2008年7月9日、春日部家庭集会
ゴットホルド・ベック
第一ペテロ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
今、読んできてくださった箇所は、もちろん、ペテロの証し、告白だけではなく、初代教会の気持ちの現われです。すなわち、私たちは、生ける望みを持っています。人間は、生ける望みを持っていなければ、本当に悲劇的なのではないかと思います。
かつて、あるおばあちゃんは――アクト・ヤスコ姉妹のお母さまなんですけど――彼女は、イエス様に出会って、八十八歳の時に、次のように証ししました。
「イエス様を信じましたから、本当に毎日、平安に過ごさせていただいています。生きてるあいだに、どれだけ読めるかわかりませんが、今は毎日、聖書を読むこと、テープを聞くこと、お祈りすることだけが、楽しみになりました。」
こういうふうに聖書のすばららしさを知るようになる者は、本当にありがたいのではないかと思います。生ける希望を持つ者とは、結局、悩んでる人々しか得られないのではないかと思います。もう一人の姉妹の証しを紹介いたします。彼女は癌になって非常に悩みました。
「病気をいただいて、家事やこの世のすべてのことから切り離されて、ただ主イエス様との静かなお交わりの中へ、入れてくださっていること、本当に感謝です。みことばは、命そのものです。すぐに主から離れ、自分勝手に生きようとする高ぶりを、いつも思わされます。また、どういうわけか、救われる以前よりも、私の周りには、病気で苦しんでおられる方が多いのです。今まで、そして、今でも、その方々の心の痛みが全くわかならない者であるにもかかわらず、口先だけで、慰めようとしたり、イエス様にのみ、ご栄光を帰す者でなかったことを悔い改めさせられております。主は、ほんとうにすばらしい方ですね。偉大なお方ですね。もっともっと主を知りたいです。病んで、ますます、イエス様の愛を教えられ、喜びに満たされています。このすばららしいイエス様を、周りの方々に少しでもお伝えできますように。私が、砕かれるように、これからもお祈りに覚えてくだされば感謝です。」
こう言う証しを読むと、やはり嬉しくなります。結局、生ける希望をいただいた者が、この態度を取ることができます。生ける希望こそが大切です。一般的に望みと言う場合には、将来の何か良いこと、たとえば、幸せ、福祉、正義、救いと言うようなことを期待しつつ待っているのが人間の態度なのではないでしょうか。それは、人間の本質であり、人間だけが、望みを持つものです。望みを持つ犬を、今日まで見たことはありません。
けども、人間が望みを持つことは大切です。若い人は、希望でいっぱいでしょう。比較的、年をとった人でさえも、それほど激しくはないけど、静かな望みを抱いているものなのではないかと思うんです。もはや、望むべきものが何もなくなってしまう場合には、そこには、絶望と死だけが存在しているに過ぎない。
これは、一般的な望みです。聖書的な望みとは、将来、行われる救いの完成を、確信を持って、待ち望むことです。そして、聖書的な望みは、ただ信仰からのみ、出てくるものであり、いかなる訓練、あるいは、試練の中にあっても、必ず勇気を与えてくれるものであります。
以上、述べました、一般的な望みと、聖書的な望みは、お互いに相容れないものであることは明らかでしょう。一般的な望みは、常に、この世に向けられているものであり、本当の確信がないために、心の奥はむなしさが支配しているのです。聖書的な望みは、イエス様に与えられた望みの故に、この世のあらゆる世俗的なものを捨てる力を持っており、そのために、常に満たされ、慰められ、力を与えられているのです。
生き生きとした望みの秘訣は、いったい何なのでしょうか。生き生きとした望みの秘訣とは、私たちが自分自身を見たり、他人を見たり、私たちを取り巻く周囲の状況を見たりすることをしないと言うことであります。そして、望みである主ご自身を見上げることです。ですから、ヘブル書、十二章二節の主の命令とは、考えられないほど大切な命令です、『主イエスから目を離さないでいなさい。』
【参考】ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
生ける望みを持つようになる者とは、いったいどういう人々なのでしょうか?苦しみを通して、与えられるものなのではないかと思います。生ける望みとは、内に住み賜う御霊の実です。努力の結果ではありません。また、生ける望みとは、自分が主によって選ばれたものであるという確信に基づいているものであります。言えるのは、聖書から離れたら、生ける望みはあり得ないのではないかと思います。
人間のできること、正確に正しくできることは、計算することなのではないかと思います。例えば、地図を書く人は、百パーセント、完全な地図を作るということは不可能です。同様に、歴史家も過ぎ去った事実について、百パーセント、完全に記述することもできません。人間にできること、百パーセント、完全にできることは、算術的な計算だけなのではないでしょうか。
2+2=4です。このことを疑う人は、おそらくいないでしょう。パウロは、手紙の中で、『計算する』と言う言葉を使ったことがあります。彼は――例えば、ローマ書、八章の十八節で――日本の聖書では、『私は考えます』と言う言葉が使われていますけど、ほんとうは、『計算する』と言う意味の言葉なんです。
【参考】ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
パウロがここで、このように言っていることは事実のみです。パウロがここで言っている、例えば、『今の苦しみ』とは、パウロのうぬぼれでもなければ、幻想でも夢でもありませんでした。パウロにとって、現実そのものでした。『今の時』と言う表現を使っていますが、「今の時」とは、永遠に続くというものを意味しているのではない。今だけ。限界のあることに過ぎない。苦しみには、はっきりとした目的があり、どこかへ至る道であり、また、手段のようなものであります。
パウロは、自分の肉体が弱いことを知っていました。しばしば、病気になってしまったのです。常に病気であったと言ってもよいくらいなのではないでしょうか。パウロは、外にも内にも、重荷を持っておりました。外面的には、迫害を受けたと言うことであり、内面的には、教会に対する――主の恵みによって救われた兄弟姉妹に対する――心遣いがあったのです。そして、パウロは、滅び行くものの束縛によって悩まされました。けれども、彼もまた、来るべき栄光を待ち望んだのです。それゆえ、彼は今の時、今の苦しみと将来啓示されようとしている栄光とを、比較しました。そして、彼は、この苦しみが、栄光に比べれば取るに足りないものであることを、この十八節に証ししたのであります。
もし、パウロが、自分の苦しみを、示されるべき栄光と比べることをしなかったならば、彼はこの苦しみに押しつぶされてしまったでしょう。彼の喜びも、彼の平和も、力も失せてしまったに違いない。悪魔は、私たちを疑惑に陥れることを企んでいます。パウロもまた、そのことを、知っていました。だから、彼は、苦しみと栄光とを秤にかけて、今の現実的な苦しみは、将来の栄光に比べれば、取るに足りないことを断固として確信したのです。
私たちは、イエス様を信じる者として将来の栄光に、もうすでに部分的には、預かっているのではないでしょうか。
イエス様は、祈りの中で次のように言われました。ヨハネ伝十七章二十二節をみると、イエス様は次のように言われたのです。過去形です。
ヨハネ
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。
『いつか与える』、『与えられる』のではない。けど、この栄光とは、いったい、なんなのでしょうか。例えば、ダビデの証しを見てもわかるのではないかね。有名な三十二篇の一節から読むと、彼は、次のように、解放された者として、真の生きる望みに満たされた者として言えたのです。
詩篇
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。
パウロは、次のように言いました。
ローマ
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
私たちは、もうすでに良しとされた。神との平和を持っている。これは、栄光なのではないでしょうか。彼は、また、証ししたのです。
第一ヨハネ
1:3 ・・・・私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
いつかなるのではなくて、もうすでに・・・・。こう言う言葉は、私たち信じる者が、今日、すでに持っている栄光について述べているのではないでしょうか。
主を知らない人々は、自分の人生を、運命であるとあきらめて、未来に対して不安を持ちながら、生活をしています。信じる者は今の苦しみが、つかのまのものであり、将来、イエス様の栄光に預かるものとされると言うことを確信しています。
捕虜になった人は、近い将来、家族と再びあいまみえるようになることが分かっていれば、囚われの身であっても、力が湧いてきます。生ける望みを持っていない人は悲惨です。生ける望みは、喜びと力を与えてくれるものであります。この生ける望みとは、前に話したように、人間の作るものではない。上から与えられるものであり、すなわち、御霊の実であります。生ける望みとは、栄光の御霊の結ぶ実そのものです。例えば、ローマ書、八章二十六節は、信ずる者がいかに弱く、力のない状態にあるかと言うことについて、述べています。パウロは、「弱い私たち」、「私たちはわからない」と言う表現を使ています。
【参考】ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
そして、ここでは信者の祈りではなく、信者のうちに住み賜う聖霊について書かれています。
あるいろいろなことで悩んだ人は、次のように告白したことがあります。私には聖書を読む力がない。祈る力もない。だから、私になしえること、それは、イエス様によりすがることだけだと、証ししたのであります。御霊の力により頼まない信者は、全く役に立たない者なのではないでしょうか。なぜならば、イエス様は、『わたしから離れたら何もすることができない』と、はっきり宣告してくださったからです。もし、私たちが自分自身を御霊にゆだね、御霊の導きに従うならば、御霊は、いったい何をなさるのでしょうか。
御霊はまず、はっきりとした確信を与えます。すなわち、私たちが救われた者であり、生けるまことの神の子供であり、栄光の御霊によって私たちが栄光に預かる者とされると言う確信を与えてくれます。それから、言うまでもなく、必要な力も与えてくださるのです。
ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。
私たちは、しばしば弱い、力のない、どうしたら良いかわからない、自由を持たない状態に陥りますけど、その時、御霊は助けてくださるのです。
信ずる者も、しばしば、八方ふさがりの状態に陥りますけど、どのような状態になろうとも、信ずる者のうちに住んでおられる聖霊は、力に満ち、確信に満ちています。たとえ、私たちが今、絶望したとしても、御霊ご自身が、我々のために、とりなしをして、助けてくださいます。こうして、私たちの弱さは、祝福されたものとなります。私たちが、自分自身の求めることを追求するのではなくて、御霊ご自身に自分を明け渡すことができれば、本当に幸いであります。
私たちは、救われるために救われただけではなく、主によって特別に選ばれた者であると、パウロはよく手紙の中で書いたのです。生ける望みとは、自分が主によって選ばれた者であると言う確信に基づいています。永遠の昔から、主は、イエス様にあって選ばれた人々をあらかじめ知っておられ、また、あらかじめ定められたと、ローマ書に書いたのであります。
【参考】ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
主は、現在、あらかじめ定められた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認めてくださるのです。
ある人は、人間は、あらかじめ、信者と未信者に定められており、未信者に定められている人は、いくら求めても主を見いだすことができないと言います。けれども、これは、もちろん、決して聖書的ではないし、とんでもない間違いです。イエス様は、わたしのもとに来る者を決して拒まない。もちろん、イエス様のところへ、意識して行きたくない人には、強制されません。聖書は、イエス様がすべての人のために死なれたこと、そして、すべての人がイエス様にあって生きること、そのために死なれたと、はっきり言っているのです。
父なる神は、永遠の昔から、イエス様を受け入れる人々をご存知であられ、イエス様の血によって清められ、義とされるようになる人々を永遠の昔から、ご存知でした。父は、我々人間に自由意志をお与えになり、私たちが、恵みを受けるか、それとも、恵みを意識して拒む者になるかを、我々の自由意志にお任せになりました。
父は恵みを受ける人を、すなわち、救われる人を、あらかじめ知っておられましたけど、定めておられたのではない。父が定めておられたことは、自由意志をもってイエス様を受け入れた人々が、御子に似る者となることを定めてくださっているのです。いわゆる『予定説』と言うのは、信仰、すなわち、救われる人々に対する者ではなく、救われた者が、後になって、間違いなく栄光に預かる者とされると言うことを述べているのです。
義と認められた人々は、必ず、栄光に預かる者とされます。ですから、パウロは、このローマ書、五章一節で、『私たちは、結局、義と認められている。』良しとされている者。結局、良しとされているものは、永久的に良しとされているのです。
【参考】ローマ
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
救われることに対しては、すべての人が救われることが、主の御心であるということを、聖書ははっきり述べています。
第一テモテ
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
すべては、すべてです。
第二ペテロ
3:9 主は・・・・、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
主は、すべての人々が、ただへりくだる心を持って、恵みを受け入れれば、恵みを与えてくださると言うことを約束しておられます。
言うまでもなく、人生において、もっとも大切なことは、イエス様を救い主として受け入れることです。死んでからの後悔は、役に立ちません。恵みによって信仰に導き入れられた人々が、イエス様の姿に似た者と変えられる。この確固とした確信によって、生ける望みが生まれます。主のご計画を成就するためにすべてが働きます。悪魔は、私たちをイエス様から引き離し、私たちの確信をぐらつかせようとチャンスをねらっています。
けれども、悪魔でさえも、主の目的を成就するための道具にすぎません。イエス様は、我々の手をしっかりと握っておられ、私たちが離そうとしても、イエス様の方で、その手を離されません。ですから、ヨハネ伝の十章二十八節は、すばらしい約束であります。
ヨハネ
10:28 ・・・・だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
私たちは、すべてのことを理解し尽くすということはできません。私たちの目は完全にくもりのないものとはされていません。けど、私たちが直面している問題や悩みの背後にはイエス様がおられ、すべてご存知であられると言うことに、私たちは確信を持っています。すべてのことを働かせて益としてくださるためには、ひとつの条件があります。その条件とは、主を信じるだけではなくて、主を愛することです。
主を愛する愛は、無条件の愛でなければならない。主の愛を受け入れる人は、主を愛さざるを得なくなります。聖書のいちばん知られている箇所とは、言うまでもなく、ヨハネ伝の三章十六節でしょう。
ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
もうひとつは、ローマ書八章の二十九節も、やはり考えられないほど大切です。今、読みました箇所の中で、『そのひとり子』となっているんです。ローマ書八章の二十九節には、『そのひとり子』とは書いてないんです。『長子』となっているんです。
ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
神のひとり子。それから、イエス様は、長子となられると書いてあります。このふたつの言葉の違いは、いったい何でしょう。主なる神のひとり子は、彼に続いて、他の兄弟たちが生まれることによって、長子となります。父の御目的は、ひとつの家族を作ること。イエス様と他の多くの兄弟たちとの家族を作ることです。
イエス様を救い主として受け入れる人は、新しく生まれた人です。新しく生まれた人は、御子の姿に似た者になると言うことを主は定めてくださったのです。父が定めてくださったことは、必ず成就されます。私たちもまた、イエス様と似た者と変えられるようになります。これこそが、私たちの確信です。言うまでもなく、我々生ける希望、生ける望みでもあります。
もう一箇所、ヨハネ第一の手紙を読みます。ここで、おそらく、百歳にもなったヨハネは、当時の信じるものを励ますために書いたのです。
第一ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。(・・・・確信している・・・・)なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな(・・・・大部分ではなく、みな・・・・)、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
最後に、はじめに読んでもらいました箇所を読んで終わります。
第一ペテロ
1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
こう言うふうに言える人は本当に幸せなのではないでしょうか。
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