絶望的状態からのすばらしい逃れ道
ベック兄暦年テープDVD2、CD24-0331
ゴットホルド・ベック
ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
ヨハネ伝の今、読まれました三章の十六節に、『神は愛された』と書き記されています。いちばんよく知られている聖書の箇所ではないかと思います。もちろん、神は愛されただけではなく、神は今日も愛していてくださり、いつまでも愛したもうお方であると聖書は言ってます。
悪魔は、結局、愛することを知りませんし、悪魔の唯一の目的は、人間をダメにしようと思っているのです。神は、『ああ、人間ですか』・・・・いくら嫌な人間であっても、嫌な姑であっても、神は、『ああ人間か!愛しましょう。救いましょう、幸せにしよう』と思っておられます。
神の永遠から持っておられたご目的とは、人間が永遠のいのちを持つことですと、ここで書き記されています。そして、この間も学びましたように、創世記の三章になりますけど、神の被造物であるアダムとエバは、神の子供となるべきだったのです。永遠のの命を得ることによって、神の被造物は、人間の子供となるべきだったのです。けれども、アダムとエバは、神に頼らないで、自分勝手に行動するようになったのです。それによって、神との結びつきが断ち切られただけではなく、悪魔との結びつきが生まれたのです。
確かにアダムとエバは、善悪を知るようになりましたけれども、善を行う力を持っていなかったのです。アダムとエバは、自分のわがままによって、神から離れたものになってしまったのです。悪魔の奴隷になってしまったのです。このアダムとエバが置かれるようになった状態とは、本当に絶望的な状態だったのであります。なぜならば、人間は、人間を救うことができないからです。
救いとは、生ける神との交わりをもたらすことです。神は創世記の三章に、堕落した人間に一つの非常にすばらしい約束を与えてくださったのです。
創世記
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
ここには、『救い主が来る。すなわち、女から来る。そして、この救い主は、悪魔に打ち勝つものとなり、そして、救いの代価とは、苦しみであろう』と預言されたのです。イエス様は、確かに処女から生まれたお方であり、イエス様は、自分の死を通して、悪魔に打ち勝ったお方であり、そして、救いの代価とは、考えられない苦しみであり、救い主の命だったのであるとあります。
アダムとエバは、考えもつかないほどの絶望的な状態に置かれたのです。けども、主なる神は、このわがままになった人間、この神から離れている人間、悪の悪魔の奴隷になってしまった人間を救おうと望んでいるのです。けど、主なる神の救いとは、いかにしてなされたのでありましょうか。これは、本当に書き表すことのできないほど、難しい問題だったのであります。
前に言いましたように、主なる神によって作られた人間は、神のいのち、すなわち、永遠のいのちを持つように創造されたのです。このいのちとは、イエス・キリストの中にあります。イエス・キリストを受け入れることによって、永遠の命を持つこと、これこそが、神の永遠からの目指したところであります。けれども、アダムは神から離れたものになってしまったのです。
パウロは、『人間は罪と罪過のうちに死んだものとなった』と、書いたのであります。どういうふうに、罪と罪過のうちに死んでいるものが、神の子となることができるのでありましょうか。このあいだ、私たちは遺伝法則についてちょっと考えたのです。例えば、植物は決して、動物になることはできません。また、動物は決して、人間になることはできません。
罪にまみれた性質を持つ人間は、永遠のいのち、神の性質にあずかることができないと、聖書は、はっきり言っているのです。肉から生まれたものは、肉である。肉と血は、神の国を継ぐことができないと、書いてあります。けど、堕落した人間を救いたい――これこそが、神の目指すところだったのであり、神のご計画だったのです。どうしたらこの計画は、成就されるのでありましょうか。
ちょっと、三つの点について考えたいと思います。第一番目は、主なる神は全く聖なるお方です。第二番目は、主なる神は、全き愛の持ち主です。そして、第三番目は、罪の問題を解決しないといけない。この三つの点について、ちょっとだけ考えたいと思うんです。
第一番目は、主なる神は聖なるお方です。きよいお方です。
ハバク
1:13 あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。
こう、預言者は書き記されたのであります。その前のイザヤ書には、イザヤの経験について、次のように書き記されています。このイザヤとは、当時のもっとも立派な人格者の一人だったのでありましょう。彼は、この聖なる全き聖いお方に出会ったのであります。
イザヤ
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
神は、聖なる聖なるお方であります。イザヤは、『ああ、私はもうだめだ』と、叫ばざるを得なかったのです。
神の聖さは、罪との交わりを持つことができません。この罪に対する裁きについて、ローマ書に一章に、パウロは、当時、ローマに住んでいた人々に、次のように書き記したであります。
ローマ
1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。
主なる神は、罪と妥協することのおできにならないお方です。神は愛だから、だから、なんとかなるという考え方は間違った考え方です。神は、罪と妥協することのできない方です。だから、主なる神は罪を罰し、罪人を追放せずにはおられないお方です。神の聖さの結果であります。もし、神が罪を罰しないならば、罪と妥協することになります。これは、もちろん考えることのできないことです。主なる神は元来、人間の親しい友であり、人間を本当に愛しておられた創造主だったのですけれども、罪によって、人間のわがままによって、神は、人間の審判者とならなければならなくなったのです。
主なる神は、非常に人間を愛しておられるから人間を罰しない・・・・という人がいるんですけど、これは誤りです。主なる神は、全く聖なるお方であるからこそ、罪を裁かずにはおられないのです。
今、意識して、例えば、手を火の上に差し出し、私は火傷をしたとします。それは、もちろん、自分のせいですから、仕方ないことでしょう。同じように、人間が神の戒めを破り、悪魔の奴隷になったことも、自分のせいですから、仕方がないことです。主なる神は、聖なるお方であり、人間は罪にまみれた存在です。罪とは、もちろん、何回も何回も言いましたように、人間の正しくない行いというよりも、人間の神から離れている状態です。神から離れてるものは、仕方がなくて、自分の知恵、自分の力に頼らなければならない。これこそが罪である。神に頼らないことこそが罪であると、聖書は言ってます。
主なる神は、ただ聖くあることができます。人間は、これに対し、ただ罪人であることができます。罪を犯すことしかできないものです。この両者は、一つでいることはできません。主なる神の聖さは、罪人は永遠に神のご臨在のうちから追放され、永遠に神との交わりに入ることができないことを教えているのです。
主なる神は、確かに全く聖なるお方です。それと同時に――第二番目になりますけれども――全き愛の持ち主です。神は愛なりと、よく引用されます。確かにそうです。主なる神の聖さは、罪人との永遠の分離を物語ってます。けども、主なる神の愛は、罪人との一致を物語っています。
主なる神は、全く聖なるお方ですから、人間の審判者とならなければなりませんが、主なる神は、全き愛の持ち主ですから、救い主ともなられたのです。主なる神の聖さは、罪人に対して、『行ってしまえ』と言ってます。けど、これに対して、主の愛は、罪人を受け入れるべき、救いのみ手を差し伸べられています。『来なさい。』主は、呼びかけてます。けど、どうしたら、主なる神の聖さと愛が両立するのでしょうか。これは、本当に言い表せないほど、難しい問題ではないでしょうか。
主なる神の聖さは、損なわれることはできません。アダムとエバの堕罪の後、主なる神は、彼らの審判者となり、また、救い主ともなられたのです。主なる神は、彼らの審判者として、死の判決を下す一方、彼らの救い主として、救いの計画も、はっきり話されたのです。アダムとエバは、死の判決を下され、パラダイスから追放されてしまったのです。彼らは、神のご臨在から追放されてしまった。初めて孤独を経験するようになり、心配、また、不安を感じるようになったのです。
聖なる神は、罪人との交わりを持つことはできません。一方、愛なる神は、人間にご自分で救いの道を作ると約束されたのであります。堕落した人間が救われるためには、次のことを知らなければならないのです。すなわち――第三番目のことになります――罪の問題を解決しないといけないということです。
罪に対する審判は、合法的でなければなりません。すなわち、法が曲げられることは許されません。それから、罪の問題を徹底的に解決しなければなりません。すなわち、滅亡を遠のけなければなりません。それから、罪の問題を効果的に解決なければいけません。すなわち、罪からの解放は、経験し得ることでなければならない。
まず、罪の問題は合法的に解決ならなければいけません。すなわち、法が曲げられることは、決して、許され得ないことです。ですから、主なる神は、アダムと、それに続く全人類に対して、罪の判決を下されたのです。ローマ書の三章、二十三節に、『すべて』・・・・この『すべて』と言う言葉にアンダ―ラインすべきだと思うんですね。
ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ(ません。)
『すべて』と、書き記されています。ガラテヤ書の三章に同じく、『すべて』という言葉が出てきます。
ガラテヤ
3:22 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。
ここも、『すべての人』と、書き記されています。結局、主なる神は、アダムと全人類を罪に定められたと、聖書は言っています。
ローマ
5:18 こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められた。・・・・
アダムとエバは、どうして罪人になったかと言いますと、祈ろうとしなかったからです。神に頼ろうとしなかったからです。自分勝手に行動してしまったからです。私たちは、どうして罪人であるかと言いますと、罪人から生まれたからです。アダムとエバの子孫であるからです。主なる神は、堕落した人間を救うために、罪の判決を下したばかりでなく、その判決を執行されたのです。
ローマ
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
同じ真理がコロサイ書にも書き記されています。ここでパウロは、コロサイに住んでいるイエス様の救いに預かった人々に、次のような事実を述べたのです。
コロサイ
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
すでに死んだ。ガラテア書にも、同じ真理が書き記されています。
ガラテア
2:20 私(たち)はキリストとともに十字架につけられました。・・・・
『つけられるであろう』ではなく、過去形になっていますね。『つけられた。』私たち、主を信じる者は、イエス様とともに、十字架につけられたとあります。この死は、刑罰の執行を意味するのです。
次は、罪の問題を徹底的に解決しなければなりません。すなわち、滅亡から免れなければならないということです。コリント第二の手紙の五章に――よく知られている箇所です――パウロは、コリントにいる救われた人々に、次のように書いたのです。よく間違って解釈される箇所です。
第二コリント
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
だからといって、多くの人々が、私の場合は、すべて新しくなっていないから、相変わらずダメであるから、だから、まだ救われてないのではないでしょうか。この箇所は、そのままで読めば、確かにそう考えられでしょう。けどもこの訳が、ちょっと間違っているのは、非常に残念なんですね。正しい訳は下に書いてあります。『その人は』と言うのではなく、『そこには』新しい創造がある、この新しい創造とは人間ではなく、その人間のうちに住むイエス様なんです。
人間そのものは、死ぬまでダメなんです。惨めで、弱くて、どうしようもないものです。けど新たなる創造は、イエス様なんです。
相変わらず、惨めであり、無力である人間は、イエス様に頼ればうまく行くし、祝福されますし、傲慢になりません。イエス様を信じるものは誰でも、もはや、罪に定められことがないと、聖書は言ってます。その人が立派になったからなのではない。聖書の知識を得たからではない。イエス様にすがるようになったからです。主なる神によって受け入れられる人間は一人もいません。御心にかなう方は、イエス様だけです。そして、イエス様に頼るものは、イエス様のゆえに受け入れるようになると、聖書全体は言っているのです。
イエス様を信じることとは、新しい創造であり、古い創造はその時には、もはやなくなってしまいます。信じる者はイエス様を受け入れ、イエス様の永遠のいのちを持つに至ります。従って、罪に定められることは、もはや、終わりを告げています。
三番目は、罪の問題を効果的に解決しなければいけません。罪からの解放は、経験し得ることです。
堕罪によって、罪と死の法則が、全人類を支配してしまったのです。堕落した人間が救われるためには、いのちの御霊の法則が働かなければなりません。堕罪によって、人間は悪魔の奴隷になってしまったのです。堕落した人間が救われるためには、悪魔の支配から解放されなければなりません。堕落した人間は、救われなければいけません。これは、何という言い表すことのできないほど難しい問題てありましょう。なぜならば、主なる神は、聖なるお方であるから、罪人を罰し、追放せずにはおられないからです。そしてまた、主なる神は愛であります。ですから、人間を救いたく思っております。けども、そのために、神の聖さが損なわれることがあってはいけません。
最後に、言い表すことのできないほどのすばらしい逃れ道について、ちょっと考えたいと思います。創世記に戻りましす。
創世記
2:25 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。
3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり(・・・・神のようになる!・・・・)、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
主なる神の備えられたすばらしい逃れ道とは、いったいどういうものだったのでありましょうか?ひとつの実例をとりましょうか。
ある男が、親しい友だちを持っていました。この人は、その友を非常に愛し、従って、お互いに信頼し合って、たいへん良い交わりを持っていたのです。けど、ある時、その友は、悪いことしてしまい、多額の負債を作ってしまったのです。この人は、負債を負った友を非常に怒りました。けど、一方、この友を愛していたから、この人の愛と正しさは、どうしたら調和することができたのでしょうか?この人は、友を叱ると共に、その友の負債を全部、支払ってやったのです。ここに、この人の正しさと、愛が初めて調和したわけです。
ここには、ただ一つの道がありました。それは、捧げることです。犠牲を払うことです。この捧げることにより、その友は、本当に悔い改めに至ったのであります。
主なる神は、堕落した人間を愛すると同じくらいに、堕落した人間の罪を、もちろん、憎みます。けども、主なる神は、堕落した人間の審判者であるばかりではなく、救い主でもあります。
旧約聖書の預言の内容なるものは、『救い主が来る。救い主を待ち望めなさい』という呼びかけです。もちろん、主なる神は、約束を与えられただけではなく、主は、その約束を実行されたのです。主なる神ご自身が、アダムとエバの身を覆うために、着物を作られたと、聖書は言っています。すなわち、神は皮の着物にお作りになった。皮の着物を作るために、主なる神は、獣を殺さなければならなかったのです。この罪のない獣とは、十字架で亡くなられたイエス様の犠牲の象徴であります。
【参考】創世記
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
血は、罪を負うために、流されなければならなかったのです。罪のないいのちの血が、債務を支払うために流されなければならなかったのです。
これは信じるもの、一人一人の経験でもないでしょうか。一人一人は、次のように告白せざるを得ないのでありましょう。私は、罪の泥沼に落ち込み、悪魔の奴隷となってしまった。悪魔に従ったものだった。悪魔は、自分を放そうとしなかった。自分の生活を全く意味のないものと思い、非常に苦しむようになった。しかし、主なる神は、救おうとなさったのです。神の招きを聞き、罪のない子羊の方へ逃げることができた。そして、差し伸べられている主イエス様の腕に抱かれた。そして、主は約束して、呼びかけたのです。『来たれ。あなたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。怖れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの』と言う主の呼びかけを、信じることができたのです。
アダムとエバは、罪の苦しみの中にあって、救いの言葉を信じました。アダムとエバは、神によって作られた着物を逆らわずに着るようになったのです。アダムとエバは、確かに罪を犯した初めの人々であったと同時に、信仰によって救われた最初の人々でもあったのです。主なる神は人間を愛し、人間の罪を嫌います。ですから、人間は罪から贖われ、罪の支配から解放されなければなりません。ところが、どうしたらそれができるのでありましょうか。
人間は皆、例外なく罪を犯し、霊的に死んでいるから、自分自身を救うことはできません。主なる神の側から、働きかけがなければいけないのです。主なる神は、言い表すことのできないほどすばらしい逃れ道を作られたのです。すなわち、神は人となったのです。
神は人となった。多くの人々は、人間が神になるということについて考えるのです。それはありえないことです。不可能なことです。人間は決して、神になれません。けども、逆のことがすばらしい事実となったのです。すなわち、神が人となったということです。ヨハネ伝の一章に、ヨハネはこの偉大なる事実について、次のように書いたのです。
ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
ここまで読むと、『ことば』とはどういうものか、ちょっとピンとこないかもしれないけど、十四節を合わせて読むと分かります。
ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
すなわち、イエス様ご自身が、この永遠なる『みことば』そのものです。ですから、ことばの代わりに、主イエスと入れたら、その方がよくわかります。そうすると、イエス・キリストの偉大さも、少しは予想することができるのではないかと思いますね。
初めに、イエス・キリストがあった。イエス・キリストは造られたものではない。イエス・キリストとは、結局、始めのない、終わりのない、永遠なるお方です。このイエス・キリストは、神、すなわち、父なる神と共にあった。イエス・キリストは父なる神、イエス・キリストは神そのものであった。このイエス・キリストは、初めに神と共におられた。全てのものはこの主イエスによって造られた。造られたものでこの主イエスによらずにできたものはひとつもない・・・・ということです。
この考えられないほど偉大なる方、永遠なる神が、人間となったということです。
パウロは、テモテ第一の手紙の中でこの大いなる奥義について、同じようなことを書いたのです。
第一テモテ
3:16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」
また、ピリピ書の二章の中で、イエス・キリストの偉大さ、そして、イエス・キリストが人間になられた事実について書き記されています。
ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
もし、主なる神が人間にならなかったならば、救いは訪れなかったでしょう。
真(まこと)の救いは――この箇所を見ても分かりますが――代償的苦しみにおいてのみ存在します。もし、主なる神が、人間の姿を取らなかったならば、イエス様は、もちろん、我々の罪のために死ぬことができなかったのです。罪の支払う報酬は死です。死でなければならない。罪は罰せられないと、神は人間を受け入れられませんし、人間の罪を許され得ないのです。
イエス様は、手にある全ての権力、栄光を捨てて、我々と同じ人間になられたのです。人間が神の御心を理解できるように、神は人間になられたのです。イエス様は、神の性質を持っておられましたが、神の力と栄光を捨てて、人間になられました。主なる神が、人間になられた。これは何という、人間のわがままに対する神の答えなのでありましょうか。
これこそが、いい表すことのできないほどすばらしい、神の作られた逃れ道だったのです。パウロは、この事実について考えたとき、『言い尽くせない賜物のゆえに、神に感謝する』と、喜びの声をあげたのです。
終わりに、三つの問いを設けたいと思います。
第一番目は、救われた者のよろこびの原因は、いったい何なのでしょうか?それは、我々の内にあるのでもなければ、また、我々の生活関係や周りの世界にあるのでもありません。救われた者の喜びのみなもとは、イエス様、救い主のうちにあります。ですから、私たちは自分たちの罪や弱さを見ないで、ただイエス様だけを見上げましょう。そうすると、イエス様を生んだマリヤと同じように、『私の魂は主を崇める』というに違いない。信じる者の喜びの源とは、我々の心の貧しさにあるのではなく、イエス様のうちにだけあります。
第二番目は、信じる者の喜びは、どうして起こるのでありましょうか。それは、経験によって起こります。ベツレヘムで起こったことが、あなた自身の生活のうちに経験されなければならない。もし、私たちが、私たちの悩める、望みのない状態を認め、主イエス様の救いを感謝するなら、その時、よろこびが我々のものとなります。
最後の第三番目は、どうしたら信じるものの喜びを持ち続けることができるのでありましょうか?イエス様の実在性を認めることによって、私たちはイエス様を経験し、体験した当初の状態にとどまっていてはいけません。イエス様は、私たちをもっと前進させようと思っておられます。
私たちはもっともっと、イエス様の類いない偉大さと、私たちの生活における罪の苦しさを知らなければなりません。ヨハネは、私たちがイエス様が同じように、光の中を歩むようにと呼びかけています。そうすると、私たちは、イエス様ご自身の提供された大きな喜びの中に、とどまることができます。
ルカ
1:46 ・・・・わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
信じる者は――イエス様を受け入れ、イエス様を体験的に知るようになった者は――皆、同じように言うことができます。『わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます』と。
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