2020年6月28日、御代田福音集会
古田 公人
詩篇
ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ
3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ
3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
3:7 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ
おはようございます。久しぶりに御代田のこの礼拝堂で礼拝をさせていただき、キャンプがとても待ち遠しく感じました。本当に感謝です。
ダビデは、言うまでもなく、イスラエルの王でして、この三男がアブシャロムでした。アブシャロムは、ダビデに代わって、王になりたいと思っただけではなくて、行動に移しています。アブシャロムの謀反の中でのダビデの祈りが、先ほど読んでくださいました詩編の三篇であります。あのゴリアテを倒した少年であったダビデが、大人になって、本当に苦しみの中にいたという事実を、私たちが知らされるとき、私たちもまた――変な言い方ですけど――励まされるのであります。
詩篇
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。
ダビデは、正直に自分の状況を、主に申し上げました。第二サムエル記の十五章に、このときのダビデの様子が記されています。
第二サムエル記
15:30 ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。
それまでエルサレムの宮殿にいた王は、アブシャロムの謀反にあって、エルサレムを離れました。『はだしで、泣きながら、頭をおおい登った』と記されています。ダビデには想像することもできなかった、まさしく、悪夢のような出来事であったということが分かります。
私たちも、ときとして、予期せぬ出来事に出会います。私たちもまた、時として、夜も眠れないほどの苦悩を感じるときがあります。ダビデはそのような状況の中で、自分の置かれている状況を、正直に申し上げました。
詩篇
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。
人々がそういうのも、また当然である・・・・そのような状況の中にダビデはいた分けであります。
主は、ダビデのように正直な心を喜ばれます。なぜなら、悪魔は正直ではないからであります。
ヨハネ
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
悪魔は偽り者であり、悪魔から出た者もまた偽りを言うと、イエス様は仰せになりました。
ヨハネ
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
イエス様は、光として来てくださいました。イエス様は、正直であることを、何よりもよろこんでくださいます。イエス様に従う者、祈る者は、光の中にとどまるべきであると、このみ言葉は明らかにしているのではないかと思います。
詩篇
3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
ダビデは、主への信頼をこのように申し上げました。現実を見るなら、この時のダビデには、『回りを囲む盾』はなく、王としての権威も、実力もありませんでした。惨めな状態で彼は、泣きながら頭をおおって、はだしで、オリーブ山の坂を登っていたのであります。彼には神の救いはないと嘲笑する人々の声さえ聞こえてまいります。
こういう時こそ、しかし、信仰が問われるのではないでしょうか。現実を見るのか、主の約束を信じるのか。私たちが、古い人のままとどまるのか、新しい命にあって生きるのかは、こういう状況でこそ、問われるのであります。目に見える現実は惨めなものでした。ですけど、ダビデは、主の御言葉を信頼しました。彼は、こう言っています、『主は私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。』これが、ダビデの信仰だったのではないでしょうか。
私たちは、知っているだけでは、力にはなりません。もちろん、知らなければ何もならない。でも、知っているだけでも、力にはならない。それを確信することが、勝利の道であることを、ダビデはこのようにして、私たちに明らかにしてくれているのであります。このような信頼こそ、主が喜ばれるものであります。
マタイの福音書、百人隊長のところから学んでみたいと思います。
マタイ
8:5 イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、
8:6 言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」
8:7 イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」
8:8 しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。
8:9 と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
8:10 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。
8:11 あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。
8:12 しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」
8:13 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。
百人隊長は、どういうふうにしてイエス様のことを知ったのか分かりませんけど、でも、彼は信じたんです。この方は真の権威を持つお方に違いないと、彼は信じました。そして、イエス様のところにやってまいりました。おことばさえいただければ、しもべは治る。すごい信仰ではないかと思います。彼は、聖書を読んだことがなかったと思います。もちろん、シナゴーグに行ったことも入ったこともありませんでした。でも、彼は、信じたのです。そして、イエス様もまた、彼に天の御国での食卓にあずかる資格を約束されています。こうして、彼は救われました。信じることがどれほど大きな力であるかを私たちは知らされるのであります。
マルコ
10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
バルテマイも、毎日、同じところに座って施しを求めていたに違いありません。彼は、目は見えませんでしたけれども、それだけにかえって、物事の本質を捕まえる能力を授かっていました。ヨハネの九章でもイエス様は、『見えると主張するところに罪は残る』とおっしゃいます。私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目をとめるべきだと、イエス様は教えてくださいました。
バルテマイは、イエス様が約束されている救い主にちがいないと確信したことが分かります。そして、彼はその通りの経験をしています。イエス様を知って、彼は、目が見えるようになっただけではなくて、霊の目も見えるようにしていただいていることが明らかになってくるのであります。イエス様は、信じるものにはどんなことでもできると約束してくださいました。ローマ人への手紙は、『信仰から信仰へと進ませる』と記しています。大切なことは、初めの心に留まることではなく、信じ続けることであると、私たちは知らせられるのであります。
ダビデは、主に信頼していました。祈りの言葉がどれほどすばらしい言葉であっても、信頼がなければ、主はなにもなさらない。御心にかなう祈りとは、何よりも信頼する心である。その心から出てくる祈りであると、私たちは知らせられるのであります。
詩篇の三篇に戻りたいと思います。
詩篇
3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。
3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
主は、恵もうと待っておられます。
イザヤ
30:18 それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。
大切なことは、主を信じ、主に信頼して、主を待ち望むことであると知らされます。待ち望んでいるなら、主は応えてくださいます。必ず、応えてくださいます。心に問題を抱えているとき、眠れない夜を過ごすことは、誰もが経験することだと思います。いろいろな考えが頭の中に浮かび、眠れない・・・・そういうことは、誰もが経験していることだと思います。でも、ダビデは違ったんです。ダビデは、声をあげて祈り、主のお答えをいただいて、身を横たえて眠り、また、目を覚ますと言います。
もちろん、主は、言葉がなくても、祈りの言葉がなくても、祈りの心を知っていてくださいます。あのルカの福音書の七章に載っている罪の女がそうでした。イエス様がいらっしゃるパリサイ人のシモンの家に、こっそりと入っていって、泣きながら涙でイエス様の御足をぬらし、髪の毛でぬぐい、イエス様に香油を塗ってさしあげた、あの女の人がそうです。彼女は、何も言いませんでしたけど、イエス様はその心を知っておられました。そして、彼女は救われました。そういうふうに、言葉にならなくても、主は心を知っていてくださいます。切なる祈りに応えてくださいます。
ですけど、声をあげて祈るなら、それに伴う祝福があると、このみ言葉は知らせてくださいます。声をあげて祈ることは、やはり大切であると主は仰られます。なぜなら、こたえてくださるから、祝福をダビデは経験したからであります。私たちはそのようにして、主との交わりをいただくとき、主の平安の中に導いていていただけるのだと、思わされるのであります。厳しい状況の中でも、主に信頼すること、そして、主が支えてくださることを経験することの大切さを、あらためて知らせられる気がします。
詩篇
3:7 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
ダビデは、切なる願いをこのように口にいたしました。イエス様は、『求めなさい。そうすれば与えられます』と、約束してくださいました。イエス様は、『わたしが道であり、真理であり、いのちです』と仰っています。『求めなさい。そうすれば与えられます』と言うイエス様の約束は、真理そのものであるお方の約束ですから、私たちは必ず成し遂げられると、確信しようではありませんか。目に見えるものがどうあろうとも、御言葉は必ず成し遂げられることを、確信したいと思います。
ダビデのこの祈りはまた、すばらしい祈りです。『あなたは私のすべての敵を打ち殺してください』などとは、彼は祈っていないんです。敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださること、すなわち、主に敵対する者の高ぶる心と言葉が打ち砕かれることを、彼は願っています。彼はどこまでも謙遜な人であったということを、このところからも知らされるのであります。
詩篇
3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。
現実は、極めて厳しいものでした。頭をおおい、泣きながら、はだしで坂を上らなければならないようなものだったんですけど、彼は既に、主の勝利と栄光を確信していたことが分かります。『救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように』というこの祈りは、イエス様の十字架の死と復活によって、完全に実現されたと知らせられます。
ですから、私たちはこの詩篇三篇を、イエス様を証しする祈りとして、受け止めることができるのではないかと思います。あるいは、また、イエス様ご自身の祈りだったと受け止めることが、許されるのではないかと思います。
ダビデは決して、完全な人ではありませんでした。取り返しのつかないような罪を犯しています。しかし、祈りを通して、彼は、主と深く結びついていたことがわかります。それゆえ、主のダビデに対する評価は、彼は、全き心と正しさをもって、わたしの前を歩んだというものでした。人間的に考えたら、とてもそのような人には見えなかったと思います。でも、主は、『全き心と正しさをもって、わたしの前を歩んだ』と評価なさいました。
全き心とは、私たちのうちにあるものではないんです。イエス様なんです。イエス様が私たちのうちにいてくださるなら、私たちは、全き心を持ち、正しく歩むことができるのではないでしょうか。イエス様は、いつもダビデとともにいてくださったように、私たちとともにいてくださいます。
最後に少しだけ、このダビデの祈りの中心点である、目に見える現実と信仰の関わりについて、考えて終わりたいと思います。
ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
このみ言葉のポイントは、七節、六節にあると思います。古い人が、キリストとともに十字架につけられた。つけられたんです。そして、罪のからだが滅びて、もはや、これからは罪の奴隷でなくなるためである。もはや、これからは罪の奴隷でなくなる。これが、主が成してくださった事実、霊的な事実であり、そして、約束であります。私たちには分からないですけど、主がそう言ってくださいます。
現実はどうなのでしょうか?
ローマ
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。
7:20 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
7:21 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
これが現実の姿でした。でも、ダビデが現実を見ながら、はだしで泣きながら歩んだように、私たちもこの現実を見ながらも、既に主が成してくださった救いに目をとめること――その大切さをあらためて思わされるのであります。もはや、罪の奴隷ではないと、六章に記されています。ですから私たちは、罪の命じるままに動かされる必要はないのだ。もし、あなたが、今もなお、このような――七章に記されている――状況にとどまっているとしたら、御霊が何も働いておられないのだということを、知らせられるのではないでしょうか。
御霊に主導権を明け渡すなら、この現実に留まる必要はない。私たちはこの現実を飛び越えて、主が成してくださった事実に即した歩みができるはずだと、知らせられてくるのであります。この現実に捕らえられてしまうと、私たちは敗北です。
ローマ
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
でも、既に主が成し遂げてくださった救いの御業に目をとめて、御霊に主導権を明け渡すなら、二十五節のように言うことができます。
ローマ
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。
自分の力では、うちに住む罪の性質に打ち勝つことはできません。だけど、あなた様がそれを勝利してくださいますと、ダビデのように確信をもって祈りたいものであります。
最後に、ガラテヤ書を読んで終わります。
ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
私たちもダビデにならって、あるいは、また使徒パウロにならって、御霊に主導権を明け渡す歩みをしたいものだと思います。
どうも、ありがとうございました。
疫病による不安恐れ政治の腐敗。今まさに主に直接訴えるときなのではと考えさせられ増した
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