2020年8月23日日曜日

初めの愛に立ち返る

初めの愛に立ち返る
2020年8月23日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

創世記
33:18 こうしてヤコブは、パダン・アラムからの帰途、カナンの地にあるシェケムの町に無事に着き、その町の手前で宿営した。
33:19 そして彼が天幕を張った野の一部を、シェケムの父ハモルの子らの手から百ケシタで買い取った。
33:20 彼はそこに祭壇を築き、それをエル・エロヘ・イスラエルと名づけた。

ヤコブの生涯でもっとも大切な経験とは、言うまでもなく、ペヌエルで神と組み打ちをした結果、その名をイスラエルと変えられた出来事でありましょう。しかし、ペヌエルでのこのような深い霊的経験があったにも関わらず、主なる神は、更なる環境にヤコブを置いて、彼に語りかけられたのであります。ヤコブが通らなければならなかった、ペヌエルより以降の歩みについて、今日、ご一緒に考えてみたいと思います。

読んでいただいた箇所は、ヤコブが兄、エサウと和解して、ようやく、生まれ故郷に戻ってきたところであります。シェケムの町とは、ヨルダン川の東にあるカナン人の町です。そこは、祖父アブラハムに、主が初めて現れた場所であります。ヤコブはアブラハムと同じように、土地の一部を購入しました。そして、そこに祭壇を築きました。偶像が祭られているカナン人の町で、自分の神こそが、真の神であるという証しであります。

このように、ヤコブはアブラハムが踏んだ道を歩んでいます。それは一見、立派な行為のように見えます。けれども、実は、とんでもない間違いでした。アブラハムが行ったことをそのまま倣っても、それは信仰ではありません。神の言われることに聞き従うことこそが、信仰であります。確かに、神はアブラハムをシェケムに導かれました。しかし、神がヤコブに現れてくださったのは、ベテルであります。ベテルにおける神との出会いを出発点にして、彼には、神との交わりが与えられます。

ところが、いちばん大きなハードルであったエサウとの問題が解決して、ヤコブはほっとしてしまい、主を続けて求めることを怠ってしまったのでしょうか。今、自分のある状況に満足してしまい、信仰の歩みを中断させてしまいました。シェケムに築いた祭壇の名前に、自分の名前、イスラエルを入れ、あるいは、高ぶっていたのかもしれません。そして、娘や息子たちによって、事件が起こりました。続けて創世記の三十四章を読みたいと思います。

創世記
34:1 レアがヤコブに産んだ娘ディナがその土地の娘たちを尋ねようとして出かけた。
34:2 すると、その土地の族長のヒビ人ハモルの子シェケムは彼女を見て、これを捕え、これと寝てはずかしめた。

ヤコブがこの辺りで良いだろうと思って住み着いたシェケムは、汚れた町だったのです。本当なら、すぐさま、娘ディナを連れ戻し、その土地を出て行くべきだったでしょう。しかし、ヤコブは既に、族長から土地を買ったりして、関わりを始めていました。彼らとの関係を悪くしたくないとの思いが働いたのかもしれません。

一方、シェケムの人々は、この事件に、何ら道徳的な問題を感じておらず、大胆にも、娘ディナとの結婚を申し出ています。これは、神がイスラエルのために考えておられることと、真っ向から対立すること、すなわち、イスラエル人とカナン人との雑婚を意味します。結局、彼らは結婚を利用して、ヤコブとの政治的、経済的な駆け引きに出ています。ベテルに行き、父イサクの家に行くことを怠ったヤコブは、霊的感覚が鈍ってしまったのでしょうか。彼が人間的な思いでシェケムに住んだ結果、このような邪悪な行いが、家の中に入り込みました。けれども、それだけではありませんでした。

創世記
34:13 ヤコブの息子たちは、シェケムとその父ハモルに答えるとき、シェケムが自分たちの妹ディナを汚したので、悪巧みをたくらんで、
34:14 彼らに言った。・・・・

今度は、ヤコブの息子たちが悪巧みを考え始めたのです。すなわち、シェケムの男子全てが割礼を受けるなら、妹との結婚を認めると言ったのです。もちろん、息子たちとて、彼らとひとつの民になる意図はありません。ヤコブはこの話を聞いた時点で、そんなことはおかしいと言うべきでした。また、息子たちが行動する前に、結婚の申し出をはっきりと断るべきでした。ヤコブこそが、この家の主人なのです。家を納める必要があったのです。しかし、彼は何もしませんでした。ヤコブは、この時点で――分かりませんけども――悲しみのあまり、ハモルとシェケムとの話し合いの席に出ていないのではないかとも推測されます。

これは秩序の乱れです。父親が取るべき主導権が、息子によって握られています。ヤコブが、自分自身の頭である神様から、指令や導きをいただいていなかったからではないでしょうか。そして、惨事が起こります。

創世記
34:24 その町の門に出入りする者はみな、ハモルとその子シェケムの言うことを聞き入れ、その町の門に出入りする者のすべての男子は割礼を受けた。
34:25 三日目になって、ちょうど彼らの傷が痛んでいるとき、ヤコブのふたりの息子、ディナの兄シメオンとレビとが、それぞれ剣を取って、難なくその町を襲い、すべての男子を殺した。
34:26 こうして彼らは、ハモルとその子シェケムとを剣の刃で殺し、シェケムの家からディナを連れ出して行った。

なんと、息子のシメオンとレビが、シェケムの町で大量虐殺をしました。

創世記
34:28 彼らは、その人たちの羊や、牛や、ろば、それに町にあるもの、野にあるものを奪い、
34:29 その人たちの全財産、幼子、妻たち、それに家にあるすべてのものを、とりこにし、略奪した。

彼らが、ディナに起こったことをひどく悲しみ、怒り、カナン人たちの汚れを憎んだことは、正しいものでした。しかし、このような残虐な方法で復讐したことは、大きな罪です。シメオンとレビは、この行為の故に、彼らの子孫が土地を相続する権利を失います。彼らがしたことは、明らかな罪ですが、このような騒動が起きたのは、ヤコブ自身が信仰によって歩まずに、シェケムに止まったからであります。

ヤコブのことを、私たちが他人ごとのように考えたら、間違えてあります。私たちで全てに、この話は当てはまるのではないでしょうか。ヤコブは、アブラハムの歩んだ道を歩み、それは、すばらしいことのように見えました。けれども、そうした人間的な知恵に従った結果、ヤコブの家に邪悪な行いと秩序の乱れが起こりました。信じる者の群れの中においても、同じことが起こるのではないでしょうか。不一致、不満などが起こるのは、人の考え方、知恵によって、物事を行っているからではないでしょうか。

ヤコブ
3:13 あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行ないを、良い生き方によって示しなさい。
3:14 しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。
3:15 そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。
3:16 ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。

心の中の苦い妬みや敵対心は、上からではなく、私たちの肉から出てきます。そして、そのような妬みや敵対心があるところに、秩序の乱れや邪悪な行いがあると書かれています。

ヤコブは、このような惨事を通して、自分が相変わらず、肉の知恵によって歩んでいたことを、発見しました。そして、この時、主は、ヤコブを再び導かれたのであります。

創世記
35:1 神はヤコブに仰せられた。「立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現われた神のために祭壇を築きなさい。」
35:2 それでヤコブは自分の家族と、自分といっしょにいるすべての者とに言った。「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい。
35:3 そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。私はそこで、私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に祭壇を築こう。」

神の最初の言葉は、『立ってベテルに上りなさい』でした。ベテルは、ヤコブが初めて神と出会った場所であります。それは、初めの愛に立ち返るようにとの仰せであります。私たちは、しばしば、自分の考え、気持ちに従ってしまい、与えられた初めの愛を忘れてしまいます。黙示録から、よく知られた御言葉であります。

黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。

ヤコブに対して神は、続けて、エサウの逃れていた時、あなたに現れた神のために、すなわち、真の神ために祭壇を築きなさいと言われました。祭壇は、神への礼拝を示しています。私たちは、礼拝することによって、初めの愛に戻ることができるのです。ヤコブが経験した初めの愛とは、何であったのでしょうか。それは、エサウを出し抜き、おじ、ラバンのところへ逃れる道中での経験であります。

少し長いですけど、創世記から読ませていただきます。

創世記
28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
28:12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」
28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。
28:17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
28:18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
28:19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。

ヤコブにとって、ベテルとは、第一に、自分の惨めな状態を思い起こさせてくれる場所です。エサウから憎まれて逃げていた状態であります。第二に、そこは、神と人とのあいだにある隔てを埋めてくださる神の使い、仲介者がおられることを知ったところです。三番目にベテルは、栄光に満ちた祝福を思い出させるものです。カナンの地が与えられ、子孫が全世界に広がり、全ての民族が子孫によって祝福される約束です。そして、第四に、ベテルは自分が誓願を立てた場所であります。

創世記
28:20 それからヤコブは誓願を立てて言った。「神が私とともにおられ、私が行くこの旅路で私を守ってくださり、私に食べるパンと着る着物を賜わり、
28:21 私が無事に父の家に帰ることができ、主が私の神となってくださるので、
28:22 私が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。」

ヤコブは、神の御前でこのように誓いを立てました。けれども彼は、誓いを立てた後、すぐにそれを忘れてしまったのではないでしょうか。彼は、その後も、手腕の限りを尽くして、自分を守りました。行く先々で自分を守ってくださるようにと、神に願ったにもかかわらず、終始一貫、自分に頼っています。彼は時に、神を仰ぎ見、また、自分の手腕を用いました。そして、試練が過ぎ去ると、彼は頭を下げて、これは、皆、神が哀れんでくださったからだと言ったのでしょう。私たちも、ヤコブと同じように言うものではないでしょうか。

ペヌエルでの経験は、ヤコブにとって忘れられない経験であったはずです。しかし、ヤコブは、パダン・アラムから帰った後、シェケムに止まりました。ヤコブは確かに、多くの経験を持ち、多くの辛苦を舐め、この時、十分に霊的であったことでしょう。ですから、シェケムにとどまっても良いのではないかと思ったのかもしれません。しかし、真の神は、彼が仕える神は、彼を安らかにそこに留まらないのです。彼の心は満足したでしょうが、神は満足しておられません。ですから、神は更に、彼に語りかける必要がありました。更なる試練という打撃を与えなければ、ヤコブは、神の言葉を聞き取れないことを、神が知ってておられました。

こうして今度こさそ、ヤコブの心に霊的覚醒が訪れました。ヤコブは、まず異国の神々を取り除こうと言っています。おそらく、ラケルがラバンの家から持ってきたテラフィムを、ずっと家の中に隠しておいたのを、ヤコブは許容していたのではないでしょうか。また、シェケムで祭られていた偶像も、家の中に入っていたのでしょう。その結果は、シメオンとレビのような不敬虔な行いにつながったのではないでしょうか。

偶像礼拝とは、真の神ではなく、自分に都合のよい神を拝んでいることであり、自分自身を神にしていることであります。私たちが初めの愛に戻るとき、自分の心の内の偶像を取り除く必要があります。そして、ヤコブは、家族と全てのものに、身を清めなさいと言いました。自分たちの古いを行いを思い出させるようなものから、一切、離れることが必要です。そして、ヤコブは祭壇を築こうと言って、神に栄光を帰して、礼拝を捧げるようにしたのであります。

私たちもどうでしょうか。救われたとき、ヤコブと同じように、御前に誓いを立てたことでしょう。けれども、もし私たちが相変わらず、主なる神以外のものに頼り、それでいて、私たちはもうすでに霊的になったと思い込んでいるとしたら、神が私たちにも新しい環境を通して、試練を通して、語りたいと思われるに違いありません。

私たちも、相変わらず、偶像があり、金の耳輪があり、多くのものを捨てなければならないのではないでしょうか。私たち自身も、ベテルに戻って、初めの愛に立ち返って、神の声を聞くべきであります。神に満足を与えるべきであります。ベテルとは、私たち、信じるもの一人一人の神との初めの出会い口であります。罪の中で死んでいた卑しいみじめな状態、神と人間のかけはしであるイエス・キリストの十字架、神の国の相続の希望と、主がともにいてくださるという約束、そして、私たちはイエス様を主として歩んでいきたいという熱い思いを、思い出させてくれる場所ではないでしょうか。

創世記
35:14 ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ。
35:15 ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけた。

神は全能の神として、再びヤコブに現れてくださいました。ヤコブは、ベテルで最初にしたように、再び、石の柱に油を注ぎます。注ぎのぶどう酒は、自分を神に捧げることを示します。

第一コリント
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

ベック兄はよく、『散歩道ではないよ』と、仰いました。パウロのように、私たちは、決勝戦を目指して、日々、走るものであるべきでありましょう。

最後に、最晩年のヤコブの姿を見てみたいと思います。

創世記
47:7 それから、ヨセフは父ヤコブを連れて来て、パロの前に立たせた。ヤコブはパロにあいさつした。
47:8 パロはヤコブに尋ねた。「あなたの年は、幾つになりますか。」
47:9 ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」
47:10 ヤコブはパロにあいさつして、パロの前を立ち去った。

確かに、ヤコブはアブラハム、イサクに比べれば、長寿ではなく、本当に波乱万丈の生涯を送りました。この世的には、必ずしも幸せとは言えなかったかもしれません。しかし、その人生の最晩年に、エジプトに移り住んで、ヨセフの近くに身を寄せてからは、平安のうちに死を迎えました。彼は、霊的には満たされていたのではないでしょうか。『パロにあいさつした』とは、脚注にありますように、『祝福した』ということであります。新改訳の聖書では、『あいさつをした』と訳していますが、それは日本的な感覚からではないかと思います。立場や地位が下の者が、上の立場にいる人に対して、『祝福する』という言い方はしないからです。けれども、英語では、はっきりと、『Jacob Blessed Pharaoh』と書かれています。全能の神の権威をもって、ヤコブがエジプトにいるパロを祝福したということではないでしょうか。

最後に、ヘブル書から一箇所、読んで終わりにしたいと思います。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

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