天に上げられたイエス様が教会に与えられたみことば
2.初めの愛とエペソの教会
黙示録2章1節から7節まで
1.あいさつと励まし
[1]エペソとパウロ
[2]教会の使命
[3]新しいいのちの七つの結果
3.称賛と約束
私たちはここから、黙示録の第2章に入っていきます。今回学ぶところは1節から7節までで、次のように記されています。
(1)エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。(2)わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。(3)あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
(4)しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(5)それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
(6)しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
(7)耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』(黙2・1~7)
この部分の学びのテーマはいくつかありますが、それは「天に上げられたイエス様のエペソの教会へのみことば」、「よい働きと足りない愛」、また「イエス様に対する初めの愛」などです。
そして、1節から7節までは、「あいさつと励まし」「非難と警告」「称賛と約束」の三つの部分に分けられます。
1.あいさつと励まし
[1]エペソとパウロ
エペソはその当時、大きな商業都市で、多くの利益をあげていました。また、文化と学問の盛んな町で、そこに住む人々の知的水準はかなり高いものだったと思われます。一方では、宗教的な町でもあり、エペソには小アジアの女性神でアルテミスとも言うダイアナが祭られ、魔術も盛んに行なわれ、それについての書物も数多く、出されていました。しかし、パウロがエペソに来たことによって、福音がはじめてもたらされました。現在でも一人の信者が学校や職場に入ると、パウロのような結果がもたらされるはずです。パウロは三年間、エペソで福音を伝えたと使徒の働き20章31節にあります。その結果、対立が生じました。十字架につけられたイエス・キリストと、ギリシアの知恵との対立です。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。(第一コリント1・3、4)
福音が伝えられる所では、人はいつも決断を迫られます。エペソにおいてもそうでした。多くの人々が信仰に入り、魔術の書物を焼き捨てました。燃やされた書物は金額にして銀貨五万枚以上に達しました。
また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。(使徒19・19)
こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。(使徒19・20)
しかし悪魔はこれに対抗し、銀細工人デメテリオを反逆の道具として用いました。彼は使徒の働き9章24節から28節にある通り、十字架につけられたキリストを選ぶか、あるいは、エペソの女神ダイアナを選ぶかの選択をエペソの人々に迫りました。
しかし、主のみことばはますます広まったので、それを見たパウロは教会で長老を選び、エペソを去ることにしました。後に、パウロはこの時に選んでおいた長老たちをミレトに呼び集めて、次のように話しています。
益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。(使20・20、21)
ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。(使徒20・26~28)
パウロは彼らに、自分自身と群れの全体とに気を配り、神の群れをよく牧するように忠告を与えました。パウロは教会に困難が襲ってくることを語り、長老たちに警告を与えたのです。
私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。(使徒20・29、30)
エペソの教会は模範的な教会でした。エペソ人への手紙には、エペソの教会の人々が持っていた深い信仰への理解力が示されています。そこでは二十二回にわたって「愛」という言葉が用いられています。このことは、エペソの教会にはイエス様に対する純粋な「愛」が保たれていたことを示しています。パウロは彼らにあてて次のように書いています。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3・17~19)
パウロのほかに、アポロ、テモテ、ヨハネがエペソで働きました。エペソの教会は多くのものを得ました。そしてパウロがエペソを去ってから三十五年後の教会の姿を、私たちはこの黙示録2章の1節から7節を通して見ることになります。
[2]教会の使命
黙示録の2章は、「エペソにある教会の御使いに書き送れ。」という言葉で始まっています。私たちはかつて第1章で、天使、あるいは、御使いとは何であるかを学びました。そのことをもう一度、ここで振り返っておきましょう。「御使い」はいつも神の使者であり、神のみ手の中にある道具です。教会もまた、神の道具でなければなりません。教会は、まず「燭台」のように世の中の暗やみを照らすことによって神の道具となります。また、神の前で仕え、神に礼拝を捧げることによって神の道具となります。さらに教会は、「星」のように世の中の人々に光を与えることによって神の道具となります。ですから「燭台」、「星」、「御使い」はともに教会を現わす象徴です。「御使い」というのは、ただ一人の人物を指しているのではなく、全体として神に仕えている教会を指しています。新約聖書では、長老とは、一人の人物ではなく、常に幾人かの人物を指しています。ですから、長老は一人ではなく、たくさんの人物によって代表されています。使徒の働きの20章17節以下を見るとわかりますが、パウロの長老たちに対する呼びかけは「あなた」とはなっていません。いつも「あなたがた」となっています。
2章7節を見ると、御霊の語りかけは、一つの教会だけでなく「諸教会」に向けられたものであることがわかります。私たちはこの箇所を正しく理解するために、教会の使命が何であるかをいつも考えていなければなりません。教会の使命は暗やみを照らすことです。真の光はイエス様ご自身です。イエス様はご自身の光を、ご自身のからだである教会を通してこの世に与えようとしておられます。イエス様は、教会をご自身の道具として用いようとしておられます。イエス様の道具としての教会を表わす言葉が「燭台」であり、「星」であり、「御使い」です。教会は「御使い」のようにイエス様のご用に仕えなければなりません。教会は、「燭台」のようにイエス様の前に光となり、「星」のように世の人々のための光とならなければなりません。
私たちの内側からは暗やみしか出てきませんが、イエス様の内側からは光が出てきます。イエス様が私たちをお用いになられる程度に従って、イエス様の光が私たちの内から出てくるのです。イエス様が私たちを救われたのは、私たちをお用いになるためであり、私たちの内からイエス様ご自身の光を世に与えられるためです。これが教会の使命であり課題です。
2章1節を見ると、イエス様は星を手に持って燭台の間を歩いておられます。つまりイエス様は、諸教会を手に持って諸教会のあいだを歩いておられるのです。これは諸教会に対するイエス様の権威を表わしているみことばです。イエス様はご自身の血をもって諸教会を贖われました。そして、どこにでもご臨在なさり、すべてを知っておられ、みずから「主」として諸教会を保っておられます。イエス様はすべてを見通され、イエス様の目の前に隠しおおせるものは何一つありません。私たちはイエス様の目を欺くことはできません。主はすべてを見ておられます。
この節の「歩く」という言葉について考えてみましょう。この「歩く」という言葉は、創世記3章8節にも使われています。
そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。(創世記3・8)
これは神と人との交わりを意味しています。同じ「歩く」という言葉を、私たちはほかの箇所でも多く見ることができます。
わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。(レビ26・12)
あなたの神、主が、あなたを救い出し、敵をあなたに渡すために、あなたの陣営の中を歩まれるからである。(申命記23・14)
主なる神は人々との交わりを求めておられます。あなたとの交わりを求めておられます。イエス様との交わりを持たなければ、人生は虚しく満足がありません。イエス様との交わりを体験している人々は、次のみことばにある通り、喜んで生活することができます。
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。(第一ヨハネ1・3)
エペソという地名の意味は、「愛すべき者」、「愛している者」、「愛されている者」です。本当の喜びの源は、自分自身がイエス様によって愛されているということにあります。
・・・・キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた・・・・(エペソ5・25)
"
・・・・いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2・20)
このパウロのように言うことができる人は幸いです。
さて次に、黙示録2章2節を見ましょう。ここでは天に上げられたイエス様が、エペソの教会に向かって語っておられます。イエス様のみことばは、いつもご自身の啓示です。イエス様は、しばしば「わたしは・・・・です」という言葉を用いておられます。「わたしはいのちのパンです」、「わたしは世の光です」、「わたしは門です」、「わたしは神の子です」、「わたしはよみがえりです。いのちです」、「わたしは道であり、真理であり、いのちなのです。」これらはイエス様のみことばであるだけではなく、イエス様ご自身の啓示です。黙示録2章においても同じです。私たちはこの章の中に、「わたし」という言葉を非常に多く見つけることができます。
「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。」(黙示2・2)
「・・・・わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」(黙2・7)
イエス様の目は炎のようであり、すべてのものを見通します。
「しかし、あなたには非難すべきことがある。」(黙示2・4)
イエス様は、この場合、両刃の剣のように、みことばをもって、彼らに対する判断を下しておられます。
「わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」(黙示2・5)
これは非常に厳しいみことばです。イエス様は、人のうわべだけを見ることはなさらず、キリスト者でさえも同じように裁かれます。イエス様は約束を実行されるだけでなく、裁きの言葉をも実行されます。
これらのみことばの中に、私たちはイエス・キリストの絶対的な権威を見ることができます。永遠のいのちを与えることができるのはイエス様だけです。もし私たちが、「わたし」というイエス様の言葉に注意をするなら、私たちはイエス・キリストの偉大さ、そしてすべてのものがイエス様の手の中におさめられていることを理解することができます。イエス様のみことばは真理であり、イエス様の判断は正しいのです。
[3]新しいいのちの七つの結果
イエス様はエペソの教会を誇りとされ、この教会に喜びをもっておられます。それは1節から3節、6節を見るとよくわかります。パウロはエペソ人への手紙の中で次のように書いています。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2・8、9)
これがエペソの人たちが経験したことでした。私たちもこのような経験を、すでにしているでしょうか。イエス・キリストが提供される救いを、自分のものとしているでしょうか。イエス・キリストの救いとは、私たちに何の働きがなくても、私たちに何のいさおがなくても、恵みとしてただで主なる神から与えられるものです。イエス・キリストの救いは、悔い改めるすべての罪人に、贈り物として与えられるものです。イエス様は、エペソの信者たちの罪をぬぐい去り、彼らの過去を精算してくださったばかりでなく、聖霊によって彼らに新しい人格を創り出してくださったのです。人々は新しい人格に生まれ変わり、まったく新しい生活を送ることができるようになったのです。
私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。(エペソ2・10)
エペソにいる信者たちはこのことをよく知っていました。私たちもこのことを知っているでしょうか。イエス様は私たちを救ってくださり、新しい生活を送るための聖霊を、大きな力としてお与えになりました。ですからイエス様は、新しい生活が私たちの間でなされているかどうかを見ようとしておられるのです。イエス様は私たちの生活の中に、実りを求めておられます。
すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。(ルカ12・48)
エペソの人々は、多く与えられました。彼らは主なる神のご計画のすべてをあますところなく知らされました。その結果はどうなったでしょうか。主イエス様は、この教会を喜ばれたのです。
イエス様は、「新しいいのち」の七つの結果を、黙示録2章の2、3、6節で次のように述べておられます。
一番目は「わたしは、あなたの行ないを知っている」。イエス様は、彼らの行ないがよく、非難すべき点がないと認めてくださったのです。
二番目は「わたしは、あなたの労苦を知っている」。イエス様は、彼らが努力し、力を尽くし、自分を犠牲にしたことを認めてくださったのです。
三番目は「わたしはあなたの忍耐を知っている」。彼らは困難な時を耐え忍び、イエス様の御名のために苦しみを耐え忍んだのです。
四番目は「わたしはあなたが悪い者たちをがまんすることができなかったことを知っている」。
彼らは霊を見分けることができました。彼らは使徒と自称している人たちが偽り者であることを見抜いて、彼らを追放したのです。
五番目は、「あなたはわたしの名のために耐え忍んだ」。当時、エペソの教会にも信仰の弱い信者たちがいました。しかしエペソの信者たちは、信仰の弱い人々を耐え忍んだのです。
六番目は「あなたは疲れたことがなかった」。彼らは生きておられるイエス様の内にある隠された力の源を知っていたので、自分たちの力に頼ることをしないで、イエス様により頼みました。彼らはイエス様を伝えること以外には何もすることができませんでした。エペソの教会には多くの困難がありましたが、勇気を失うことも、疲れることもなく、信仰をなくすこともありませんでした。迫害も嘲りも、彼らにとって問題ではなかったのです。
七番目に「あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる」。
エペソの信者たちはイエス様に敵対する者に徹底的に反対しました。
これらを見ると、イエス様はエペソの信者たちの行ないに対して「最高の称賛を与えられた」と言えます。イエス様は彼らの行ないを喜ばれたのです。彼らは持っている力を百パーセント出し尽くしました。
次に、2節の「労苦」という言葉は、最も困難な働きを意味しています。聖書の他の個所にも「愛の労苦」(第一テサロニケ1・3)、「労苦と苦闘」(第一テサロニケ2・9)、「労苦し・・・・」(第一テサロニケ5・12)とあります。
同じく2節の「忍耐」という言葉には、イエス様を待ち望むという意味も含まれています。イエス様に対する生き生きとした待ち望みが、その当時のエペソの信者たちの態度を決めたのです。それは決して現在のことをおろそかにして将来のことだけを考えるという態度ではありません。日々の活動は、イエス様が来られることを目指してなされなければなりません。彼らは次のみことばを体験していたのです。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。(イザヤ40・31)
イエス様を待ち望まない者はたちまち走ることができなくなり、疲れてしまいます。しかしイエス様を待ち望む者には、現在のことがらは小さなものに見え、どうでもいいものになります。
偽使徒、つまり、使徒と自称しているが実はそうでない者たちは、決して悪い人々ではなく、才能に恵まれ、そして魅力的な人々でした。しかし、エペソの信者たちはイエス様を待ち望んでいたので、偽使徒たちの影響を受けることなく、彼らを教会の外に追放しました。偽使徒たちは表面的には立派な人々でしたが、彼らの偽りは見抜かれたのです。
すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(第一テサロニケ5・21)
彼らは偽使徒たちを、「人間の姿をとって地上に来られたイエス・キリストを、彼らの教えの中心にしているかどうか」によって試し、見分けたのです。人間の姿をとって地上に来られ、十字架を通しての救いを完成したイエス・キリストこそが、常に中心におられなければなりません。イエス様を告白するだけでは十分ではありません。その告白の内容が実は大切なのです。
あなたはよく忍耐して、私の名のために耐え忍び、・・・・(黙示2.3)
イエス・キリストを待ち望む者は、悪を耐える者ではなく、「十字架を耐える者」です。偽使徒たちは、十字架なしの福音を伝えました。現代の多くの人々もまた、イエス・キリストの十字架と血潮のない福音を伝えています。イエス・キリストの血潮のない福音は、本当の福音ではありません。悔い改めのない信仰は、救いに至る信仰ではありません。
偽使徒たちの中には悪魔が働いていました。創世記3章では、悪魔は蛇の中に働いていました。いずれの場合においても、悪魔は偽りの父です。悪魔は企みをもって人を滅ぼそうと試みています。しかも悪魔は嘘つきであるだけでなく、人殺しでもあります。悪魔は企みや誘惑をもって彼の目的を果たそうとするか、あるいは暴力や迫害をもって目的を果たそうとします。悪魔の目的はいつも、いのちを消し去ることであり、神のパラダイスを破壊することであり、人を堕落させることです。
ヨハネの時代においては、悪魔は企みをもって、あるいは誘惑をもって、偽使徒を通して教会を堕落させようとしましたが、やがて、その後、迫害という手段による悪魔の攻撃がはじまりました。
エペソの信者たちの場合、その信仰は一時的なものではなく、約四十年経った後においてもなお燃え続けている信仰でした。彼らは少しの妥協もしないで偽使徒たちを追放しました。彼らは正しく偽使徒たちを見分けることができたのです。彼らは次のように吟味したことでしょう。「この人々を通して、主イエス様ご自身が語っておられるだろうか」、「この人々によって、イエス様が重んじられているのか、それとも人間が重んじられているのか」、「恵みが本当に救いの全面に出されているだろうか」、「この人々の言っていることは聖書全体に一致しているだろうか」。
イエス様の教会での私たちの生活は、決して終わることのない戦いの生活です。これは、信者がいつも自分を無にしているかどうかということに関係があります。すべてのキリスト者は、他の信者たちに対して責任を負い、他の信者たちに心を用いなければなりません。しかし私たちは、いつも他の信者たちに対する思いやりを失いがちです。他の信者に対する祈りが虚しく思えてしまう誘惑があります。しかし、エペソの信者たちは「あなたは決して疲れることはなかった」と称賛されています。
また私たちは、他の信者に対してだけでなく、自分自身に対してもいかに疲れやすいものでしょうか。私たちは、自分の罪だけを見て希望を失いそうになります。しかし、イエス様は全てに勝利する力をもっておられます。私たちがイエス様により頼むなら、イエス様は私たちの人生を通してご自身の目的を成しとげてくださいます。
最後にイエス様は、七番目の称賛として、彼らがニコライ派に対して明確な態度をとったことをほめておられます。ニコライ派の人々は、自分たちが信者であると言いながら肉の生活を続けていました。彼らはキリストにある自由を乱用したのです。間違った教えが広まっている所においては、信仰生活の乱れも生じてくるのです。
ニコライ派の教えの中に、聖職者と平信徒を区別する、そもそもの始まりがあったという学者もいます。聖書の中には、聖職者と平信徒の区別はありません。どんなに教育をしても、聖職者を作りあげることはできません。全てのキリスト者が祭司です。イエス様による生まれ変わりを通して、全ての信者が祭司となります。現代、多く見られる「牧師制度」は、聖書にはまったく書かれていない制度です。イエス様は「わたしもそれを憎んでいる」と言われます。(黙示2・6)
ただイエス様は、ニコライ派の行ないを憎んでおられますが、ニコライ派の人々を憎んでおられるのでは決してありません。「ニコライト」というのは「民の支配者」という意味です。この言葉からニコライ派は、特定の人による民全体の支配をとなえていたのではないかと思われます。そして、その主張の当然の結果として、聖職者と平信徒という階級、制度などが生まれてきたと考えられます。
聖書には、全ての信者がキリストのからだに属していると書かれています。ですから、全ての信者が「祭司」なのです。イエス様は「わたしはニコライ派の行ないを憎んでいる」と言っておられます。私たちはキリストに敵対するものに対して、エペソの教会の人々のようなはっきりとした態度をとるべきです。イエス様はエペソの教会を見て喜ばれました。それと同じように私たちの集会も主に喜ばれるならば幸いです。
2.非難と警告
ここまで私たちは、エペソの教会がその働きに対して主から最上の称賛を受けたことを見てきました。1節から3節には、イエス様のご自身の教会に対する喜びが語られています。しかし4、5節においては、イエス様がご自身の教会に対して抱いておられる不安が語られています。
エペソの教会に対するイエス様の喜びはたいへん大きなものでした。私たちの集会に対しても、イエス様が同じように喜んでくださることを心から願わずにはいられません。しかし、悲しむべきことに、このエペソの教会は、イエス様の非難を受けなければならないことがありました。イエス様は、「あなたには非難すべきことがある。」と言っておられます。イエス様はエペソの教会に対して、一八〇度、悔い改めることを呼びかけておられます。そして、もし「悔い改めることをしないならば、・・・・あなたの燭台を取りはずしてしまおう。」と警告しておられます。教会が燭台のように光を放つことができなくなれば、もはや何の値打ちもありません。イエス様から見捨てられてしまうだけです。実際に歴史は、エペソの教会がイエス様によって全く見捨てられてしまったことを伝えています。
私たちはエペソの教会の歴史から、次のことを知ることができます。私たちは全てを自分のものとして持つことができます。たとえばエペソの教会が持っていた、非難されることのない働き、聖書の正しい教え、殉教に対する備えなどを持つことができます。しかし、それにもかかわらず、私たちが最も大切なことを見失い、もはや燭台としての働きをすることができなくなり、さまよい出てしまう、ということもありえるのです。
つまり、エペソの教会は「初めの愛」を失ってしまったのです。「初めの愛」というのは、イエス様との交わりのことです。イエス様なしに何もしたいと思わず、何もすることができないという愛です。もし、神のみことばが、日々、私たちの泉となり、私たちの慰めとなり、私たちの力となり、私たちの知恵となっているなら、そして、私たちの考えと行ないの中心にいつもイエス様がおいでになるなら、それこそ私たちの「初めの愛」が生き生きと保たれていることの証拠です。そしてそれこそが、「燭台がその場に置いておかれる」ための大切な条件です。
ところがエペソの教会の人々の心は、もはやイエス様との親しい交わりの中にはありませんでした。その結果、イエス様は、「わたしはあなたがたと共にいる」とおっしゃることができず、「わたしはあなたと対立する」と言われざるをえなくなったのです。イエス様は人の「行ない」や「歩み」を見られるのではなく、人の「心」を見ておられます。
わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。(箴言23・26)
外面的に見ると、エペソの教会は全てがうまくいっているようでした。しかし、イエス様は満足されなかったのです。確かに、エペソの教会には熱心さがあり、悔い改めをする備えがあり、また困難に耐える忍耐がありました。しかしこれらのものは、「初めの愛」、イエス・キリストに対する献身にとって代われるものではありませんでした。
エペソ人への手紙を見ると、とくに「愛」という言葉がよく出てきます。
すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。(エペソ1・4、5)
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――(エペソ2・4、5)
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3・17~19)
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、・・・・(エペソ4・2)
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(エペソ4・5、6)
ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ5・1、2)
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。(エペソ5・25)
どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。(エペソ6・23、24)
イエス様は、何よりも、私たちの愛、私たちの心をご自分のものにしたいと望んでおられます。全てを捨ててイエス様により頼まない人は、「初めの愛」を捨て去った人です。
その「初めの愛」について、二つの点から見てみましょう。そのひとつは、「時間的な経過」であり、いまひとつは「重要さの変化」です。
エペソの教会の人々にとって、イエス様から憐れみを受け、受け入れられ、解放され、そして、主に仕える者とされたということは、考えられないほどすばらしいことでした。しかし、このような恵みに対する驚きと感謝は、少しずつ消えていったのです。「初めの愛」を失うということは、決して愛を捨て去ることではなく、愛を忘れ去ることなのです。
私たちのキリスト集会では、エペソの教会の人々のように「初めの愛」を忘れることのないよう、毎日曜日、主の聖餐にあずかることにしています。私たちは主の聖餐を通して、主の苦しみと死と恵み、そして、愛を思い起こそうとしています。私たちは聖日ごとに、主の恵みに対する感謝の思いを新たにし、心から主に礼拝を捧げています。このことによって、私たちは「初めの愛」に留まることができます。
次に、「重要さの変化」ということについて考えてみましょう。かつてエペソの教会では、イエス様が第一の立場を占めておられました。しかし後には、そうではなくなりました。エペソの教会の人々は、いったい何に心を傾けるようになったのでしょうか。おそらく彼らは、それとは知らずに自分の利益を求める者になり、他の人によく思われることに熱中するようになったのではないかと思われます。
主は、イエス様を通して、私たち全ての者に愛を注いでおられます。そして、私たち全ての者から愛を求めておられます。主は私たち全ての者が、主に対する愛から全てのことを、主のためだけにすることを求めておられます。もしそうでない時には、主は私たちに対立するものとなられます。ですから、私たちは、主に向かって毎日、「私はあなたに対して何か対立するものをもっていますか?」と尋ねることが必要です。主の前に静かな時をもたない人に対しては、主は、その人に対して何か対立するものを持っておられるかどうかを明らかになさることができません。
多くの信者たちが主の前に静かな時をもつことをしないために、主は厳しい手段をお用いにならざるをえなくなります。例えば失敗や過酷な環境、あるいは、病気などを与えられます。こういった手段を用いなければ、主は私たちに、主に対立すべきものがあるということを伝えることがおできになりません。これが、なぜ主が私たちに苦難の道を歩ませられるかの理由の一つです。
「初めの愛」は、イエス様を私たちの中心におきます。そしてこの愛は、私たちの過去における一時的なものではなく、私たちの全生涯を貫くものでなければなりません。世の中では多くの結婚が破綻していきます。それは、「初めの愛」が時とともに冷えてしまうからです。もし、夫が別の女性をつくるというような特別なことがなくても、初めの頃とは全てが変化してしまうのはよくあることです。これと同じように、イエス様と私たちの間にも愛の破綻が起こりえるのです。初めの頃には、イエス様に対するはっきりとした信仰告白があります。そして、その後にも聖書に従う訓練がなされたり、教会での熱心な奉仕がなされたり、聖書に基づいた試しがなされたりするかも知れません。しかし、これらの全てが、イエス様との親しい交わりから生じているということこそが最も大切です。エペソの教会では、外面的には全てが以前と少しも変わるところがありませんでした。しかし、何かが根本的に変わってしまったのです。
5節で、イエス様は、「あなたはどこから落ちたかを思い出しなさい」と言っておられます。初めの頃には、イエス様の生き生きとしたご臨在が体験されたのです。そして、過去において体験されたことは、現在においても体験されなければなりません。また私たちは、ただ単に悔い改めをしなければならないと知っているだけでは十分ではありません。重要なのは「何から離れて、どこに向かって」悔い改めをするかということです。ですから、本当の悔い改めとは、いつも「思い起こす」ということに結びついています。悔い改めるということが、もし正しい道にそって行なわれていなければ、再び迷いの道に陥る危険性があります。大切なのは、あなたが「どこに向かって転落しているのか」ではなく、「どこから転落したか」です。それはつまり、「あなたが置かれていた最初の状態を思い出しなさい」ということです。最初の状態とは、イエス様に対する初めの愛の中にいた状態です。エペソの信者たちは高価な魔術の書物の全てを焼き捨てました。これは、初めの愛の現われでした。そして、エペソの教会が変わろうと変わるまいと、イエス様は永遠に変わることのないお方です。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(第一テサロニケ5・24)
・・・・イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、・・・・(黙示1.5)
イエス様は、たとえ私たち信ずる者たちに罪があろうとも、不真実があろうとも、愛してくださいます。エペソの教会の人々がその後どのように変わろうとも、あの初めに体験した恵みを消し去ることはできません。たとえ自分を見失い、イエス様だけを見上げる信仰が消え失せたとしても、初めの体験は消し去ることができません。
・・・・悔い改めて、初めの行ないをしなさい。(黙示2・5)
悔い改めがなされたその後で、悔い改めの実が結ばれます。
・・・・悔い改めにふさわしい実を結びなさい。(マタイ3・8)
これらの実は、イエス様との新たにされた交わりから生み出されるものです。「初めの行ない」は「初めの愛」から生まれ出ます。イエス様は「あなたがすべてのことを、わたしに対する愛から行なっていたあの時の心を思い起こしなさい」と言っておられるのです。イエス様は外側だけを見られるお方ではありません。イエス様は人の動機を見ておられます。
しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル16・7)
全ての行ないの背後には必ず動機があるものです。そして、その動機が大切なのです。ところが、エペソの教会では、この「初めの愛」と、イエス様を仰ぎ見る信仰が失われてしまったのです。イエス様ご自身の行ないの動機は、愛でした。
・・・・キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた・・・・(エペソ5・25)
イエス様は、私たちの行ないにおいてもその動機が愛であることを求めておられます。信仰とは、人と人、また心と心との間で取り交わされる献身です。もし、イエス様に対する熱烈な求めが失われていたとしたら、その人は「初めの愛」から遠く離れた所にきてしまっているのです。イエス様との交わりは育てあげなければなりません。それは、みことばと祈りとによって育てあげられるものです。
初めの愛の実例はまた、マリヤに見ることができます。
さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10・38~42)
マリヤはただ、ひたすらイエス様を愛していました。何ごとにもまさって愛していました。彼女はイエス様の足元に座り、イエス様のみことばに耳を傾けていました。彼女はまた後に、高価な香油をイエス様に捧げました。彼女は、彼女を批判する人々のことなど考えもしないで、ひたすらイエス様の御心に叶うことだけを求めていました。
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。(コロサイ3・23)
・・・・私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(第二コリント5・9)
「初めの愛」というのは二心のないイエス様への愛であり、真の謙遜であり、直ちに従うことであり、イエス様の再臨を心から待ち望むことであり、みことばに対して無条件に服従することであり、兄弟姉妹に対して真心からの愛をもつことです。私たちは「初めの愛」を失ってはいないでしょうか。もしそうであれば、私たちはいのちの源へ立ち返らなければなりません。悪魔に勝利させてはなりません。
私の敵。私のことで喜ぶな。私は倒れても起き上がり、やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ。(ミカ7・8)
悔い改めてイエス様のみもとに立ち返る者は、イエス様にあって罪の赦し、救い、力、勝利を得ることができます。イエス様が悔い改めを求められるみことばは、警告のみことばと結びついています。
・・・・悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。(黙示2・5)
もし、燭台が取り外されてしまうなら、教会は主のからだである教会ではなくなります。キリスト者の群れはそれでもなおしばらくの間は存在することができるかも知れませんが、本当の教会としての働きはできなくなります。もはや光を与えるものになりえないからです。
主なる神の前に容赦のない自己判断をくだすことがなくては、私たちの回復はありえません。自分を開け広げて自己批判をする者に対しては、悔い改めと恵みが与えられます。もし悔い改めることをしなかったら、私たちは神との交わりから捨て去られてしまいます。
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(創世記3・24)
エデンの園から追放されるということと、燭台を取り除かれるということは同じことです。どちらも主なる神との交わりから遠ざけられることです。
3.称賛と約束
最後に私たちは6、7節から「称賛と約束」について学びましょう。ここではニコライ派の行ないを憎んでいる人々が、イエス様から称賛を与えられています。
一方で、「初めの愛」から離れてしまったエペソの教会の人々は、霊的な力と生気を失ってニコライ派の行ないに捉えられてしまいました。前に学んだように、ニコライ派というのは聖職者と平信徒との間に区別を設けるもので、後にペルガモの教会で一つの教義にまで発展しました。
いつの時代にも同じことが起こります。始めは悪い習慣として行なわれていたことが、いつの間にか悪いことではなく、一つの「教義」にまで高められてしまうのです。たとえば次のようなことがあったのではないでしょうか。一人の賜物を与えられた人がいて、その人があらゆることに関わり、それによって一人の人が教会の全てのことを行なうという体制ができあがっていきます。そしてこの体制が慣習として教会の中に定着してしまったと思われます。
また、何かの必要から一人の人が全てのことを行なわなければならない事態が起こったとも考えられます。そしてその結果、他の人々はそのような状態に満足するようになり、もはや他の人々にも奉仕の機会が与えられることを主に願おうとしなくなったのではないでしょうか。後にルターやシュペナーという人たちが、このような一人の人が全てを支配する教会体制を打破しようと試みましたが、その結果は成功しませんでした。
イエス様は「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」と言っておられます。御霊の声を聞き分けるためには、信ずる者にイエス様が与えられる「耳」を持つことが必要です。聞く耳を開かれている人だけが、御霊の語っておられることがよくわかるのです。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(第一コリント2・14)
イエス様は今もなお、私たちにみことばを通して語ろうとしておられます。イエス様のみことばだけが私たちの行ないの基準となるべきです。決して教会の語ることや教会の考えることを基準とするべきではありません。愛のない、また悔い改めのない教会は捨て去られるだけです。ですから教会が基準となることは決してできません。イエス様のみことばだけが基準となることができるのです。なぜなら、イエス様のみことばだけが、永遠に変わることがないからです。
7節に、「勝利を得る者」という言葉があります。「勝利を得る者」が約束を得るのです。この「勝利を得る者」とは、教会全体に対してではなく、個々の信者に向けての語りかけです。勝利を得るということは、外的、また、内的な戦いにおいて勝利を得るということです。「勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」と書かれています。「食べる」とは「交わり」の証拠です。ここで、聖書の二つの箇所をちょっと比較してみましょう。
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。(創世記2・9)
神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」(創世記3・22)
こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(創世記3・24)
エデンの園における生活、そしていのちの木から取って食べるということは、主との交わりを表しています。しかし、人は主との交わりを失って、エデンの園から追放されてしまいました。
エペソの教会の人々にとって、イエス様との交わりは欠かしてはならないものでした。ですから、イエス様は彼らに向かって「あなたがたが昔の交わりを回復することができなければ、あなたがたをその所から追い出してしまおう。」と言われたのです。しかし、エペソの信者に対しては7節でイエス様との交わりの回復が約束されていたのです。
アダムは神に罪を犯したので、園のいのちの木の実を取って食べる権利を失いました。いのちの木については黙示録の22章に3回でてきます。
・・・・川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。・・・・(黙示22・2)
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。(黙示22・14)
この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。(黙示22・19)
新約聖書で「木」あるいは「十字架」と訳されている言葉は、ギリシャ語の原語を見ると同じ言葉です。
私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。(使徒5・30)
私たちは、イエスがユダヤ人の地とエルサレムとで行なわれたすべてのことの証人です。人々はこの方を木にかけて殺しました。(使徒10・39)
こうして、イエスについて書いてあることを全部成し終えて後、イエスを十字架から取り降ろして墓の中に納めました。(使徒13・29)
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。(ガラテヤ3・13)
そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(第一ペテロ2・24)
これらの箇所で、「木」と言われているところを「十字架」と言い換えることも、「十字架」と書かれているところを「木」と言い換えることもできます。イエス様の十字架の、あるいは木につけられての死を通して、全ての人が永遠のいのちを得られるようになったのです。そして、イエス様ご自身こそが、「いのちの木」そのものです。イエス様が、私たちの魂の故郷への帰り道を備えてくださいました。イエス様を通して、天国の父への道が開かれたのです。
そしてまた、これらのみことばは、堕落した信者に向かっても語られています。ドイツ語で「落ちた」、「堕落した」、「あなたはどこから落ちたかを思い出しなさい」という言葉は、男女の関係における失敗を意味しています。しかし、イエス様はこの言葉を、「初めの愛から転落すること」がいかに大きな罪であるかを示すために用いておられます。最も大切なことは、「イエス様に対する純真な愛」です。そのほかの全てのことは、二次的な意味しかもちえません。
また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。(第一コリント13・3)
イエス様に対する個人的な愛がなければ、いかなる熱心も奉仕も何の役にも立ちません。
主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。(第一コリント16・22)
イエス様は、私たち全てに対して「あなたは私を愛するか」と聞いておられます。私たちは、ペテロのように「主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存じです。」と言えるでしょうか。「初めの愛」を持たない信者は火の消えた灯火のようなものです。このような人は何の価値もなく、何の役にも立たないのです。
最も大切なことは、主の前で静まる時をもつことです。イエス様の元で静かな時間をもつことによって、私たちに新たな愛が回復され、イエス様との交わりが私たちの新しい喜びとなります。
イエス様との交わりの時をもつようにしてください。
イエス様に語っていただくときをもつようにしてください。
イエス様にあなたの罪を見てもらうようにしてください。
そうすることによってあなたは罪の赦しを体験し、イエス様の恵みを驚くほどにいただく者となり、イエス様を心から礼拝するようになります。
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