聖書とは何か(二)
ベック兄暦年テープDVD1、CD18-218ゴットホルド・ベック
ある有名人の聖書観について、ちょっと考えてみたいと思います。
マルチン・ルター・・・・聖書は、古いものでもなければ、新しいものでもない。聖書は永遠のものである。
ニュートン・・・・いかなる世界歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理が存在する。
ヴォルフガング・ゲーテ・・・・私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選びます。
ナポレオン・・・・聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。
ガンジー(インド)・・・・私の生涯にもっとも深い影響を与えた書物は、聖書である。
リンカーン・・・・聖書は、神が人間に賜わった、もっともすばらしい賜物である。人間の幸福にとって望ましいものはすべて聖書の中に読まれている。
ルーズベルト・・・・聖書を教えない単なる教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものである。
山室軍平・・・・聖書は世界無二、宇宙第一の書物である。
前に始まったテーマについて、すなわち、みことばを宣べ伝える者としての預言者について、もう少し考えてみたいと思います。
(1)旧約聖書の預言者たち
主なる神が差出人であり、人間が受取人であります。預言者たちは神の声を聞き、みことばを受け取るわけです。預言者たちは、神のみことばを宣べ伝える者となります。このようにして、特別に神によって召し出された人々のことを、聖書は、『預言者』、宣べ伝える者と呼んでいます。したがって、預言者は言わば、神の通りよき管のようなものであり、預言者はみことばを直接、主なる神から受け取り、それをさらに人間に伝えるわけです。
すなわち、預言者の特別な使命は、主なる神から受け取ったみことばを人間に伝えようとすることに他なりません。そのように聞いたことをそのままの形で伝えることを聖書は、霊感と呼んでいます。預言者は、神の啓示を直接、見たり聞いたりします。主なる神は、行動するお方であり、みことばを与えてくださるお方です。これに対して預言者は、単に受身的に参加し、見たり聞いたりするだけです。神のみことばは、言わば、預言者たちを『襲った』のです。決して、預言者たちが自分勝手に作り上げたものではありません。
イザヤは――前回、学びましたように――主を見たのであり、主の声を聞いたのであります。そして、彼は、自分の無力さ、罪深さを知るようになっただけではなく、彼は、主の恵みによって、聖められ、用いられる器となったのです。エレミヤも、また、同じことを経験しました。主のみことばが、彼に臨んだのです。しかも、全く直接、臨んだのです。すなわち、次のとおりです。
エレミヤ
1:9 そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。」
私たちは普通、イザヤからマラキまでの預言者たちを、文字どおり、『預言者』と呼びますが、聖書は、主なる神が直接、お語りになられたすべての人たちを『預言者』と呼びます。彼らはただ単に将来、起こるべきことだけではなく、現在のこと、あるいは、過去のことをも宣べ伝えます。彼らは、神から受け取ったことばを宣べ伝えます。ですから、モーセは自分のことを、『預言者』と呼んだのです。
申命記
18:15 あなたの神、主は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。
同じように、ダビデは預言者と呼ばれ、そして、その大部分がダビデによって書かれた詩篇は、神の直接のことばと呼ばれます。
使徒行伝
2:30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。
旧約聖書全体をまとめようとすると、『モーセと預言者たち』ということが一般に言われているわけですが、したがって、歴史的な書物も預言者によって書かれたものであるゆえに、神のみことばとなるわけです。
ルカ
16:29 しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
神は、預言者たちの口を通して語られました。これは、聖書のはっきりとした証言です。
使徒行伝
1:16 兄弟たち。イエスを捕えた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。
3:18 しかし、神は、すべての預言者たちの口を通して、キリストの受難をあらかじめ語っておられたことを、このように実現されました。
4:25 あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。』
この証言は、何と力強いものでしょうか。旧約聖書の統一された証言は、神のみことばです。これはまことに、神が預言者たちに語られたみことばです。預言者たちのことば、すなわち、旧約聖書が神のみことばであるということが、歴然とした事実であるとすると、そのみことばを聞く者は、真剣に聞く耳を持つべきであり、主なる神のみことばとして、それを絶対に肯定することが要求されます。したがって、旧約聖書全体の誤解されない要求は、『聞け』、『従え』というものです。
申命記
18:19 わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う。
詩篇
95:7 主は、私たちの神。私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、
95:8 メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
エレミヤ
7:23 ただ、次のことを彼らに命じて言った。『わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となる。あなたがたをしあわせにするために、わたしが命じるすべての道を歩め。』
7:24 しかし、彼らは聞かず、耳を傾けず、悪いかたくなな心のはかりごとのままに歩み、前進するどころか後退した。
預言者たちが宣べ伝えた神のみことばに対して従順であるということは、旧約聖書の道徳のすべての土台です。
(2)イエス・キリスト
今まで、私たちは、神のみことばを宣べ伝える者としての預言者たちについて見て来ましたが、これからは、第二番目になりますけれど、神のみことばを宣べ伝えるお方としてのイエス・キリストについて見てみることにしましょう。
私たちは、旧約聖書においてのみ、預言者を見ることができるのでしょうか。私たちは、新約聖書に移って、神が新約時代の預言者を通してお語りになったかどうか、たずねてみたいと思います。
新約聖書の比類なき預言者は、主イエス様、ご自身です。主イエス様は、完全な認識を持った神の預言者でした。申命記に、次のように書き記されています。
申命記
18:18 わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのようなひとりの預言者を起こそう。わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
このみことばは、イエス・キリストを通して、成就されたのです。主イエス様が、この地上に来られた時、父なる神は自ら、主イエス様を公に認めました。いかなる人間も、主イエスが偉大なる預言者であることを認めることができなかったので、主なる神は天を開き、聞き取ることのできる声でおっしゃいました。「これはわたしの愛する子、汝らは聞くべし」と。
マタイ
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
主イエス様はただ単に、時間に制約されて神のことばを聞いたり、啓示を見たりしただけではなく、上から来られ、すべてをご存知であり、完全な認識を持った預言者だったのです。主イエスの口から出たことばは、いずれも直接、神のみことばでした。主イエスは、預言者として、比類なき地位を占め、したがって、他の預言者と同列に置くことができません。主イエス様について、次のように言われています。
ヨハネ
1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。
3:31 上から来る方は、すべてのものの上におられ、地から出る者は地に属し、地のことばを話す。天から来る方は、すべてのものの上におられる。
3:32 この方は見たこと、また聞いたことをあかしされるが、だれもそのあかしを受け入れない。
3:33 そのあかしを受け入れた者は、神は真実であるということに確認の印を押したのである。
3:34 神がお遣わしになった方は、神のことばを話される。神が御霊を無限に与えられるからである。
主イエス様、自ら、ご自身について、上から来られ、完全な啓示、すなわち、父なる神のみことばを伝えなければならないと証しなさいました。ご自身についての主の証しは、何と力強いことでしょう。
ヨハネ
8:23 それでイエスは彼らに言われた。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなたがたはこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。」
8:28 イエスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」
12:49 「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父ご自身が、わたしが何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。
12:50 わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています。それゆえ、わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのままに話しているのです。」
17:8 「それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。」
このようなみことばを読むと、イエス様が比類なき預言者であることが分かります。主なる神は、御子をとおして語られましたが、それは、動かすことのできない事実です。
ヘブル
1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
私たちは、イエス・キリストの口を通して、言い表わすことのできないすばらしい神の啓示を見ることができます。
(3)使徒たち
今まで、私たちは第一番目として、みことばを宣べ伝える者としての預言者について、そして、第二番目は、みことばを宣べ伝えるお方としての主イエス様について考えましたが、今度、第三番目になりますが、みことばを宣べ伝える者としての使徒たちについて、少しだけご一緒に考えてみたいと思います。みことばを宣べ伝える者としての使徒たち。
神は、新約聖書における使徒たちを通しても、私たちに語られました。私たちは、新約聖書においても神のみことばを受け、使徒たちのことばが、旧約聖書の預言者たちのことばと同じように権威あることを、正当に要求できる預言者たちを見出すことができます。主イエスは、十二人の弟子をお選びになりました。そして、イエス様は彼らを、『使徒』とお呼びになったのです。
ルカ
6:13 夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。
使徒、すなわち、遣わされた者たちは、イエス様、御自身によって召され、特別に呼び出され、装備を与えられ、彼らの口に神のみことばを与え、大いなる権威をもお与えになりました。
マタイ
18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが(・・・・あなたがた、選ばれた人たちが・・・・)地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
10:19 人々があなたがたを引き渡したとき、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべきことは、そのとき示されるからです。
ルカ
10:16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾ける者であり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒む者です。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒む者です。
ヨハネ
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
使徒たちは、主イエスのみことばの、委託された宣教者です。このことについて、イエス様は、祈りの中で次のように言われたのです。
ヨハネ
17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
17:18 あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。
主イエス様が、使徒たちのもとから離れ、天に上られるとき、使徒たちの口を通して、今から語られるのは聖霊であると、約束してくださいました。したがって、私たちは使徒たちの書いたものにおいて、彼らを通して語られた聖霊のことばを聞くことができます。
(4)パウロ
主なる神は、新約聖書の中でご自身を啓示なさるのに、十二人の使徒たちだけに限定しませんでした。パウロのような使徒も、全く同じようにお召しになったのです。
ガラテヤ
1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。
パウロは諸教会の前で、上からの召しを通して、使徒であることを認められ、彼の福音が第三者からではなく、直接、主ご自身からのものであることを強調し、そのことに最大の価値を置いています。パウロは、イザヤとか、エレミヤと全く同じように、直接、主なる神から召された者でした。
ガラテヤ
1:11 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず・・・・、
2:8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
パウロは、こう証ししています。パウロは預言者として召されました。というのは、アナニヤがイエス・キリストの命を受けて、彼に次のように伝えているからです。
使徒行伝
22:14 彼はこう言いました。『私たちの先祖の神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。
22:15 あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから。』
この神の召しに基づいて、パウロは、常に、『イエス・キリストの使徒』と、自らを呼んでいます。
ローマ
1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ。
第一コリント
1:1 神のみこころによってキリスト・イエスの使徒として召されたパウロ。
第二コリント
1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ。
ガラテヤ
1:1 使徒となったパウロ――私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。――
エペソ
1:1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ。
コロサイ
1:1 神のみこころによる、キリスト・イエスの使徒パウロ。
第一テモテ
1:1 私たちの救い主なる神と私たちの望みなるキリスト・イエスとの命令による、キリスト・イエスの使徒パウロ。
第二テモテ
1:1 神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから。
テトス
1:1 神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ――私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。
ですから、パウロは、彼が多くの手紙の中で書いているみことばが、啓示をとおして彼が受け取った神の直接の御言葉であると証言しています。パウロは、非常に情熱的に、イエス・キリストの使徒として自分が召されたことを弁護しています。なぜでしょうか。自分の名誉のためでしょうか。もしも、そうだったらならば、彼は、別のものを選んでいたことでしょう。
第一コリント
4:9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。
4:10 私たちはキリストのために愚かな者ですが、あなたがたはキリストにあって賢い者です。私たちは弱いが、あなたがたは強いのです。あなたがたは栄誉を持っているが、私たちは卑しめられています。
いいえ。パウロは、自分自身の名誉を求めたのではなく、使徒の権威をもって、自分の語ることばは、神からのことばであることを強調しました。なぜなら、彼の語ることばを、誰一人、軽い気持ちで、人間のことばとみなすことがないようにするためだったのです。主なる神の名誉のために、パウロは、イエス・キリストの使徒と認められることを要求しています。
第二コリント
11:5 私は自分をあの大使徒たちに少しでも劣っているとは思いません。
第一コリント
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
15:10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
また、パウロは、彼が他の人たちによっても認められたことを強調し、全く彼らと同列に置かれることをためらいませんでした。
ガラテヤ
2:6 そして、おもだった者と見られていた人たちからは、――彼らがどれほどの人たちであるにしても、私には問題ではありません。神は人を分け隔てなさいません。――そのおもだった人たちは、私に対して、何もつけ加えることをしませんでした。
2:7 それどころか、ペテロが割礼を受けた者への福音をゆだねられているように、私が割礼を受けない者への福音をゆだねられていることを理解してくれました。
2:8 ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。
2:9 そして、私に与えられたこの恵みを認め、柱として重んじられているヤコブとケパとヨハネが、私とバルナバに、交わりのしるしとして右手を差し伸べました。それは、私たちが異邦人のところへ行き、彼らが割礼を受けた人々のところへ行くためです。
パウロは、使徒として召されました。そして、神のみことばを直接、聞きました。それはちょうど、他の人たちや旧約時代の預言者たちと同じでした。それだけでなく、今まででは隠されていたことを、主が彼に啓示してくださったことをも、主張しています。
エペソ
3:2 あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。
3:3 先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。
3:4 それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。
3:5 この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。
パウロは、旧約聖書の啓示を継承、発展させた新約聖書の預言者たちについても語っています。
ローマ
16:25 私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、
16:27 知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。
パウロは、(自分が)神が語ってくださる預言者であることをよく知っていたので、彼が書き記す事柄に対して、完全な権威を要求しています。したがって、私たちは、パウロを神の預言者として認め、神の要求を信ずるか、さもなければ、狂人として彼を退け、彼のことばを一言も信じないかのいずれかです。パウロの書いたことばに、新たに耳を傾けましょう。
第一コリント
14:37 自分を預言者、あるいは、御霊の人と思う者は、私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい。
ガラテヤ
1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
第一テサロニケ
2:13 こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。
第二コリント
13:3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。
(5)まとめ
主なる神が、ちょうど預言者を口として語られたように、使徒たちの口を通してお語りになるならば、当然のことながら、人間は、神のみことばについて議論したり、その信憑性を調べたり、人間の理解力や意志に合うかどうかを考えたりすることは許されません。新約聖書の福音は、無条件の服従を要求します。『聞きなさい』、『従いなさい』ということは、したがって、新約聖書が読者に対して、無条件に立てる要求でもあります。神のみことばに対する完全な肯定、すなわち、人間の理解力、気持ち、意志をみことばに服従させることは、それゆえに、キリスト者のあらゆる倫理、道徳の土台です。
このようにして、必然的なひとつの結論にたどり着きました。すなわち、私たちは旧約聖書においてと同じように、新約聖書においても、全く同じ証しを見出すことができます。
すなわち、神は、とくにそのために召された人たちの口を通して、お語りになられました。神のみことばを宣べ伝えた人たちは、旧約聖書においては、預言者と呼ばれ、新約聖書においては、使徒と呼ばれます。使徒たちに与えられた啓示は、預言者によって受け取られた啓示よりも、はるかに広く、かつ、深いもので、それですから、新約聖書の中で両者をあげる時にも、まず、使徒たち、それから、預言者たちというふうに、使徒たちが優先されており、次のようにして、教会は建てられたことが、私たちに証しされています。
エペソ
2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。
したがって、旧約聖書と新約聖書の喜びの訪れは、統一されています。聖書は、教会の唯一の土台です。聖書こそが、不動の土台であり、信者たちの教えと生活に対する唯一の権威です。主なる神のお語りになったみことばは、使徒と預言者が受け取ったことばとして変わることがありません。すなわち、送り手のことばと、受け手のことばは等しい、ということが、ここでも立証されます。
(6)最後に
今まで私たちは、大きく分けて、第一に、主なる神が聖書の発起人、起草者、すなわち、著者そのものであること、そして、第二に、神のみことばが、人間、すなわち、使徒と預言者に与えられ、吹き込まれたことを見てきました。
最後に、五つのことを述べて終わりたいと思います。聖書とは何なのでしょうか。
第一は、聖書の年代について。いちばん古い部分は、紀元前千五百年ごろ書かれました。それは、今から三千五百年も前のことで、日本でもっとも古い本、古事記、日本書紀より二千年も古いのです。
聖書の期間について、いちばん新しい部分は、紀元九十年ごろ書かれました。創世記から、ヨハネの黙示録まで千六百年という驚くべき歳月をかけて書かれました。
聖書の著者について。身分、職業、学識の異なった四十人ほどの人々によって書かれました。彼らは、住んでいる場所も年代も違うので、何の連絡も取らずに、各自がそれぞれ独立して書きました。
聖書の内容について。こうして書かれた本でありながら、聖書は、完全な統一性を保ち、主題が一貫しています。また、古い時代に書かれていながら、今の人々の心に、強く迫って来る不思議な本です。
聖書の普及について。千四百以上の国語と方言に訳されている聖書は、世界でもっとも広く読まれている本で、一年間に三千五百万冊も売れている、超ベストセラーであります。
おわり
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