2009年7月19日日曜日

実を結ぶ命(2009年)

実を結ぶ命
2009年7月19日、 夏の御代田
ゴットホルド・ベック

詩篇
16:1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。

104:3 水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。

115:1 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

まず、一枚の手紙を紹介いたします。

『お話をおうかがいいたしまして、なんと申しますか、優しさと感動と本当の信仰のすばらしさに感激して、どうしても涙が止まりませんでした。心が洗われたような、本当に主イエスに懺悔し、祈りたいと言う思いを新たにいたしました。この喜びと恵みをイエス様に心から感謝いたします。

あの日以来、イエス様を全面的に信頼し、頼り切って、すべてをおまかせしますと言う素直な気持ちを持つことができるようになりました。すると、不思議なことに日常的に数々の不思議なすばらしい体験にぶつかりました。絶えず、どこでも祈りなさいとおっしゃったベックさんの言葉に、毎日、「イエス様!」と呼びかけては、お導きくださいと、お祈りして、すべてをお任せして、楽しく過ごせるようになりました。

こうした喜びと希望とお恵みをいただき、本当に感謝しています。友人に電話の声が明るくなったね!と、びっくりされました。リンデの「実を結ぶ命」を読ませていただき、今までの自己中心的な甘えた生活をそぎ落としていくように、お導きくださいと、イエス様にお祈りいたしております。

聖書も少しづつ、少しづつ毎日毎日、読むように心がけております。まだまだ、自分の懺悔とイエス様への自己中心の信頼に留まっている気がいたしますが、将来、もっと広く神の愛を、人への祝福を、奉仕を、その心をお導きくださいますように、お祈りいたしております。そして、人に優しくあれと、お導きをお祈りしております。』

二十九年前に、うちの娘であるリンデは癌になり、天に召されました。娘は、イエス様のために実を結びたいと切に願ってました。自分の健康や、自分の幸せは、枝葉のことでした。ただ、イエス様だけが、栄光をお受けになる時、私はうれしいのです。これこそ、リンデの態度でした。

そして、この証しは、実を結ぶようになったのです。多くの人々がイエス様を求めるようになり、イエス様を訪ね、イエス様に出会うようになりました。

この御代田の家の寝室に、リンデの書いた御言葉を飾っています。ちょっと大きいですね。1メートル50センチの長さです。どう言う御言葉かと言うと、ヤコブの祈りです。ヤコブは祈りました。叫んだのです。ご存知のように彼は、非常にずるい男でした。自分、自分、自分のことしか考えなかった。うそをついてもいい。父親だましてもけっこう。けれども、彼は、欲しいもの、財産を持つようになったけど、心は満たされなかったのです。

最後に彼は、何を叫んだかと言うと―リンデの書いた言葉ですけど、「主よ。私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

【参考】創世記
32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

すでに三千年前にソロモン王は、告白しました。

箴言
10:22 主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。

人生の特徴とは、人間の苦労か、主の祝福かのどちらかなのではないかと思います。確かに、僕が自分の娘のことを話すのは、おかしいと思う人がいるかもしれない。四十九年前の今日、7月19日に、彼女は生まれた。

うちの子供は、みんな日本で生まれたんですけど、リンデだけは例外で、ドイツのラオフィンと言う病院で生まれたのです。そして、今、話したように、二十九年前の8月20日、天の御国へゴール・インする恵みに預かるようになりました。

ちょうど、二十歳でした。ドイツのひとつの歌を紹介したいと思います。

『大いなる業をなし給いし主なる神は、
誉むべきかな。
イエス・キリストの流された血潮によって
贖いとられた人類の救いは、
なんとすばららしいことでしょう。

この主イエスを信じる罪人は、
この救いに預かることができる。
主なる神の救いである
主イエスを受け入れる者には、
誰でも、この罪の赦しが与えられる。

主の愛と主の導きは、
なんとすばらしいものでしょうか。
主イエスの御手のうちに安らぐことは、
なんと言う喜びでしょう。

しかし、私たちが喜びつつ、
天の故郷に入るときは、
その喜びがもっと大きく、
きよく高いものとなる。
主を誉めよ。主を誉めよ。』

今、司会者に読んでもらった詩篇の115篇の1節はダビデ王が、心から願ったことです。

詩篇
115:1 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、・・・・栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

リンデの心からの願いは、こういうものでした。ですから、少しだけリンデの生涯について、彼女の召されたことについて、手短に話したいと思います。

リンデは、意識して、イエス様を自分の助け手として、導き手として、救いを与えるお方として、救われたのです。そして、一度も、主なる神のご臨在を疑ったことがない。彼女にとって、神の御言葉とは、間違いのないものでした。彼女にとって、救いの確信を与えられた御言葉は、イザヤ書の43章1節でした。『わたしがあなたを贖ったのだ。あなたはわたしのもの。わたしはあなたを愛している。恐れるな。』

【参考】イザヤ
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

この主の御言葉を、リンデは自分のものにしました。リンデの救いの確信は、単なる頭の知識、また、感情に基づいているのではなく、ただ、主の御言葉である聖書の上に確立されました。私のわがままは、イエス様によって取り除かれました。私は、永遠に主のものです。これこそ、リンデの確信であり、心からの喜びでした。

リンデは、救われただけでは十分ではないこと、イエス様は救われたすべての人を用いたく思っておられることを、知っていました。福音は、宣べ伝えられなければなりません。そして、リンデは、主に子供たちにイエス様について、語りたいと思いました。彼女は、子供たちを心から本当に愛したのです。

たゆまず、子供ひとりひとりを大切にしていました。このセンターが建てられる前に私たちは、二十五年間の軽井沢の古い施設で、喜びの集い、その時は修養会と言う名前を使って、やったのです。その時は、だいたい、二、三十人の子供をリンデが引き受けました。そして、子供たちはリンデが、自分たちのために心から愛してくれる、本当に大好きで自分たちのことを理解してくれると感じました。

ですからリンデは、子供たちから、とくに愛されたのです。リンデは、子供たちについても、まず信頼を得て、それから、福音を宣べ伝えることが大切であることをよく知っていたのです。『主なる神の愛は、私を囲んでいる』と書かれています。すなわち、私はもはや私自身で、自分のために生きたくない。私は、ほかの人のために生きたい。願わくば、イエス様への道案内になりたいものです。これこそ、リンデの切なる願いと目標でした。

リンデは犠牲なしには、自分は祝福となり得ないと言うことを知っていました。けれども、彼女は、イエス様への愛からすべてのものを投入し、献身する覚悟を持っていたのです。けど、彼女は、病気になり、癌にかかったのです。

いつ、リンデに対する病気の攻撃が始まったか、もちろん、知りません。もちろん、今日、私たちは、彼女がもう長いあいだ、痛みを持っていたことを知っていますし、彼女が、患者さんのベッドを作るときに、しばしば目の前が暗くなったことも知っています。また、彼女が、自分で痛み止めで、苦痛を和らげようとしたことも知っています。

二十九年前に、ドイツに帰る前、私たちは、本当に忙しかったんです。ドイツのことを喜んで考える余裕がない程でした。けど、そのような時に、リンデから一通の手紙が来ました。その内容は、次の通りです。『私は、みんなと会えるのがうれしくて、夜も寝られないほどです。』

なぜ、その時、私たちが、喜んでドイツに帰らなかったのか、理由ははっきりしません。おそらく、あまりにも大勢の人々が悩むようになり、苦しむようになり、イエス様によって、救われたいと願ったからでしょう。間違いなく、それも、ひとつの理由です。そのために、私たちは、日本に、留まりたかったのです。けれども、リンデが家族に会える喜びのあまり、夜もほとんど寝られないほどですと言うリンデの手紙の一部分は、私たちも喜んで帰国したいと言う気持ちを起こさせました。

家族に再会できると言うリンデの喜びは、やがて、自分が病気であり、しかも自分が考えている以上に重い病気であると言うことを知ったことによって、少し変わったものとなりました。と言うのは、翌日、リンデはお手洗いで排泄物の中で黒みがかった血を見いだしたのです。その時、リンデは、姉のウルスラに、私は癌だと思う。けれども、家族に絶対にしゃべってはいけないと言ったそうです。

詩篇
16:1 神よ。私をお守りください。私は、あなたに身を避けます。

これは、リンデの祈りであり、切なる願いでした。四週間の検査期間は、リンデにとって非常に苦痛でした。しかも、リンデはできるだけ早く検査が済み、手術して、悪いものがすべて取り除かれることを望みました。

その頃、九歳の子供が、リンデの部屋に移されました。リンデは、この子をも、かわいがりました。一緒に祈り、そして、彼女を心から愛しました。その子の母親は、私たちに次のような手紙を書いたのです。

『リンデは、私たちの子供にとって、非常に大きな祝福でした。私たちにとって、リンデの大いなる主なる神に対する信頼は、忘れられない模範となりました。彼女は、私たち家族みんなに、たくさんのものを与えてくれました。私たちは、リンデを一生、忘れません。』

私たちは一緒に、リンデの満二十歳の誕生日を祝いました。その時、リンデは病院から自分の家の部屋へ二、三時間だけ行くことが許されました。その時、すでに、私たちは、イエス様がリンデをまもなく栄光のうちに御許に召して下さると言うことを語り合いました。聖書は、リンデを日々、喜ばせ、力づけました。

【参考】詩篇
104:34 私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。

主が私の味方ですから、私は主を喜びます。主ご自身が、私の味方ですから、私は主を喜びます。イエス様は、私のために生きておられます。イエス様は、この地上に、私ひとりしかいないかのように、それ程、私を愛していてくださる。イエス様ご自身が、リンデの喜びでした。

リンデに混ぜられた痛み止めのため、やがて、リンデは、もはやほとんど目を開けていることができなくなりました。訪問は、リンデにとって疲れるものでした。けれども、彼女は、永遠の天の故郷について話してもらうと、幼子のように、喜びました。

リンデは、ある夜、看護婦学校の校長先生に電話した時、詩を読みました。その内容は次のようなものでした。

『もう少しの時です。
その時、勝利が与えられます。
その時、すべての戦いは止みます。
その時、私は命の小川を楽しむことができる。
そして、とこしえに、
主イエス様と語り合うことができます。』

二日後に、次のような手紙が校長先生から届きました。

『あなたは、間もなくイエス様の御許に行きます。そして、そのことを、あなたが嘆き悲しまないことを私たちは喜んでいます。もし、悲しむなら、それは、他の人にとって、重荷となるからです。あなたが永遠に主イエスと語り合うことを許され、それを待ち望んでいることを、私は喜んでいます。

そのようなあなたの態度は、私たちにとって、私たちが奉仕すること、また、自分自身がこの世を去ることのために大いなる助けとなっています。私たちは、あなたを失いません。ただ、あなたの方が一足、先に行くだけです。私たち、おもにあなたの同級生たちは、あなたと同じように、主に仕えたいと願っており、イエス様のみそば近くに居たいと願っています。』

主イエス様の霊が、我々の心の内に働くことができれば、その人は自由になり、すなわち、その人はもはや同情によって縛られる必要がないものです。その人は、もはや病気によって制限される必要がない。また、その人は、望み無き状態によって絶望する必要はありません。

神の御言葉である聖書だけが、生ける希望を与えることができることを、リンデは身をもって体験しました。悪魔は、疑いもなく、リンデを絶望させようとあらゆることを試みました。確かに、それは、リンデの心の中でも、しばしば暗い影を落とそうとしました。けれども、リンデはいつも、『主、私の神、私の闇を照らされます』と、詩篇に書かれていることを体験したのであります。

【参考】詩篇
18:28 あなたは私のともしびをともされ、主、私の神は、私のやみを照らされます。

もはや、医学的にはなんの希望も存在しないと言うことを知った後、リンデは間もなくイエス様の御許に行くことが許されていることを喜びました。死ぬこと、すなわち、イエス様と共になることは、リンデのもっとも望んだ願いでした。リンデがこのような望み無き状態を知った時に、がっかりしないで、イエス様の導きに対して、はっきりと意識してお従いする決意を新たに強められたのです。

リンデは、主の導きを理解することはできなかったに違いないけれども、イエス様が自分を愛しておられ、主は決して間違ったことをなさらないと言うことをよく知っていたのです。

もしも、リンデが決めることができたならば、リンデは、その時、ただちにイエス様の御許に行きたかったに違いない。痛みは、非常に大きく、また、リンデは誰にも迷惑をかけたくありませんでした。また、イエス様を信じていない看護婦は、リンデが召される前の二週間、夜勤の係でした。彼女は、リンデが次のように祈る言葉を聞いたのです。

『主イエス様、私が、まだここにいるこの一瞬、一瞬を、心からあなたに感謝します。あなたがなさることは、常に完全です。どうか、私の部屋に入ってくるすべての人に祝福を与えてください。』

だいたい二ヶ月間、私たちは毎日、病院へ行きました。はじめに予定されていた計画は、毎日、あちこちの集会にいくことだったのですけど、全部だめになりました。けれども、私たちはすべての背後にイエス様が立っておられ、主は、いつでも私たちの最善だけを思っていてくださると言うことを知っていたのです。

あらゆる夜、闇、望み無き状態にもかかわらず、リンデは、次のことをしっかりと確信しています。すなわち、イエス様こそ、私が必要としているお方です。すなわち、闇の中でも、イエス様は私の光です。望み無き状態の中でも、イエス様は私の希望です。苦しみの中にあっても、主は、私の喜びです。イエス様のほかに、私は何者も、また、いかなる人をも必要としません。リンデは、次のことを体験したのです。

『わが神の大いなる平安。
なんと言う深い静けさでしょう。
すべての私の思い煩いを取り去ってくださり、
あらゆる罪をも洗い清めて下さると。
なんとすばらしい主の愛によって御国に運ばれた私。
その私は、
永遠に主の栄光を褒め称える特権に預かった。
主よ、あなたの導きはなんと幸いなことでしょう。』

リンデが召されたとき、家内と私はその場に立ち会うことを許されました。我々の腕の中で、横たわったままではなく、上半身を起こしてリンデは召されました。花婿なる主イエス様と一緒になるために、永遠に主を崇拝するために、リンデは急いで主の御許に飛び立ちました。

私が、日本で、もたなければならなかった最初の葬儀は、わが子の葬儀だった。そして、ドイツで行わなければならなかった最初の葬儀も、わが子であるリンデの葬儀でした。

イエス様が葬儀の中心におられなければ、その葬儀は、しばしば悲しみの集いとなります。けれどもリンデの葬儀は、決して悲しみの集いではありませんでした。それは、イエス様の勝利の現れでした。賛美と感謝の集いでした。リンデは、うらやましがられるはずです。なぜなら、先に天の御国に帰る恵みに預かるようになったからです。

リンデは、心から愛していたイエス様の御そば近くにいることを許されました。リンデは、次のことをよく知っていました。イエス様は、私の味方です。イエス様は、私に期待しています。とこしえに、イエス様とともに語り合うことを許されているのは、今のリンデです。

墓場で、リンデの棺が地下に降ろされたとき、リンデの同級生と看護婦さんたちは次のような歌を歌いました。

喜べ、墓は空だ。
主は、よみがえられた。
死は、力を失った。
主イエスこそ主である。

リンデは、もはや長くは生きられないことを知った時、自発的に、次のように言いました。「それなら、私は間もなく、イエス様の御許に行くことを喜んでいます。けれども、イエス様のために結んだ実が少なかったことは残念です。」それですからリンデは、もう少し、地上に留まることをやむを得ないと思い、「私の部屋に来る方々が、みんな祝福されますように」と、祈りました。この祈りは、聞かれました。

まだ、イエス様を信じていない医者が、次のように言いました。「リンデのように死ななければ、あらゆる成功はむなしい」と。リンデは、死が、決して最後ではないと言うことを知っていました。私にとって死ぬことは、天の故郷へ帰ることを意味し、永遠にイエス様の御許に居ることを意味していると。

リンデが召されたことによって、次々と影響が及んできました。どこでも、イエス様のために実が結ばれつつあったのです。花輪の帯には、次のようなすばらしい言葉が書かれていました。もちろん、ドイツ語だったんですけど、日本語で言いますと、「イエスの御手に」、あるいは、「再会を期して」、あるいは、「しかし、私たちはイエスを見る。」

手術の結果、望みがないと言うことが分かると、アイドリンゲンの建築士であるエルフリーデ(Elfriede)姉妹は、ドイツ語で、『Wir sehen aber Jesus』というみ言葉を書き送りました。日本語で言えば、「しかし、私たちはイエスを見る。」ヘブル2章の9節だと思います。

聖書は言っています。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰に習いなさいと。幼子のような素直さをもって、リンデは主に従いました。葬儀の朝、うちからすばらしい朝焼けを見ることができたのです。その時、ある歌を覚えました。

『山の頂に、輝かしい朝焼けが見える。
もう少しで、我々も主の栄光の前に立つ。
きれいなみぎわで、我々は主の御顔を拝する。

あらゆる霧は消え去った。
光を恐れるものは、もうない。
夜と闇の時も過ぎ去った。
苦しみも悩みもない。
言い表せない喜びだけだ。
暑い砂漠の旅の後、
新鮮な泉と幸いな憩い

我々は霊の糧を見いだし、
命の水が流れ出る
全能なる主の御許には、
重苦しさも疲労もない。

天国の栄光を見る時、
この地上における苦しみと
危険な時の思い出は永遠に消える。
困難と困窮の代わりに
喜ばしい誉め歌だけだ。

天国で我々は主と顔と顔をあわせて見る。
それは、主の御約束ゆえ、
我々は希望に満ちている。

多くの戦いと激しい格闘にもかかわらず、
我々は目的地に達する。』

私たちがリンデの聖書の中で見つけた一枚の便箋には、次のような言葉が書き記されていました。我々は、自分でが勝手に、それを、リンデの遺言なのではないかと思っているんです。何が書いてあるかと言いますと、祈りの言葉です。

『主イエス様、たとえ肉眼であなたを見ていないとしても私は心からあなたを愛しています。そして、たとえ、人間的にあなたを見ていないとしても私はあなたに全き信頼を置きます。この目であなたを見ることが許されるとき、なんと言う素晴らしい言葉にならない喜びで、歓呼の声を上げるのでしょう。

その時、私は永遠に安全な場所に置かれます。あなたはよみがえりであり、命です。あなたを信じる者は死んでも生きるのです。そして、生きていてあなたを信じる者は誰でも永遠に死ぬことはありません。

神の賜物は、私たちの主イエス・キリストとの交わりにおける永遠の命です。私たちはまた、この肉の体に留まる限り、本当の故郷に到達していません。私は、また主から離れている旅人のような状態に置かれています。私は、主と顔と顔をあわせていませんが、信仰によって歩み続けています。しかし、私は安らかです。

願わくば、この肉の体を去って、私の天の故郷へ行き、主の御許に行きたいと思います。

ですから、私は主が来られるまで、主に喜ばれるように、すべてのことを一生懸命、やりたいと思います。私の故郷と、私の目的は、天にあります。』

リンデが召された時、そのことを私たちが通知したカードには、次のような言葉を書き記しました。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それ故、わたしはあなたを、愛をもって、わたしのもとに引き寄せた。」ここで、主なる神は、あなたを愛した故、わたしはあなたを引き寄せたと言われていますから、リンデが召されたことは、主の愛の現れに他なりませんでした。

それから、次の言葉を書いたのです。「しかし、我々は、イエスを見る。二十年間、リンデは、私たちに託されました。今や、リンデは、私たちよりも一足先に天の故郷に帰り、リンデがよく知って、心から愛した主イエスの御許に行くことを許されています。リンデは、この世を去る用意ができていましたし、この世を去って、キリストと共にいることのほうが、はるかにすばらしいと言う確信を持っていました。私たちは、間もなく再会できることを、喜んでいます。」

聖書は、ひとりの罪人が罪を悔い改めて、天の父の御許に帰る時、天に大いなる喜びがあると書いてあります。ましてや、神の子、また、イエス様の許嫁――リンデもそうですが――、そのような者が天の父の御許に召される時、どれほど大きな喜びが天にあることでしょうか。「しかし、私たちはイエスを見る。」大切なのは、それなのではないでしょうか。

イエス様を仰ぎ見る者にとって、目に見えるもの、過ぎゆくものは、すべて枝葉のことになります。イエス様を見上げる者は、ただイエス様に喜ばれたい、主に気に入ってもらいたいと言う切なる願いを持っています。イエス様のために生きること、イエス様をよろこばせることこそリンデの切なる願いでした。リンデは今や、イエス様を見ることが許されたのです。

けれども、この地上に残された我々にとっては、戦いは、まだ続きます。私たちは、皆、目に見えるものすべてから目をそらし、イエス様を見上げるように召されています。また、さらに、私たちは、イエス様のために仕え、実を結ぶように、召されています。

私たちは、今日、自分自身をことごとくイエス様に明け渡し、何があっても、イエス様のために実を結びたいと言う切なる願いをもって、イエス様に願い求めることができれば、本当に幸いと思います。

リンデが、二十九年前に召されました。二十九年間は、リンデにとっておそらく、何千年間と感じられているのではないでしょうか。天国のイエス様のそばに居ることは、あまりにもすばらしいからです。けれども、リンデが召されたことは、我々に次のことを語っています。すなわち、主なる神は、すべてのことを為すことができますが、ただ一つのことだけはおできにならない。それは、すなわち、主により頼む者を、失望させることです。

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