです。どうしてこのようになったのでしょうか。

[1]主のみことばだけに聞き従わないこと


それは、神のみことばだけに聞き従うということがなかったからです。人々は人間の言葉に聞き従うようになり、自己の心の語るところに従うようになり、また悪魔のささやきに聞き従うようになり、その結果、もはや神の御子のみことばに聞き従わなくなってしまっていたからです。これは大変、危険なことです。その結果は常に混乱と、霊的な死です。

教会の惑わしは、いつも表面的には敬虔に見える人々から起こってきます。惑わしをもたらす人々は、話の巧みな人で、指導的な能力を持っていることが多いのですが、しかし、これらの人々は偽善者であり、詐欺師なのです。しかし、神のみことばだけに聞き従う人々は祝福を受け、守りを与えられ、用いられます。

ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。(使徒17・11)

パウロはこのような人々のことを喜んでいました。これらの人々は、決してパウロが説くことを疑問に思って聖書を調べていたのではなく、彼ら自身が聖書によって真理の確信を得たいと心から願っていたのです。

このようにして、これらの信者たちはみことばの中にしっかりとした土台を据えることができました。キリスト者は、すべて神のみことばの中に根を下ろしていなければなりません。

悪魔はいつも私たちを神のみことばから引き離そうとしています。

兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。(ローマ16・17、18)

間違った教えと誘惑は、テアテラの教会の場合には、イゼベルという女によってもたらされました。私たちは、このイゼベルがどのような人であったかを知ることはできませんが、おそらくこの教会の中心的な人物の妻ではなかったでしょうか。

この女性は自分が女預言者であると主張しました。つまり自分は神のロであり、特別な啓示を与えられている者であり、特別の霊を持つ者だと主張したのです。

しかし、彼女を支配した霊は、聖霊ではなくて人間的な霊、悪魔の霊でした。彼女は非常に話の上手な、そしてテアテラの教会でただ一人の教師だったように思われます。誰ひとり彼女に反対できる者はいませんでした。狂信の霊が彼女を捕らえていたのです。狂信は常に不品行をもたらします。テアテラの教会の場合がそのようだったのです。

その原因は、信者が神のみことばだけに従うことをしなかったからです。ニコライ派の教えが、ここでは具体的な形をとったと考えられます。なぜならこの教会では、少数の者がほかの人々に対して権力を振るうようになっていたからです。もしニコライ派の教えが断固として拒絶され、責任ある兄弟たちがこの教えに対して戦っていたなら、この教えは大きな勢力とはならなかったであろうと思われます。

この女性は、あるいはイゼベルという名前ではなかったかもしれません。しかし、この女性の性格が旧約時代におけるイゼベルに似ていたために、主がそのように呼ばれたのです。旧約時代のイゼベルは、シドンの王の娘でした。この王は偶像礼拝者でした。イゼベルの強い影響力によって、彼女の弱い夫であったアハブもまた偶像礼拝者となってしまいました。

オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目の前に悪を行なった。彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。(第一列王記16・30、31)

八百五十人の偶像に仕える祭司たちが、イゼベルの食卓に着き、アハブ王は以前の王よりもさらに悪い王となったのです。

アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。彼は偶像につき従い、主がイスラエル人の前から追い払われた工モリ人がしたとおりのことをして、忌みきらうべきことを大いに行なった。(第一列王記21・25、26)

イゼベルという名前は、「貞淑な処女」という意味だと言われています。しかし、実際のイゼベルは不品行な女性であり、のろわれた者でした。

ヨラムはエフーを見ると、「エフー。元気か。」と尋ねた。エフーは答えた。「何が元気か。あなたの母イゼベルの姦淫と呪術とが盛んに行なわれているかぎり。」(第二列王記9・22)

彼は内にはいって飲み食いし、それから言った。「あののろわれた女を見に行って、彼女を葬ってやれ。あれは王の娘だから。」(第二列王記9・34)

このイゼベルにつき従うことによって、イスラエルは偶像崇拝へと誘惑されていきました。神の預言者であると言った彼女は真の預言者を迫害し、そして殺害したのです。

イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、オバデヤは百人の預言者を救い出し、五十人ずつほら穴の中にかくまい、パンと水で彼らを養った。(第一列王記18・4)

あなたさまには、イゼベルが主の預言者たちを殺したとき、私のしたことが知らされていないのですか。私は主の預言者百人を五十人ずつほら穴に隠し、パンと水で彼らを養いました。(第一列王記18・13)

イゼベルはまた、そそのかし、誘惑する者でした。

アハブのように、裏切って主の目の前に悪を行なった者はだれもいなかった。彼の妻イゼベルが彼をそそのかしたからである。(第一列王記21・25)

彼女は神のしもべたちをも迫害し、そして、殺害したのです。

あなたは、主君アハブの家の者を打ち殺さなければならない。こうしてわたしは、わたしのしもべである預言者たちの血、イゼベルによって流された主のすべてのしもべたちの血の復讐をする。(第二列王記9・7)

同じ「わたしのしもべ」という言葉が、黙示録の2章20節の中に出てきます。「イゼベルは、・・・・わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、・・・・」。アハブとイスラエルの人々もイゼベルの言葉に従い、それによってイゼベルの支配を受ける結果になったのです。

テアテラの教会にはイゼベルのような、その人の霊が神のみことばによって試されることがなく、人々から自分の言葉を信頼されたいと願う支配欲の強い女性がいたのです。

テアテラの教会のほとんどの人々が、少数の信者、イエス様との生きた愛の交わりを持っている人々を別にして、彼女の言葉に聞き従ったのです。

このように彼女の言葉に聞き従った多くの人々を、イエス様が非難しておられるのです。なぜなら、彼らは神のみことばだけに聞き従うことをしなかったからです。

[2]教会に規律がないこと


ペルガモの教会では、正統と異端の二種類の教えが行なわれていましたが、テアテラの教会においては、ただ、イゼベルが唯一の教師でした。このにせの教師を通して、まちがった狭い道は広くされました。「サタンの深さを知った」と主張した人々が、かえって不信仰と異邦人の教えの中に転落していったのです。しかし教会は、この誘惑者だったイゼベルを追放することができませんでした。

あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。(第一コリント5・6)

外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。(第一コリント5・13)

「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」(マタイ13・33)

イエス様は、イゼベルに対しても、悔い改めの機会をお与えになりました。しかし、黙示録の2章21節にあるように、彼女は悔い改めようとはしませんでした。

悔い改めをしようとしない。これもまた、人間の心が決めてしまうまちがいです。

「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ23・37)

イエス様が悔い改めを求められる時は、「悔い改めが可能な時」です。私たちが悔い改めを拒むのは、決して環境のせいではなくて、私たちの心に問題があります。

間違った教えは、常に人の理性を鈍らせ、何も見えなくしてしまいます。間違った教えは、私たちを闇の中へと深く引きずりこみ、そこから抜け出すことは大変むずかしいのです。

イゼベルは、悔い改めようとしませんでした。そのため、悔い改めの時は過ぎ去り、ただ裁きのみが彼女に告げられることになったのです。

イゼベルの教えに従った人々は、かつては神のしもべでした。しかし、彼らはもはや、主との交わりを失ってしまった人々でした。聖書はこのような人々のことを「姦淫を犯す者」と言っています。彼らは主に対しての忠実さを失い、自らの結婚生活も乱れてしまったのです。

しかし、これらの人々のために、主は悔い改めの機会を与えておられました。

それゆえ、今、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。御子にロづけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。(詩篇2・10~12)

もし、悔い改めて神に立ち返らなければ、神の裁きを受けるほかありません。イゼベルの息子たちは、すべて殺されてしまったのです。

その手紙が彼らに届くと、彼らは王の子どもたちを捕え、その七十人を切り殺し、その首を幾つかのかごに入れ、それをイズレエルのエフーのもとに送り届けた。(第二列王記10・7)

このように、大多数のテアテラの教会の人々がイエス様の非難を受けたのは、イエス様のみことばだけに聞き従わなかったこと、教会に規律がなかったこと、純粋な教えがなかったということがその理由でした。

イエス様のみことばに忠実に従うことが行なわれていない場合には、その結果は、常に「姦淫が行なわれる」ことになります。

「しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5・28)

貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4・4)

わたしの民は木に伺いを立て、その杖は彼らに事を告げる。これは、姦淫の霊が彼らを迷わせ、彼らが自分たちの神を見捨てて姦淫をしたからだ。(ホセア4・12)

彼らは自分のわざを捨てて神に帰ろうとしない。姦淫の霊が彼らのうちにあって、彼らは主を知らないからだ。(ホセア5・4)

聖書によれば、汚れた思いを抱くだけでも姦淫を犯したことになるのです。

もしもイエス様が、私たちの生活の中で第一の場所を与えられていない時には、私たちは姦淫を犯す者となっているのです。

イゼベルの教えもまた、主のみことばに基づくものではありませんでした。

そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。(ヤコブ3・15)

イゼベルの教えは、主のみことばによってためされたものではなく、その誤った教えを教会の大多数の人々は黙認していたのです。しかし聖書は私たちに、はっきりとした態度をとることを要求しています。

しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。(ガラテヤ1・8)

あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。(第一ヨハネ10、11)

しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。(第一テモテ4・1)

終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。(第二テモテ3・1~8)

そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。(ヤコブ3・15)

しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行なわれており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。(第二ペテロ2・1~3)

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。(第一ヨハネ4・1)

[3]純粋な教えがないこと


さて、前に述べたように、このテアテラの教会への手紙は、七つの手紙の中では最長の手紙であり、この手紙によって代表される時代は、教会の歴史の中でも、もっとも長い時代です。

つまりこの時代は、中世の暗黒時代に当たり、西暦五百年から千五百年に至るローマ・カトリック教会の支配の時代に相当しています。ローマ・カトリック教会は、この世的な権力を持つことにより、多くの過ちを犯し、偶像崇拝を行ない、そして真の主にある信者たちを殺害するまでになったのです。

したがって私たちは、旧約時代におけるイゼベルのイスラエル人に対する関係と、テアテラの教会でのイゼベルと信者たちとの関係と、そして五百年から千五百年に至るローマ・カトリック教会の信者たちに対する関係を、比較して考えることができるのです。

ローマ・カトリック教会もまた、主のみことばに聞き従わなかったこと、教会の規律を守らなかったこと、純粋な教えを持たなかったことなどの特徴を持っています。

テアテラという言葉の意味は、薫香を絶やさない者、または、いけにえをささげる者、という意味です。

カトリック教会のミサにおいては、一回ですでに完成されているはずの神の御子の贖罪が、何度も何度も、死者と生きている者とのために繰り返されています。

また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル9・12)

このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。・・・・キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(ヘブル10・10、14)

カトリック教会は、神と人との間の仲介者はイエス様ではなく、マリアであると教えています。イエス・キリストが中心ではなく、マリアが中心に置かれています。そして最大の誤りは、カトリック教会の教えです。カトリック教会は、常に教会の教えが間違っていないことを主張し、強制しますが、しかし、これこそが最大の誤りです。

また、カトリック教会は、常に権力を追い求めています。中世では、いつも、世界の支配権をめぐっての戦いがありました。

聖書は、イエス・キリストのほかに救いはない、とはっきり言っています。

カトリック教会は、教会の外に、つまりカトリック教会の外に救いはない、と言っています。カトリック教会の目的は、人間の魂の救いではなくて、富と権力と名声なのです。

中世においてカトリック教会は、イゼベルと同じように、主にある真の信者たちを迫害しました。拷問や火あぶりや剣をもって迫害しました。人間の言葉よりも主のみことばを重んじたすべての信者たちは異端者として迫害を受けたのです。数えきれないほどの多数の信者たちがドイツ、スコットランド、イギリス、フランス、イタリア、スイス、スペインにおいて、投獄され火あぶりにされました。

イゼベルは悔い改めをしようとしませんでしたが、それと同じように、カトリック教会も、今に至るまで悔い改めを行なおうとはしていません。

カトリック教会は、将来においても悔い改めをしないでしょう。そして、黙示録の17章には、大バビロン、つまり、カトリック教会に対して厳しい裁きが行なわれることが記されています。

イエス様は、テアテラの教会に対して、ご自身を神の子として現わしておられます。神の子であられるイエス様は、教会の真の基礎であり、柱です。この教会の基礎ということについて、少し考えてみましょう。

ペテロが、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(マタイ16・16)と言った時、イエス様はペテロに対して「あなたはペテロ(石のようなもの)です。」と言われ、次いで、「(ペテロが『あなたは、生ける神の御子キリストです。』と告白した)その岩の上にわたしの教会を建てます。」(マタイ16・18)と言われました。

ギリシャ語の原典によれば、この石と岩という言葉には、異なった単語が用いられています。カトリック教会は、ペテロが岩である、と言っています。しかし、聖書はイエス様ご自身が岩である、と言っています。

ペテロはイエス様からかぎを与えられた人です。かぎは扉を開ける、つまり何かを始めることに用います。ペテロは、使徒の働きによれば、ユダヤ人と異邦人とに最初に福音を伝えた人です。しかし、その後ではペテロはもはや、かぎを用いること、つまり何も新しいことを始めなかったのです。

まことの教会の基礎である「岩」も、「建てた方」も、またその「かしら」も、すべて神の御子、イエス様ご自身です。

しかし、テアテラの教会では、イエス様は「岩」ではなく、その中心でもありませんでした。同じようにローマ・カトリック教会でも、イエス様が中心ではなく、マリアや法王やそのほか多くの者たちが、イエス様を押しのけて教会の中心にいました。

旧約時代のイゼベルは、悔い改めを欲せず、決して悔い改めをしようとはしませんでした。同じように、テアテラのイゼベルも、ローマ・カトリック教会も、悔い改めることを欲せず、決して悔い改めようとしませんでした。恵みの時は、すでに過ぎ去りました。

しかし、イセベルの教えに従っていた者たちには、まだ悔い改めの機会が残されていました。旧約時代のイゼベルの時代に、エリヤは、「あなたがたは、いつまでどっちつかずによろめいているのか。」(第一列王記18・21)と、イスラエルの民に向かって呼びかけました。しかし、イスラエルの民は、これに対して態度を明らかにしようとしませんでした。従うことも、また拒絶することもしなかったのです。

テアテラの教会においてもまた、イエス様は、何人かの人々が悔い改めに至るかどうかを待っておられました。

「悔い改めとは、心が全く一新されることです。神に対しても、罪に対しても、自分自身に対しても、まったく新しい思いを持つようになることです。テアテラの教会へのイエス様の手紙は、私たちに、この世との妥協が行なわれるところでは、つまりこの世との姦淫が行なわれるところでは、イエス様との交わりが断ち切られることを教えています。

私たちは、黙示録2章19節において、このテアテラの教会の少数の人々がイエス様のみこころを喜ばせたことを見てきました。彼らはたいへんほめられました。そして、それは決してほめすぎではありませんでした。24節、25節では、彼らは「なぐさめ」られ、そして「忠告」を与えらています。

「なぐさめ」は、「わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。」というみことばの中に示されています。

「忠告」は、「あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」というみことばの中に示されています。

テアテラの教会の中に残された人々は、妥協しないでイエス様に従った人々でした。イエス様は彼らに、「イゼベルと彼女に従う者とを捨てなさい」という命令を与えられはしなかったのです。どうしてでしょうか。なぜなら彼らは、残されたごく少数の人々だったからです。彼らはこの教会の中で、内面的に非常に大きな苦しみを負っていたのです。しかし、彼らは少数でしたから、教会の規律を全ての人に守らせることなどとてもできなかったのです。ですからイエス様ご自身が、それをしてくださったのです(黙示録2章の22、23節)。

これと同じように、旧約時代のイゼベルの時代にもバアルとその教えに従わなかった人々が七千人残されていました。彼らは全体の中で非常に少数であったために、自らの考えを明らかに述べることができませんでした。彼らは心の中に大きな苦しみを持っていたのです。彼らができなかったために、主ご自身が彼らに代わって行ない、カルメル山の上でご自身を現わされたのです。

同じように、五百年から千五百年の間、この世の権力を持っていたローマ・カトリック教会に対して、真の信者たちはまったく無力でした。

しかし、この時代において、イエス様は裁きを行なわれました。その裁きとは、悔い改めを拒んだためにその機会がすでに「失われてしまった」ということです。

テアテラの教会の中の残された人々は、十分な苦しみを受けていました。そのために、イエス様は、「わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない」と愛の言葉をもって慰めておられるのです。

しかし、彼らは、慰めを受けただけではなく、忠告をも与えられていたのです。「持っているものを、しっかりと持っていなさい。」という忠告です。「しっかりと持つ」ということは、勇気を失ってあきらめることの反対です。エリヤは、かつてあきらめて「私のいのちを取ってください。」と主に願ったのです。ですから、「しっかりと持つ」ということは実に大切です。

また、ここでイエス様が残された人々に語っておられるのは、「新しい主の土地を得るために戦いなさい。」ということではなく、「自分の持っているものをしっかりと守るために戦いなさい。」ということでした。「しっかりと持つ」とは、あなたがイエス様から与えられているものをしっかりと保つということです。

しかし、ここで私たちは、イエス様から何を与えられているかを、自らに問いただしてみなければなりません。まことの信者は、一人のこらず、自分の罪が赦されていること、自分が神の子であること、そして、永遠のいのちを持っていることについての「確信」を持っています。

しかし悪魔は、この「確信」を奪い去ろうとします。これに対してイエス様は、「あなたの持っているものを、しっかりと持っていなさい。」と言っておられるのです。

私たちは、どのようにして、「しっかりと持つ」ことができるでしょうか。それは、聖書に書かれているみことばだけに信頼することによってです。イエス様は私たちに、みことばによって、日々、より多くのものを与え、それによって私たちを満たしたいと思っておられます。

「私たちは打ちのめされたとき、間違った方向に向かってしまいます。それは私たちが自らを見たり、ほかの人々を見たりして、イエス様ご自身を見ることをしないからです。

「あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。」、「わたしはすぐに来る。」・・・・。「わたしは、来る」と言われるこの方を見上げましょう。

「私たちの苦しみは、自分自身を見たり、自分自身に何かを期待したり、自分自身をよくしようとしたり、自分自身を救おうとしたりすることから起こってきます。

イエス様は私たちを打ち砕き、イエス様ご自身だけが私たちの生活の中心となるようにしてくださいます。イエス様を見上げ、イエス様にすがりつくことが、信仰の戦いに打ち勝つための秘訣です。私たちは今まで、イエス様が約束なさっておられることを、信仰によって受けとったことがあるでしょうか。「イエス様、私はあなたが約束してくださったことを、信仰によって受け入れます。そしてそのことに対して、私はあなたに感謝します」という態度こそが重要です。

「私たちが悪魔によって取り囲まれる時、私たちは「イエス様、いま私たちを暗やみが取り囲み、私たちは何も見ることができません。しかし、あなたが私たちに約束を与えておられるので、私たちはあなたに感謝します」と言おうではありませんか。

主である神の目的は、私たちがイエス様により多くの場所を明け渡し、自分の力により頼むことをだんだん少なくしていくことにあります。ですから、イエス様により頼み、イエス様にしっかりと結びつくようにしようではありませんか。あなたがイエス様から与えられているものを「しっかりと保って」いなさい。まことの力は、ただイエス様だけにあります。イエス様の内に、私たちの必要としている全てのものが備えられています。

イエス様は、どのような状態に対しても困られることはありません。イエス様は、勝利者として私たちの中に姿を現わそうとしておられるのです。このことをしっかりと「保ち」、それにより頼み、期待を持とうではありませんか。

3.勝利を得る者に与えられた大きな約束


黙示録2章の26節から28節までは、天に上げられたイエス様が、完全な権威をもって、来たるべきことがらについて語っておられます。イエス様は、ご自身が欲する人々に対して、力を与えることがおできになります。イエス様は、勝利を得、イエス様のわざを堅く守った人々に対して約束を与えておられます。イエス様の再臨まで、つまり終わりの日まで、耐え忍んでイエス様を待ち望むことが大切です。最後まで初めと同じような状態にとどまるということは、イエス様に対する初めの愛を保ち続けることです。これは大切なことであり、これこそが勝利を得るものの戦いの秘訣です。

「保つ」という言葉は、いつもイエス様と関連して用いられています。「保つ」とは、何よりもイエス様のみことばを守り、イエス様のわざを守りとおすことです。

しかしテアテラの教会では、イゼベルだけが「話をする者の中心」になっていたのです。忠実な信者たちは、話をする機会が与えられませんでした。イゼベルの話がきわめて巧みであったために、すべての信者たちは、彼女の話を信じ込まされてしまったのです。

ですからテアテラの教会は、イエス様のわざを堅く守ることを、イエス様によって要求されたのです。そしてイエス様のみことばを守るだけではなく、イエス様のわざを守ることが必要だったのです。なぜならイゼベルは、イエス様のみことばを伝えようとはしていなかったからです。

イエス様のわざを守るということは、イエス様の思いをいだくことです。パウロは、「主イエス・キリストを着なさい」と言っています。

あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。遊興、酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。(ローマ13・11~14)

イエス様は、ご自身の幸せのためには何もなさいませんでした。イエス様は、ただ父なる神の命じられたことだけを行なわれたのです。イエス様は、父なる神のご栄光だけをお求めになりました。勝利を得る者とは、イエス様と同じような行ないをする人々のことです。私たちは、このような思いをもって、日々の行ないをしているでしょうか。

イエス様はこのような勝利者に対して、おもに二つのことを約束しておられます。

[1]世界の支配権


ひとつは、諸国の民に対する支配権です。テアテラの教会は異邦的な教会でした。異教徒がこの教会の中で勝利を得、支配権を持ち、また命令を与えていたのです。そしてこの教会ではほかの宗教との融合が行なわれていたようです。このような教会の中に、残されたごく少数の人々がいたのです。そしてイエス様は、このような人々を喜びとし、そして、これらの人々を「勝利を得る者」と呼ばれたのです。

これら少数の人々は、あたかも滅ぼされてしまったように見えたのですが、イエス様は、むしろこれらの人々にこそ将来の勝利を与えることを約束されたのです。イエス様は多くの異教徒の中にあって勝利者となられるお方です。そして、テアテラの教会の少数の残された人々もまた、イエス様とともに勝利者となることが約束されたのです。

もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。(第二テモテ2・12)

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8・17)

イエス様の勝利にあずかるということは、イエス様とともに世界の支配権を与えられることです。つまり、勝利を与えられるとは、イエス様とともに異邦人に対しての支配権を与えられるということです。テアテラの教会の残された人々のように、圧迫されている少数の人々は、将来、勝利を得ることが約束されているのです。

あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。(第一ヨハネ4・4)

あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。(第一コリント6・2)

[2]明けの明星


さて、約束のひとつは「異邦人に対しての支配権を与える」という約束でした。いまひとつの約束は「明けの明星が与えられる」という約束です。明けの明星、金星は、支配を象徴する言葉です。つまり勝利を得る者は、宇宙的な支配権までも与えられることが約束されているのです。そして黙示録の22章16節によると、イエス様ご自身が、この明けの明星であると記されています。

人類の将来が、次第に暗さを増してくるということは、恐るべき事実です。そして、ただひとつの望みは、イエス・キリストの再臨だけです。

しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。(マラキ4.2、3)

これは、イスラエル民族のために与えられた約束です。イスラエル民族は、義の太陽を待ち望むように命じられているのです。

イエス様は、反抗する異邦人に対して裁きを行なうために再び来られます。しかし、太陽が上る前には、明けの明星が輝きます。明けの明星が、その日の始まる前に輝くのです。イエス様は、異邦人に裁きを行なうために、またご自身の教会のために、明けの明星として再臨なさるのです。

イゼベルのような心の態度を持ち、悔い改めをしようとしない人々は、再臨の時には、後に残され、恐ろしい裁きにあいます。

現代は、霊的にはもっとも深い暗やみの時代です。しかし、明けの明星が来られるのです。これこそが生きる望みです。

イエス様の再臨は、イエス様との交わりを保っていない人々にとってはまことに悲劇です。暗やみの時代の中においてイエス様が再臨なさるということは、私たちにとってどれほど勇気を与えられることでしょうか。それはどれほどすばらしい光景でしょうか。

テアテラの教会の状態は、私たちに対して強い警告を与えています。テアテラの教会ではサタンが勝利を得ました。教会のほとんどすべての人々は、神のみことばの「下」に立つことをしないで、神のみことばの「上」に立ち、神のみことばを支配しようとしたのです。それと同じことを、カトリック教会は今日に至るまで行なっています。このような状態になると、もはや「イエス様が」信じる者を通して働かれることがなくなって、「人々が」中心となってイエス様のために働くことが生じてきます。イエス様はもはや信者に対して働きかけることができず、人々は「自分の力で」イエス様に仕えようとするようになってしまいます。そうなると、イエス様だけが栄光をお受けになるようにという要求がなくなり、自分自身の名誉を求めることが生じてきます。イエス様だけが中心になるのではなく、教えが中心に置かれるようになるのです。人々の魂を救いに導くということがなくなり、人々は惑わされ、あげくのはてに迫害され、殺されるようになってしまうのです。このようにして、聖霊によって結びつけられていた小さな群から、大きな「組織された教会」が生じてきたのです。

2章の最後、29節に、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と書かれていますが、前に学んだ三つの手紙の中においても同じみことばが出てきます。しかし、私たちは、このみことばが置かれている場所に注意しなければなりません。

前の三つの教会においては、このみことばは、勝利を得る者への約束のみことばの前に置かれていました。しかし、テアテラの教会から後の手紙においては、このみことばは、約束の後に置かれています。それはなぜでしょうか。この箇所から以後は、イエス様は教会の全体をご自身の証し、ご自身の道具と考えられることがなくなり、ただ残された少数の人々だけをご自身の道具として考えられるようになったからです。

イエス様は、教会が全体として悔い改めることをしないために、もはや教会の全体が悔い改めて救われるようになることを期待されなくなってしまわれたのです。

悔い改めようとしない人は、裁かれるだけです。

前の三つの教会においては、勝利を得る者は、まだ教会全体との交わりを保っていました。しかし、これから後の教会においては、勝利を得る者は、もはや教会全体との交わりを保つことができなくなり、いわば、のけ者、残された者のように取り扱われているのです。

勝利を得る者は、イエス様の声を聞き分ける耳を持っています。彼らは、イエス様の声を聞き、その声に従います。

勝利を得る者はまた、イスラエルの王であったダビデのように祈る者です。

主よ。私を調べ、私を試みてください。私の思いと私の心をためしてください。(詩篇26・2)

勝利を得る者は、自分の罪を隠すことなく、光の中に持ち出す者です。

勝利を得る者は、神のみことばの「下」に立ち、神のみことばによって自らを裁き、へりくだり、イエス様が流された血潮に心からの感謝をささげる者です。

さて、25節には「わたしが行くまで」とありますが、これは何を意味しているのでしょうか。

イエス様がテアテラの教会によって示され、警告されたカトリック教会の制度は、イエス様の再臨の日まで続いていくことでしょう。後に来るサルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤの三つの教会もまた、最後の日まで存続し続けることでしょう。

最後の審判に関しては、黙示録17章、18章に記されています。そこにおいて大きな都バビロンは、ひとりの女性として描かれています。イエス様から離れた教会は、「淫婦」という言葉で呼ばれています。

黙示録の2章、3章で、最初の三つの教会、エペソの教会からペルガモの教会に対しては、イエス様は悔い改めて初めの状態に立ち返ることを要求しておられます。しかし、後半のテアテラの教会からラオデキヤの教会に至るまでの箇所では、教会へのイエス様の問いただしは、過去の状態に向かってではなく、将来の状態へと向けられています。イエス様は、組織された教会が悔い改めに至ることがないことを、よく知っておられます。したがってイエス様は、ご自身の声に聞き従う耳を持つ者に対してだけ語りかけておられるのです。そして聞く耳を持つ者たちは、イエス様の「見よ。わたしはすぐに来る。」というみことばにはげまされ、また慰められるのです。

テアテラにおいては、今日もなお、アキサールと呼ばれるこの町に教会が建てられています。二世紀頃のテアテラは、当時、異端と言われていたモンタヌス派の中心地でした。多くの教会史では、このモンタヌス派は異端とされ、悪魔と契約を結んだ人々とされ、また迫害を受けた人々として記されています。しかし実際には、このモンタヌス派は神のみことばのみを生活の規範とする人々の集まりでした。このモンタヌス派の人々こそ、教会が聖書に記されている規範からどれほど遠ざかっているかということを知っていた人々でした。つまりモンタヌス派は、教会の中で、どれほど多くの世俗化と、人間中心の制度と、罪に対する黙認とが行なわれているかを見ていた人々でした。ですからこの信者たちは、聖霊のみが教会を支配し、聖霊に自由な働きの場が与えられるようにと祈る人々だったのです。それによって多くの教会で霊的な覚醒が起こり、人々は妥協を廃した態度をとるようになったのです。

たとえばカルタゴでは、二人の若い女性の殉教者のことがよく知られています。二人の名前はペルペチュアとフェリシタスと言います。二人がイエス様のために殉教の死をとげる前に、二人が残した証しがあります。そしてその証しが今日も伝えられています。この二人の女性もまた、モンタヌス派に属する人々でした。

アフリカの教会の指導者であり、また文学者でもあったテルチュリアヌスもまた、モンタヌス派の一人であり、カトリック教会から分離した人でした。

このモンタヌス派の運動は、テアテラの教会から出たものでした。それは、イゼベルの霊を持たない少数の人々から出たものでした。彼らは聖霊に満たされてイエス様の再臨を心から待ち望んでいたのです。この少数の人々によって、壁に押しつけられるような圧迫の中から、二世紀において大きな影響を与える運動が起こってきたのです。

私たちは、このことを通してもまた、イエス様の力の現われを見ることができます。

「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28・18)

「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」(ルカ10・19)

私たちもこの力を受けとり、この権威のために感謝し、そして、この力と権威をイエス様の御名の栄光のために用いようではありませんか。

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