2010年1月26日火曜日

聖書とは何か(五)

聖書とは何か(五)

ベック兄暦年テープ、DVD1、CD18-221
ゴットホルド・ベック


(三)旧約聖書についてのイエス・キリストの証し(続き)


このあいだ、始まったテーマ、すなわち、『旧約聖書についてのイエス・キリストの証しとはいったいどういうものでしょうか』という点について、もう少し考えてみたいと思います。聖書が――聖書にふくまれているひとつひとつのみことばが――ほんとうに、神のみことばであることを要求しているのでありましょうか。そして、また、聖書のひとつひとつの文字が、神の権威を持ち、それゆえに、永遠に続くものであるということを、要求しているのでありましょうか。

私たちはこのことについて、イエス・キリストご自身よりも、偉大な人に訊ねることができません。主イエスこそ、最高の権威なのです。主イエス様は、神の権威をもって、旧約聖書全体を、神のみことばと言っておられます。神のみことばは、誰一人、改善したり補ったり、変更したりすることのできない永遠なるみことばです。イエス様は、旧約聖書を百パーセント、信じていました。


主イエス様を信ずることは、旧約聖書に対して、同じように信頼を置くことを意味します。イエスは、ひとつひとつのみことばが聖書に書いてあることを、何でも保証してくださり、旧約聖書全体が真理そのものであることを、はっきりとおっしゃいました。ですから、私たちは、聖書のことばが、どれもみな、神のことばであることを、他の方法で証明する必要はありません。真理そのものであるイエス様が、聖書の霊感を百パーセント、信じておられますから、私たちもまた、聖書の霊感を信じることができます。

主のことばは、あらゆる人間のことばや、人間の理解力にまさるものです。聖書の霊感に対する決定的に大切なものは、主イエスのお取りになられた態度でした。聖書は、イエス様にとって、力の源でした。イエス様が、旧約聖書のみことばを引用する時、その確信は、巌(いわお)のように堅固なものでした。神のみことばは、真理そのものであると、イエス様は信じて疑わなかったのです。

もちろん、イエス様は、旧約聖書の歴史的な出来事をも、百パーセント、信じておられました。イエス様は、創造の報告の完全な霊感をも信じており、イエス様は、ノアの洪水の報告も信じておられ、ノアの歴史的な人格をも信じておられたのです。また、イエスは、預言者ヨナについて書かれていることも、文字どおり信じておられましたし、イエス様は、十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばが、どれもみな、神のみことばであることを、はっきりと証しなさいました。イエス様は、詩篇のひとつひとつのことばをお取りになり、それが、ご自身の死の瞬間に成就されたことをご存知でした。よみがえりのあと、すなわち、イエス様がもはや、しもべの形ではなく、再び神の全き栄光をお持ちになられた時、旧約聖書のみことばは、主にとって再び、主の宣べ伝えた土台と内容になりました。

旧約聖書全体を、完全に洞察なさったイエス様は、よみがえられた時、エマオの途上で弟子たちに出会ってくださり、ご自身の確信しておられることをお伝えになられました。

ルカ
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

主イエス様が、弟子たちに旧約聖書を解き明かされた時、弟子たちの心は燃えたと、記されていますが、これは何というすばらしいことだったでしょう。イエス様は、復活のあと、弟子たちに出会われた時、彼らのためにたったひとつの福音だけをお伝えになりました。すなわち、すべてのことは、成就されなければならないということでした。

ルカ
24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」
24:45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
24:46 こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、
24:47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。

主イエス様は、弟子たちに、彼らの信仰の比類なき土台、すなわち、モーセ、預言者、詩篇をお残しになりました。主イエス様は、旧約聖書の完全な霊感を、信じておられなかったでしょうか。イエス様が、旧約聖書の一語一語、また、一字一字を、本当に神のことばとみなしておられたことは、疑いの余地はありません。それは、イエス様にとって、揺るがざる確信でした。

ヨハネ
10:35 もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、・・・・

それですから、私たちは、旧約聖書に対する主イエス様の位置づけを、主ご自身の証しによってまとめることができます。

マタイ
5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。 

これこそ、イエス様の確信であり、主のみことばに、私たちは全き信頼を置くことができます。

マタイ
24:35 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。

イエス様は、こう言われたのです。旧約聖書に対する主イエスの証しは何であったかを、もう一度、振り返って見ましょう。三つのことが言えます。第一番目は、旧約聖書全体は神の霊感によって書かれたものであると、イエス様は証しておられます。もう一回、お読みいたしましょうか。

マタイ
5:18 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。

ヨハネ
10:35 もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、・・・・

第二番目は、イエス様は、ご自分こそ、旧約聖書の預言の成就であるとおっしゃいました。みことばは、イエス様にとって、霊の糧でした。旧約聖書は、ご自分の生活と死と復活について、預言しているだけではなく、預言どおりになるということを、イエス様はご存知であり、確信したのであります。イエス様は、預言どおり、ナザレに住んでおられました。

マタイ
2:23 そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して「この方はナザレ人と呼ばれる。」と言われた事が成就するためであった。

そして、イエス様は、みことばをもってサタンと戦ったと、マタイ伝、四章一節から十節に書き記されています。イエス様は、ご自分こそまことの救い主であることを証明するために、みことばを引用しました。

マタイ
11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。

ルカ
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

ご自分の苦しみについて、主イエスは、みことばが成就されるためであることを確信しておられました。

マタイ
26:54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。

十字架上で主イエスの言われたことばは、主は、詩篇のことばで祈られたことを、私たちに示しています。

詩篇
22:1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。

22:16 犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。

31:5 私のたましいを御手にゆだねます。

そして、第三番目は、イエス様は、旧約聖書において、お語りになられたお方でした。主イエスご自身は、初めからあったことば、そのものでした。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

預言者たちの中で語られた霊は、主イエス様の霊だったのです。

第一ペテロ
1:10 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。

ヘブル
2:11 聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
2:12 「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
2:13 またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。

主イエスは、旧約聖書全体は、神の霊感によって書かれた神のみことば、そのものであることを証明しておられたのです。

今まで私たちは、三つの点について考えてまいりました。すなわち、第一番目は、人間となった神のみことばとしてのイエス・キリスト、第二番目は、文字となった神のみことばとしての聖書、そして、第三番目は、旧約聖書についてのイエス・キリストの証しだったのであります。


(四)旧約聖書についての使徒たちの証し


今から、第四番目の点、すなわち、旧約聖書に関する使徒たちの証しについて、考えてみたいと思います。おもに、マタイ、ヨハネ、ペテロ、パウロとヘブル書の著者について考えてみたいと思います。

使徒たちは、自分たちの主に忠実に従いました。主イエスが、高められたお方として、使徒たちに遣わしてくださった聖霊は、使徒たちにすべてのことを教え、また、すべてのことを思い起こさせました。聖霊の導きのもとに、使徒たちは、聖書を学び、聖霊の権威において、聖書を用いて引用しました。私たちは、聖霊が主イエス様と全く同じように、教えてくださることを見ることができます。すなわち、イエス様の宣べ伝えた福音の真理は、同時に、また、すべての使徒たちが宣べ伝えた福音の真理でもありました。一言で言いますと、主イエス様と全く同じように、使徒たちもまた、旧約聖書の霊感を信じ、確信しました。

まず、マタイについて考えてみたいと思いますが、マタイは旧約聖書を引用し、用いる名人です。かつて取税人だったマタイは、何と多く、旧約聖書に精通し、そしてまた、何と適当なみことばを、ふさわしい時に引用し、用いることを知っていることでしょう。マタイは、再三再四、旧約聖書と新約聖書の密接な関係を示し、そのみことばのひとつひとつが、いかにして、イエス・キリストにおいて成就されたかを、私たちに証明しています。マタイの福音書の中には、『かれたことが成就されるために』という表現が、何度も出てきます。

マタイ
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

生まれた時から、死に至るまで、そして、復活に至るまで、イエス様のことを、マタイは証明しています。みことばが成就するために、これらのことは、起こらなければならなかったのです。

ドイツの神学によると、イザヤ書の作者は、一人ではなく、二人だったと言うのですが、マタイは、それをはっきりと否定することを語っており、イザヤ書四十二章についても、はっきりと証言する意味を持つことばを語っています。すなわち、イザヤ書四十二章は、ドイツの神学によると、一章から四十章までがイザヤの書いたもの、そして、四十一章から六十六章までは、別の人が書いたことになるのですが、そうだとしますと、この四十二章は、イザヤではない、別の人が書いたことになってしまいます。しかし、マタイの書いたものによると、イザヤ書四十二章は、イザヤ自身が書いたことになります。

マタイ
12:17 これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。
12:18 「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を置き、彼は異邦人に公義を宣べる。」

マタイの福音書の中では、旧約聖書の二十七巻以上からみことばが引用されています。しかし、マタイだけではなく、ヨハネもまた、マタイと全く同じ態度を取ったことがわかります。すなわち、ヨハネもまた、旧約聖書全体が、神の権威によって書かれたものであり、霊感によるものであることをはっきりと証ししています。イエス様と同じように、ヨハネもまた、聖書をよく調べなさいと言いました。

ヨハネ
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

イエス様は、こうはっきり言われたのです。そして、モーセによって書かれたものは、神の権威によって書かれたものであると言っています。

ヨハネ
5:47 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
5:47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

ヨハネは、証明する時に、議論などは一切しないで、「聖書にそう書かれています」という一言で片付けています。そして、ヨハネは、主イエス様が聖書、すなわち、旧約聖書をお教えになったと、私たちに語っています。とくにイエス様の受難の歴史においては、旧約聖書が成就したことを、はっきりとヨハネは、私たちに示しています。

ヨハネ
12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」

12:38 それは、「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また主の御腕はだれに現わされましたか。」と言った預言者イザヤのことばが成就するためであった。
12:39 彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。
12:40 「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」
12:41 イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

19:24 そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。

19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

19:36 この事が起こったのは、「彼の骨は一つも砕かれない。」という聖書のことばが成就するためであった。
19:37 また聖書の別のところには、「彼らは自分たちが突き刺した方を見る。」と言われているからである。

そしてまた、ヨハネは、証しを回顧しつつ、まとめ、旧約聖書とイエス様のお語りになったこととが、全く対等に権威ある信仰の土台であると言っています。

ヨハネ
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

弟子たちは、『聖書と――すなわち、旧約聖書と――イエスが言われたことばとを信じた』とあります。福音書を書いた人たちが、みな旧約聖書に関するこういう証しにおいて一致しています。そして、旧約聖書のひとつひとつのみことばは、彼らにとって、重味のあるものであり、純金とみなされ、用いられます。

使徒行伝に書かれた使徒たちの福音は、何と力強いものでありましょうか。このことは、全世界に短期間のうちにイエス・キリストの福音として広まりました。彼らの語った福音の力は、いかなるものだったのでしょう。五旬節におけるペテロの説教は、三千人の魂を主に導いたのですが、このことを学んでみて分かることは、語られたみことばの半分は、旧約聖書からの引用であったということです。ペテロの奉仕の土台は旧約聖書でした。

使徒行伝
3:21 このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。

そして、ペテロの書いた手紙を見ると、旧約聖書におけるみことばの絶対的な確実さが、彼の語ったひとつひとつの土台になっていることがわかります。

第一ペテロ
1:12 彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのための奉仕であるとの啓示を受けました。そして今や、それらのことは、天から送られた聖霊によってあなたがたに福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。それは御使いたちもはっきり見たいと願っていることなのです。

1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。

2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」

3:10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押えて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、
3:11 悪から遠ざかって善を行ない、平和を求めてこれを追い求めよ。
3:12 主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行なう者に立ち向かう。」

第二ペテロ
1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。

使徒たちの働いた実、すなわち、効果を、自分も持ちたいと思う者は、使徒たちの伝えた福音を伝えなければならないのです。初代教会全体の証しもまた、同様に、旧約聖書の完全な霊感を認めるものです。

使徒行伝
4:25 あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。

今まで、私たちは、マタイとヨハネ、そして、ペテロについて考えて参りましたが、次に、パウロについて、ちょっと考えてみたいと思います。パウロは、旧約聖書の文字どおりの霊感を信じたのでしょうか。パウロは、旧約聖書に精通した学者であり、旧約聖書のもっとも深い事情を洞察した人でもありました。私たちは、透徹した理性と徹底的な論理を持った人、すなわち、パウロに対して、彼が旧約聖書からのみことばをもって、深く考えずに、福音を宣べ伝えたというようなことを言うことができるでしょうか。決して、そうではありません。パウロにとっては、旧約聖書のどのみことばも、ほんとうに神のみことばでした。旧約聖書は、パウロの福音の土台でした。

使徒行伝
24:14 しかし、私は、彼らが異端と呼んでいるこの道に従って、私たちの先祖の神に仕えていることを、閣下の前で承認いたします。私は、律法にかなうことと、預言者たちが書いていることとを全部信じています。

28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。

もしも、旧約聖書の霊感を否定するならば、パウロの書いたローマ書は、いっぺんに崩れてしまうのです。なぜならば、ローマ書の半分は、旧約聖書からの引用だからです。ローマ書から何箇所か、お読みしたいと思います。

ローマ
1:2 この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、御子に関することです。

3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

4:17 このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。

9:17 聖書はパロに、「わたしがあなたを立てたのは、あなたにおいてわたしの力を示し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである。」と言っています。

10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

また、パウロは、他の手紙においても、同じように旧約聖書のみことばを用いて書いています。

第一コリント
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」

2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

3:19 なぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。こう書いてあります。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕える。」また、次のようにも書いてあります。「主は、知者の論議を無益だと知っておられる。」

14:21 律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。」

15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

第二コリント
6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

6:16 神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
6:17 それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、
6:18 わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」

9:9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。

第一テモテ
5:18 聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。

ガラテヤ
3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。

3:16 ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げられました。神は「子孫たちに」と言って、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。

4:22 そこには、アブラハムにふたりの子があって、ひとりは女奴隷から、ひとりは自由の女から生まれた、と書かれています。

4:27 すなわち、こう書いてあります。「喜べ。子を産まない不妊の女よ。声をあげて呼ばわれ。産みの苦しみを知らない女よ。夫に捨てられた女の産む子どもは、夫のある女の産む子どもよりも多い。」

これから、ちょっと、ヘブル書の著者について考えてみましょう。ヘブル書は、使徒たちが旧約聖書の完全な神の霊感を認めたことを証明するものです。旧約聖書のひとつひとつのみことばは、主なる神から与えられたものであり、永遠の息を持ち、ヘブル書におけるみことばの土台となっています。ちょっと二、三箇所、お読み致します。

ヘブル
1:5 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」
1:6 さらに、長子をこの世界にお送りになるとき、こう言われました。「神の御使いはみな、彼を拝め。」
1:7 また御使いについては、「神は、御使いたちを風とし、仕える者たちを炎とされる。」と言われましたが、
1:8 御子については、こう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっすぐな杖です。」

1:13 神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」

2:8 万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。

3:7 ですから、聖霊が言われるとおりです。「きょう、もし御声を聞くならば、
3:8 荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」

4:2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。
4:3 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。
4:4 というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。
4:5 そして、ここでは、「決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と言われたのです。
4:6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、
4:7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
4:8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
4:9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。

6:13 神は、アブラハムに約束されるとき、ご自分よりすぐれたものをさして誓うことがありえないため、ご自分をさして誓い、こう言われました。「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす。」

7:1 このメルキゼデクは、サレムの王で、すぐれて高い神の祭司でしたが、アブラハムが王たちを打ち破って帰るのを出迎えて祝福しました。

7:17 この方については、こうあかしされています。「あなたは、とこしえに、メルキゼデクの位に等しい祭司である。」

8:8 しかし、神は、それに欠けがあるとして、こう言われたのです。「主が、言われる。見よ。日が来る。わたしが、イスラエルの家やユダの家と新しい契約を結ぶ日が。
8:9 それは、わたしが彼らの先祖たちの手を引いて、彼らをエジプトの地から導き出した日に彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約を守り通さないので、わたしも、彼らを顧みなかったと、主は言われる。
8:10 それらの日の後、わたしが、イスラエルの家と結ぶ契約は、これであると、主が言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
8:11 また彼らが、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ。』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたしを知るようになるからである。
8:12 なぜなら、わたしは彼らの不義にあわれみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである。」

10:5 ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」

12:26 あのときは、その声が地を揺り動かしましたが、このたびは約束をもって、こう言われます。「わたしは、もう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」

旧約聖書の引用ばかりです。

実際、神は、預言者たちをとおしてお語りになりました。私たちは、しっかりとした預言のみことばを持っています。ヘブル書は、旧約聖書のひとつひとつのみことばに対して、ひとつひとつ肯定している書として、際立っています。聖書、すなわち、旧約聖書の完全な霊感を否定しながら、ヘブル書を信頼できる神のみことばとして、確信することはできません。それは、論理的にも、道徳的にも不可能なことです。万が一、そんなことが可能だとするならば、私たちは、長いあいだ、偽りとしてきたものを、真理というようなおかしなことをすることになるでしょう。

ヘブル書の著者は、旧約聖書に基づいて多くの叙述をしているのであり、そのひとつひとつのみことばは、巌(いわお)のように確かな土台となっているのです。ヘブル書の十一章は旧約聖書の歴史的な出来事が、神の霊感によるものであることを、私たちに告げています。旧約聖書と新約聖書の統一的な証しは、神がお語りになったということです。


(五)新約聖書についての使徒たちの証し


続いて、第五番目の点、すなわち、新約聖書に関する使徒たちの証しについて考えてみたいと思います。私たちは、旧約聖書における神のみことばが、絶対的権威を要求するのと同じように、新約聖書における神のみことばも、同じ絶対的権威を要求することを見ることができます。ですから、新約聖書もまた、みことばのひとつひとつが、実際に神のみことばであるという要求をすることは、当然のことです。

ペテロは、旧約聖書と新約聖書の啓示を、解き離すことのできないひとつのものだと強調し、旧約聖書のことばと同じように、新約聖書のみことばも、同じ神の力のあらわれであり、永遠に続くものであると言っています。

第一ペテロ
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。

パウロもまた、自分の宣べ伝えた福音が、神から源(みなもと)を発しているみことばであると強調しています。

第一コリント
2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。
2:13 この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。

そして、パウロは、キリストから受けなかったものは、宣べ伝えないように注意していると、断言しています。ロマ書十五章十八節を見るとわかります。

【参考】ローマ
15:18 私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。

聖書の最後を飾る黙示録において、高く引き上げられたイエス様は、もう一度、聖書全体が、霊感によって書かれたものであることを、明確にしておられます。そしてまた、ひとつひとつのことばが大切であるということを強調しておられたのです。

黙示録
22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

おわり

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