2015年7月7日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
創世記
3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。
3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」
3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
3:13 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」
3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
3:20 さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。
3:21 神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。
3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
今日は、引き続いて、主の御心とはいったい何でしょうかということについて、考えたいと思います。聖書の中で、いちばん、よくまとめられている箇所は、皆、暗記しているヨハネ伝三章の十六節から十八節まで。皆、わかっているけどもう一回読みましょう。
ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。(・・・・『世』とは人間ひとりひとりという意味です・・・・)それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。
イエス様は、こう言われました。確かに、人間が永遠のいのちを持つ、これは、主の意図されている心です。
主なる神は、この永遠のいのちを、パラダイスのアダムとエバに、いのちの木という象徴を通して、お与えになろうとしました。けれども、主は、アダムとエバに、「いのちの木を食べなさい!」と強いることはしませんでした。主は、決して、強制なさいません。そして、アダムとエバが、毎日、いのちの木の実を食べていたなら、神のいのちを持つようになったのです。
アダムとエバは、自分たちのために用意されたいのち、すなわち、イエス様を、信仰によって持つに至ったのです。アダムとエバが毎日、いのちの木の実を食べていたならば、だんだん、イエス様の御姿に似た者となったにちがいない。それは、主なる神の御心でした。これを考えると、主なる神のなされたこの提供は、何と偉大なる恵みの提供だったかということが良く分かります。
罪のため、人間のわがままのために、アダムと神との交わりは、断ち切られました。アダムといのちの泉の結びつきが、断ち切られてしまったのです。以前には、信仰と愛の交わりがあったけど、今は、恐怖と恥辱の交わりになってしまいました。また、罪によって悪魔との結びつきが生まれました。
アダムは、悪魔の権力の下に入れられました。アダムは、敵に意識して降参したのですから、悪魔は、今や、アダムを合法的に支配するに至ったのです。罪によってアダムは、自身の内に死にました。アダムは、主から離れ、暗闇に入りました。アダムの性質は、主に対してメクラとなり、主に対して死んだ者になってしまったのです。アダムの魂は、導きを失いました。アダムの体の中には、死の芽が根を出したのです。
さて、アダムの堕罪は、全人類に影響を及ぼしました。はっきりと定められている遺伝の法則によって、全人類は、すべて罪だらけの命を持つようになってしまったのです。これを考えると、この破局が、いかに重大な結果を引き起こしたかが良くわかります。
今日は、三つの点に分けて、考えたいと思います。第一番目、考えも及ばないほど絶望的な、アダムの状態。二番目、書き表わすことのできないほど、難しい問題。三番目、言い表すことのできないほど、すばらしい逃れ道。
アダムは、悪魔の奴隷になってしまったのです。善悪を知りましたけど、その善を行う力を持っていませんでした。結局、アダムは罪人になりました。神の裁きと、主の呪いの下に立ちました。
自然もまた、同時に呪われてしまったのです。地は、前よりも実りが少なくなってしまいました。その時以来、人間は、金を稼ぐために日々、汗をして働かなければならなくなってしまったのです。
アダムとエバの目は開け、自分の罪が解るようになりました。自分自身を恥じるようになりました。アダムとエバは、主に近づいて、自分の悩みに満ちた状態を、主に訴えることをしないで、自分たちで裸を覆うために、イチジクの葉をつづり合わせ、腰に巻いたと書いてありますね。
創世記
3:7 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。
アダムとエバは、行いによって、救いを得ようと試みました。その時以来、人間は、同じことをやっているのではないでしょうか。自分の罪と、債務を覆うために、着物を作り、それで身を隠します。すなわち、自分で良い行いをし、自分を包み、神はこれで満足すると思い込んでいます。
これは、全く意味のない役に立たないことです。主を信じていない人は、誰でも、このアダムと同じように、考えることのできないほどの絶望的な状態にあると、聖書は言っています。その人々が、それを認めている、いないは、問題ではありません。イエス様を持っていない人は、生けるまことの神から離れていて、悪魔の奴隷となっている者です。イエス様を信じない、体験的に知るようになっていない人は、主なる神に対して死んでおり、主なる神との結びつきが、少しもありません。
イエス様を信じない人は、自分の考え、自分の感じ、自分の欲することが鈍くなり、悪魔と自己と罪によって、支配されている人です。どんなに努力しても、人間が真の救いを得ようとする努力は、全く無駄です。何という、考えることのできないほどの絶望的な状態でありましょう。
アダムは、確かに騙されましたけど、彼は、祈らなかったから、主なる神に尋ねなかったから、エデンの園から、追放されるようになりました。なぜかと言いますと、罪だらけのアダムが楽園に留まったならば、楽園は地獄となったからです。もし、アダムが、永遠のいのちの木の実を食べることによって、永遠のいのちを持ったならば、楽園は、永遠の地獄となったでしょう。
創世記
3:22 神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」
3:23 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。
3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。
人間が永遠のいのちを持つことは、主なる神の願ったところ、意図されたところでした。すなわち、主なる神は、人間が自分の子供になることを欲したのです。人間が神の子となるには、永遠のいのちを持たなければなりません。主なる神は、人間がご自分の子となるために、永遠のいのちの木から選び取ることを欲したのですが、けれども、それは、アダムの堕罪により、不可能になってしまったのです。悪魔は、『自分は勝った、神の御心は駄目になった、人間は自分の奴隷となった』と、勝ち誇ったでしょう。
主なる神の判断は、次のようなものです。コリント第一の手紙の十五章、いわゆる『よみがえりの書』と呼ばれたところです。
第一コリント
15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
創世記の中で、「主は、わたしの霊は永久には、人のうちに留まらないであろう。それは、人が肉にすぎないからだ」とありますね。ヨハネ伝の三章、イエス様が聖書学者であるニコデモに言われたことばです。
ヨハネ
3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
この聖句を見ると、人間に関しては、人間は永遠に罪の中に暮らさなければならないということが分かります。人間は、自分自身を救うことはできません。人間が自分自身を救い得るなどということは、悪魔の嘘にしかすぎません。人間は本来、罪の精神を持つ者となりました。
鳥の本性は、飛ぶことです。魚の本性として、魚は泳ぎます。人間の本性は、罪を犯すことです。人間は、罪を犯したから罪人なのではなく、罪人だから、罪を犯すのです。人間の本性は、罪人です。
パウロは、ローマにいる兄弟姉妹に次のように書いたのですね。
ローマ
6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ(ません。)
ですから、死の刑罰は、絶対に逃れることのできないものです。アダムは、考えもつかないほどの絶望的な状態に陥りました。アダムは、主なる神から離れましたが、これは、アダムの霊的死を意味していました。
人間は、霊によって、神を認めることができるのですけど、罪を犯すことによって、霊がだめになり、もはや、神を認めることができなくなってしまったのです。アダムは、望みのない死の状態におりました。それは、全く望みのない絶望的な状態でした。「私は勝った。神の御心がだめになった。人間は、自分の奴隷となった」と、悪魔は大いに喜んだに違いない。
けれども、それは終わりだったかな?決して、そうではありません。なぜなら、主の御心は、この堕落したどうしようもない人間を救うことだったからです。ところが、誰が、人間を救うことができるのでしょうか。救いとは、主なる神との交わりをもたらすことです。救いとは、いのちの泉との交わりをもたらすことです。人間が、このいのちの泉との交わりを持つならば、その霊、魂、肉体は生き返り、救われるのです。けれども、誰が人間を救い得るのでしょうか。
死人は決して、神のいのちとの交わりをもたらしません。すべての人は、罪の本性を持っており、霊的に死んでいますから、人間を救うことはできません。人間は、自分でいのちの泉の道を、見出すことができません。
どんな宗教も、主なる神との交わりへの道を見つけ出そうと、試みています。また、それを人間の力で成そうと、試みていますけれども、それは全く意味のない、無駄な努力です。屍が山を登ることができないのと同じように、人間は、自分の力で主なる神への道を見つけ出すことはできません。
よく知られている箇所ですけど、ルカ伝の十章から、二、三節、お読みいたします。
ルカ
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
『良きサマリヤ人』の場合、半殺しにされた旅人は、自分で自分を救うことはできませんでした。この旅人を救ったのは、他国の人でした。同じ国の人は、また、いかなる宗教も、旅人の絶望的状態を救うことはできませんでした。
人間は決して、同じ人間を救うことはできません。主の側からの働きがなければいけない。主なる神は、自分から離れ、罪人になった人間を探しておられます。主なる神は、アダムに、「あなたは、どこにいるのか」と、尋ねられました。もちろん、主は、今日も同じように探しておられるのではないでしょうか。すなわち、『トオル、ケイコよ、マチコ、マサルヨ、ヒロシよ、あなたは、どこにいるの?』と、探しておられるに違いない。
主は、救うために人々を、ご自分の方へ招いておられます。主なる神はアダムに、「あなたは救われる」と救いを明らかにされました。すなわち、主なる神は、アダムに救いの本質とその働きについても話されたのです。
創世記
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。
ここには、はっきり預言されたのです。救い主が、女から来る。二番目、救い主は、悪魔に打ち勝つ、そして、三番目、救いの代価は苦しみであるということが、はっきりと預言されたのです。
イエス様は、処女から生まれたのです。そして、十字架で、悪魔に打ち勝つ。そして、救いの代価は苦しみであろうと言うことが、はっきりと預言されました。イエス様は、処女から生まれました。そして、十字架で悪魔に打ち勝ちました。救いの代価は、救い主のいのちであり、苦しみでした。
イエス様は、確かに、処女から生まれましたし、それだけではなく、十字架で悪魔に打ち勝ちました。そして、救いの代価は、救い主のいのち、流された血でした。
アダムは、考えもつかないほど絶望的な状態に置かれました。けれども、主なる神は、その罪人を、その悪魔の奴隷を招き、ご自分がお救いになることを預言されたのです。イエス様は勝利者であり、人間一人ひとりのために犠牲になられた。
簡単に言えますし、どういう意味か、今、生きているあいだには、はっきりつかめません。悪魔でさえもそれを予想しなかったと思う。イエス様を犠牲にする――父は自分自身を犠牲にすること、けれども、本当なんです。
イエス様は勝利者です。この偉大なる主を信じる特権を持つのは私たちです。それだけではなくて、この偉大なる主に仕える特権を持つのは、すばらしいことなのではないでしょうか。
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