2020年6月14日日曜日

静かな奇蹟

静かな奇蹟
2020年6月14日、秋田福音集会
翻訳虫

ヨハネ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
<<<2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」>>>
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

三月からこの秋田集会も閉鎖されておりましたが、また、こうして兄弟姉妹の皆さまとともに礼拝し、また、聖書からご一緒に学びことができることに感謝します。


(1)

私はしばらく前、もしベックさんが生きていたら、このウイルス禍のことでどんなことを言われただろう?と何となく考えていました。そんな折、ある古いメッセージを聞いていたら、こんなことを言われていました。これは、2011年3月16日、東日本大震災の数日後に語られたものなんですが、このメッセージの冒頭で震災のことにふれて、ベックさんはこう言っていました。

『主を知らない人々は、(この震災は)運命だと思うでしょうし、偶然に起こったものだと思う人もいるでしょうし、宗教に毒されている人間は、天罰だと言うのではないかと思います。けど、聖書を見ると、決してそうではない。結局、主が許してくださった。主は支配しておられるお方であり、そして、主のなさることはすべて完全です。確かに、私たちは理解できない。どうして、なぜと思っても、答えられる人間はいない。けど主を仰ぎ見ると、必ず元気になる。主が栄光をお受けになるに違いない。』

今、世界に暗い影を落としているこのウイルスのことも、私たちの日常生活の中で起こされる小さな問題と同じように、主の大きな目的の中で起こされていることであると――想像ですが――ベックさんは、同じように言われたのではないかと思いました。私たちは今、すべてが主の御手の中にあることと受け入れて、主だけが栄光を受けられるように祈る者であるかどうかが試されているのではないかと思います。

(2)

今、読んでいただいたカナの婚礼は、ヨハネの福音書に出てくる第一番目の奇蹟であり、『最初のしるし』と記されています。イエス様が母マリヤや弟子たちと招かれた婚礼の席で、まだ宴が続いている中、ぶどう酒がなくなってしまった。そこで、イエス様がその御力によって、水をぶどう酒に変え、それによって、この宴も続けることができたというはなしであります。

これはイエス様の奇蹟の中では、とても地味な話であり、それを目撃した人たちが息をのむような大きな衝撃を与えたというものでもありません。

私自身、聖書を読み始めたころ、イエス様がなされたたくさんの奇蹟の中で、このカナの婚礼は、福音書の導入部分、イエス様を紹介するための前振りのような軽いお話であると感じていました。

しかし、繰り返して読む中で、実はそうではなく、このカナの婚礼の中にこそ、信仰生活にとって、とても大切な教えが込められていると考えるようになりました。本日はカナの婚礼の出来事を、順を追って細かく見ながら、この奇蹟に込められた意味とは何か、四つの観点から考えてみたいと思います。

(3)第一の点

まず、イエスさまがなされたたくさんの奇蹟の中で、この奇蹟にだけ特徴的なことがひとつあります。

主が地上で成されたたくさんの奇蹟のことを考えてみますと、たとえば、イエス様は盲人の目を開き、死者をよみがえらせ、人々の飢えを満たし、また、荒れ狂う嵐を言葉一つで鎮めました。いずれの場合も、その助けを受けた人たちは、キリストであるイエス様のなされた御業を目撃し、救い主としての主の御力に目を開かれました。

これに対して、このカナの婚礼は、どうでしょうか?

ヨハネ
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかった。

宴会の世話役だけでなく、ぶどう酒によって助けられた花婿、花嫁、また、このぶどう酒を味わった出席者たちは、そこにイエス様の力が働いた・・・・どころか、一握りの者たちをのぞいて、そこで奇蹟が行われたことすら気付いていないのです。これが、主の為された他の多くの奇蹟と比べて特徴的なことではないでしょうか。

この福音書は、『イエス様が行なわれたことは、ほかにもたくさんある』と結ばれていおり、その全てを書きしるすなら、その書物は世界も入れることはできないとまで書かれています。その主が、地上で初めに成された奇蹟が、この静かなぶどう酒の奇蹟であったこと。これは決して偶然ではなく、大きな意味があったのではないかと私は思います。その意味とは何でしょうか?

婚礼に参加した人たちは、そこにイエス様の為されたしるしがあることに気付かないまま、甘美なぶどう酒という恵みを味わいました。これと同じことは、私たちの日々の生活のなかでも、いつも起こっているのかもしれません。

人がそれを認めても、認めなくても、また、はっきりを目に見えるかたちで、イエス様が具体的に手を差し出していなくても、私たちの周りでは日々、主の大いなる御業が行われている。そして、私たちもその恵みを受け取り、その御業に助けられている。これが、第一にこの奇蹟が教えてくれていること、そして、このカナの婚礼が、ヨハネ伝の初めに記録されていることの意味なのではないかと思います。

(4)第二の点:イエスの母に対することば

さて、二つ目の点に移りたいと思います。もう一度、3節を読みます。母マリアがぶどう酒のことをイエス様に告げる部分です。

ヨハネ
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」

私はこの部分を読んだ時、イエス様が母アリアに対して、なぜこんなに邪険な態度を取るのか、非常に不思議に思い、反抗的な子供がお母さんに小言を言われて口答えしているような、そんな印象を受けたことを覚えています。しかし、このイエス様の厳しいことばにも、とても大きな意味がありました。

先ずマリヤは何故、イエス様に向かって『ぶどう酒がありません』と言ったのでしょうか?言うまでもなく、マリヤは、誰よりも早く、イエス様が世を救う神の子供であることを、知っていた人です。イエスを身ごもったときからすでに、御使いがマリヤに次のように告げています。

ルカ
1:35 聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

イエスさまが子供のころから、マリヤは息子が神の子、キリストであることを常に心にとどめ、疑うことなく信じていたことは明らかです。

イエス様のもとに来て、『ぶどう酒がありません』と言ったとき、マリヤは、今こそ、息子であるイエスが神の子としての姿を世に示すときが来た、すなわち、困っている人のために、奇蹟の力を示す絶好の機会が訪れたと考えて、その思いを伝えたのではないでしょうか。これに対する答えは、冷淡とも取れるものでした。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。わたしの時はまだ来ていません。」

イエス様はこのことばによって、いつ、どこで、神の子としての力を表すか、それを決めるのは主ご自身であって、たとえ母マリアであろうと、主なる神に何かを提案したり、注文を付けることはできないという事実を明らかに示されたのではないかと思います。

そして、同じ言葉が、今も、私たちの信仰生活にも向けられています。主を信じる私たちは、日々の生活の中の様々な悩み、苦しみを主のもとに打ち明けて、祈り、癒しを求めることがゆるされています。そして、聖霊によって、真摯に祈った祈りは必ず主に聞かれることが約束されています。

しかし、その祈りにいつ、どこで、どのようなかたちで応えるかということを決めるのは主ご自身であります。私たちは、主に向かって、病の癒し、家族の救いなどを祈りますが、そのとき、その祈りがいつ答えられるのかを尋ねたり、また今すぐとか、できるだけ早くかなえて欲しいなどと、心のどかで願ってしまうことはないでしょうか?自分の祈りに、いつ、どのように応えてくれるのか、その答えを問い、求めることはそれ自体、傲慢な態度なのではないかと思います。主は私たちが真摯に主に祈ったことはすべてご存知であり、また、いつ、どこでその祈りに応えることが最善であるか、すべてご存知です。

例えば、家族の救いを真摯に祈ったとして、その家族は、同じ日のうちに救われるかもしれず、何十年もかかるかもしれず、あるいは、最後まで明確な言葉で主を受け入れることはないかもしれません。しかし、私たちが祈ったとき、その家族は既に主の御手の中にあります。その真実を認めて感謝することなく、なかなか、その家族が救いを受け入れないことに不満や不安を感じるとすれば、それは、言葉の上では主に祈りながら、主を完全に信頼していない、不信仰の表れであるといえます。

イエス様の答えを聞いたあと、マリヤは、『あの方が言われることを、何でもしてあげてください。』と言っています。すなわち、マリヤは、主に対して自分の欲求や願望を向けるのではなく、イエスのことばに従うことで、主のご栄光が現されることを理解したのであります。

(5)第三の点

ヨハネ
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。

その場にいた手伝いの者たちは、イエス様に言われるままに、水がめに水を満たしました。あらためて読みますと、私はこの手伝いの者たちの行動も不思議なものだったと感じます。このカナの婚礼の場面では、まだ誰もイエス様が特別な力を持った救い主であることは知りません。しかし、ここで、手伝いの者たちが水がめを縁までいっぱいにしたとき、彼らが示したのは、よく分からなくても主の御言葉に従うという態度でした。

この手伝いの者たちには、水を入れたら何が起こるのか分かったから、主に従ったのではありません。彼らはただ主の言われたことであるから従いました。

その結果は、水がぶどう酒に変わり、宴会の世話役は大いに満足しました。祝宴に参加していた人たちもこのぶどう酒を心行くまで味わったことは間違いありません。それは、世話役の次のことばに現れています。

ヨハネ
2:10 だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。

私は、この『よくも今まで取っておいた』の『今』という言葉が、前の方でイエス様が母に言われた『わたしの時』という言葉とつながっているような気がしています。すなわち、わたしの時、イエス様の時がいつ実現するかを決めるのは、御父だけであって、人がそれを指定することはできません。

宴会の世話役が、『今』と言ったときが、まさしくイエス様が先に言われた『わたしの時』だったのではないでしょうか。世話役はこのぶどう酒を喜んでいますが、実際にここで、この世話役が味わっているのはイエス様ご自身であり、世話役はまったく知らなくても、彼はイエス様のご栄光を受け取ったのであります。ここで、神の恵みが最上のぶどう酒の中に示されたのではないかと思います。

(6)第4の点:まとめ

そして、最期の4番目の点として、このカナの婚礼の最後の節を見てみます。

ヨハネ
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

これまで見てきたように、宴会の世話役も、参列者たちもそのぶどう酒がどこから来たのか、知らなかったのであります。しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。

神の子として地上に来られたイエス様の初めの奇蹟は、裏方とも言うべきマリヤと弟子たち、手伝いの者たちにしか分からないような、実に目立たないかたちで行われ、そして、静かに終わりました。

誰よりも、このしるしによって目を開かれたのは、何でこんなことをするのかと思いながらもイエス様の言葉に従って手伝いの者たちではないかと、私は思います。イエス様のそばにいて、イエス様を求め、イエス様のことばに従ったものだけが、イエス様の御力を知ることができたのであります。

ここで、大切な点として、彼らは自分が最上のぶどう酒を味わったわけではない、すなわち、この奇蹟から人間的、この世的な恩恵を受けたのではありません。それでもなお、彼らこそ、イエスの大きな力を見て、神のしるしを目の当たりにするという、考えられないほど大きな恵みを経験したのであります。

そして、一方でこの奇蹟によって、現実的な恩恵を受けた人たちとは言うまでもなく、ぶどう酒を味わった宴会の参加者たちでありましょう。しかし、彼らは、このぶどう酒が神の奇蹟そのものであることを最期まで知りませんでした。

もしも、誰に分かるかたちでこの奇蹟が行われていたら、例えば、手品のように、宴会の参列者たちの頭の上に、空からぶどう酒が降り注いだとしたらどうだったでしょう?彼らは驚き、あるいは、主の前にひれ伏したかもしれません。しかし、そこで信仰が与えられたとは限りません。しるしを求めることなく、主を無条件に信じる信仰が与えられなければ、最上のぶどう酒を味わった感謝もすぐに冷めてゆくでしょう。その生活には主の救いはありません。主はそのようなことを望まなかったのであります。

<<<実際に同じ章の最後の部分で、主はしるしだけを求める人たちのことでこう言われています。

ヨハネ
2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。
2:24 しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、
2:25 また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。

しるしだけを求めること、また、奇蹟を見たことによって主を信じた人たちにご自身をゆだねることを主は明白に拒否されています。>>>

ここでまた、あらためて思わされることは、人に見えなくても、気付いていなくても、神の奇蹟は、日々の生活の中で、行われているということです。イエス様が祈りの応えとして、してくださっていることは数多くあります。人間はこの恵みを受け取りながらも、それがイエス様から来ていることに気が付いていないのです。

しかし、これは逆の見方をすれば、私たちが主を信じて祈れば、そして、水を汲んだ裏方のように、素直な心で主の言葉に従えば、その恵みは主を知らない人たちにも注がれるということでもあります。

(7)おわり

ここで、冒頭で紹介したベックさんのことばをもう一見てみます。ベックさんは東日本大震災で多くの人命が失われ、甚大な被害が出た後でこう言われました

『主は支配しておられるお方であり、主のなさることはすべて完全です。確かに、私たちは理解できない。けど、主を仰ぎ見ると必ず元気になる。主が栄光をお受けになるに違いない。』

私たちが祈ったとき、既にその祈った相手は主の御手の内にあるのです。何よりも、そのことを一切の説明を求めることなく、主に感謝すべきなのではないかと思います。

もしもここで、自分の思う現実的で、直接的な答え、たとえば、病が癒されたり、ウィルスがただち消えるといったことを求めるなら、主の答えはカナの婚礼でのマリヤの母と同じものとなるのではないかと思います。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。わたしの時はまだ来ていません。」

祈りに対する答えが目の前に現実的な変化として見られなくても、主が全てを支配しておられること、また、カナの奇蹟では、主の存在すら知らなかった婚礼の参加者もぶどう酒を味わったように、私たちが祈ったすべてのものの上に主の恵みが注がれることを認め、その恵みに感謝すること、これこそ、主の栄光が現れるということに他ならないのではないかと思います。

2 件のコメント:

  1. まだですか?どうしてですか?と思ってしまう私に与えられたメッセージでした。
    主は生きておられます。御名を讃えます。
    みことばのお取次、ありがとうございました。
    メッセージの文章も、耳が不自由な母の霊の糧としてお受けしております。
    感謝して
    近藤房子(近江八幡集会)

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  2. 近藤房子姉妹、拙いメッセージをお読みいただきありがとうございます。ZOOMの礼拝で賛美できることも感謝です。
    お母さまにも主の恵みがますます注がれますように、お祈りしています。

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