2015年7月19日、御代田福音集会
ゴットホルド・ベック
マタイ
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
4:1 さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」
4:11 すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。
今日のテーマは、勝利者なる主イエス、あるいは、完了したと宣言された主イエス、あるいは、悪魔に対する勝利、という題名をつけることができるのではないかと思います。
イエス様に出会った人々は、イエス様に従って行こうと心から願っています。即ち、イエス様が人生の土台であり、人生のすべてであり、そして同時に、人生の目的であるべきです。
マタイ
4:10 あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。
この箇所は、イエス様が荒野で試みられたときに語られたものです。この箇所を見ると確かに分かる。イエス様は偉大なる、比類なき勝利者です。ただ、逆境においてのみ、また、困難の中においてのみ、人は初めて自分の内にいったいどんなものが潜んでいるかを知るようになるのではないでしょうか。
イエス様は、ここで言い表わすことができないほど深い、非常な苦しみの中に置かれていました。イエス様はこのとき、悪魔の誘惑のうちに試みられたのです。けど、この試みの中にあって、なお、私たちはイエス様の偉大さを知ることが出来ます。4章1節に御霊に、悪霊ではない、御霊に導かれたことが分かる。即ち、イエス様は100パーセント御霊によってのみ導かれたのであって、ご自分からはことを行うことなどあり得なかったのです。一瞬たりとも、イエス様は、ご自分の思うところに従わなかったのです。いつでも、イエス様は自分の考え、自分の感情、自分の意志によって行動したことはなかったのです。
ヨハネ
14:30 わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。
ここで、悪魔が『この世を支配する者』と呼ばれています。どうして、悪魔は『この世の支配者』でありながら、イエス様に対しては何もできなかったかと言うと、イエス様はいつも天の父に対しては、如何なるときにも全く服従なさったのであって、その従順なイエス様に対して、悪魔はもう何もできませんでした。ここで、二つの世界がぶつかるんではないでしょうか。一つは『主なる神の世界』。一つは『悪魔の支配する世界』。それは光と闇、真実と偽りの対立であります。
マタイ
3:16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
父なる神、また、御子なる神であるイエス様、そして、御霊なる神は、『世の救い主』を示しました。イエス様は洗礼を受けられ、その洗礼を受けることによって、自分のいのちを世の救いのために捧げることを明らかにしてくださったのです。マルコ伝の中の一番、大切な1節ではないかと思います。
マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。
イエス様が洗礼を受けられたとき、天が開けて御霊がくだり、次の声が聞こえました。
マタイ
3:17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」
これこそが、三位一体の啓示そのものなのではないでしょうか。私たちはこの箇所を読むとき、イエス様のみが父のみこころなる神の喜びであることが分かります。誰でもイエス様を自分の救い主として受け入れた者は、主なる神の愛を体験することができます。
主なる神の愛は、その御子イエス様を受け入れて、悔い改めた者の上に注がれます。
エペソ
1:6 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
誰でもイエス様を受け入れる者は、永遠のいのちを持ち、主なる神に喜ばれる者となったのです。けれども、イエス様を拒む者は、主なる神の怒りがその上にとどまる、と聖書ははっきり言っています。
40日の間、イエス様は荒野におられ、断食をして、祈られたと書いてありますね。それは、主のこの世における公の奉仕の準備のときでした。祭司でも、預言者でも、王様でも、油を注がれることなしに、その務めに入ることは許されなかったのです。油の注ぎは、聖霊に満たされることを象徴します。荒野での体験は、イエス様のこの世のために全く自分を捧げる準備が出来ていることを明らかにしています。そしてその生涯の終わりに、イエス様は次のようにいうことができたのです。祈りの中です。
ヨハネ
17:4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
地上において主なる神の栄光を現わすことは、初めての人間であるアダムの務めだったのです。すべてのものが、この初めての人間であるアダムにゆだねられていました。
そのとき、ただ一つの条件が与えられており、それは全き主の支配のもとに、生活をするということでした。その時、すべての被造物の支配者であるアダムは、楽園に住んでいましたが、悪魔に誘惑されたとき、耳を貸し、悪魔のことばを信じてしまいました。彼は自分の考えと、思いによって、主なる神に逆らう道を選んだのです。神から離れることによって、アダムはすべてのものを失ってしまいました。
聖書の中でよく、最初のアダムと最後のアダムという表現を使っているのです。いわゆる、甦りの書、コリント第一の手紙の中で書いてあります。
コリント第一の手紙
15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
15:46 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
聖書はイエス様のことを、最後のアダムと呼んでいます。この最後のアダムも悪魔の試みにあいました。けれど、この最後のアダムであるイエス様は、第一のアダムのように楽園におかれたのではなく、まさにこの荒野において、悪魔の誘惑を受けたのです。またイエス様は、第一のアダムのように決して支配者の立場を取られようとせず、身を低くして貧しい者の姿をとられました。礼拝のときによく読む箇所です。
ピリピ人への手紙
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
イエス様は全く従順であられたが故に、この世の滅びゆく全人類の救い主となられました。父なる神に対する『全き服従』を通して、イエス様は第一のアダムが失ったすべてのものを再び得られました。第一のアダムはその不従順によって神の栄光を失いました。
ローマ
3:23 すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。
人間は神の怒りを受ける者となってしまった。エペソ書2章3節によると、人間は神の怒りを受ける者となってしまった。そして、悪魔がこの世の支配者となってしまいました。パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。
コリント第二の手紙
4:4 この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
イエス様の受けられた3種類の誘惑についてちょっと考えたいと思います。
旧約聖書の中で、来るべき救い主はどういう方であるか書かれています。すなわち、祭司として来られる。そして、預言者として来られる。そして、王として来られるあります。そして、このマタイの記事の中でも、イエス様がまことの祭司、まことの預言者、まことの王として書かれているのを、見ることができるのではないでしょうか。
最初の誘惑を通して、イエス様おひとりだけが、この世において全く罪のないお方であることを知ります。全く罪のないイエス様は、同時に、まことの祭司であり、仲介者であります。この試みを通して、イエス様はご自分が、この人類を完全に救う能力をもっておられることをお示しになりました。
第二番目の誘惑を通して、イエス様おひとりだけが、決して、偽ることのないお方であられることを証明なさいました。まことの預言者として、イエス様は悪魔の偽りをはっきりと拒否されました。
そして、第三の試みを通して、イエス様は、ご自分が悪魔に対する完全なる勝利者であることを示されました。まことの王として、イエス様はすべての誤った礼拝を拒否されたのです。
最初の試みは、『もし、あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい』と悪魔は言ったのです。神の子とは、言うまでもなく神です。イエス様は肉体を取った永遠なる神です。『悪魔』とは、単なる影響力とか、単なる力ではない。一つの人格者を持つものです。悪魔は、この世の支配者と呼ばれています。悪魔の目的とするところは、人をその滅びの罠へと導き、永遠の破滅へ陥れることです。聖書は、悪魔のことを、『訴える者』、『偽る者』、『人殺し』と呼んでいます。
イエス様は、もちろん簡単に、石をパンにすることができたのです。『アブラハムの子孫を起こすことがおできになる』と言われたのです。
その事実として、イエス様はただ五つのパンで5千人もの男子の空腹を満たしました。そして、12かごのあまりさえ出たほどでした。イエス様は、悪魔の攻撃に対して、次のみことばで応じられました。
申命記
8:3 それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
イエス様は、人として、天の父なる神に、全く服従の立場をとられました。イエス様は、この地上においてただ父なる神の栄光を現わすことのみを願われ、ただの一度も自分のために生きようとはなさいませんでした。父なる神のみこころを行なうことのみが、イエス様の唯一の願いであり、喜びでした。詩篇の作者は次のように書いたのです。
詩篇
40:8 「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」
40:9 私は大きな会衆の中で、義の良い知らせを告げました。
これこそ、確かにダビデの言ったことですが、イエス様こそが、こういう気持ちでいっぱいでした。イエス様の言葉が書き記されています。
ヨハネの福音書
4:34 わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。
石ころからパンを作ることは、決して罪ではありません。けれど、イエス様はただ一度さえも、自分の思うままに行動なさろうとはしなかったのです。
ヨハネ
5:19 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、(・・・・結局、私は・・・・)父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。
5:30 わたしは、自分からは何事も行なうことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです。
8:28 また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。
イエス様は、自分の自由意志でもって、喜んで、心からご自分の生涯を父なる神のみこころと導きのうちに投じました。そしてイエス様は、自分が天の父に服従するのを妨げるすべてのものを退けました。
私たちは、次のことに注意を向けなくてはならない。即ち、イエス様の勝利の秘訣は、常に、私たちのための御心を知ること、また主のみことばへの全き服従にかかっているということです。
イエス様は攻撃された時、いつも武器として、みことばだけを使ったのです。御言葉とは本当に素晴らしい武器です。どうしてしょう?みことばとはなんでしょうか?ダビデは、光だよと言ったのです。言葉は我々に光を現します。詩篇119篇、皆、暗記している箇所ですけど、
詩篇
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
これは、ダビデが何回も、何回も経験したことです。みことばがなかったならばもうお終いと、彼は思ったのです。御言葉は光を現します。それだけではない。2番目、御言葉は大きな喜びを与えます。
詩篇
119:162 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。
御言葉を与えられたと言える人は本当に幸せです。エレミヤという男は苦労した男でした。何をしゃべっても誤解されます。主の言葉を話すと必ず否定されます。それだけじゃなく刑務所にも入ります。確かに入っちゃった。けど、彼がなんと言ったかといいますと、皆さん、暗記している言葉ですけど、
エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。・・・・
分かったのではなく、理解したのではなく、食べちゃった。結局、自分のものにした。
エレミヤ
15:16 ・・・あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
喜ぼうと思ったら、御言葉を食べて!効果は、不安から、心配から解放されます。そして、みことばは真理そのものです。
詩篇
119:160 みことばのすべてはまことです。
イエス様は同じ言葉を使いました。祈りの中で告白されたのです。
ヨハネ
17:17 あなたのみことばは真理です。
イエス様は決してパンをもって人を従わせようとはなさいませんでした。人は物質的に多く恵まれていても、心の奥には常に大きな餓え渇きをもっているものです。今日、我々の背負っている最も大きな問題の一つは、私たちが物質的にそのように豊かになったにも関わらず、心のうちでは貧しく、餓え渇いていることではないでしょうか。
マタイ
4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
『神の口から出ることば』とは、いったい何を意味しているのでしょうか。それはまさに聖書に書かれている『神のみことば』であり、同時にそれはイエス様ご自身を現わしています。イエス様のひとつの名前は、『神の子供』であります。
ヨハネ
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。
6:35 わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
『わたしは天から下って来たパン』、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て(・・・・結局、私を見て・・・・)、信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。
6:47 まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。わたしはいのちのパンです。
6:51 「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」
主なる神のみこころはまた、主の意志でもあります。主なる神は、人間を救いたいと思っておられます。
マタイ
1:21 この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
主なる神は、我々を心から許そうと願っておられます。ヨハネは当時の信じるものを励ますために、希望を与えるために書いたのです。よく知られている素晴らしい御言葉です。
ヨハネ第一の手紙
1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、(・・・・言い表さなくてはだめ!条件付きです・・・・)神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
最初の誘惑を通して、私たちはイエス様だけが罪のないお方であり、父なる神のみこころを行なうことのみを願っておられたことを知ります。イエス様は父のみこころ、即ち、この人類をその罪の中から救うことを願われ、何一つご自分のために生きようとはなさいませんでした。それゆえ、イエス様は本当の祭司であられ、聖なる神と私たちの唯一の仲介者であられました。イエス様のみが我々の罪の問題を解決なさいました。
罪は、我々を主なる神から遠く引き離してしまったのです。その隔たりとなった『罪の壁』を、イエス様はご自分の十字架の死をもって取り除かれました。イエス様は、我々が当然、受けるべきはずの罪に対する刑罰をご自分で負われました。
もう一箇所、読んで終わります。考えられない福音そのものです。
コリント第二の手紙・
5:21 神は、罪を知らない方を、(・・・・結局、イエス様を・・・・)私たちの代わりに罪とされました。・・・・
罪の塊とされた。ちょっと考えられない。どうして?
5:21 ・・・・それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
イエス様は勝利者です。完了したと叫ぶことができたのです。この勝利者なるイエス様をよりよく知ることこそが我々の切なる願いであるべきなのではないでしょうか。
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