2010年1月25日月曜日

聖書とは何か(四)

聖書とは何か(四)

ベック兄暦年テープ、DVD1、CD18-220
ゴットホルド・ベック

今まで、大きく分けて、二つのことについて考えて参りました。第一に、主なる神が聖書の発起人、起草者、すなわち、著者、そのお方であること。第二に、神のことばが人間、すなわち、使徒と預言者に与えられ、吹き込まれたことを見て来ました。そこで、最後に、第三として、使徒たちと預言者たちが与えられ、受け取ったものを、さらに伝えて行き、述べ伝え、書き伝えたことを見てみましょう。すなわち、別のことばで表現しますと、第一に、語られたみことば、第二に、受け取られたみことばを見て来ましたが、今度は、第三に、書かれたみことばを見てみるわけです。

人間は、主なる神から受け取ったみことばを、書き記した事実について考えてみましょう。主なる神は、時々、召された人たちにお語りになり、受け取った事柄を、さらに宣べ伝えることを禁じました。そういう場合、私たちは、神が語られたことばだけはわかりますが、主が何を語られたかは、わかりません。たとえば・・・・

ダニエル
8:26 先に告げられた夕と朝の幻、それは真実である。しかし、あなたはこの幻を秘めておけ。これはまだ、多くの日の後のことだから。


黙示録
10:4 七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。

また、コリント第二の手紙に、パウロは次のように書き記したのです。

第二コリント
12:4 パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

しかし、神のみことば、すべてが、ただ受け取られるだけで、語られ、また、語ることがなかったならば、私たちは、主なる神について何も知らず、聖書もなかったことでしょう。使徒と預言者は、みことばを聖霊をとおして受け取っただけではなく、さらに聖霊を通して、ことばを宣べ伝えました。みことばの霊感は、初めから終わりまで、主なる神の御業です。神のみことばの伝播は、したがって、神のみこころの表れであり、神の御言葉を与えること、また、受け取ることと同じように、主の御心です。聖霊の働きを通して受け取られたみことばは、変わることなく、語られたり書かれたりしたみことばになります。

受け取られたみことばが、神によるものであるなら、宣べ伝えられたみことばも、神によるのです。そのことについて聖書は、私たちに何と言っているのでありましょうか。

神のみことばが、人間に理解できるものとなるべきであるならば、主は、人間のことばの形でお語りにならなければなりません。私は、小さな子どもに、私の言うことを分からせようと思うならば、子どもの話し方で語らなければなりません。しかし、私が語ることは、私のことばであり、それがただ、子どもの話の形になっているというだけです。私の話している事柄は、私のことばであることに違いありません。

霊感の奇跡のひとつは、語られた神のみことばが、語られたり、書かれたりした人間のことばに変わることです。変圧器は、高電圧から低電圧に電流を変えます。神のみことばは、使徒と預言者を通して、人間のことばに変えられました。神のみことばである聖書は、内容的には、完全な神のみことばであり、形式的には、完全な人間のことばです。

全体を分かりやすく六つに分けてみますと、次のようになります。第一番目は、人間となった神のみことばとしてのイエス・キリスト。第二番目は、文字となった神のみことばとしての聖書。第三番目は、旧約聖書についてのイエス・キリストの証し。四番目は、旧約聖書についての使徒たちの証し。五番目は、新約聖書についての使徒たちの証し。そして、六番目は、神のみことばに対する信仰です。


(一)人間となった神のみことばとしてのイエス・キリスト


この六つの点について、考えてみたいと思いますが、第一番目は、人間となった神のみことばとしてのイエス・キリストです。主なる神は、イエス・キリストをとおして、私たち人間に、ご自身を啓示なさりたいと思われた時、次のようになさいました。

ピリピ
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

イエス・キリストという、まことの人間のかたちを通してのみ、私たちは、主なる神を具体的に把握し、知ることができたのです。みことばそのものである神は、隠されたままでいることはなく、人間となり、『私たちは神の栄光を見た』と、主イエスの弟子たちは言わざるを得ませんでした。すなわち、私たちは、神の不完全さを見たのではなく、むしろ、私たちは、『恵みとまことに満ちておられたひとり子としての栄光を見たのです』と、ヨハネ伝一章の十四節に書いてあります。ですから、主イエスは聖霊により処女マリヤから生まれなければなりませんでした。イエス様のご降誕については、次のように記されています。

ルカ
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

イエス・キリストは、人間となった神のみことばです。主はその本質上、完全な神の御子であり、形式上は、この地上におられるあいだ、完全な人の子なのです。

ピリピ
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

聖書は、ことばが人となったという事実を、私たちに告げ知らせていますが、この大変な転換が、どういうふうにしてなされたかについては、説明していません。

ヨハネ
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

そして、もう一回、お読み致します。

ルカ
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

ことばは人となった。「聖霊と処女マリヤをとおして生まれたのです」としか、書いていません。聖霊は神の創造的な力であり、マリヤという人間は受取人となり、生むために用いられた器となったのです。この転換は、どのようにして行われたのかという私たちのあらゆる問いに対して、聖書はただ、『聖霊によって』という答えを与えておられます。人の子、主イエスはしもべの形をお取りになりましたが、全く完全であり、すなわち、私たち人間でありながら罪を知らないお方でした。主イエスの内には、神のご性質が満ち満ちています。しかし、私たちが、主イエスのうちに神を見ることができるために、主は人のかたちを取ってくださったのです。


(二)文字となった神のみことばとしての聖書


第二番目は、文字となった神のみことばとしての聖書について考えたいと思います。聖書は、文字となった神のみことばであり、聖霊の働きによってできあがりました。神のみことばは、使徒と預言者をとおして語られ、また、書かれた人間のことばになりました。聖書は、しもべの形を取られた、すなわち、人間のことばの形を取られた神のみことばです。聖書は、人の子、イエス・キリストと同じように完全で、誤りがありません。聖書は、内容的にも、形式的にも完全です。

私たちが、神の御子から人になったみことばへの転換の奇跡を問う時、聖書は、『聖霊によって』というただ一つの説明として、私たちにお語りくださいます。ちょうど、それと同じ答えを聖書が私たちに与えてくださるのは、私たちが文字となった神のみことばの奇跡を問う時です。すなわち、それは聖霊によるのですと。

多くの人たちは、何とかして、この転換の奇跡を説明したいと思い、あらゆる可能な機械的な説明の試みをしてきました。たとえば、ちょうど先生が読み上げる文章を一字一字、生徒らが書き写すのと同じように、聖霊がみことばを使い、使徒と預言者たちが、それを一言一言、書き記したことではないかという解釈や学説もあります。しかし、決して、そうではありません。

創造主なる神は、人間をロボットのようにお造りになったのではなく、自由意志をもった人格としてお造りになったからです。しかし、いくら考えても、人間には説明がつかないので、聖書は単純に事実だけを述べて、『聖霊によって』という表現を使っておられるのです。

神の霊による霊感とは、まず、神の語られたこと、それから、人間をとおして受け取られたことだけではなく、みことばの伝播もそうなのです。したがって、みことばの伝播もまた、神のみこころと導きによるものです。

主なる神はご自身の啓示、すなわち、みことばを全人類に伝えるために、書物という手段を選びました。文字による継承、すなわち、受け継がれることは、口によるものよりも確かであり、広がることのできる領域は、空間的に制限されません。そして、また、時間的にも制限されず、いつの時代にも通用します。主なる神が、歴史上、アブラハムを通して、救いのご計画を実行し始めたとき、文字は既に、発明されていました。モーセは、エジプトのあらゆる知恵の中で教育されましたので、その中には当然、文字もふくまれていました。

使徒行伝
7:22 モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。

神ご自身がお書きになりました。

出エジプト記
31:18 こうして主は、シナイ山でモーセと語り終えられたとき、あかしの板二枚、すなわち、神の指で書かれた石の板をモーセに授けられた。

32:16 板はそれ自体神の作であった。その字は神の字であって、その板に刻まれていた。

また、モーセは、神のことばを書き記すように命令されたのであります。

出エジプト記
17:14 主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。」

24:4 それで、モーセは主のことばを、ことごとく書きしるした。

34:27 主はモーセに仰せられた。「これらのことばを書きしるせ。わたしはこれらのことばによって、あなたと、またイスラエルと契約を結んだのである。」

民数記
33:2 モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。

申命記
28:58 もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら、主は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。

サムエルも書いたと、聖書は言っています。

第二サムエル
10:25 サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。

エレミヤという預言者は、みことばを書くように要求されています。

エレミヤ
36:2 あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。

36:6 だから、あなたが行って、主の宮で、断食の日に、あなたが私の口述によって巻き物に書きしるした主のことばを、民の耳に読み聞かせ、また町々から来るユダ全体の耳にもそれを読み聞かせよ。

36:17 彼らはバルクに尋ねて言った。「さあ、どのようにして、あなたはこれらのことばをみな、彼の口から書きとったのか、私たちに教えてくれ。」バルクは彼らに言った。「エレミヤがこれらすべてのことばを私に口述し、私が墨でこの巻き物に書きしるしました。」

36:23 エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。

36:28 あなたは再びもう一つの巻き物を取り、ユダの王エホヤキムが焼いた先の巻き物にあった先のことばを残らず、それに書きしるせ。

51:60 エレミヤはバビロンに下るわざわいのすべてを一つの巻き物にしるした。すなわち、バビロンについてこのすべてのことばが書いてあった。

ダニエルも書き留めたと、聖書は言っています。

ダニエル
7:1 バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。

音楽が、あるときは竪琴、あるときはオルガン、あるときはバイオリン、あるときはラッパによって、自分の中にあるものを表そうと試みるように、主なる神は、語りたいと思うとき、全能なる力をもって、あるときは王、あるときは羊飼い、あるときは祭司、あるときは医者、あるときは神学者、あるときは漁師、あるときは取税人を選び、言い表わしたいことを表現いたしました。

神の御霊は、選ばれた一人一人の個性を用いて書かせました。神の霊は、人間に臨み、支配し、お用いになります。私たちは、聖書を書いた人々の言うことを聞くことができ、彼らの人間的な個性を見ることができます。彼らは、みことばをそれぞれの個性に応じて、宣べ伝えました。それは、確かに、人間のかたちによるものではありますが、完全なみことばなのです。

私たちは、いろいろな書物の作者の個性によって、聖書の中に、言い表わすことのできないほどの豊かさを見出すことができます。旧約聖書において、モーセは、教養の高い指導者であり、生まれながら民の指導者であり、レビの家系を持つ情熱的な男でしたが、もっとも柔和な人間となりました。イザヤは、王の家系を持つ預言者であり、すでに千年王国の約束された平和の国を見た者でした。そして、支配者の洞察力をもって、自分の時代を見透しました。エレミヤは、感受性の強い詩人の性質を持ち、イスラエルの民の苦しみと悩みを深く同情し、ともに耐え忍び、イスラエルの民に対してする神の悲しみを理解することができました。アモスは、羊飼いであり、羊飼いの経験する事柄を通して、主のみことばを宣べ伝えたのです。ダニエルは、賢い政治家であり、バビロン帝国の大臣であり、将来の世界史を主によって、見させることができました。エゼキエルは、祭司であり、宮の中の状態と将来の宮に対する目を開かれました。

新約聖書において、マタイは、取税人であり、天の御国に対する幻を持つことができました。ルカは、医者であり、罪人の救い主を見、この方の癒す能力を確認しました。ヨハネは、神秘主義者であり、神の御子の本質、ならびに主との交わりの本質を見ました。ペテロは、行ないの人であり、彼のいろいろな思い出は、マルコ伝に再現されており、彼の手紙の中では、主の将来が描かれています。パウロは、考える人であり、聖書の真理を、もっとも簡潔に言い表わす人となりました。ヤコブは、実践的な信仰の代表者です。

これらの人たちはみな、聖霊のご支配を受け、啓示を受け、駆り立てられました。彼らは、覚めた状態で神のみことばを受け取り、開かれた魂と、明晰な理解力をもって、覚めた状態で、みことばを書き記しました。彼らは、神のみことばを宣べ伝える器に過ぎなかったのです。しかし、大切なことは、聖書が常に神のみことばであること、しかも、完全で間違いのない人間のことばのかたちを取っているということです。

神のみことばでありながら、人間のことば、そして、また、人間のことばでありながら、神のみことば。いったい、そんなことがどうしてあり得るのでしょうか。聖書は、神の奇跡を私たちに説明してはくれませんが、証しをしてくれます。主イエスの処女降誕は、どうして可能なのでしょうか、人間は、年老いてから、どうして生まれ変わることができるのでしょう。このような私たちの問い、すなわち、「どうして」という問いに対して、聖書はいつも、「聖霊によって」、「聖霊の力によって」という答えだけを与えています。

みことばの霊感はどうして可能なのでしょうか。

第二ペテロ
1:21 聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った。

人間の口をお造りになった方が、この口を、自分の思い通りに使うことができないのでしょうか。

出エジプト記
4:11 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれがおしにしたり、耳しいにしたり、あるいは、目をあけたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。
4:12 さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」

私たちが召されたのは、神の奇跡を説明するためではなく、宣べ伝えるためです。聖書のことばは、どれもみな、神のことばです。聖書の中に書かれているひとつひつとのことばは、本当に神のことばなのでしょうか。それとも、一部分は神のことばで、他の部分は人間のことばというふうに、混ざり合っているのでしょうか。残念ながら、今日の大部分の神学校で教えられている事柄がそういうものです。すなわち、ちょうど混合物の中に含まれている金のように、神のみことばも、人間のことばの混合物の中に含まれているという考え方です。

しかし、もしも、そうだとするならば、どれが神のことばで、どれが人間のことばであるかを判断するのはいったい、誰なのでしょうか、という疑問が起こって来ます。両者を区別する権威は、どこにあるのでしょうか。神のことばと人間のことばを正確に区別することは、もっとも大切なことになるでしょう。少しでも間違った判断をするならば、それは悲劇的なことになるでしょう。すなわち、神が語られたことを人間が語ったと言ったり、その逆に、人間のことばを神のことばだと言ったりすることは、まことに悲劇的と言わざるを得ません。間違った判断によって、人間が永遠の滅びに行くこともあることを考えると、それはとんでもないことであると言わざるを得ません。

一言で言いますと、被造物であるちっぽけな人間は、これほど重大なことを判断する能力を持っていないということです。確かに、聖書の中には、神のことばがふくまれていると多くの人は言いますが、そのようなことは、確固たる土台とはなり得ません。そういう人々は、結局、はっきりとした確信を持てなくなってしまいます。そういう人々は、聖書を信じているかも知れませんが、みことばの何たるかを知らないのです。これこそ、現代人の絶望のもとです。

また、これは、多くの牧師の問題でもあります。彼らは、どれが神のことばで、どれが人間のことばであるかを区別できないために、人を導くことができないのです。医者が患者に薬を間違えて死なせるよりも、はるかに恐ろしい悲劇は、神のことばと人間のことばを間違えて判断し、教えることです。多くの教会で牧師は、確かに福音を語り、ただイエス様によってのみ救いが成就されると言われるのですが、聖書のことばが、まことに神のみことばであり、信頼するに足るものであることを伝えることができなければ、語られた福音も、十分な効力を発揮することができません。

聖書全体を、神のみことばとして受け取る者だけが、確信と安らぎと支えを持つことができるのです。人は、聖書を全部、神のみことばとして持つか、さもなければ、全然、持たないかのどちらかです。すなわち、人は聖書を神のことばとして完全に認識し、信仰と人生の土台を見出すか、さもなければ、聖書の要求を、現代人はとても信じられないこととして退け、聖書全体を失うかのどちらかです。

わかりやすい一例を挙げて、このことを説明してみましょう。列車で橋を渡れば、すぐ目的地にたどり着くことが分かっているとします。もしも、その橋が頑丈(がんじょう)な橋であれば、乗客はみな安心して乗りますが、その橋が危ないところもあるということが分かれば、誰も、その列車に乗って、その橋を渡ろうとはしないでしょう。聖書の場合も、同じようなことが言えるのではないでしょうか。つまり、聖書のある部分は確かで、別の部分は不確かであるとするならば、結果的には、聖書全体が不確かなものとなります。

今まで私たちは、二つのことについて考えて参りました。第一番目は、人間となった神のみことばとしての主イエス様。そして、第二番目は、文字となった神のみことばとしての聖書でした。


(三)旧約聖書についてのイエス・キリストの証し


続いて、第三番目の点、すなわち、旧約聖書についてのイエス・キリストの証しという点について、考えてみたいと思います。聖書のことばは、どれもみな、本当に神のことばなのでしょうか。私たちは、まだこの問いに答えるために、ただひとつの道を持っています。すなわち、私たちは聖書自身に訊ねなければなりません。

聖書が、聖書にふくまれているひとつひとつのことばが本当に神のことばであることを要求しているのでしょうか。そしてまた、聖書の一つ一つの文字が神の権威を持ち、それゆえに、永遠に続くものであるということを要求しているのでありましょうか。私たちは、このことについて、イエス様御自身よりも偉大な人に訊ねることができません。主イエス様こそ最高の権威なのです。パウロは、コロサイ書の中で、イエス様について、次のように書き記したのです。

コロサイ
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

この主イエスは、神の権威をもって、旧約聖書全体を神のみことばと言っておられます。しかし、神のみことばは、誰一人、改善したり、補ったり、変更したりすることのできない最後のみことばです。主イエス様は旧約聖書を百パーセント、信じておられました。そして、旧約聖書のひとつひとつのみことばは、イエス様にとって、手をつけてはならない神聖な神のみことばでした。主イエス様を信ずることは、旧約聖書に対して、同じように信頼を置くことを意味します。イエス様は、ひとつひとつのみことばが聖書に書いてあることを何でも、保障してくださり、旧約聖書全体が真理そのものであることを、はっきりおっしゃいました。

ですから、私たちは、聖書のことばが、どれもみな神のことばであることを、他の方法で証明する必要はありません。真理そのものである主イエス様が、聖書の霊感を、百パーセント信じておられますから、私たちもまた、聖書の霊感を信ずることができます。世の光であるイエス様は、いろいろな疑いの影を、すべて追い払わなければなりません。主のみことばは、あらゆる人間のことばや、理解力にまさるものです。聖書の霊感に対して、決定的に大切なものは、イエス様のお取りになられた態度でした。

聖書は、イエス様にとって、力の源でした。イエス様が、旧約聖書のみことばを引用する時、その確信は、巌(いわお)のように堅固なものでした。神のみことばは、真理そのものであると、信じて疑わなかったお方です。主イエス様が、聖霊による荒野に導かれたとき、悪魔と言う恐ろしい敵に立ち向かうただ一つの武器は、みことばの力だけでした。

マタイ
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:2 そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

もしも、イエス様がみことばに対して、ほんの少しでも疑いを持っていたならば、すべては崩れ去り、敗北者となっていたことでしょう。みことばこそ、イエス様が勝利を治めることのできた武器だったのです。みことばに頼らない者は、悪魔の餌食になってしまうのです。イエス様は旧約聖書の歴史的な出来事をも、百パーセント信じていました。

マタイ
22:31 それに、死人の復活については、神があなたがたに語られた事を、あなたがたは読んだことがないのですか。
22:32 『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。

22:29 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」

「あなたがたは読まなかったのですか?」これは、パリサイ人に対する、驚いた主イエスの問いでした。そしてまた、イエス様は、創造の報告の完全な霊感をも信じておられました。

マタイ
19:4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
19:5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。」

そしてまた、イエス様は、ノアの洪水の報告をも、信じておられ、ノアの歴史的な人格をも信じておられたのです。そして、主イエスは、創世記がイエス様のことについて、報告していることを文字どおり、信頼しておられたのです。

ルカ
17:26 人の子の日に起こることは、ちょうど、ノアの日に起こったことと同様です。
17:27 ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていたが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました。

それゆえ、主イエス様は、モーセがほんとうに、ご自分について書き記したことを、私たちに証明しておられます。

ヨハネ
5:47 もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです。
5:47 しかし、あなたがたがモーセの書を信じないのであれば、どうしてわたしのことばを信じるでしょう。

モーセを信じない者は、主イエスを偽り者にします。また、イエス様は、詩篇の一箇所を引用して、ダビデがご自身について書き記していることを、私たちに証ししておられます。

マタイ
22:43 イエスは彼らに言われた。「それでは、どうしてダビデは、御霊によって、彼を主と呼び、
22:44 『主は私の主に言われた。「わたしがあなたの敵をあなたの足の下に従わせるまでは、わたしの右の座に着いていなさい。」』と言っているのですか。」

また、イエス様は、預言者、ヨナについて書かれていることを文字通りに、信じておられました。

マタイ
12:40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。

ヨナが三日間、大魚の腹の中にいたのと全く同じように、確実に、主イエス様は三日間、墓の中におられました。もしも、人がどちらか一方を疑うならば、もう一つの方も疑わしいものにならざるを得ません。主イエス様は、十字架上で死の時を迎え、聖書のみことばが、どれもみな、神のみことばであることを、はっきりと証しなさいました。主イエスは、詩篇のひとつひとつのことばをお取りになり、それが、ご自身の死の瞬間に成就されたことをご存知でした。

ヨハネ
19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。

よみがえりの後、主がもはや、しもべのかたちではなく、再び、神の全き栄光をお持ちになられたとき、旧約聖書のみことばは、主にとって再び、主の宣べ伝えた土台と内容になりました。

おわり

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