サタンもみことばを利用する
2020年1月5日、吉祥寺福音集会
重田 定義
マタイ
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
新しい年を迎えました。私たちにとって、今年はどんな年になるのでありましょうか。たしかなことは、主の御再臨が間近に迫ることを示す、聖書に記されている通りの数々の世の終わりの前兆が、いよいよ明らかに、そして、その激しさを増す年となることであり、それはまた、私たちの集会に対するサタンの攻撃が、激しさを増す年となることだと思います。
なぜでしょうか?牧師制度の上に立つプロテスタントの教会や、司祭制度の上に立つカトリックの教会は、世界中にあります。しかし、サタンは問題にしません。なぜならば、これらの教会は、イエス様を単なる飾り物としているが、実際には、聖職者たちが、人間が支配する教会だからであります。
一方、聖書の真理に立つイエス様の御体なる教会は、欧米をはじめ、日本にもあります。しかしながら、その数は少なく、皆、小さな群れであります。私たちの集会も、はじめは小さな群れでした。しかし、主が遣わされた霊的な指導者、ゴットホルド・ベック兄の六十年にわたる献身的なお働きによって、現在のような大きな群れに成長しました。これは、サタンにとっては大きな問題であります。なぜならば、主の御体なる教会を衰えさせ、主の栄光を輝かせないようにすることが、サタンの役割だからであります。
そこで今日は、『サタンも御言葉を利用する』というテーマで、私たちが気をつけなければならない大切なことを、ご一緒に考えたいと思います。
私たち信者は、聖書の御言葉を信仰の道しるべとして歩んでおります。しかし、そのためには、私たちが注意しなければならないことがあります。それは、サタンも聖書の御言葉を利用するということであります。その良い例を挙げたいと思います。マタイ四章の一節から十一節――先ほど、読んでいただいたところも含まれます――ここに、次のようにあります。
マタイ
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。(申命記八章三節)』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。(詩篇九十篇十一~十二節)』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。(申命記六章十六節)』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』(申命記六章十三節)と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
サタンは、イエス様に、人間がもっとも望む肉的な望みを示して、誘惑してきました。しかし、イエス様は、その誘惑を聖書の御言葉によって退けられました。そこで、今度は、サタンも聖書の御言葉を引用して、イエス様を承服させようとしました。しかし、それは自分の考えを正当化しようとして、聖書の御言葉を、肉的に利用したものでありました。
このように、聖書の御言葉を利用するというサタンの罠に、私たちは注意しなければならないと思うんです。私たちは、聖書のみことばを、霊的に正しく理解して、正しく用いなければならないと思います。イエス様はそのようになさったんですね。イエス様も御言葉によって、サタンを退けられたのですが、その聖書の御言葉というのは神の御子としての大いなる権威を示すものであって、それにはサタンも退散せざるを得ないほどの霊的な力を持っていたのであります。
さて、数々の御言葉のうちで、信仰にとって、もっとも大切な、そして、もっとも惑わされやすい聖書の御言葉があります。それは、『愛』という御言葉であります。なぜでしょうか。それは、愛という御言葉が、一般に広く使われているヒューマニズムの愛と混同されやすいからであります。では、ヒューマニズムの愛とは、どのような愛なのでありましょうか。聖書から、その良い例を見てみたいと思います。
マタイ
16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
この時のペテロは、まだ聖霊を受けておらず、霊の目が開かれておりませんでした。ですから、彼はイエス様のおっしゃったことを、霊的に捉えることができないで、肉の思いでイエス様を愛し、このようにイエス様をいさめるというような態度を取ってしまったのであります。このペテロのイエス様に対する愛は、ヒューマニズムの愛であります。
ヒューマニズムという言葉は、たいへん美しく響きます。それは、世の中の人々にとっては、理想的な考えと思えるからであり、また、これをこの世のことに適用するのには何の問題もありません。しかし、私たちの信仰にとって、そして、主のみからなる集会にとって、ヒューマニズムは大敵です。なぜでしょうか。それは、神様を第一とする考えではなく、人間を第一とする人間尊重の考えに基づいているからです。
イエス様はここで、神のことを思わないで人のことを思う愛は、真の愛ではないと、おっしゃっておられます。これは、たいへん重要なことなんです。
私たちの集会は今、主の御体なる教会を混乱させ、御体なる部分として組み合わされている兄妹姉妹の一致を乱そうとするサタンの攻撃を受けております。そして、そのサタンの策略の一つが、聖書の御言葉を用いるという巧妙な方法であり、中でも、『愛』という信仰にとって、もっとも重要なみ言葉を引用して、自分たちをサタンに従わせようとしているのであります。
しかし、サタンが言う愛こそが、ヒューマニズムの愛なのであります。
私たちは、『愛』という御言葉が、神のことを思って、主の御心に基づいて、霊的に用いられているのか、あるいは、人のことを思って、肉の思いから出て、肉的に使われているのかを、しっかりに見分けなければなりません。というのは、真の愛、イエス様のおっしゃっている愛と、ヒューマニズムの愛との区別がつかないで、思い悩んでいる兄妹姉妹が少なくないからです。これこそ、サタンが主のみ体なる集会の一致を満たそうとする狙いなのであります。
ヒューマニズムの愛は、『人道愛』とも訳されておりますように、一般には、飢えや病気で苦しんでいる人、災害に遭って悲しんでいる人、虐待されている人、迫害されてる人などを支援する愛、人間どうしの愛であります。身近な例としては、難民支援活動、あるいは、災害時のボランティア活動などが挙げられるでしょう。
このように、ヒューマニズムの愛をこの世のことに用いるのは、大いに賛成であります。しかし、神様、イエス様の愛は違う。
第一ヨハネ
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのち(・・・・これは永遠のいのちです・・・・)を得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
神様は、私たちに永遠のいのちを与えてくださるために、ひとり子の神のイエス様を罪のなだめの供え物とするという考えられないような大きな犠牲を払ってくださったほどに、私たちを愛してくださっているのであります。これが、神様の愛であります。そして、このヨハネは、その神様の愛のような大きな痛みを払う犠牲を払う覚悟で、あなたがたも互いに愛し合いなさい、愛し合うべきだと、言っているのであります。
イエス様も、ご自身、数々の愛についての御言葉をおっしゃっておられますが、ヨハネの福音書でこのようにおっしゃってます。
ヨハネ
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
15:13 人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
このようにおっしゃっております。イエス様は、父なる神様の御心に従って、神様から離れ、サタンの虜になっていた私たちを、ご自分のいのちを私たちの罪のなだめの供え物としてささげて、救い出してくださり、そして、再び迷い出すことのないように、あるときは、励ましてくださり、あるときは、試練という鞭をも与えてくださる。これが、イエス様の愛であります。
そして、そのようにあなたがた兄妹姉妹も、私から離れないように、また、サタンの虜になってしまった兄妹姉妹が主に立ち返るように、いのちがけで支えあい、励ましあい、助け合いなさいとおっしゃっているのであります。これが、『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』というイエス様の御心であります。
このイエス様の愛には、ですから、優しさだけではなくて、厳しさも含まれるということがわかります。イエス様が、ペテロを叱責されたのも、神のことを思わず、人のことを思うペテロの間違った、閉ざされた霊の目を開かせようとするイエス様の愛の鞭だったのであります。このように、人のことを思うヒューマニズムの愛と、イエス様が信仰者に求められている神のことを思う愛とは、その高さ、深さが、比較にならないほど違うのであります。
しかし、サタンhは私たちをイエス様から引き離して、再び自分の支配下に置こうとして、イエス様だけを頭として仰ぎ、イエスの御体なる部分として組み合わされている兄妹姉妹の分裂を計って、このような罠を仕掛けてきているのであります。もし、ヒューマニズムの愛が私たちの集会を支配するようになれば、もはや、私たちの集会は、イエス様を頭とする主の御体なる生ける霊的な教会ではなく、人間が支配する、ヒューマニズムの愛をモットーとする、人間的、肉的な教会に成り下がってしまい、主のご栄光を拝することができなくなってしまいます。
しかし、どうして神のことを思う愛と、人のことを思うヒューマニズムの愛との見分けがつかないようなことが生じるのでありましょうか。その原因は何でしょうか。それは、主の御言葉を人間の頭、人間の知恵、すなわち、肉によって判断しようとするからであります。主の御言葉は、肉的に正しく判断し、用いることはできません。御霊によって、聖霊によって、初めて御言葉の意味を、霊的に正しく理解し、正しく引用することができるのであります。なぜならば、御言葉は御霊に属するものだからであります。
これについて、パウロは次のように言っております。
第一コリント
2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
2:11 いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。
2:12 ところで、私たちは(・・・・私たち信者は・・・・)、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。
2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
このように説き明かしをしております。
この中にある、『恵みによって神から私たち信者に賜ったもの』というのは、たくさんありますけれども、そのうちで、もっとも大切なのは、主の御言葉ではないでしょうか。詩篇百十九篇の百五節に、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です』とあります。また、同じく、百十九篇、百三十三節には、『あなたのみことばによって、私の歩みを確かにし、どんな罪にも私を支配させないでください』とあります。
このように、主の御言葉は、私たち信者が、信仰の道を、主に従って、正しく歩むためになくてはならないものであります。主の御言葉により頼み、主の御言葉に従って歩む。これが、救われてからの信者の正しい歩みであります。しかし、そのためには御霊の助けと導きが絶対に必要になります。というのは、イエス様を信じて、霊的に生まれ変わった私たちも、地上に生きるあいだは、肉の衣を着ているがために、サタンはその弱い肉の部分を突いて、主の御言葉を自分の肉にとって都合のよいように使うよう、誘惑をしてくるからであります。
では、どうしたら、愛をはじめとする主の御言葉を、人のことを思って肉的に用いるのではなくて、神のことを思って、霊的に用いることができるのでありましょうか。また、どうしたら、ある兄弟、あるいは、ある姉妹の用いる御言葉が、主の御心から出たものか、あるいは、肉の思いから、ヒューマニズム的な考えから出たものかを、区別することができるのでありましょうか。
それは、私たちの霊によるしかありません。そして、そのためには、まず、自分が主を第一にしているのか、あるいは、自分を第一にしているのかという自分の霊的状態をよく吟味して、自分の霊的状態を正しく整えるということが必要となります。
次に、私たちに与えられた御霊によって、私たちの霊の目が曇ることのないよう、いつもはっきりと主に向き続けることによって、主の御心を正しく、わきまえ知ることができるようにと、祈る必要があります。
新しい年を迎えるにあたって、私たちが心を新たに決意すべきことは、いったい何でありましょうか。それは、自分自身の信仰、そして、主の御体なる集会を固く守るために、サタンの惑わし、サタンの策略を排除し、主の御心に正しく立って、主に従い続けること、これではないでしょうか。
そのために、さらに主の御前にへりくだり、主から恵みとして信者に与えられた御霊の働きを、自分の肉の思いによって閉じ込めることなく、御霊に全てを明け渡し、御霊から知恵と力をいただいて、霊的に正しく御言葉を理解して、その御言葉に従い、主だけをかしらとした御体なる集会の部分部分として、兄妹姉妹がひとつとなって、互いに祈り合い、励ましあい、支え合って、信仰の戦いを続けること、これこそ、主の御心に適う、愛の信仰の歩みであり、このことを通して、主は必ず、御栄光を表してくださるものと、確信する次第であります。
最後に、ユダの手紙の十七節から二十五節をお読みして終わります。
ユダ
1:17 愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。
1:18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」
1:19 この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。
1:20 しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、
1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
1:22 疑いを抱く人々をあわれみ、
1:23 火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。
1:24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
1:25 すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。
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