2015年7月12日日曜日

主が望んでおられること

主が望んでおられること
2015年7月12日、御代田喜びの集い
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

イエス様に出会った人々の切なる願いとは、いったい何なのでしょうか?すなわち、イエス様とまだ個人的に出会っていない人々、主なる神との和解を受け、イエス様の提供されている赦しを受け取り、まだ主なる神との平和を、自分のものに受けていない人々に、イエス様に出会ってもらいたい。イエス様を自分の救い主だけではなく、自分の支配したもう主として受け入れることなのではないでしょうか。

今日はどういう集いなのでしょうか?今日の集いの目的とはいったい何なのでしょうか?言うまでもなく、愚かな人間は、何と何と何を成すべきかではない。イエス様は、何を成してくださったかということです。

イエス様を紹介することとは、信じる者にとって最高の特権なのではないでしょうか。私たちが皆、口をそろえて言うことができればありがたい。すなわち、『イエス様は何でもできるお方です。だから、この主に頼ろう!』と、毎日、新しく決心すれば、ありがたいのではないでしょうか、

なぜならば、イエス様のない人生は、無価値です。無意味です。イエス様のみが、永遠のいのちを与えることができ、本当の満足を与え、すべての問題を解決することができるお方であるからです。

いつものように、今日の集いは、喜びの集い。どうして?悔い改められるからです。これは、恵みそのものです。なぜならば、へりくだれば、悔い改めれば、オーケーだからです。

それだけではなく、イエス様の忠実さを褒めたえる日でもあります。イエス様は我々に、『わたしは決してあなたを離れず、あなたを捨てない』と約束してくださったから、我々は本気になって、主の約束を信じ、すべてをゆだねることができるから、主は、ご自分の約束を守ってくださり、導いていてくださるからです。

我々の願いとは、自分の人生において、最優先されるべきであるのは、イエス様だけです。今、読んできてくださった箇所は、みんな何回も読んだし、すばらしい箇所です。

第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

人間はみんな、等しく、幸せになりたいと思っておられます。なぜならば、幸せにならなければ、全部、おもしろくない、意味のないものになってしまうからです。『これが、イエス・キリストにあって、神があなた方に望んでおられることです』と書いてありますが、どうでしょうか。

これこそ、主なる神の思っておられること、願っておられること、望んでおられることです。

言うまでもなく、キリスト教に入ることではない。あるいは、特別な教えを信じ込むことでもない。また、自分の知恵、自分の力によって、より良い人間になることでもありません。主なる神の要求とは、主なる神の命令とは、今、読んでもらいました箇所を見ると、三種類です。

第一番目、いつも喜んでいなさい。たまにではない。一日おきでもない。日曜日ごとにでもない。いつも!

喜ぶことの大切さについて、聖書の中で、何回も何回も書かれています。私は数えてないけど、専門家が数えたんですって。旧約聖書の中で358回、『喜び』という言葉が出てきますし、新約聖書の中で133回、合わせて523回、喜ぶことの大切さについて述べられています。

もちろん、いちばん大切な言葉は、『キリスト・イエスにあって』という言葉です。すなわち、この誰からも奪われることのない喜びの秘訣は、イエス様です。イエス様を知り、生き生きとした交わりを持つことにより、あらゆる人間的な思い、例えば、孤独、傲慢、自分中心の利己主義、そして、絶望など、あらゆる悩みが解消してしまいます。

そして、他方においては、本当の喜び、平安、満足が与えられます。イエス様は我々に、まことの救い、すなわち、罪の赦しを与えるために、この世に来てくださり、救いの代価を払って、犠牲になったのです。

このイエス様を体験的に知るということは、結局、永遠のいのち を持つことにほかならない。イエス様との交わりの中にこそ、本当の喜び、絶えざる喜びの源があります。すなわち、イエス様こそ、いのち、希望、喜び、平安の泉そのものであるからです。

一言で言いますと、イエス様によって、全ての悲しみは、喜びに変わります。イエス様によって、仕事の重荷が、喜びに変わります。イエス様によって、疲れ果てたものが、新しい力を得ます。イエス様によって、あらゆる人間的な努力の虚しさや焦りが、全き平安と安らぎの静けさに変わるのです。

本当の喜びの泉は、イエス様ご自身に他ならない。イエス様がこの地上に来られた時、み使いが言ったのです。『恐れることはありません。今、わたしはこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。この方こそ――、あなたがたのために救い主が生まれた――この方こそ、主キリストです。』

変わらない喜びがなければ、人生は全くおもしろくなくなってしまいます。変わらない喜びがなければ、人生は退屈なものになってしまいます。主の御心である聖書を通して提供されているすばらしい喜びは、単なる楽しみ、一時的な問題の解決ではない。ずっと大切なものです。

聖書を通して提供されているすばらしい喜びは、絶えざる幸せを、心の底から感謝させるものであり、そして、全く平安に導き、完全に父なる神の御手の中に守られていることの確信を強めてくれるものです。

マタイ伝一章に書かれています。『マリヤは、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その罪から救ってくださる方です』と。

あらゆる人間のどうしても必要なものは何でしょうか。言うまでもなく、罪の赦しを得ることです。なぜならば、罪が赦されると、主なる神との交わりによってのみ人間は満たされ、幸福とされ、幸せになるから。すなわち、誰からも奪われることのない、喜びの根拠は罪の赦しです。

罪の赦しこそが考えられないほどすばらしい贈り物です。罪は、確かに人間と真の神の間にある隔ての壁です。けど、イエス様の犠牲によって、主イエス様の身代わりの死によって、この人間と神との隔ての壁が取り去られました。

身代わりとなる方がなければ、罪のない方が代わりに死ななければ救いの道がない、罪の赦しはないと、聖書は、はっきり言っているのです。イエス様が十字架で死んでくださったとき、イエス様は、私たちの代わりに死なれました。すなわち、イエス様の死は、人間の罪、過ち、わがままに対する罰、裁きでした。

イエス様の死によって、罪は罰せられたから、今になって、聖なる主なる神は、我々の罪を赦すことができるようになったのです。そして、主は赦すと、もちろん、忘れます。我々人間は時々、過去について考えると、いろいろなことを思い出すのです。忘れようと思っても、なかなか、うまくいかない。イエス様に告白した過ち、わがままは、赦されるだけではない。忘れられます。

わたしはあなたの罪を思い出さない。これこそが聖書の中で、もっともすばらしい約束のひとつなのではないでしょうか。

主の約束を信ずる者はオーケー。救われます。結果として罪は赦され、主なる神との平和と永遠の命を持っていることになります、そして、これこそが真のよろこび、誰からも奪われることのない喜びの根拠です。変わらない喜びは、我々自身の中にあるのでもなく、また、私たちが持っているものや周囲のものの中にあるのでもなく、ただ、イエス様のご自身の中にあります。

イエス様に結びついていること、赦されているということこそ、想像できない素晴らしい喜びです。すべての他の喜びは、過ぎ行くものであり、永遠に続く喜びではない。

ここで、『いつも喜んでいなさい』と、主は命令しておられます。これこそが、主の思いであり、主の望んでおられることです。悲しさ、落胆、敗北感は禁じられています。主は、私たちがいつも喜ぶべきであると、強く言っておられます。この主の命令に対して、不従順な態度を取ることは罪であると、聖書が言っています。

第二番目、絶えず祈りなさい。祈ることこそが、人間にとってもっとも大切です。我々も天国へ行ってから、もう嬉しく嬉しくしかたがない。けど、後悔するところはあると思う。生きている間に、もっと祈っていたらよかったのに!主は答えようと望んだけど、我々は祈らなかったから愚かだったと、誰でもが認めざるを得ないのではないでしょうか。

祈らないものは惨めです。憐れむべき存在です。祈らないものは、喜びがないし、実を結べないし、主によって使われるものにならない。用いられ得ません。

いったいどうして、多くの人は、打ちのめされているのでしょうか。ほとんど祈らないか、ほんのわずかしか祈らないからなのではないでしょうか。なぜ、多くの敗北を体験するのでしょうか。ほとんど祈らないか、祈ったとしても、ほんのわずかしか祈らないのではないでしょうか。なぜ、わずかな人々しか、暗闇から主の光の中に導かれないのでしょうか。ほとんど祈らないか、あるいは、祈りが少なすぎるからなのではないでしょうか。

何でもできるお方は、もちろん、以前と同じように全能なる主です。以前と同じように、今もなお、人を救おうと願っておられるお方です。すなわち、主の御手が短すぎて、すべてを助けることがおできにならないのではない。すべての失敗の原因は、我々の不十分な祈りの生活にほかなりません。

祈りによって、私たちは、全能なる主の力を用いることができます。すなわち、私たちが祈るとき、全能なる主は、奇蹟を行ってくださいます。残る実は、いつも、真剣な祈りの結果です。

我々の人生の目的とは、いったい何なのでしょうか。それは知恵でも名誉でも力でもなく、永遠の実なのではないでしょうか。そして、この実は、ただぶどうの木であるイエス様と結びついている時にのみ、実を結ぶのです。主と結びついていなければ、そして、祈りの生活がなければ、後に残る実身を結ぶことはできません。

だから、絶えず祈りなさいと、命令されています。どうして?これこそが、主の望んでおられることです。主の恵みによって、祈りの人になりましょうよ!そうしたら、自分自身、変わります。家族も、知り合いの人々も、友だちも変わります。

そうしたら我々自身も必ず、違うものになります。絶えず祈ることは、自分勝手な行いをせずに、主にだけより頼むことです。主により頼むこととは、大いなる特権です。

私たちが祈るか、祈らないかということは、我々にとって、どうでもいいことではない。絶えず祈ることは、主の命令です。そして、今、話したように、主の命令に従わないことは罪です。

最後に、第三番目、全てのことについて、感謝しなさいと書いてありますね。

もし、たまに喜びなさい、日曜日ごとに喜べ!と言われれば、なるほどと、誰でも思うでしょう。けど、主は、いつも喜びなさいと命令しておられます。もし、時々、祈りなさい、少なくとも朝と晩と言われれば、誰でもが、そうでしょうと賛成します。けど、主は絶えず祈りなさいと、命令しておられます。

そして、今度は、あることについて感謝しなさいと言われれば、分かった、分かったと誰でも思うでしょう。けど主は、全て――『全て』は『全て』です――全てのことについて感謝しなさいと、命令されています。全てのことについて感謝しなさい。

全てのことを通して、私たちは、結局、イエス様をよりよく知るべきです。

イエス様をよりよく知ることとは、最も価値あることなので、私たちは、意識して、全てのことについて、感謝しようではありませんか。私たちは、いつも喜ぶことができる、絶えず祈ることができる、全てのことについて、感謝することができると、思っているわけではない。無理だよ。絶対にできないと、大部分の人は確信しているのではないでしょうか。

イエス様は、はっきり言いました。わたしを離れては、あなたがたは何にもすることができません。イエス様から離れて、誰からも奪われることのない喜びを知ることができないし、絶えず祈ることもできないし、全てのことについて、感謝することができません。無理!全く不可能!

けども、よく知られているヨハネ伝15章の姿をご覧くださいますと、イエス様ご自身が、まことのぶどうの木であって、そして、あなた方はその枝であると言われています。木の幹は、その枝に力を送って、枝が多くの実を結ぶことができます。ぶどうの幹には、力と命が満ちています。

イエス様は、約束してくださいました。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は、多くの実を結ぶことができる。

イエス様から離れては、私たちは、本当の意味で信じることも、祈ることも、悔い改めることも、愛することも、感謝することもできません。少しもできません。それは、イエス様の言葉です。そして、イエス様は、何事でも大仰に言われないお方です。

私たちは、告白すべきです。すなわち、私たちは、主の願っていることをちゃんと分かっているけど、守ろうと思っても、無理です。全く不可能です。だから、私たちは、何でもできるお方に頼る。主に頼ること、主に寄りかかることは、結局、泉とつながることを、意味しているのです。

我々の学ぶべきことは、ペテロが経験しなければならないことです。それを最後に読んで終わります。

ヨハネ
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。

まったく主に寄りかかるということが、実を結ぶこと、また、祝福された信仰生活を送ることの秘訣なのではないでしょうか。イエス様に寄りかかることこそが、まことの自由そのものを意味しています。

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