2020年8月30日、市川福音集会
黒田 禮吉
箴言
19:21 人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る。
皆さん、おはようございます。黒田禮吉と申します。本当は、不要不急の外出を控えるようにということのようでございますから、私は掟破りをしたようなものであります。けども、どうぞよろしくお願いいたします。今日は今、司会の山本兄から紹介がありましたように、『主のはかりごとだけが成る』というテーマで、お話をさせていただきたいと思います。
コロナの感染拡大ということがあって、私自身も今、なかなか集会に行けない――行っていない状態であります。吉祥寺にほとんど行ってないので、もっぱらネットで視聴しております。そんなことがあって、もちろん、仕事も終わってる年代でございますから、家にいても外出ができないし、どうしたらいいかということで、毎日、悶々としております。そうすると、やはりテレビを多く見るんですね。テレビを多く見ると、あまりよくはないんですけども、やはり、ついつい見てしまうという日々が続いています。私は、テレビの中でも好きな番組がありまして、『英雄たちの選択』という――ご存知の方も、いらっしゃるかもしれませんが――テレビ番組が好きでよく見ます。内容は、歴史上の英雄たちが、人生の岐路において、どう考え、どう行動したかということを、様々な角度から掘り下げて、心の内を分析し、推理する歴史番組であります。その話しをずっとしていると、メッセージになりません・・・・。
実は、旧約聖書には、ご存知ように、多くの英雄たちの選択の歴史が書かれています。けれども、聖書の視点は、ただ一点に集約されているのではないかと思います。すなわち、主なる神に聞き従うか、そうでないかという点であります。今日は、イスラエル人がエリコとアイという二つの町を攻略した時の、主の御心を学んでみたいと思います。
ヨシュア記を、今日は読ませていただきます。ヨシュア記の六章、順々にお読みしますが、その辺りからずっと今日は、読ませていただきます。
ヨシュア
6:1 エリコは、イスラエル人の前に、城門を堅く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった。
6:2 主はヨシュアに仰せられた。「見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。
6:3 あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。
6:4 七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。
6:5 祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。」
ヨシュアが、エリコの町を攻略しようとした時、彼らは非常に緊張していました。何故なら、エリコは本当に堅固な街であったからであります。自分たちの力では到底、戦うことができないことを知っていました。ですから、彼らは、主に命じられたことを、そのまま行いました。
エリコの町を七周、巡回することがどのように勝利に導くのかは、人間の頭では、到底、理解できませんが、彼らは、主により頼んだのであります。今、読みました二節に、『見よ。わたしはエリコとその王、および勇士たちを、あなたの手に渡した。』
『渡した』と完了形になって書かれています。この意味は、もうすでに主が行なってくださったものを、信仰によって、自分のものにしていくということであります。主なる神は、実に奇妙な方法で、エリコを陥落させます。イスラエル人たちは無論、何をしているのか、わからなかったでしょう。何のために、こんなばかげたことをしなければいけないのか。一日に一周ずつ、町の周りを回る、その意義は何なのかと、いろいろ考えたとしても、おかしくありません。けれども、彼らは、自分で理解できなくとも、主が言われることだからということで、実行しました。
私たちの場合はどうでありましょうか。主の命令であっても、自分が行なっていることを、自分が理解し、納得してから行いたいと願います。ですから、『主よ、あなたは今、いったい何をされようとしておられるのですか。どうしてこのコロナという感染症を起こされたのですか』と、訊きたくなる時があります。けれども、往々にして、主は、私たちの思いと異なる思いを持っておられ、私たちの道とは異なる道を、用意しておられます。ですから、私たちは力を尽くして、主により頼み、おのれの悟りに頼らないことが大切です。
事実、イスラエル人が主に従ったとき、勝利を得ました。
ヨシュア
6:20 そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。
6:21 彼らは町にあるものは、男も女も、若い者も年寄りも、また牛、羊、ろばも、すべて剣の刃で聖絶した。
聖絶とは、何でありましょうか。『聖』――聖い――という言葉を、『神のもの』と言い換えると、理解し易くなります。聖絶とは、神による絶滅と言えます。主が怒りをもって、エリコの町を絶滅させるということであります。
戦闘において、勝った者は残された財宝を略奪することができます。いわば、戦利品でありますが、エリコの町の場合は、それを行ってはいけませんでした。なぜなら、それは神のものだからです。神が怒りを発し、エリコの町を破壊し、呪われたので、それに触れてはならないのです。つまり、エリコの町は、主によって裁かれて、主に捧げられる特別な町です。イスラエル人が、そこで自分たちが何かを行ったという栄誉を一切、取らずに、主によって行われ、主の栄光が現れる場所であります。こうして、エリコの町は陥落しました。彼らは、その次の街、アイを責め取ろうとします。けれども、ヨシュアがアイの町を偵察に行かせたら、彼ら偵察隊は、このように報告したのであります。
ヨシュア
7:2 ヨシュアはエリコから人々をベテルの東、ベテ・アベンの近くにあるアイに遣わすとき、その人々に次のように言った。「上って行って、あの地を偵察して来なさい。」そこで、人々は上って行って、アイを偵察した。
7:3 彼らはヨシュアのもとに帰って来て言った。「民を全部行かせないでください。二、三千人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせるようなことはしないでください。」
アイを撃つには、二、三千人で十分だと思ったんですね。ところが、楽勝と思ってアイと戦ったら、逆に打ち負かされてしまいました。なぜなら、主にうかがいいを立てることなく、自分たちの判断で行動したからであります。エリコに勝利したのは、自分たちの力によるものであったと、彼らは錯覚したからであります。
それにしても、主はなぜこのようなことを起こされたのでしょうか。実は、彼らがエリコに勝利した直後に、大きな罪を犯したからであります。それが、ヨシュアの七章に書かれています。
ヨシュア
7:1 しかしイスラエルの子らは、聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がった。
イスラエルが聖絶のもののことで、罪を犯したとあり、そして、主の怒りはイスラエル人に向かって燃え上がったとありますが、注目すべきは、『イスラエルの子らは』となっているところであります。アカンという個人が犯した罪であるのに、神がイスラエルの子らが犯した罪であるとみなしています。神は、イスラエルをひとつの体として見ておられるからです。一部に欠陥があれば、その全体に欠陥があるとみなしておられます。イスラエル人がアイに打ち負かされたのは、彼らは信仰によって前進することを忘れてしまったからであります。そして、イスラエル人のうちに罪があることを知らせるために、主ご自身がこのような霊的油断を引き起こされたとも言えます。
さて、私たちはどうでしょうか。私たちの集会も、キリストの体として組み合わされたものであり、ひとつの有機体であることを、決して忘れてはならないと思います。第一コリントの十二章、よくご存知の箇所だと思います。
第一コリント
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
私たち一人一人に問題が起こることによって、集会は欠けたものとなり、そのぶん苦しみます。キリストにあって一人一人が必要とされているのです。従って、個人の罪というのは、全体に影響を与えます。コリントの教会の中で、罪を犯している男がいました。それを、教会はそのまま受け入れていました。そこで、パウロは、このように言いました。
第一コリント
5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
パウロは、コリントの教会に対して、わずかなパン種でも、粉全体に広がること、教会の中の悪は、全体に広がることを話しました。ごくわずかでも、全体に広がります。罪も同じであります。
話をエリコとアイの攻略に戻してみます。主の怒りは、彼らイスラエル人が自分たちの力により頼むままにされたところに現れています。エリコの陥落は、もっぱら主によってのみ、行われたことでした。ですから、アイの攻略も、もっぱら主によって行わなければいけません。イエス様から離れては、私たちは何もすることはできないのです。
アカンの罪は、人間的に見れば些細なことであるかもしれません。聖絶のものによって、神はご自分の義と聖を表されたのですが、アカンはその一部を自分のものにしようとしました。それは、エリコによって表された神の栄光を、自分のものにしたという大きな過ちです。そのため、イスラエルの民はエリコを倒したことが、あたかも自分たちの手柄であるかのように、思い込んでしまいました。エリコの町は確かに、アイの町よりも大きく、難攻不落の街といえたでしょう。そして、人間的に考えれば、アイの町には、兵力をそんなに多く投入しなくてもよいでしょう。けれども、それは間違っています。
主は、私たちの能力ではなく、私たちの心を見ておられます。イスラエルの民が全ての戦いに出て、主により頼む全き心が求められているのであって、中途半端な心であれば、どんなに力量があっても、必ず負けてしまうということではないでしょうか。彼らは、エリコよりも、アイの方が小さいと言い、人間的な力に頼ろうとしましたから、主なる神も、彼らが人間的な力に頼るままにされました。そして、敗北したのです。私たちは、人数が多かろうが少なかろうが、常に全き心で主の前にへりくだり、従わなければいけません。
続いてヨシュア記をご一緒に読みたいと思います。
ヨシュア
7:6 ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、主の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。
7:7 ヨシュアは言った。「ああ、神、主よ。あなたはどうしてこの民にヨルダン川をあくまでも渡らせて、私たちをエモリ人の手に渡して、滅ぼそうとされるのですか。私たちは心を決めてヨルダン川の向こう側に居残ればよかったのです。
7:8 ああ、主よ。イスラエルが敵の前に背を見せた今となっては、何を申し上げることができましょう。
7:9 カナン人や、この地の住民がみな、これを聞いて、私たちを攻め囲み、私たちの名を地から断ってしまうでしょう。あなたは、あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。」
ヨシュアが、すっかり信仰を失っています。これまで、主が数多くの不思議を、そして、印を与えてくださり、ヨルダン川の水をせき止め、エリコを陥落させてくださったのに、ただ一回、負けてしまったことによって、ヨルダン川を渡ったことさえ、後悔しています。ヨシュアは、自分の恐れと不安を神にぶちまけました。自分たちを滅ぼすために、主がここまで連れてきたのだという非難であります。ヨルダン川を渡ったら、後戻りはできないのです。そして、『あなたは何をなさろうとするのですか』と非難しています。
私たちも、このような非難をするものではないでしょうか。何か、悪いことが起こると、『あなたはなぜこんなことを許されるのですか』という非難であります。新型コロナの感染もそうかもしれません。いろんなところで起こる集中豪雨と川の氾濫もそうかもしれません。
ヨシュア記の七章を続けて読みたいと思います。神はそのヨシュアに対して、こう仰せられているんですね。
ヨシュア
7:10 主はヨシュアに仰せられた。「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。
7:11 イスラエルは罪を犯した。現に、彼らは、わたしが彼らに命じたわたしの契約を破り、聖絶のものの中から取り、盗み、偽って、それを自分たちのものの中に入れさえした。
7:12 だから、イスラエル人は敵の前に立つことができず、敵に背を見せたのだ。彼らが聖絶のものとなったからである。あなたがたのうちから、その聖絶のものを一掃してしまわないなら、わたしはもはやあなたがたとともにはいない。
7:13 立て。民をきよめよ。そして言え。あなたがたは、あすのために身をきよめなさい。イスラエルの神、主がこう仰せられるからだ。『イスラエルよ。あなたのうちに、聖絶のものがある。あなたがたがその聖絶のものを、あなたがたのうちから除き去るまで、敵の前に立つことはできない。
『聖絶のものの中から取り、盗み、偽って・・・・』と、かなり強い言葉があります。主の栄光が現れているそのエリコから何かを取ることは、盗みに他ならず、そして、偽りに他なりません。
主は、神の箱の前で着物を裂いて祈っているヨシュアに対して、このようにおっしゃったんですね。『立て。何をひれ伏しているのか。』ここで知らなければいけないのは、私たちがどんなに熱心に祈ったとしても、それが神のみこころを損なっているままで祈っているのであれば、検討違いの祈りになってるということであります。
けれども、主が仰せられたことは、主のあわれみであります。聖絶のものが宿営にあるのなら、本来は宿営そのものがエリコのように滅ぼされなければいけません。けれども、主はその罪を犯した者とその所有物を聖絶するだけで、それを取り除くことによって、彼ら全体を救おうとしておられるのであります。私たちに対しても、同じであります。私たちが罪を犯しても、主は、私たちをキリストによる贖いのゆえに、罪に定められることはありません。けれども、その罪を告白して、捨て去ることを命じられます。そうでなければ、神が共におられるという交わりを保つことはできません。
詩編
66:18 もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。
もっとも恐ろしい主の言葉とは、先ほど読みましたヨシュア記の7章12節にあるんですね。『わたしはもはやあなたがたとともにはいない』ということでありましょう。主のご臨在がなくなるということが、いかに恐ろしいかを、私たちは知らなければなりません。
エペソにある教会は、用いられた教会でしたが、初め愛から離れてしまいました。そこで、イエス様はこのように言わざるを得ませんでした。皆さんもご存知の黙示録の2章5節の言葉であります。
黙示録
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
燭台は、主ご自身がおられることを表していますから、主の臨在のない教会になってしまいます。主は罪に対して妥協されません。私たちが罪を犯していて、それで、主が共におらて、働かれるということはなさいません。主が、何か行われる前に、まず罪の問題が処理されなければいけません。アカンは家族も皆、その財産も皆、火で焼かれてしまいました。本当に恐ろしいことかもしれませんが、霊的には、私たちが自分の肉の問題を中途半端にしてはいけないということであります。
ヨシュア
8:1 主はヨシュアに仰せられた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。」
ヨシュアは、罪をイスラエルから取り除いた後に、立ち上がることができました。そして、再び主から、『恐れてはならない、おののいてはならない』という励ましの言葉を聞くことができました。そして、主は、戦う民、全部を連れてアイを攻め上れと命じられています。人間的な計算をするのではなく、全き心で戦いにのぞみます。
ヨシュア
8:18 そのとき、主はヨシュアに仰せられた。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。
8:24 イスラエルが、彼らを追って来たアイの住民をことごとく荒野の戦場で殺し、剣の刃で彼らをひとりも残さず倒して後、イスラエルの全員はアイに引き返し、その町を剣の刃で打った。
8:25 その日、打ち倒された男や女は合わせて一万二千人で、アイのすべての人々であった。
8:26 ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。
投げ槍をアイの方に刺し伸ばせという命令を、主は、ヨシュアに仰せられました。そして、アイの人々は、挟み撃ちに遭って死にました。
かつて、イスラエルの民がエジプトから脱出した時、立ちはだかる紅海を目の前にして、モーセは神の杖を持ちながら祈り、その手を引っ込めませんでした。同じようにヨシュアは、この戦いのあいだ、投げ槍を差し伸べ続けました。それが、ヨシュアの祈りであり、神が戦ってくださっていたのであります。
今日はこうして、二つの町、エリコとアイの攻略を見ました。アイの町の方が小さいのに失敗してしまったのは、非常に興味深いことであります。これは、私たちは肉の力ではなく、主により頼む信仰が大切であることを教えてくれます。そして、罪には勝利を妨げる最大の要因です。内側から罪を取り除き、きよめていただき、そして、自分で何かを行うのではなく、神が命じられたとおりに、御霊に導かれながら、歩むことが大切ではないでしょうか。最後に、ヨシュア記の8章30節を読んで終わりにしたいと思います。
ヨシュア
8:30 それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。
ヨシュアは戦いが終わった時に祭壇を築きました。つまり、礼拝をしたのであります。イスラエルの戦いは、通常の人間の戦闘とは異なります。それは、あくまでも信仰の証しであります。通常の戦闘であれば、戦力や兵力は極めて重要ですが、信仰においては、絶えず全き心で主に従うことが求められます。そこには、普段の主の命令に従っていくというへりくだりが必要ではないでしょうか。
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