2009年5月18日月曜日

長血をわずらっている女

長血をわずらっている女
2009年5月18日、深大寺家庭集会
ゴットホルド・ベック

マルコ
5:24 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」


世界中でいちばん、大切、また、いちばん必要なのは、間違いなく心の平和と安全なのではないかと思います。今日、学ぼうとする長血をわずらっていた女に欠けていたものは、やはり、心の平和と安全だったのではないかと思うのです。けど、イエス様との出会いによって、完全な平和と安全を与えられたのです。

イエス様が彼女になんと言ったかと言いますと、「安心して帰りなさい。」「病気にかからず、すこやかでいなさい。」このところで、主の力を自分で体験する必要性が強調されています。そして、主の力を実際に体験した人間の例がここに挙げられているのではないかと思います。

彼女は、後でなんと言ったかといいますと、「イエス様とは、私にとってすべてのすべてです。」イエス様との出会いに彼女の人生は変えられました。今日は三つの事柄についてだけ、簡単に一緒に考えてみようと思います。第一番目、彼女の状態について。彼女の状態は慰めのない状態でした。二番目、主の力を体験する大切さについてです。彼女は、主の力を体験的に知るようになり、大いに喜ぶ者となりました。もうひとつ、主の声を聞く大切さ。主の声を聞いた結果とは何であったかと言いますと、病いが完全に癒されたと言うことです。

まず、第一に、望み無く慰めもない彼女の状態について、ちょっと考えてみましょう。おそらく、それまでの彼女の人生がどのようなものであったか、おおよそ、見当がつくことと思います。すなわち、病気の苦しみ、失望、また、心の奥底にある悩みなどです。しかも、彼女は十二年間も患っており、いかなる医者もどうすることもできませんでした。この十二年間は、彼女にとって、苦しみと悩みに満ちた連続でした。医者も、お金も、どうすることもできなかったため、彼女は全く失望してしまいました。

むしろ、反対に、医者によって、かえってますます、悪くなってしまったと言うことです。その結果、彼女は単に、失望しただけではなく、貧乏になってしまいました。彼女は、持ち物をみんな費やしたと、聖書は言っているのです。全部、費やしたにもかかわらず、病気は治らなかった。彼女は、全くみすぼらしい状態になり、人々からは遠ざかれ、全く孤独な人になってしまった。旧約聖書の律法によると、血の漏出のある女は汚れた不浄の者とされ、その女と交わることは禁止されていました。

レビ記
15:25 もし女に、月のさわりの間ではないのに、長い日数にわたって血の漏出がある場合、あるいは月のさわりの間が過ぎても漏出がある場合、その汚れた漏出のある間中、彼女は、月のさわりの間と同じく汚れる。
15:26 彼女がその漏出の間中に寝る床はすべて、月のさわりのときの床のようになる。その女のすわるすべての物は、その月のさわりの間の汚れのように汚れる。
15:27 これらの物にさわる者はだれでも汚れる。その者は衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方まで汚れる。

けど、イエス様は、この律法ではなくて、ご自身の十字架を目の前に見ておられました。この十字架において、あらゆる悩み、あらゆる苦しみ、あらゆる病が荷われたのです。そのためにイエス様は、長血の女を遠ざけることなく、近づかれた・・・・受け入れたと言うことです。おそらく、彼女はその時まで、イエス様の奇蹟のことを聞いていたに違いない。イエス様だったら、なんでもできる。イエス様は一回も、手遅れだと言ったことがない。そのため、彼女は、イエス様が自分の病を癒す――完全に癒す――ことができると確信したのです。そして、イエス様と出会う幸いな時を心から待ち望みました。

彼女は、後ろからイエス様の御衣を触りました。どうしてであるかと言いますと、試験的にやっちゃいましょうではでなく、御衣(みころも)に触れば治していただける!と彼女は確信したのです。これこそが信仰なのではないでしょうか。ちょっと考えられない。どういうふうになるか分からないけど、関係ない。彼女は、医者などと違って、イエス様は完全に自分の病を癒すことができる・・・・ということになんの疑いも持っていなかったのです。彼女は、ただ、イエス様に触りたい!と言う強い願いを持っていました。すなわち、彼女は、イエス様に触れば、イエス様の偉大な力を体験することができると言うことを確信したのです。

その時、イエス様の周囲には、勢の群衆がいたため、イエス様に近づくことは、ちょっとたいへんでした。簡単ではなかった。けど、彼女の信仰がそれを可能にしたのです。いかなるものも、信仰を妨げることはできない。彼女は、イエス様に触ったとき、実際にイエス様の力を体験しました。

イエス様の力を体験して、彼女の血の元がすぐに渇いた・・・・とわかったのです。決して、長い時間がかかって、少しづつ、ゆっくりと癒されたのではない。一瞬にして、癒されました。イエス様は、すぐに自分の力が出て行ったことに、もちろん、気がつかれました。もちろん、イエス様の力が減ったのではない。なくなったのでもない。力が働いたこと を感じられました。

そのとき、癒された彼女は、誰にも気がつかれないように忍び足でその場を去ろうとしたでしょう。けれども、そのままで帰ったとしたならば、それは彼女にとって、大きな損失だったでしょう。イエス様は、ただ単に彼女が自分の力を体験するだけではなく、本当に、出会うことを望んでおられた。意味は、贈り物よりも、その贈った贈り主の方が、遙かに大切です。結局、イエス様を知ること、よりよく知ることこそが、一時的な問題の解決よりも、ずっと大切です。そのためにイエス様は訊いたです。分かっていたのに・・・・。誰が私の着物に触ったのですか。疑いもなく、その時、彼女は恐れおののいたことでしょう。彼女は、イエス様の力を信じていましたが、今や、イエス様の人格、イエス様ご自身を体験的に知る必要があったのです。なぜならば、もっとも、大切なのは、それなのです。

彼女が、イエス様に対して取った態度や行動を初めから見てみると、はじめと後とでは、著しい対称を成していることがわかるのではないかと思うんですね。

初めは、自分自身に言い聞かせていた女が、今や、イエス様にすべて、ありのままを申し上げました。初めは、後ろから御衣に触った彼女が、今や、イエス様の御前にひれ伏しているのです。初めは、恐れおののいていた彼女が、今やイエス様の愛を全人格的に受け入れています。その時、イエス様は彼女を叱ったり、厳しく戒めたり、非難したり、咎めたりすることなく、愛をもって、『娘よ』と言ったのです。原語を見ると、『わが娘よ』となっているのです。全く個人的で人格的な愛の表現です。

いつイエス様は、このような御言葉を、彼女にかけたのでしょうか。それは、彼女が、イエス様に悩み、苦しみを告白し、すべてありのままを申し上げた後のことでした。私たちもイエス様から愛に満ちた御言葉、自由を得させる御言葉を聞きたいと思うなら、正直にすべてありのままを申し上げるべきです。

結局、ダビデの経験が、我々の経験となるべきなのではないでしょうか。彼の祈りは、大部分、知ってる祈りなんですけど、もう一回、読みます。聖書のちょうど真ん中になります。詩篇の三十二篇。パウロの告白、また、罪を赦された喜びを知りたいと思えば、詩篇の三十二篇と五十一篇を読むべきではないかと思うのですね。

詩篇
32:3 私は黙っていたときには(・・・・結局、うまく隠そうと思っていたときには・・・・)、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

あまり働かなかったのに、『疲れたー』と言ったのです。もちろん肉体的にではない。精神的に疲れ果ててしまったのです。どうして?

詩篇
32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると(・・・・結果として・・・・)、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

主に悩み、苦しみを打ち明け、自分の過ち、わがまま、罪を告白するならば、今日でも、主の御言葉を聞くことができるのです。

マルコ
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」・・・・

日本語の聖書は、「直した」になっていまんですけど、原語を見ると、「救ったのです。」体の癒しは確かに尊いものです。大切でありましょうけど、まことの救いとはもっともっとすばらしいものであります。

マルコ
5:34 ・・・・「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

他の箇所を見ても、似ている箇所が聖書の中にいっぱいあります。

マタイ
9:2 すると、人々が中風の人を床に寝かせたままで、みもとに運んで来た。イエスは彼らの信仰を見て(・・・・本人の信仰ではない。彼ら、結局、彼を運んだ連中たちの信仰を見て・・・・)、中風の人に、「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」と言われた。

結局、周りの人の信仰をも大切でしょう。もし、我々のために誰も心配しないで、祈らなかったらば、我々は救われなかったでしょう。なぜならば、主はいつも、祈りの答えとして働いていてくださるからです。

イザヤ書とは、旧約聖書の福音書と呼ばれているものです。

イザヤ
43:1 だが、今、ヤコブよ(・・・・ここに自分の名前を入れてもいいですけど・・・・)。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。」

主は、個人個人を大切にするお方ですから、だから一度、単数形になっていますけど、意味は複数形でしょう。なぜならば、ある人々を大切にして、他の人を除け者にしようと言う気持ちを知らない。みんな、イエス様にとって大切です。皆、人間、ひとりひとりの魂は、主にとって全世界の財産よりも大切なものです。

イザヤ
43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。

永久的に忘れます。人間にはできません。主は、告白された罪を忘れます。はじめは、この女性は、健康、癒し、助けだけを求めたでしょう。そして、イエス様に触ることによって、完全な癒しを、確かに体験しました。もはや、別の医者に見てもらう必要はなくなった。いまや、あらゆる失望、落胆から解放されました。新しい力と喜びが、彼女を満たすようになりました。

彼女はそのようにして、求めたことが満たされたわけですけど、イエス様は決して、それで満足なさいませんでした。イエス様は、私たちが考えているよりも、はるかに多くのものを与えようとしておられるのです。イエス様は、ご自分を深く体験的に知ることを、望んでおられます。そのことだけが、本当の幸せを意味するからです。十二年間も長血を患った彼女にとって、病が癒されたと言うことは、筆舌しがたい喜び、幸せでした。けど、イエス様は、それ以上のことを望んでおられたのです。肉体の健康のみならず、心の平安と心の安全を、すなわち、心の病の癒しを与えたいのです。そして、心の平安と安全は、イエス様との出会い、イエス様を体験的に知ることによってのみ、与えられます。

私たちは、イエス様にすべてをありのままを申し上げ、罪が赦された時にはじめて、心の平安が与えられます。旧約聖書のサムエル書の一章に次の箇所があります。

第一サムエル
1:17 エリは答えて言った。「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」

私たちの求める願いはなんでしょうか。イエス様も同じように、「安心して行きなさい。私があなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」けど、それは、イエス様を体験的に知り、債務が支払われ、罪が赦された時に初めて、成就されます。集会に来て、ただ聞くだけでなく、イエス様ご自身から新しくされ、主の力をいただかなければならない。私たちは、イエス様の力を自分のものとすることができるし、また、自分のものとしなかれば立ち上がれないのではないでしょうか。

マルコ
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。

力が働いた!

パウロは、ローマ書の中で告白しました。福音は、神の力です。単なる教えではない。我々にとって、福音は――聖書の御言葉は――単なる教えなのでしょうか。それとも、力でしょうか。それとも、ただ、決まって読む書物に過ぎないのでしょうか。パウロは、テモテに対して書いたのです。

第二テモテ
2:1 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。

『弱くなってもいい』のではない。強くなりなさい。キリストにある恵みによって。エペソ書も、主にあって、その偉大な力によって強くなりなさいと、パウロは書いたのです。それによって励まされたのです。

【参考】エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

これらの御言葉を、私たちは、もちろん、よく知っている。けれども、この御言葉は、自分のものになっているのでしょうか。私たちの命となっているのでしょうか。私たちは、イエス様の力について語るだけではなくて、主の力をいただき、悪の霊が恐れて逃げるまでになっているのでしょうか。

パウロは、ひざまずき、主に訴え、主の力が信ずる者ひとりひとりのものとなることができるようにと、祈り続けました。彼の祈りを読みましょうか。エペソ人への手紙の一章です。パウロは、もちろん、人を納得させよう・・・・そう言う気持ちを持っていなかったようです。なぜならば、人間によって納得させられた人の信仰とは、大したものではないからです。イエス様を紹介して、すぐに手を引いたのです。イエス様、今度はあなたの番です。よろしく。けれども、救われた人々のために、パウロは悩みました。苦しみました。だから、彼らのために、もうすでに救われた人々のために祈りました。

エペソ
1:15 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、
1:16 あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。
1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。
1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

ほんとうに、すごい祈りです。三章にもまた、別の祈りが出てきますね。

エペソ
3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

こう言うふうにパウロは、もうすでに救いの恵みに預かるようになった人々のために、夜昼、祈り続けたのです。主を仰ぎ見ること、主に頼り続けることこそが大切です。だから、イザヤは書いたのです。

イザヤ(口語訳)
40:31 主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

けれども、今日、主の力はどこに見られるのでしょうか。パウロは、愛弟子であるテモテに、ちょっと驚くべき言葉を書いたことがあります。

第二テモテ
3:5 見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

ちょっと強い言葉です。そうしないと伝染病のようになる。周りの人々が毒されるからです。前の訳(口語訳聖書)でしたかね。『信心深い様子をしながらその実を捨てる者となる』と、あるのです。

【参考】第二テモテ(口語訳)
3:5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。

原語では、『力を捨てる者』と言う意味になっています。今日、多くの信じる者はこの御言葉に当てはまる状態になっていないでしょうか。多くの人は、習慣的に聖書を読む、習慣的に祈りをする。けれども、力を失うであろうと、パウロは言っています。信心深いだけでは、何もならない。内に力を宿しているかどうかが問題です。イエス様の力は我々の内に現れ、また、我々を通して現されると言うことを堅く信じているのでしょうか?

イエス様はすばらしいことを約束してくださいました。ヨハネ四章十四節です。めちゃくちゃな生活を送った女性に言われた言葉です。彼女は忙しかった。五回も結婚して、五回も離婚して・・・・。それでも満足はなかったのです。彼女にイエス様は言われました。

ヨハネ
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

私たちは、これを自分のものとしているのでしょうか。あるいは、自分にはできないと思うのでしょうか。イエス様は、当時の人々に言われました。

ヨハネ
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

私たちは、これらの御言葉を本当に信じているのでしょうか。または、これは、私の身には起きそうもないことだと思うのでしょうか。イエス様は、いろいろなことを経験した弟子達に言われたことがあります。

ルカ
10:19 確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。

私たちは、この御言葉を確信し、また、救われていない家族の人々、あるいは、求道中の友だちの故に、すでに勝利が与えられていることを確信し、喜びの賛美をあげているのでしょうか。

イエス様は、長血を患った女が衣にさわったとき、自分から力が出ていったことに気がつかれました。我々も、この女のように、イエス様の力を受けることを、イエス様は望んでおられます。イエス様は、我々の生活に力を表すことができるのでしょうか。ひとつの大切な質問があります。すなわち、御言葉は、福音は、いかにして、私たちの力となることができるのかということです。

ひとつの答えは、御言葉を食べることによってです。勉強すること、わかることによってではない。『食べること』とは、自分のものにすることです。書かれているから、約束されているから、考えられないけど関係ない、主の言葉ですから。エレミヤと言う男は、『私は御言葉を食べたよ』と告白しました。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。

このエレミヤと言う男は、本当に人間的に考えれば、かわいそうな男でした。若い時、呼ばれましたし、救われましたし、そして、主は彼に言いました、『わたしはあなたを使いたい。あなたを用いたい。ちょっと、たいへんなことになる。あなたが、わたしの言葉を伝えるが、誰も聞く耳を持っていない。あなたの奉仕とは、人間的に考えれば無駄です。実もない。』

確かに彼は、ずっと批判されたのです。当時のイスラエルの人々とは、結局、現代人と似ていました。一時的な問題を解決してもらいたい。神様、助けてくれ。けども、自分の思いではなく、御心だけがなるように・・・・と言う態度をとる人がいないと、ちょっと問題です。

エレミヤは、刑務所にも入るようになってしまったし、もう徹底的に憎まれた男でした。けれども、彼も喜んだのです。どうして?今の箇所ですね。十五章の十六節。『私はあなたのみことばを見つけ出し、』・・・・探したからでしょうね。『主よ語ってください、しもべは聞いております』と言う態度をとったから、その見つけ出された言葉を――理解したのではないでしょう――食べた。結果はしごい!あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなった。

モーセも、よくイスラエルの民に、似ている言葉を言ったことがあります。御言葉こそ、汝の命なり。イエス様は、私の言葉はいのち、そのものである。私こそ、いのちのパン、そのものです。私を食べる者は、永遠に生きる。

自分は、どうしてそんなに信仰がだめになってしまったと疑い、怪しむ人がいます。その理由は、霊の糧を食べていないから。主の御言葉を自分のものにしないからです。聖書は、何回もできるだけたくさん読まない人は、信ずる者にとって、いちばん損なことです。救われるために、別に聖書を勉強しなくていい。ただ正直になり、『憐れんでください、赦してください』と言う態度をとればいいけど、救われてからは、やはり、御言葉を食べないと、祈りがとまり、主の御心を知ることができません。

人の言葉に聞き従うのではなく、主の御言葉に聞き従うことが大切です。我々にとって大切なのは、ただイエス様が与えられた御言葉、その御言葉を読むことが、我々のいちばん好きな仕事のひとつにならなければいけないのではないでしょうか?

福音――聖書の御言葉――は、いかにして我々の力となることができるのでしょうか。いまの一番目の答えは、御言葉を理解することによってではなく、御言葉を食べることによってです。二番目は、自分の意見を捨てることによってです。

我々の考え、私たちの外面を繕った意見のために、イエス様がその働きを妨げられる状態が、たびたびあるのではないでしょうか。自分がこうだと思い込んで、その意見を離さないでいると、ちょうど牢屋に入っているみたいなもので、間違いを起こしやすいものです。イエス様の弟子たちの場合がそうだったでしょう。彼らは、いろいろなことを、イエス様よりもよく知っているつもりだったようです。彼らは、そう思ったのです。

マルコ
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。

前に話したように、イエス様がどうしてきいたかと言いますと、わからなかったからではない。弟子たちは、わかったらしいね。

マルコ
5:31 弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。

イエス様は、誰かが、信仰をもって自分の衣に手を触れ、自分の体から力が出て行ったのを、もちろん、感じました。けれども、弟子たちは、イエス様に、『そんなことはないよ。』結局、自分の意見を言い張ったのです。我々も、結局、弟子たちのようなものではないでしょうか。もし、イエス様が、『信ぜよ。さすれば、あなたもあなたの家族も救われます』とおっしゃり、また、『私に来る者は、その人から生ける川が流れる』と約束された時、私たちは、自らの経験で、そんなことはあり得ない・・・・と、自分の意見を言い張るでしょうか。または、この約束を素直に信じ、受け入れ、感謝するのでしょうか。

イエス様は、自らの意見を言い張った弟子たちには、御顔を向けませんでした。イエス様は、ただ信仰によって、ご自身に触れた女だけを捜し求めました。私たちは、イエス様によって、しっかりと握っている自らの考えから解放していただきたいものなのではないでしょうか。

御霊は、イエス様の御言葉を信じ、受け入れようとしない人からは、離れてしまいます。イエス様は、ひしめく群衆の中で、女に親しく語りかけました。他の者は、誰もそこにいないかのように、女に話されました。イエス様は、女に話されたように、私たちがどんなにひしめく群衆の中にいても、家にいても、会社にいても、学校にいても、電車の中にいても、親しく話しすることのできるお方です。

福音は、神の御言葉である聖書は、いかにして我々の力になることができるのでしょうか?答えは、第一番目、御言葉を食べることによって。第二番目、自分の意見を捨てることによってです。もうひとつ、信仰の決断によってです。

もう一度、長血を患った女を見ましょう。あの女は、主イエス様のことを聞いたとき、心を動かされ、『イエス様のところへ行きたい。イエス様のところへ行きたい』と、なにものかによって動かされました。イエス様のところへ行ったのです。聖書を研究し、イエス様について知ることは、さほど自らを益しないでしょう。イエス様、ご自身から聞いた言葉こそ、我々の力となります。私たちがイエス様ご自身から御言葉を聞くとき、あの女のように、信仰の決断をすることができますね。

マルコ
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物に(・・・・手で・・・・)さわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

これは、本当の信仰ではないでしょうか。女は思ったことをいたしました。その時、癒されたのです。主の言葉を聞き、信仰の決断をするなら、昔のように、今日でも主の力は我々のいのちに現れます。その他の何ものによっても、主の力を経験することはできません。できたとしても、せいぜい『信心深い様子をしながら、その実(じつ)を、その力を捨てる』といった状態までしか、達することしかできない。いかなる環境で、あの女は主の御声を聴き、いかなる環境で、あの女は信仰の決断をしたのでしょうか。

マルコ
5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。

彼女は、絶望的な状態にありました。十二年間も病で倒れていました。しかも、この病は、治らない病でした。この病気にかかると、掟によって、他の人との交わりを断たれ、一人でいなければいけないことになっていましたから、彼女は、本当に孤独でした。それに加えて、この女はいろいろな医者を変えましたが、騙され、持ち物も売り払い、望みのない状態に追い込まれていました。

もし、あなたが生活の破綻を来たし、この女のように、どんなに努力しても、だんだん悪くなるような状態だったら、かえって、それを心から喜びたいと思うのです。この女は、ローマ書七章に比べるのに、ちょうど良い例なのではないかと思います。もちろん、ずっと前にイエス様に出会って、イエス様によって恵みにあずかるようになって、そして、ずっとイエス様に仕えたパウロの告白です。

ローマ
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
7:19 私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

もし、私たちが、この状態にまで導かれているなら、次の段階として、マルコ五章二十九節で、女が経験したのと同じ経験をすることができるのです。

マルコ
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

また、パウロと同じように、ローマ書八章一節、二節を自分のものとすることができます。

ローマ
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

これは、単なる理論ではなくて、事実、起こったことです。イエス様の尊い血の力を体験したひとりの人の証しです。この力は、我々、ひとりひとりのために備えられています。私たちはそれを、必要としてるか。

女は、イエス様の力を身に受けた後、打ちのめされた者としてではなく、癒された者として、主にひれ伏し、拝みました。女は、いちばん低いところに自分の身を置きました。御霊の目的は、私たちを塵(ちり)の中にひれ伏すまでに砕くことです。悪魔は、人を上に押し上げます。おだてます。

マルコ
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

低くへりくだればへりくだるほど、我々はありのままの姿になります。高ぶる人は、自分自身を何も知っていません。従って、イエス様に、ありのままを申し上げることもできません。弱い病気の女が、力に満ちた救い主に触れました。その途端に病は、癒されました。信仰を持って、イエス様を見た瞬間に、救いと癒しと元気が与えられました。

最後に、なぜ、ヤイロの娘のことと、長血の女のことが一緒に記されているかについて、ちょっとだけ考えましょう。前にも話したように、失望、落胆したヤイロと言う男が、自分の娘のところに行く途中で、目の前で、長血の女が、イエス様に癒されたのを見て、力づけられたことが必要な理由だったでしょう。けれども、それと同時に、将来に対する予言的な意味が含まれていることに注意しましょう。

ちょうど、イエス様が死んだヤイロの娘を甦らせるために行かれたと同じように、イエス様はイスラエルの民の将来、また、イスラエルの民の回復を思っておられるのです。イエス様がヤイロの娘のいる目的地に着く途中で、長血の女が癒されなければならないと言う出来事に遭遇されました。その時も、イエス様は、ヤイロの娘を癒すと言う目的を見失うことなく、長血の女を癒し、愛のみことばを与えられたのです。

それと同じように主は、今も、イスラエルの民を将来、回復すると言う究極的な目的を持っておられるのです。亡国の民と呼ばれたイスラエルの民は、一九四八年五月十四日――先週のニュースにも出ていたんですけど――独立することができ、ひとつの独立国になることができたのです。振り返って見ると、考えられない奇蹟でした。

将来、イスラエルは世界の中心になるはずです。けれども、今に至るまでの時代は、いわゆる恵みのときと呼ばれています。全く、疲れ果て、砕かれ、イエス様に罪を告白し、すべてありのままを申し上げる者は、誰でも主の恵みを体験的に知ることができます。今は、恵みの時であると、聖書は言っています。主は、すべての者に対して、恵みを与えておられていますけど、やがて、イエス様がご自分を信じる者たちを引き上げてくださると、その時、イスラエルの民は世界の中心になります。

その時、エレミヤ記の八章の御言葉が成就されます。

【参考】エレミヤ
8:21 私の民の娘の傷のために、私も傷つき、私は憂え、恐怖が、私を捕えた。
8:22 乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。

『わが民の娘は癒される。』いまの恵みの時には、主は完全に、救うことができます。罪を言い表して、これを離れる者は、今日、憐れみを受けます。どうか、心を頑(かたく)なにしないで、主の招きを素直にお受けください。ためらわずに、今すぐ、イエス様の招きに従いましょう。

『喜べ。立て。』イエスがお前を呼んでおられるのです。

おわり

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