2022年8月1日月曜日

すぐに起こるはずのこと【第2部】3.苦難に会うように定められていたスミルナの教会

第2部
天に上げられたイエス様が教会に与えられたみことば

3.苦難に会うように定められていたスミルナの教会

黙示録2章8節から11節

1.教会の後ろ盾「イエス様のみそばに」
[1]初めであられるイエス様
[2]終わりであられるイエス様
[3]死んでまた生きておられるイエス様
2.教会への迫害「イエス様と共に」
[1]苦しみ
[2]貧しさ
[3]ののしり
3.教会の備え「イエス様のみもとに」
[1]限られている苦しみの時
[2]いのちの冠
[3]三種類の死

(8)また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。(9)『わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。(10)あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。(11)耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。』」(黙示2・8~11)

これは、天に上げられたイエス・キリストがスミルナの教会に対して与えられたみことばです。はじめに、前に学んだエペソの教会と、これから学ぼうとしているスミルナの教会とを比較してみましょう。

エペソの教会への手紙の主なテーマは、「初めの愛」でした。これに対して、スミルナの教会への手紙の主なテーマは、「死に至るまでの忠実さ」です。

エペソの教会は、豊かで活動的な教会でした。ところがスミルナの教会は、貧しく悩んでいる教会でした。

エペソの教会には、熱心さ、よい働き、立派な教師たちと伝道者たち、そして、苦難にあっても動かされない堅い信仰がありました。一方、スミルナの教会には、指導する力を持った人もいませんでしたし、財政的にも恵まれていませんでした。しかし、イエス様が心配しておられたのは、かえってよい働きをしているエペソの教会の方でした。そればかりではなく、イエス様はエペソの教会に対立さえなさいました。イエス様は「悔い改めなさい。そうしなければ私はあなたがたを捨て去る」とまで言っておられました。

これに対してスミルナの教会は、イエス様から少しも非難を受けることなく、ただ称賛だけが与えられたのです。

このスミルナの教会への手紙については、いろいろな題が考えられます。たとえば「死の陰にありながら、死に勝利する者」、「苦難への召命を受けている人々」、「迫害されている教会」などです。この個所を大きく三つの部分に分けて考えてみましょう。

1.教会の後ろ盾に、イエス様をもっていたこと
2.迫害された教会は、イエス様と共にあったこと
3.教会の備えは、イエス様のみもとに行くためのものだったこと

第一の項目は、さらに三つに分けることができます。つまり、「初めであられるイエス様」、「終わりであられるイエス様」、「死んでまた生きたお方、よみがえられたイエス様」です。

神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示1・8)

わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。(イザヤ44・6)

わたしは初めであり、また、終わりである。(イザヤ48・12)

1.教会の後ろ盾「イエス様のみそばに」


まずはじめに、スミルナという町について考えてみましょう。スミルナは「アジアの栄光」と呼ばれ、古代で最も美しい町の一つでした。また、皇帝崇拝の中心地であり、ユダヤ教も盛んな町でした。町中が活気に満ちていて、豊かに繁栄していました。

スミルナという言葉は、「没薬」、または、「にがみ」を意味します。「没薬」は、たいへん高価な物で、細かく砕くと高い香りがしました。スミルナの信者たちもまた、同じように細かく砕かれる備えがあり、苦難に対する用意ができていました。ですからイエス様に喜ばれる教会となっていたのです。「没薬」はまた、死者の体を腐敗させないために用いられる薬でもありました。しかし、スミルナの町は死のことなど少しも考えないで、ただ生きること、そして楽しむことだけを求めていました。この繁栄した町にイエス様の教会があったのです。このスミルナの町は、パウロが三年の間伝道したエペソから五十五キロの距離にありました。ですから、ここに住んでいた人々の中には、伝えられた福音を聞いて信じ、信者になる者がいたのです。

ここで、イエス様のからだである全ての教会について、二つのことを考えてみましょう。一つは、「イエス様ご自身」について、もう一つは、「イエス様の光に照らされた教会」についてです。

まず、「イエス様ご自身」について見てみましょう。イエス様はご自身について語られますが、それはいつも、ご自身についての啓示を私たちに与えるためです。イエス様はご自身を次の三つの事実によって啓示してくださいます。つまり、イエス様は初めであり、終わりであり、死んでまた生きかえられたお方、よみがえられたお方としてです。

[1]初めであられるイエス様


「イエス様が初めである」ということは、言うまでもなく、全てのものがイエス様によって造られたことを意味しています。

この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1・2、3)

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。(コロサイ1・15、16)

「イエス様が初めである」ということは、つまり、進化論の誤りと終わりを意味しています。

「イエス様は初め」であり、この地上に人間を創造されたお方です。イエス様は「わたしはある。」と言うことができる唯一のお方です。イエス様はただ一人、全てを実現することができ、全てを知っておられるお方です。

[2]終わりであられるイエス様


また、イエス様は「終わりのお方」でもあります。このことは、全ての未来がイエス様の手の中に握られていることを意味しています。この方よりも力の強い者など一人もいません。この方によってのみキリスト者の群れは守られているのです。

[3]死んでまた生きておられるイエス様


さらに、イエス様は「死んでまた生きておられるお方」です。いのちそのものであられるイエス様は、十字架の上で死なれました。その時、イエス様は全てが「完了した」と叫ばれ、その後、頭を垂れて息を引きとられました。イエス様は現実に、また文字通り、死なれたのです。イエス様は死を味わわれたのです。死は、本来、罪人が味わうべきものです。しかしイエス様は、私たちの罪のためにご自身を犠牲にし、なだめの供え物となってくださったのです。

そして、イエス様は生き返られました。死も彼を捉えることができなかったのです。イエス様は現実に、また文字通り、よみがえられました。イエス様は死に打ち勝ったのです。死に打ち勝ったお方は全てに対する支配者です。パウロはイエス様の偉大さについて、次のように記しています。

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。(エペソ1・19~22)

スミルナの教会の人々は、このような「初めであり終わりであり、死んでまた生きておられる」イエス・キリストを見上げることがどうしても必要でした。この教会は迫害の中にあって、いつも死に直面しており、苦難と死を恐れてイエス様から離れていく危険があったのです。このためイエス様は「死に至るまで忠実でありなさい」と彼らに言われたのです。

死に打ち勝ったお方のご臨在を示されることによって、あらゆる不安は取り除かれます。スミルナの教会の人々は、死に打ち勝ったイエス様を知りました。私たちも死に打ち勝ったイエス様を知ることによって、スミルナの教会の人々と共に死に打ち勝つことができるのです。

「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(第一コリント15・55、57)

これこそがスミルナの教会の信者たちの確信でした。スミルナの教会はこの世の圧倒的な力に抵抗していました。スミルナの教会は弱く、そして無力でした。しかし、イエス様が彼らの後ろ楯になっておられました。全てイエス様により頼む者は、あらゆる環境に打ち勝ちます。そして死に対しても打ち勝つのです。

イエス様は死の道を歩かれました。ですから、教会もまた死の道を歩きます。しかし、イエス様は死に打ち勝たれました。そして、イエス様はご自身に従う人々を導き続け、その人々と共に歩み、力づけようとなさっています。この世にあっては、多くの道が破局に終わります。しかしイエス様とそれに続く教会には、このような破局はありません。教会における最後は、死で終わるものではなく、いのちに至るものです。キリスト者は、イエス様のみ手の内にあって、迫害からも、また死からも守られているのです。何者も、イエス様のみ手から、その信者たちを引き離すことはできません。

2.教会への迫害「イエス様と共に」


次に、「迫害された教会は、イエス様と共にあった」ということについて考えてみましょう。

スミルナの教会は大きな建物を持たず、金持ちの信者もいない、たいへん貧しい教会でした。しかしこの教会は、イエス様に喜ばれていました。エペソの教会のような非難は少しも受けていませんでした。

黙示録を読むと、このスミルナの教会は何一つ目立ったことはしていないように見えます。この教会は、ただそこにあるだけのように見えます。そして、人々の不正に対して、ただ耐え忍んでいるだけのように見えます。そしてスミルナの教会は、人々から圧迫を受け、持ち物を取り去られ、そしてののしられました。この教会は、ローマ人への手紙8章36節にある「ほふられる羊」のように見えます。しかし、イエス様は「わたしは、知っている」と言われています。イエス様はご自身の経験から、圧迫され、持ち物を取り去られ、ののしりを受けるということがどのようなことであるかをよく知っておられました。イエス様もまた、何もすることができず、ただじっと耐え忍ぶしかない、という経験をなさったのです。

「あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」(ルカ22・53)

イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」(ヨハネ19・11)

[1]苦しみ


十字架にかかる前、イエス様はピラトに対して「あなたはわたしに対して力を持っている」と言われました。イエス様は、もはやご自身の手を病んでいる人々の上におくこともできず、ただ、十字架に釘付けられるだけでした。その時、イエス様は、もはや何もすることができず、ただ静かに耐え忍ばれるだけでした。イエス様ご自身が、このような苦難の道を通られました。ですからイエス様は、ご自身の教会の苦しみがおわかりになるのです。スミルナの教会はイエス様と同じ道を歩きました。同じ道とは、無一物にされ、圧迫され、ののしりを受ける道です。スミルナの教会の人々は、圧迫や迫害を受けたのです。まことの教会はいつの時代においても迫害を受けるものです。そして、だれからも認められることがないのです。

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネ15・19)

イエス様も、この世の人々から憎まれました。ですから真のキリスト者も、この世の人々から憎まれるのです。

[2]貧しさ


同じことが貧しさについても言えます。イエス様も貧しかったのです。

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(第二コリント8.9)

多くのキリスト者たちは、イエスに従うためにその持ち物を奪い取られることになりました。

あなたがたは、捕えられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。(ヘブル10・34)

スミルナの教会の信者たちは、持ち物を奪われ、人々から拒絶され、無視されました。迫害を受け、身を守るものもない裸同然の者にされ、財産のない者にされたばかりでなく、さらにその名誉すら奪いとられたのです。

これが、この人々が受けていたののしりです。イエス様も同じ経験をなさいました。イエス様が十字架につけられた時、多くの人々はイエス様ご自身の罪のせいだと思っていました。つまりご自身の罪のために罰せられたのだと。しかしイエス様は「私たちの罪のために」罰せられたのです。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。(イザヤ50・4)

スミルナの教会は圧迫の中に置かれていました。ギリシャ語で「圧迫」とは、「絞ること」を意味します。ぶどうを絞ってジュースを作るときなどに、この言葉が使われます。

前に私たちはスミルナの名前の意味が「没薬」からきていること、そして、それが細かく砕かれると良い香りを放つということを学びました。信者たちもまた、ぶどうの実のように絞られることによって、つまり圧迫を受けることによって、イエス様のためによい香りを放つ者に変えられていくのです。

スミルナのキリスト者の群れは、イエス様のために苦しむ備えができていました。この教会は無力で何もできず、ただできることは苦しみを耐え忍ぶことだけでした。これと同じことを未信者のご主人を持つ多くの姉妹がたが経験します。彼女たちは何もすることができず、ただ苦しみを耐え忍ぶだけです。しかし、イエス様のために苦しむこと、福音のために苦しむことは、イエス様が喜んでくださることです。

このスミルナの教会は、圧迫を受けたばかりでなく、その持ち物も奪い去られました。私たちにとって、生活を豊かにし、潤してくれる全てのものが奪い取られるということは、決してなまやさしいことではありません。しかし、スミルナのキリスト者にとっては、イエス様こそが全てのものにまさって価値のあるものでした。スミルナの教会は、イエス様のために貧しさのほうを選びとりました。もし、このキリスト者たちが妥協の道をとっていたら、経済的にはきっと恵まれていたことでしょう。しかし彼らのとった態度は、イエス様を悲しませることよりも、貧しさに甘んじることのほうでした。

[3]ののしり


貧しさにもまして彼らを苦しめていたのは、ユダヤ人であると言いながら実際はそうでない人々からののしられることでした。ユダヤ人であるということは、主なる神から選ばれ、主なる神から遣わされ、神の民に加えられているということを意味しています。イエス様の時代のユダヤ人たちは、旧約聖書を守り、メシヤの現われを熱心に待ち望んでいる人々でした。しかしイエス様は、このようなユダヤ人に対して、彼らが神の子ではなく、逆に彼らが悪魔の子であると言われたのです。

「わたしは父のもとで見たことを話しています。ところが、あなたがたは、あなたがたの父から示されたことを行なうのです。」彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい。ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行なっています。」彼らは言った。「私たちは不品行によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」

イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」(ヨハネ8・38~44)

「・・・・またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」(黙示2・9)

イエス様はこのような人々のことを、「サタンの会衆」と呼んでおられます。

誰が本当に神の民に属し、誰が神の民に属していないのでしょうか。これを決定するのは、私たちがイエス様に対してとる態度です。イエス様を告白する人は、神の民に属しています。しかし、イエス様を拒む人は、神の民に属していません。イエス様をののしる人は悪魔の道具です。イエス様をののしる人というのは詩篇2篇2節にあるように「主と、主に油をそそがれた者とに逆らう」人たちのことを言います。サタンは今日もなお、神の愛と神の義、そして神のみことばへの疑いを引き起こそうとしています。イエス様もまた同じようなののしりを体験されたのです。

あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12・3)

イエス様はご自身の教会に対して、「私はあなたの苦しみと貧しさと・・・・ののしられていることを知っている」と言っておられます。

神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。(ヘブル2・10)

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。(ヘブル2・17、18)

イエス様は全てのことを知っておられます。私たちの苦しみも知っておられます。ですから、私たちには、根本的には何の問題もありません。イエス様が私たちのことを考えていてくださり、私たちはイエス様の守りの中にいるからです。イエス様が全てのことを知っていてくださるということを、私たちが本当に知ることができたら、ものごとの外面上の見かけが少しも変わらなくても、私たちの全てのものに対する見方が、根本的に変えられます。

キリスト者たちが「苦しみのために召されている」ということは、私たちがあらゆる苦難を耐え忍んでなお、動かされることがないということです。

このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。(第一テサロニケ3・3、4)

確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(第二テモテ3・12)

もしキリスト者たちが、仕事を見つけることができないとか、あるいは地位を失うとか、あるいは財産を失うとかの問題に直面する時、それは信者の一人一人が、自己の経済的な立場を救おうとしてイエス様を否定するかどうかを試みられている時なのです。

イエス様は全てを知っておられます。そして教会の迫害の時には、ご自身も教会と一つになって、同じ迫害を受けておられるのです。

イエス様のご臨在こそが、全ての困難を、耐えることのできるものにしてくださるのです。

スミルナの教会は、イエス様のゆえに、全ての貧しさにもかかわらず豊かでした。イエス様は「あなたは富んでいる」とスミルナの教会に言っておられます。

すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、・・・・(エペソ3・8)

彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。(ヘブル11・26)

・・・・というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。(第一コリント1・5)

悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。(第二コリント6・10)

あらゆる苦しみと貧しさとののしりにもかかわらず、スミルナの教会はその内側においては豊かだったのです。

彼らは、これら全ての苦しみが、目的に至る「手段」であることを知っていました。つまり、苦しみが栄光に至る手段であることを知っていたのです。

もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。(ローマ8・17)

スミルナの教会に対する迫害は、真のユダヤ人から来たのではなく、ユダヤ人と自称している人々から来たものでした。これらのユダヤ人は、パウロを捕らえた人々でもありました。ユダヤ人たちは、イエス様を拒むことが彼らの神に対する忠誠だと考えたのです。スミルナの教会では、かつてユダヤ人がローマ人と共にイエス様を殺してしまったのと同じように、ユダヤ人がローマの権力者たちと一緒になって真の教会を迫害したのです。この当時、まことの教会に対して彼らがしたことは、今日においても組織されたキリスト教によって行なわれています。

3.教会の備え「イエス様のみもとに」


次に、イエス様に属する教会の備えは、イエス様のみもとに行くための備えだったことについて考えてみましょう。

あなたがたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。(黙示2・10)

イエス様は決して、キリスト者から苦しみを取り除いてあげようとは言っておられません。また死なないように守ってあげようとも言っておられません。彼らがののしられないようにとも、悪魔を彼らの足の下にうち伏せよう、とも言っておられません。

イエス様にとって、そのようなことはしようと思えばおできになることでしたが、あえてそのようにはなさらなかったのです。なぜなら、それらの苦しみを取り除くことよりも、もっと大切なことがあったから、つまり「苦しみを通して信仰を本物にする」という目的があったからです。私たちは病気や困難からできるだけ早く逃れたいと考えますが、イエス様のお考えはそうではありません。

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネ15・19)

苦しむことなくして、私たちがイエス様の栄光に至る道はないのです。迫害を受けることは、決して恥ずかしいことではありません。むしろ誉れです。なぜならその時にこそ、上からの力が私たちに臨んでくるからです。

ですからスミルナの教会は、同情されるような教会ではなくして、むしろ、「おめでとう」と言われていい教会だったのです。イエス様は「恐れることはない」と、この教会に対して言っておられます。そう言われる理由は、三つあります。まず、「苦しみの時」が、イエス様によって定められた苦しみの時だったからです。次に、「苦しみの時」が、いつまでも続く苦しみの時ではなかったからです。そして、「苦しみの時」が、イエス様によって用いられる苦しみの時だったからです。

次にこれらのことをくわしく考えてみましょう。

[1]限られている苦しみの時


イエス様は、事が起こる前にすべてのことをご存知で、「見よ、悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。」と言っておられます。もし、信仰のあつい熱心な信者が牢の中に入れられるようなことがあれば、それは悪魔の勝利だと思われがちです。しかしすべてのことは、イエス様が導いておられるのです。悪魔は、鎖につながれた犬のようなものです。悪魔は、イエス様が許される範囲を越えて人に迫ることはできません。苦しみの時は試練の時です。誰かが私たちを迫害する時、その人々は悪魔によって導かれているのです。したがって私たちは、それらの人々のためにも祈ることが大切です。

ピラトは、彼らの要求どおりにすることを宣告した。(ルカ23・24)

人間の背後には、いつも悪魔がいます。しかし人間と悪魔の上には、はるかに高くイエス様が立っておられます。イエス様は迫害を許されますが、それは私たちを滅ぼすためではなく、私たちをためし、私たちの信仰を本当のものにしようとしておられるのです。つまり、「苦しみの時」は、イエス様によって定められているのです。

次に、この「苦しみの時」は限られた時です。もし、信仰のあつい熱心な信者が悪魔に捉えられると、その信者が悪魔のものにされてしまったかのように見えますが、それはただそのように見えるだけのことです。信者が悪魔の手に掴まれたとしても、イエス様はその時を限っておられます。イエス様は十日の間と言っておられます。その意味は、ほんの短い間という意味です。

あなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(第一コリント10・13)

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。(ローマ8・18)

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。(第一ペテロ5・10)

イエス様は過去の苦しみを知っておられるばかりでなく、将来の苦しみについても知っておられます。イエス様は苦しみの時をはっきりと限っておられます。

あなたは、将来のことについて、病気のことについて、苦しみのことについて、孤独に対して、不安になっているかも知れません。そんな時には、「苦しみを恐れてはいけない」というみことばを思い出してください。イエス様は死に打ち勝たれた勝利者です。イエス様は悪魔の力を奪い取ったお方です。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、・・・・(ヘブル2・14)

たとえどのようなことが起こっても、私たちはイエス様のみ手の内に守られています。苦しみの時はイエス様によって定められ、その期間も限定され、そして栄光に至る道としてイエス様によって用いられているのです。イエス様はいつもキリスト者の近くにおられ、ご自身の教会と共におられます。これこそが、恵みです。

イエス様は苦しみの道を一人で歩いていかれました。弟子たちは誰一人としてイエス様と共に目を醒ましていられませんでした。誰もイエス様を理解することはできませんでした。誰もイエス様を知っているとは言えませんでした。イエス様は私たちの誰も経験したことがないほどに、孤独を経験なさったのです。しかし、私たちは決して孤独ではありません。なぜなら、イエス様がいつも近くにいてくださるからです。そしてどんな時でも「恐れることはない」と言ってくださるからです。

イエス様は、「死に至るまで忠実でありなさい」と私たちに言っておられます。したがって私たちは、死に至るまで信仰を守るのは当然であり、死に至るまでイエス様を証ししつづけることがもっとも大切です。「忠実である」ということは、ヨハネ15章4節にあるように「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」ということです。それは、イエス様の内にとどまり、死に至るまで、たとえ自分が殺されるようなことになったとしてもイエス様の内にとどまり続ける、ということを意味しています。

「真のキリスト者であることは、殉教に対する備えを持つ、ということです。パウロは自分に対する縄目と苦しみが待っていることを覚悟していましたが、自分自身のいのちに対しては全く顧みることがありませんでした。

ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。(使徒20・23、24)

[2]いのちの冠


2章10節に書かれている「いのちの冠」は、イエス様が誉れとして約束しておられるものです。ここで言われる「いのちの冠」とは、いわゆる「永遠のいのち」のことではありません。「永遠のいのち」はすでに信者の一人一人に与えられているからです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。(ヨハネ6・47)

「いのちの冠」は自分自身を惜しむことをしない人に対して、つまり、イエス様のために喜んでいのちを捧げる人に対して約束されているものです。

死の影にいるスミルナの教会に対しても、「いのちの冠」が約束されています。死に打ち勝ったイエス様がはっきりこのことを約束しておられるのです。苦しみは、私たちに失望をもたらすためのものではなく、私たちの心の眼を開いてくれるためのものです。

このように「いのちの冠」は、試みと圧迫に打ち勝った人々に対して約束されている冠です。「いのちの冠」は、信者の功績に対して与えられるのではなく、信者のイエス様への忠実さと愛、そして信仰から離れ落ちることがなかったというそのことに対して与えられるのです。

わたしは、すぐに来る。あなたの冠をだれにも奪われないように、あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。(黙示3・11)

兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。(黙示12・11)

私たちの「忠実さ」は、私たちがイエス様を証しするかどうか、にかかっています。

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。(ヤコブ1・12)

ですから何よりも大切なことは、あれやこれやをして功績をあげることではなく、私たちがイエス様を愛するかどうかです。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。(第二テモテ4・8)

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。(第二テモテ4・7)

イエス様はスミルナの教会に対して、「死は全ての終わり」ではなく、「全ての終わりがいのちである」と言っておられます。彼らは死に定められているのではなく、いのちに定められているのです。

イエス様は、あらゆる苦しみと貧しさとののしりの中にあるスミルナの教会の信者たちに、「最も究極的なものを見つめなさい」と言っておられます。苦しみは、必要とされる以上長くは続きません。

11節に、「勝利を得る者」とイエス様は言っておられます。「勝利を得る」とは、どういうことでしょうか。それは、自分自身を顧みないでイエス様を見つめる、ということです。そして、自分の弱さから眼を離して、主イエス様の勝利を見つめる、ということです。

[3]三種類の死


勝利を得る者はまた、決して第二の死によってそこなわれることはありません。聖書には三種類の死が出てきます。それは次のような死です。

まず、「肉体の死」。次に、「霊的な死」。そして、「永遠の死」、あるいは、「第二の死」。

私たちは「肉体の死」についてはよく知っています。「霊的な死」というのは神に対する死のことです。つまり、神との交わりを持たないことが霊的な死です。イエス様を個人的に知ることによって、人は霊的に生きるようになります。

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5・24)

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。(第一ヨハネ3・14)

「第二の死」とは「永遠の死」、火の池、ゲヘナのことです。それは永遠に神から切り離されている場所です。

この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。(黙示20・6)

そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。(黙示20・10)

それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示20・14、15)

「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」(黙示21・8)

神の霊がその人の内に宿り、霊的に生きるようになった人にとっては、第一の死、つまり肉体の死は、「イエス様の栄光に至るための手段」にすぎません。しかし、信仰のない人にとっては、肉体の死は栄光に至る手段となるどころか、死こそがその人の敵となります。というのは、この「肉体の死」の後で、その人は「第二の死」に引き渡されてしまうからです。「肉体の死」の後で、全ての人はイエス様の裁きのために復活させられるのです。

しかし、「第二の死」の後では、もはや復活させられることはありません。「第二の死」によって、信仰のない人は神から、つまり喜びの源である神から永遠に切り離されてしまうのです。

苦しみは私たちの前にあり、私たちの周りにあります。ただ人間だけを見、そして世の中の不正だけを見る人は、自分の心を損なうようになってしまいます。私たちは全ての事柄を越えて、主イエス様だけに目を注ぐことにしましょう。そして全てのことがイエス様のみ手の内にあることを知るようにしましょう。

スミルナの教会は、イエス様からどのような非難も受けませんでした。スミルナの教会は、初めの愛から離れませんでした。彼らのイエス様に対する愛は燃え続けていました。彼らはイエス様に対する愛によって、全てのことを忍ぶことができたのです。ペテロ第一の手紙には、彼らによく当てはまるみことばがあります。

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(第一ペテロ1・8)

イエス様をはずかしめるくらいなら、死んだ方がましだというのが、ダニエルと彼の友だちの態度でした。それはまた、モーセの決意でもありました。

彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。(ヘブル11・26)

スミルナの教会も全く同じ決意をもっていたのです。スミルナの教会のもっとも有名な長老の一人、ポリュカルポスは、西暦一五五年二月二十三日に火あぶりの刑を受けて殉教しました。彼は刑を受ける前に、ローマの地方総督にイエス様を否むように要求されました。「イエス・キリストをののしったら許してやる」と言われたのです。その時、彼は次のように答えました。「八十六年の間、私はキリストに仕えてきました。その間、イエス様は私に、ただ良いことだけをしてくださいました。今、どうして私は、救ってくださった私のイエス様をはずかしめることなどできるでしょうか」。そして彼は、イエス様を賛美する叫びをあげながら死んでいったのです。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。(ヤコブ1・22)

今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(第一コリント4・17、18

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