1.七つの教会への手紙
1.手紙を出したのは誰か
2.手紙を取り次いだのは誰か
3.手紙を受けとるのは誰か
4.イエス様の諸教会に対する愛
5.教会はどのようにして変えられるのか
6.教会に約束されていることは何か
7.イエス様の偉大さ
ここからこの本は、第2部に入ります。今まで学んできた第1部、黙示録の第1章のテーマはヨハネに現われたイエス・キリストについてでした。そしてそれは、ヨハネにとってすでに過去となった経験でした。しかし、これから学ぶ第2部は、当時の教会について告げられていると同時に、現在の教会についても告げられているのです。
第2部の内容は、黙示録の2章と3章、小アジアにある七つの教会にあてられた七つの手紙です。七つの教会についてその一つ一つをくわしく学ぶ前に、まず、七つの教会全体について少し見ておきたいと思います。はじめに、次の三つの問いについて考えてみましょう。
1.手紙を出したのは誰か
2.手紙を取り次いだのは誰か
3.手紙を受けとるのは誰か
1.手紙を出したのは誰か
この手紙を出したお方は、言うまでもなく天に上げられたイエス・キリストです。黙示録第1章において、私たちはイエス様のご栄光とその偉大さとを見てきました。この天に上げられた主イエス様については、三つのことが重要です。
まず第一に、天に上げられたキリストは、「永遠の人の子」です。ダニエル書の中ですでに、「人の子」という言葉が出てきます。
・・・・見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。(ダニエル7・13)
この「人の子」という言葉は、黙示録の中で何回も使われています。「人の子」とは永遠の神の御子のことであり、処女マリアによってこの世にお生まれになった方のことです。イエス様は「人の子」としてこの地上に生まれ、苦しみを受け、十字架につかれ、そして墓に葬られました。そしてこの「人の子」イエス・キリストは、栄光の体をもってよみがえられ、「人の子」として昇天なさいました。イエス様は今も「人の子」として神の右に座しておられ、後に「人の子」として再びこの地上においでになるのです。
そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。(マタイ24・30)
第二に、イエス様は「人の子」であるだけでなく、「永遠の大祭司」でもあります。イエス様は「永遠の大祭司」としてご自身の血を携えて主なる神のご臨在の前に出られました。イエス様はご自身の貴い血によって、全人類の罪をあがなってくださったのです。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1・3)
さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4・14~16)
別の個所で、こうも言われます。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい 祭司である。」(ヘブル5・6)
しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル7・24~25)
第三に、天に引き上げられたイエス様は、永遠の「人の子」、また「永遠の大祭司」であるばかりでなく「永遠の王」でもあられます。イエス様は神の右に座して、世界をそのみ手におさめておられます。黙示録を通して、主はまず私たちにイエス様の栄光とその偉大さとを示そうとしておられるのです。ですから、大切なのは「将来に何が起こるか」を知ることではなく、「イエス・キリストを見上げる」ことです。私たちはイエス様をもっとよく知らなければなりません。黙示録が書かれた目的は、私たちがイエス様をあますところなく知るようになることです。イエス様は勝利者であり、「王の王」、また「主の主」です。
福音書において、私たちはイエス様のへりくだった姿を見ることができますが、それでもイエス様の権威と力ははっきりと現われています。たとえば、嵐に向かってイエス様が「静まれ」と言われると、嵐はすぐに静まりました。汚れた霊に「この人から出て行け」と命じられると、悪霊はイエス様の言葉に従いました。人々がイエス様を崖から突き落とそうとした時に、イエス様は人々の真ん中を通って去っていかれました。誰一人として主を捕らえることはできませんでした。ゲッセマネでイエス様が人々に捕らえられようとした時に、イエス様が「わたしがそれである」と言われると、人々はイエス様の足もとに倒れ伏したのです。
このように私たちは、福音書の中でへりくだったイエス様の自から現わされる権威を見ることができますが、黙示録においては、ただ、主イエス様の「権威」だけを見ることができます。そこではイエス様の栄光があますところなく明らかにされているのです。イエス様は主なる神の右に座し、天においても地においても一切の権力をそのみ手の中に持っておられます。
このイエス様こそ、七つの手紙の差出人です。
2.手紙を取り次いだのは誰か
次に、この手紙を取り次いだのは誰かについて考えてみましょう。
旧約聖書では「神が言われた」という言葉がよく出てきます。しかし新約聖書では「これは、わたしの愛する子・・・・彼の言うことを聞きなさい。」(マタイ17・5)とあります。つまり新約聖書では、イエス様が中心であり、この方の語られることこそが聞かれなければならないのです。
ところが、黙示録では「御霊の言うことを聞きなさい。」とあります。そしてこの言葉は2、3章を通じて七回出てきます。ですから、手紙の差出人はイエス様であり、これを取り次ぐのは聖霊です。そしてさらに、この聖霊は次の方法で語ろうとしておられます。
最初に、聖霊は個人個人に向かって語ろうとしておられます。そして聖霊はまず、神のみことばを生きたものにされます。
ところで私たちは、聖霊の声を聞く者なのでしょうか。それとも聖霊の声を聞くことができなくなっている者でしょうか。多くの信仰者たちは、聖霊の語る言葉が聞こえなくなっています。聖霊は信仰者に個人的に語りかけ、彼らを満たし、また、彼らを通して働こうとしておられます。私たちはこの聖霊の語る声を聞き、従おうとしているでしょうか。
私たちに個人的に語りかける聖霊はまず、「イエス様の十字架の救い」を語ろうとしておられます。イエス様は十字架上で「完了した。」(ヨハネ19・30)と叫ばれました。この時、全人類の救いが完成されたのです。「すべてが終わった」のです。つまり、イエス様は闇の力を破り、罪の支配を打ち壊し、死と悪魔の支配に対しても勝利されたのです。聖霊は、このようなイエス様の勝利の力を信仰者たちの生活の中に実現しようとして、いまも語っておられます。私たちもまた、イエス様の経験されたことを経験しなければなりません。
わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。(ルカ4・18、19)
聖霊はまた、その「使い」を通して語ろうとしておられます。弟子たちは聖霊によって聖書を書き、聖霊は聖書を通して語っています。聖霊は、聖書のみことばが私たちの現実になることを望んでおられます。聖書のみことばが私たちの生活において現実のものとなるならば、それを通して私たちは聖霊の「使い」となるのです。聖霊はご自身のみことばを通して、私たち「使い」を用いようとしておられます。聖霊を通して書かれたみことばは、実際に体験されなければなりません。そしてこのように体験されたみことばこそが、福音として他の人々に伝えられていくのです。
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマ10・17)
3.手紙を受けとるのは誰か
聖書全体を見ると、主なる神はいろいろな方法で語っておられるだけでなく、さまざまな人々に向かって語っておられることがわかります。まず、神は全人類に向かって語っておられます。主なる神は、天地の創造と、イエス・キリストの救いと、最後の審判について語られました。全人類が神に対して反抗しようとしたとき、神はアブラハムを選び、アブラハムを通してイスラエルを選ばれたのです。旧約聖書全体を通して述べられているのは、そのほとんどがユダヤ人に関することです。しかし、イスラエルの民は主が語られるみことばに耳を傾けませんでした。
しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。(エレミヤ7・24)
イエス様もユダヤ人のところに来られたのですが、彼らはイエス様を受け入れませんでした。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。(ヨハネ1・11)
ですからイエス様は次のように嘆かれたのです。
ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。(マタイ23・37)
「それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」とあります。ここにユダヤ人の悲劇があったのです。ですから、主なる神のさばきが彼らの上にくだったのです。そしてそのために、イエス様はイスラエルとは別の人々を人類の中から選び集められました。この人々こそがイエス様のみからだである「教会」なのです。
聖霊降臨を通して、五旬節の日から「教会」が成立しました。「教会」には新しく生まれ変わりを経験したすべての人々が集まっていました。そして、これらの教会に対して七つの手紙が出されたのですが、それには三つの意味があります。
第一に、この手紙は当時の七つの教会に対して個人的に語られています。イエス様は多くの教会の中から七つの教会を選んで語っておられます。これら七つの教会の内的状態はそれぞれ異なっていました。イエス様がなぜこれらの教会を選ばれたかというと、これらの七つの教会は、後に現われるすべての教会のあらゆる内的状態を代表することがあらかじめわかっていたからです。
第二に、これらの手紙は、その当時の七つの教会にあてられただけでなく、あらゆる時代のあらゆる教会にあてて書かれた手紙でもあります。黙示録の2章7節、3章6節、また2章と3章の終わりにある「諸教会」という言葉は、そのことを表しています。イエス様のみことばを聞くべきなのは、当時の七つの教会の人々だけではありません。すべて「心の耳が開かれている者」は、イエス様のみことばを聞くべきなのです。
教会は、五旬節から携挙に至るまで、そしてさらに永遠に至るまで、すべてが一つです。イエス様はこれら教会の全歴史を、一望のもとに視野におさめておられます。それによって私たちは、教会が全歴史を通じて七つの時代に分けられていることを知り、またさまざまな教会の姿がイエス様によって予言的に告げられていることを知るのです。
まず、エペソにあった教会は、使徒の時代に典型的だった教会の姿を現わしています。次にスミルナにあった教会は、迫害の時代、つまり紀元一〇〇年から三一六年までの時代に典型的に見られた教会を現わしています。ペルガモの教会は、紀元三一六年から五○○年まで、この世と妥協した、つまり国家と妥協した教会の典型的な姿です。テアテラの教会は、紀元五○○年から一五○○年まで、カトリック全盛時代に現われた教会の典型です。それは、聖書の教えと異教的な儀式との妥協を現わしています。サルデスの教会は、紀元一五一七年の宗教改革以後の教会の典型であり、教会の内的な命は死んでいるが、その中に忠実な少数の信者がいる教会の姿を現わしています。フィラデルフィアの教会は、紀元一七〇〇年以後、敬虔主義の時代に現われた教会の典型で、霊的覚醒とリバイバルの教会の姿を現わしています。ラオデキヤの教会は、現代の教 の典型です。つまり、不熱心で堕落した教会の典型です。
このように、七つの手紙はその当時の七つの教会にあてられているだけでなく、あらゆる時代のあらゆる教会に与えられているのです。またそれらの手紙は、私たちが自分たちの教会の真実の姿を知るための鏡としても与えられています。第三に、この手紙はすべての信者たちに対して個人的に語りかけています。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」、「勝利を得る者に・・・・」という言葉が出てきますが、これは、「者は」「者に」と書かれている通り、信者の一人一人に向かって語られています。イエス様はすべての信者に向かって注意を与えようとしておられるのです。さらにイエス様は、すべての信者に対して約束をしておられます。どのような信者も、教会にあって力となるか、あるいは死の影響を与えているかのいずれかです。天に上げられたイエス様のみことばを、私たちは「両刃の剣」として受けとらなければなりません。
神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル 4・12)
私たち信者にとって、主のみことばほど大切なものはありません。主のみことばほど、私たちに助けになるものはありません。主のみことばは、単なる言葉ではなく、「いのちのことば」なのです。
これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。(申命記32・47)
もし私たちが、この主のみことばを受け入れて私たちの内に働くようにするなら、まことに幸いです。
こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。(第一テサロニケ2・13)
あなたのみことばは真理です。(ヨハネ17・17)
私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。(エレミヤ15・16)
私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。(第一ヨハネ5・13)
私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。(詩篇119・162)
主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。あなたの真実は代々に至ります。あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。すべては、あなたのしもべだからです。もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。私はあなたの戒めを決して忘れません。それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。(詩篇119・89~93)
4.イエス様の諸教会に対する愛
これまで、この手紙を出した方、取りついだ方、受けとる人々について見てきましたが、次は、イエス様が諸教会についていかによくご存知じであるか、ということを考えてみましょう。まず、黙示録の2章、3章から必要な箇所を抜き書きします。
エペソにある教会の御使いに書き送れ。「右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。」(黙示2・1)
「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」(黙示2・4、5)
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。「初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。」(黙示2・7、8)
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者は、決して第二の死によってそこなわれることはない。」また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。「鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。」(黙示2・11、12)
「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。「燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。」(黙示2・16~18)
また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」(黙示3・1)
「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」(黙示3・3)
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。「聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」(黙示3・6、7)
「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」また、ラオデキャにある教会の御使いに書き送れ。アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷 たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(黙示3・13~17)
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示3・20~22)
黙示録の2章と3章は、ちょうど裁判官の尋問のようなものだと言えましょう。そしてまた、医者が下す診断のようなものでもあります。イエス様は諸教会について全てのことをご存知でした。良いことも悪いことも、彼らが中途半端だったことも、全てのことをご存知だったのです。2章2節と3章1節の中に、「わたしは、知っている。」という言葉が出てきます。そして、この言葉は試練の結果を見て語られた言葉です。それはマタイ7章16節から21節にあるように、「木の良し悪しが、その結ぶ実によって見分けられる」のと同じです。
裁き主は、教会に試練を与えて、その結果によって教会の状態を正確に見分けられます。たとえばヨハネ4章29節を見ると、サマリヤの女が「私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。」と言っています。このような箇所は他にもあります。
「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」(ヨハネ1・48)
しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。(ヨハネ2・24、25)
イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」(ヨハネ6・70)
主はご自分に属する者を知っておられる。(第二テモテ2・19)
私たちはこれらの聖書の箇所によって、イエス様が全てのことをご存知だということを知ることができます。ところが、このイエス様に対して、教会は何も知らなかったのです。黙示録3章17節には、「あなたは、・・・・知らない。」という言葉が出てきます。つまり教会は、現実の中に足をおろして生活していなかったのです。そしてイエス様は、このような教会に対して、手紙によって目を開かせようとしておられるのです。
あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。(詩篇90・8)
このようなダビデの願いを、私たちもまた持つことが大切です。
3章2節には、教会の「なまぬるさ」が、また2章4節には教会の「愛のなさ」が指摘されています。これらはいずれも罪です。そしてイエス様は、私たちの罪を見逃すようなことはなさいません。ですからイエス様は教会を非難しておられるのです。たとえば2章4節に「しかし、あなたには非難すべきことがある。」というみことばが出てくるのは、そういう理由からです。
ところで、イエス様と教会との間には、どのような違いがあるのでしょうか。まず、イエス様は「全てをご存知」ですが、教会は「何も知りません」でした。黙示録1章全体を通して、イエス様の栄光が記され、2、3章では教会の欠乏、至らなさが記されています。
イエス様は全てをご覧になられ、全てのことをご存知です。私たちはイエス様からほめられるか、非難されるかによって、イエス様の私たちに対する判断を知ることができます。
「スミルナとフィラデルフィアの教会は、イエス様から賞賛を受けました。ラオデキヤの教会はただ非難だけを受けました。その他の教会は賞賛と非難の両方を受けました。イエス様はラオデキヤの教会をほめることがおできになりませんでした。しかしそれにもかかわらず、イエス様はラオデキヤの教会に「愛」をお示しになられました。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示3・19)
このように、どの教会に対しても、イエス様は怒りについては語っておられません。イエス様の「非難」は、いつも私たちに対する「訴え」なのです。
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。(黙示2・4)
しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。(黙示2・14)
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。(黙示2・20)
マタイ5章3節から4節に、「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、・・・・まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。」とありますが、教会もまた、ある意味でイエス様に対して恨まれても当然のことをしていたと言えましょう。
つまり、これらの教会の状態は、ローマ人への手紙8章31節から34節までに記されているのとは全く正反対の状態にあったと言えるでしょう。
では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8・31~34)
それゆえ、パウロは喜び、勝利の声をあげ、「だれが私たちに敵対できるでしょう。」と言っているのです。
しかし、黙示録2章においてイエス様は「あなたがたには、非難すべきところがある。」と言っておられます。ですから私たちは、ここでローマ人への手紙8章のことばを逆にして、「神が私たちの敵であるなら、誰が私たちを助けうるだろうか」と鋭く問われているのです。イエス様が私たちの敵となってしまったら、私たちを助けてくださる方は一体誰なのでしょうか。私たちを助けてくださるお方はイエス様をおいて他にはおられません。
5.教会はどのようにして変えられるのか
医者がそうするように、まず診断があり、その後でイエス様はそれに応じて教会に治療を施してくださいます。非難を受けている五つの教会は、同じ忠告をうけています。「悔い改めて、初めに帰れ」という忠告です。
これに対して、賞賛を受けた二つの教会は、「死に至るまで忠実でありなさい。」(黙示2・10)とか、「あなたの持っているものをしっかりと持っていなさい。」(黙示3・11)などといった励ましの言葉を受けています。また、テアテラの教会の中にいる忠実な信者たちも、同じ励ましの言葉を受けました(黙示2・25)。ですから、全ての教会が悔い改めなければならない状態にあったわけではありません。
しかし、全ての教会は、戦い、そして勝利を得なければなりませんでした。このために、全ての教会はイエス様の励ましの言葉を必要としていました。なぜなら、全ての教会は堕落する可能性と危険性をもっていたからです。
ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(第一コリント10・12)
多くの教会は、悔い改めを迫られています。しかし、悔い改めるということは、決してそれが「目的」であってはならないのであり、あくまでも、「結果」でなければなりません。というのは、悔い改めは、決して何かをもらうためにすることであってはならないのです。悔い改めは、いつも、イエス様が伝えられたことに対する「当然の結果」でなければなりません。
あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。(黙示2・5)
あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。(黙示3・3)
だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ、わたしは、戸の外に立ってたたく。(黙示3・10、12)
また将来、これから来ようとしておられるイエス様に対しても悔い改めが必要です。
もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう(黙示2・5)
だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしのロの剣をもって彼らと戦おう。(黙示2・16)
また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。(黙示3・3)
ある教会は悔い改めを迫られ、また他の教会は奨励の言葉をいただいています。つまり、ある教会は警告の言葉をいただき、他の教会は約束の言葉をいただいているのです。悔い改めがなされていないところでは、約束も与えられず、希望も与えられないのです。警告、または戒めの言葉は、悔い改めのない者に向かって語られています。
それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。(黙示2・5)
わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。(黙示2・21、22)
だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。(黙示3・3)
このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。(黙示3・6)
全ての教会は、主によって何を求められているのでしょうか。まず、イエス・キリストを宣べ伝え、そして、キリストの栄光を現わすことです。これらは全て、聖霊の働きによります。ですから、黙示録の2章、3章には「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」というみことばが七回も出てくるのです。このみことばによって、実は二つのことが語られています。一つは、「聖霊は教会に対して語っておられる」ということ、いま一つは、「教会は聞く耳を持っている」ということです。この二つが教会の特徴です。このことをもう少し考えてみましょう。
まず聖霊は、教会に向かって語ろうとしておられます。しかも、聖霊が語られる方法には次の方法があります。まず聖霊は、「訴え」の言葉をもって、次に「悔い改め」の呼びかけをもって、さらに「警告」の言葉をもって教会を裁いておられるのです。つまりこれらの言葉によって、この世の誤りが明るみに引きだされます。黙示録の中の、たとえば、ニコライ派の人々、バラムの教えに従っている人々、イゼベルなどがその例です。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(ヨハネ6・8)
さらに聖霊は、「奨励」と「戒め」と「約束」の言葉をもって信者に力を与えようとしておられます。そして聖霊は、ある特定の教会に向かって語っているのではなく、全ての教会に向かって語っておられます。聖霊は、ラオデキヤのような最悪の状態にある教会に向かっても語っておられます。聖霊がそれらの教会に向かって語っておられるということは、そこが教会であることの証拠です。また、その教会が神によって愛されていることの証拠です。
わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示3・9)
次に教会は、「聖霊の声を聞いてこれに聞き従う能力」を持っています。言いかえると、神のみ声に聞き従う能力をもっている人々が、教会に属している人々なのです。
「神から出た者は、神のことばに聞き従います。」(ヨハネ8・47)
「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10・27)
「・・・・真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18・37)
ですから教会は、この神のみことばに聞き従う能力を持てば持つほど、神のみことばに対する責任をそれだけ多く感じるようになります。黙示録2、3章において、教会は七回も「聞きなさい」という言葉を与えられています。また、ヘブル人への手紙2章1節の中に、同じような「聞 きなさい」という警告の言葉を見ることができます。
ですから、私たちは聞いたことを、ますますしっかり心に留めて、押し流されないようにしなければなりません。(ヘブル 2・1)
しかし教会は、聞く耳を持ち、聞き従う能力を持っていても、いつのまにか聞こえなくなってしまうことがあります。というのは、教会はこの世に属するものではありませんが、この世の中におかれているからです。ですから、教会はこの世と同じものに変えられてしまう危険性をもっているのです。
そして、耳の聞こえない者はまた同時に口のきけない者にもなってしまいます。この世と同じ者になってしまった教会や信者は、もはやこの世にあって主の証しとなることはできません。神のみ声に聞き従う耳が閉ざされてしまった者は、祈りをやめ、証しすることをやめてしまいます。
ですから、「聞きなさい」という言葉が七回も語られているのは、「目をさましていなさい」という警告なのです。そうでなければ、教会は、すぐに聞こえない者となり、口のきけない者となってしまう危険性があるのです。
聖霊はまた、私たちに個人的に語りかけようとしておられます。聖霊は、私たちのことは何でもご存じです。聖霊は、信者の生活のどこに罪があり、冷淡さがあり、そして、不貞があるかをよく知っておられます。私たちは、聖霊によって語っていただかなければなりません。聖霊に語っていただきたいという心の用意があるでしょうか。正しく聞くということは、私たちが悔い改める心の用意をもっているということであり、また、結果がどうであろうとも聖霊のみ声に従っていく、ということを意味しています。
聖霊のみ声に聞き従うという場合、私たちは二つの態度をとることができます。一つはサムエルのような態度です。
主よ、お話しください。しもべは聞いております。(第一サムエル3・9)
もう一つは、イスラエルの民のとった態度です。
しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。(エレミヤ7・24)
教会は、どのようにして変えられるのでしょうか。それは、聖霊のみ声に聞き従うことによって、また、目標を目指して進むことによって変えられるのです。七つの教会への手紙を通して、私たちははっきりした希望が与えられています。「勝利を得る者は」という希望です。この希望とともに、私たちは次の主題に入りたいと思います。
6.教会に約束されていることは何か
黙示録2、3章には、「勝利を得る者には」という言葉が七回出てきます。それはつまり、教会は「勝利を得る」というそのことのためにイエス様に召されているということを表しています。それでは、「勝利を得る」とはどういうことでしょうか。イエス様に従う者は、イエス様と共に時には深い所に下り、時には高い所にも登らなければなりません。私たちは、どんなことがあっても、イエス様に従っていかなければなりません。
黙示録2、3章には七つの約束が出てきますが、いつもイエス様ご自身が「わたしは、・・・・をしよう。」と約束しておられます。これらの約束は、イエス様によって生まれ変わりを体験し、そのあとで勝利を勝ちえる人々の全てに与えられているのです。
イエス様は、ご自身の救いの完全さを教会に示され、そして教会がイエス様の完全な救いにあずかることを願っておられます。七つの教会への手紙を通して、私たちはイエス様の完全な救いがどのようなものであるかを見ることができます。
またイエス様は、それぞれの教会に対して、その時々の教会の状態に応じて、その教会にふさわしい、特別なことを約束なさったのでした。
エペソの教会に与えられた約束は、「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせる」こ とでした。つまり、その門の前にはもはや剣を持った天使は立っていないのです。これは、信じる者がまことの故郷に、またまことのいのちに帰ることを意味しています。
スミルナの教会に対しては、走りぬいた者に対して与えられる「いのちの冠」、勝利の約束が与えられていました。
ペルガモの教会に対しては、「白い石」が約束されていました。「白い石」とは何でしょうか。古代の裁判で無罪の判決をくだされた人には「白い石」が与えられましたが、ペルガモの教会に約束された「白い石」はこれでした。つまり、ペルガモに「白い石」が約束されたということは、 ペルガモの罪が赦されたというだけでなく、ペルガモがイエス様の前に罪のない者として認めら れた、ということを意味しています。
テアテラの教会には、「鉄の杖」が約束されていました。これはテアテラの教会が世界の統治とさばきに関わりをもつ、という約束です。このことは、テアテラの教会がイエス様と共に裁き、イエス様と共に支配する、ということを意味しています。
サルデスの教会には、「白い衣」が与えられることと、「いのちの書から決して名前が消されな い」ことが約束されました。それは、サルデスの教会が聖めと聖化にあずかるという約束です。
フィラデルフィヤの教会は、「神の聖所の柱とする」ことが約束されました。それは、積極的 にイエス様と労を共にするということを意味しています。
ラオデキヤの教会に対しては、「主なる神の食卓につく」ということと、「神の御座につく」と いう約束が与えられました。これは、イエス様と共に交わる喜び、イエス様と共に支配する特権が約束されていることを意味しています。
全ての教会が、それぞれにすばらしい約束を与えられ、そして勝利を勝ちとることが期待されています。全ての教会に希望が与えられているのです。全ての教会は、教会を愛してくださるイエス様によって勝利を得ることができるのです。どんな教会も、もちろん自分の力では勝利を得ることはできません。しかしこれらのお約束から、私たちは私たちに力を与えてくださる方によって、必ず勝利をいただけるということを知ることができます。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8・37)
また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(黙示1・6)
次に私たちは、二つの言葉について考えてみましょう。イエス様は十字架上で「完了した。」(ヨハネ19・30)と言われました。また、黙示録章6節には「事は成就した。」と書かれています。実はこれらの二つの言葉の間には、たいへん重要な関係があります。その間には、一つの戦いがあるのです。イエス様は勝利を得られましたが、悪魔も働いているのです。悪魔は打ち負かされましたが、しかし、今もなお戦いをいどんでいます。
愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。(第一ペテロ 4・12、13)
七つの教会は、このような悪魔の攻撃に対する心の用意を持っていなければなりませんでした。私たちは悪魔と戦うにあたって、戦いだけを見るのではなく、戦いの褒賞をも見なければなりません。七つの約束、つまり褒賞は、七つの面から、イエス様との完全な交わりを示しています。
褒賞は、当時の運動競技でもローマ皇帝によって授けられていました。そして悪魔もまた、褒賞を提供しています。
悪魔は・・・・言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」(マタイ4・9)
悪魔の提供する褒賞とは、この世のすべての国々とその栄華です。しかし、イエス様が提供なさる褒賞は、これら全てと比較にならないほどすばらしく、しかも、人間の側の働きとは何の関係もありません。ですから、これらの褒賞は、「報酬」ではなく「恵み」です。
7.イエス様の偉大さ
私たちは、イエス様の偉大さについて、どこまで知ることができるでしょうか。イエス様はあまりにも偉大なお方なので、私たち人間は生きている間にイエス様の完全さとその栄光のすべてを見ることなどとてもできません。
「私たちは、この世にある間は、イエス様の偉大さのごく一面だけを見ることができるにすぎません。ヨハネはイエス様の完全さとその栄光とを目のあたりにしましたが、そのためにイエス様の足もとに倒れて死者のようになったと黙示録1章に書かれています。黙示録2、3章では、イエス様は、それぞれの教会の状態に応じて、その教会に必要なご自身の姿の一面だけを現わしておられます。
エペソの教会に対しては、イエス様は大祭司としてのご自身の姿を示されました。そして、燭 台としての教会の中にご自身を現わされました。つまり、大祭司として燭台に油を注ぐ者、また燭台の灯りを消す者としてのお姿です。イエス様は、星として現わされている教会を、ご自身の手の中に保っておられるのですから、教会をご自身のみ手の中で守ることはもちろん、手の中から捨て去ってしまうこともできるお方として、ご自身を現わされたのです。
エペソの教会は、表面的に見るとすべてを所有しているように見えましたが、その根の所が病 んでいました。そのためにイエス様との生きた交わりを失っていたのです。そこでこの教会に対して、イエス様は大祭司として、初めの愛を再び聖霊の油をもって注ぎ入れる者として、ご自身を現わされたのです。
スミルナの教会に対しては、イエス様はご自身を死に対する勝利者として現わされました。墓の入り口を塞いでいた石は、イエス様にとって何の障害にもなりませんでした。なぜなら、イエス様は死に打ち勝たれたからです。スミルナの教会は、迫害を受けたために、恐れと不安と死に脅かされていました。この教会に対してイエス様は、ご自身を死に対する勝利者として現わされたのです。そして、死に至るまで忠実であるように、また襲ってこようとしている苦難に恐れることがないようにと告げられたのです。
ペルガモの教会に対しては、イエス様はみことばの剣をもって戦う者としてご自身を現わしておられます。この教会は外側に対する戦いのために、内側の戦いを忘れてしまっていました。そ のため、この教会は妥協をする危険性があったのです。ですからイエス様は、両刃の剣の言葉をもって、本来一つになりえないはずのものをはっきりと区別なさる必要があったのです。
テアテラの教会に対しては、イエス様はご自身を裁き主として現わされました。全てのものを見通すことができる炎のような眼を持つ者として、また反抗するすべてのものを踏み砕くことのできる鉄の足を持った者として、ご自身を現わされたのです。
さらに、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤの教会に対しても、イエス様は、それらの 教会に必要なご自身の偉大さの一面を力強く現わしておられますが、それについてはそれぞれの章でくわしく学んでいきましょう。
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