五つの言葉
2020年6月28日、吉祥寺福音集会
岡本 雅文
第二コリント
13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
一瞬にして全世界を覆ったこのコロナ・ウィルスによる災害でさえも、時がたてば、過去の時代の人間が自然界の脅威を克服した成果のひとつとして、記録に留まるのではないでしょうか。しかし、すべてのものの造り主が、意味の無いことをなさるはずがない。これが聖書、すなわち、イエス・キリストを信じるわたしたちの確信です。
そして、主なる神がアブラハムに対して考えられたように、信仰によるアブラハムの子孫である私たちも、御言葉によって、彼、アブラハムと同じように取り扱われています。
創世記
18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」
聖書のはじめに、イエス様の、また主なる神の御心をこのように表現しています。別の表現をすれば、今回の出来事を、私たちがよく知っているローマ書のこのみことばを私たち自身が体験する恵みの交わりの時、神様との交わりの時としていただきたいと願います。
ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々(・・・・私たちのことです・・・・)のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは(・・・・私は・・・・)知っています。
主なる神の約束の言葉が、私たち自身の確信にまで高められる、そう言う体験であります。本日の福音集会は、先週、兄弟が引用された第一列王記、六章七節の前半を受け継いで、その後半の「音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。」と言う箇所に着目して、バトンを受けて、始めさせていただきたいと思います。
第一列王記
6:7 神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は(・・・・今日はここからですね・・・・)、いっさい神殿の中では聞かれなかった。
先週、この場で読み上げられたこの御言葉を前にして、私は、主に憐れみを乞う以外に言葉がありませんでした。神殿、神の神殿、すなわち、私たち兄弟姉妹たちの群れ、あるいは、集会、この神殿の数年間の状態を思い起こしました。
吉祥寺に建て上げられた神の神殿、兄弟姉妹たちの群れの中で、数々の音が鳴り響きました。その音が収まらない、その中に置いて、突然、『静まれ』とでも言うかのようにコロナ・ウイルスによる自粛が私たちの群れ、神殿にも及んで参りました。
神殿とは、新約時代の現代では、第一コリントに書かれている通りであります。
第一コリント
3:16 あなたがたは(・・・・私たちは・・・・)神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。
パウロは、主イエス様からの啓示を受けて、『知らないのですか?私たちが神殿である事を知らないのですか?』と、手紙に書きました。この主の御心に触れ、主なる神様をただただ畏れるばかりです。そして、二千年前に、私たちのように御心から離れていた者たちのためにも、自ら進んで命を差し出してくださった方に、本日、私たちの心の奥にしこりとして残っている真実を打ち明け、そして、主の御心をお聞きしようと思うのであります。
約二千年前のコリントの兄弟姉妹たちのあいだで聞こえた音の種類は、さまざまでありました。それと同様に、私たちの群れ、神の神殿で聞こえた音の種類もさまざまでした。ある音は、愛がないと言い、また別の音は、悔い改めが必要だと言いました。そして、ただ主にゆだねるべきだと言う音も聞こえてまいりました。
そのような幾種類の音が聞こえていたときに、ヨブに告げられたように、主なる神は、私たちに嵐を送ってくださいました。
ヨブ
38:1 主はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
38:11 「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ。」
この数年間の出来事は、信仰者ヨブや、族長ヤコブの家族たちに、主が嵐をもって取り扱ってくださった、その同じ主が、私たちにも嵐の中から答えてくださっていると導かれます。誰に、また、どのような問題があるかと言うこの世の裁判官たちが出す音よりも、もっともっと大切な福音の音色を、色あせたものに、私たちはしてまいりました。
パウロがコリントの教会に送った手紙は、私たちの群れの指針となるみことばであります。
第一コリント
6:6 ・・・・しかもそれを不信者の前でするのですか。
パウロは、ひとつひとつの問題よりも、「そのことを不信者の前でするのですか?」私たちの目標である――救われた者の目標である――福音をお伝えすべき方々の前で、その音をたてるのですか。この点で、私たちは主の前に失格者であります。これこそ、弁解の余地がないほどの大きな大きな罪ではないでしょうか。
神殿――兄弟姉妹が集う場――で、不信者が来ておられる可能性のある場で、主が嫌われる音を出すことは、信仰者であれば大きな罪であると、必ずわかるはずであります。それでも、私たちは音を出し続けました。自分の義のためでしょうか。群れに集う者たちは皆、同罪であります。
この事実を心から認める事ができるなら、ひとつになれる望みがあるのではないでしょうか。私たちは、主イエス様の前に、どのような願いを、どのような祈りを、どのような悔い改めをしているのでしょうか。共犯者として――ひとつの体の各器官としての共犯者として――私たちは、本当にひとつの体になりたいのでありましょうか。この願いに導かれることなく、思い思いの音を出し続けるとき、教会、集会、神の神殿は、黙示録の七つの教会のごとくに取り扱われると、私たちは前もって、何度も何度も告げられてまいりました。
箴言
1:7 主を恐れることは知識の初めである。
短いみことばが書かれてあります。このみことばは、ほとんどの方が知っておられるはずですけれども、事実は、知識の初めにさえ至っていないのではないでしょうか。これが聖書の御言葉の鏡に写し出した私たちの裸の状態、そのものではないかと先週、この場で語られたみことばをお聞きし、そして、再び、深く思い起こされました。
第一コリント
4:13 ・・・・今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです。
このように御言葉を、幾度も幾度も読みながら、また、「兄弟の目の中の塵に目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかない」と言う、マタイの七章三節のみことばを、空で覚えているごとくに、何度も読み、そして、知っているにもかかわらず、私たちはそのような者ではなかったと、告白しなければなりません。
【参考】マタイ
7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
イエス様が喜ばれる者たちの集いでは――先ほどの第一列王記の六章七節に書かれているように――、音が聞こえません。私たちが出す音が聞こえません。私たちが出す音が静まれば、かすかな主の音色が聞こえてまいります。聖書には、そう書かれています。かすかな声が聞こえて来る。そして、かすかな音色に聞き入れば、ひとりでに心の向きが変わっていくのがわかるようになります。私たちは、そう言う体験をしているのではないでしょうか。
私自身には、イエス様を思い起こすときに同時に思い起こすひとつの短い詩があります。若くして天に召されたひとりの兄弟の詩であります。「素朴な琴」(八木重吉)と言う題がついています。何度も何度も、私は地方の集会に行ったときに、共に味わった詩であります。
『この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかねて
琴はしづかに鳴りいだすだろう』
何一つ、指を触れないのに、琴は鳴りいだす。共鳴する。そして、大きな喜びが、波のように私たち自身を覆い尽くしてくださる。この体験は、私たちひとりひとりに、あらゆるところで与えられているのでないでしょうか。主が奏でられる音色は、このようであります。音ではありません。目に見えない御霊が、私たちの近くにある御言葉をもって、私たちの心に染み入るように、働き始められる音色、そのものであります。
ここで私たちがよく知っているみことばを、もう一つお読みいたします。この御言葉は、私たちに神の神殿に関する見解について、問いかけておられるのではないかと思わされます。私たちが頼みとしている御言葉のひとつではないでしょうか。
マタイ
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
この主の御心は、私たちが、一万人の御心にかなわない音を出す神殿、教会になるよりも、二人か三人の御心にかなう音色を奏でる神殿、教会、集会になるほうがいいと、言われているのはないでしょうか。兄弟姉妹はどのようにこの御言葉を受け取られるでしょうか。
長いあいだ、この集会に集った経験を通して、私は、この主の御心は、ベタニヤのラザロ、マルタ、マリヤの三人の群れがおりなす教会、そのものを思い起こします。イエス様は、この小さなベタニヤの教会、三人から始まる小さな小さな群れ、神殿をこよなく愛されました。
私はこの御言葉にかなう小さな神殿、教会、そして、この集会が建て上げられるなら、主が喜んでくださると信じています。もし、今、二人か三人の小さな集会になったとしても、そのほうが、イエス様が喜んでくださるかもしれないと思うのであります。
そして、この麗しい音色を奏でる小さな群れを訪れる人の心に、必ずまことの福音が伝わると信じるからであります。これらの御言葉にかなう群れに導いてもらいたいと、心をひとつとして願い求めるなら、この御言葉の通り、百パーセント実現いたします。
わたしたちがそのように願い求めていないという証拠がここにあります。一粒のからし種から大きな木に成長させて下さる主は、二粒、三粒のからし種からも、三十倍、六十倍、百倍以上の実を実らせてくださるに違いありません。この主イエス様に信頼する者は失望させられることがないと、聖書が約束しています。そして、私たちはすでに、この主イエス・キリストの御心を知っているのであります。
新たに私たちは願いとして、祈り始めるべきではないでしょうか。
詩篇
148:7 地において主をほめたたえよ。
148:8 火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行なうあらしよ。
神がこの地にコロナ・ウィルスを通して与えられた、吹き荒れる嵐も、御言葉を行う嵐であると信じます。誉め称えられるべき嵐であります。この嵐は、望みに導かれる恵みそのものでありましょう。
私たちの信仰の原点である主なる神ご自身に、すなわち、聖書そのものに、さらに言えば見えない神のかたちであるイエス様に立ち返るように、嵐を通して、また、嵐の中から、主なる神が御心を行っておられる。まさに、その最中である。イエス様ご自身がただ一人、働いておられる。これが聖書を通して、私たちが知る主の御心ではないでしょうか。
私たちは――私も含め――ほとんど全員が、互いに愛し合いましょう、あついは、悔いあらためましょうと言う御言葉を、スローガンのように口にして参りました。私自身もそうでした。しかし、その声は、主の耳には音としてしか聞こえていなかったのではないでしょうか。
聖書の言葉、そのものは、確かに神の言葉ですが、私たちの口を通して語られるとき、意味の無い、そのような音の言葉になり得るからであります。互いに愛するとは、私が愛すると言うことにほかなりません。『互いに』と言う言葉が書かれていますけれども、私自身について言えば、『私は愛する』――これで終わりです。相手も愛してくれると言うことは、全く関係ありません。私が愛したいと、心から願い始めるときに、この御言葉が私たち自身のうちで始まるのではないでしょうか。そして、琴が静かに鳴りいだすような、静かな静かな喜びのように、最後まで一方通行で良いと言う覚悟ができる時に、この御言葉が成就するのではないでしょうか。その時、イエス様の十字架の言葉が、かすかに聞こえてくるようであります。
ルカ
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
このイエス様の御心は、聖書の全篇を貫いています。創世記のヨセフの心、ダニエルの民の罪を自分の罪として祈った彼の信仰、ステパノがイエス様が十字架にかかられた後に、石で打たれた時に心から願ったその思いも、このイエス様の心そのものでありました。『父よ。彼らを――私たちを――お赦しください。彼らは、何をしているのか、自分でわからないのです。』私たちも、今もって、そうではないでしょうか。、ただ、主ご自身に目を向けるときに、私たちは正気に戻ると、聖書は告げています。
最後に、パウロが書いたふたつの手紙から、それぞれ、一箇所づつ、短く触れて終わりに致します。
まず、第一コリントであります。ここに本日の題名である『五つのことば』という短いことばが出てまいります。彼が、異言について――異言とは異なる言葉、意味不明な言葉――ふれています。
第一コリント
14:19 教会(・・・・神殿・・・・)では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて(・・・・すなわち、知恵を尽くして・・・・)五つのことばを話したいのです。
異言は、私たちが御霊によって、兄弟姉妹たちとともに導かれる御言葉ではありません。ここでもパウロは、意味不明の多くの言葉、すなわち、音ではなく、数が少なくても主の人格に導かれた静かな音色を持った御言葉を用いて語る、そう言う教会になるように導いています。
そうして、もうひとつ、パウロがコリントの教会に書き送った最後の手紙、そして、その手紙の最後の箇所であります。最初に、兄弟に読んでいただいた御言葉であります、ここでは実際に、『五つのことば』が出てまいります。
『終わりに、兄弟たち』、また、姉妹たちにと言うことでありましょう。第一番目に、『喜びなさい。』第二番目に、『完全な者になりなさい。』第三番目の言葉は、『慰めを受けなさい。』そして、第四番目、『一つ心になりなさい』。最後の五番目の言葉は、『平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。』
【参考】第二コリント
13:11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。
こう言う御言葉であります。この五つの御言葉の中で、二番目に書かれた、「完全な者になりなさい」という言葉は、理解に苦しむ言葉ではないでしょうか。しかし、この御言葉こそ、聖書の心を知るカギとなる御言葉ではないかと、私は思います。なぜなら、この手紙を書いたパウロ自身が、別の手紙――ピリピ書――で、『自分は完全にされていない』と、書いているからであります。
ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。・・・・
ところが、第二コリントの手紙の最後に、「完全になりなさい」と、彼は私たちに勧めています。
ピリピ
3:12 ・・・・すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。
これが、パウロが私たちに告げた、『完全になる』と言うことの意味ではないでしょうか。さらに続く御言葉で、具体的に示されています。
ピリピ
3:13 兄弟たちよ(・・・・姉妹たちよ・・・・)。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
ここに完全でない者、完全になりきれない者、決して、完全になれない者が、完全にされると言う飛躍があります。ここに、『イエス・キリストに捕らえられる』と言う体験が書かれています。ここに、喜びと慰めとひとつ心と平和の根拠が記されています。聖書は、ただ一人の完全な方に、また、ぶどうの木であるイエス様に繋がっていることが主にある完全であり、キリストの着物のふさに触ることが、主にある完全であると言っているのではないでしょうか。
意識して前のものに――パウロがここで、ピリピ書で語ったように、前のものに――すなわち、長血の女が、人をかき分けイエス様をめがけて、一心不乱に前に進んでいったように、パウロも、彼に与えられたタラントを使い尽くすまで、十字架につけられた方に向かって、走っていったことがうかがわれます。
ここには、五つの言葉以外に余分な音色は一切、聞こえません。そうすれば、愛と平和の神は、あなたがたと共に、私たちと共にいてくださいますと、パウロを通して、主イエス様が私たちに語ってくださっているのではないでしょうか。
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