2015年6月2日火曜日

世界の支配者は誰?

世界の支配者は誰?
2015年6月2日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

詩篇
104:1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。
104:2 あなたは光を衣のように着、天を、幕のように広げておられます。
104:3 水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、風の翼に乗って歩かれます。
104:4 風をご自分の使いとし、焼き尽くす火をご自分の召使とされます。
104:5 また地をその基の上に据えられました。地はそれゆえ、とこしえにゆるぎません。
104:6 あなたは、深い水を衣のようにして、地をおおわれました。水は、山々の上にとどまっていました。
104:7 水は、あなたに叱られて逃げ、あなたの雷の声で急ぎ去りました。
104:8 山は上がり、谷は沈みました。あなたが定めたその場所へと。
104:9 あなたは境を定め、水がそれを越えないようにされました。水が再び地をおおうことのないようにされました。

104:34 私の心の思いが神のみこころにかないますように。私自身は、主を喜びましょう。
104:35 罪人らが地から絶え果て、悪者どもが、もはやいなくなりますように。わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。

今、読んできてくださった祈りとは、ダビデの捧げられた祈りです。悩んでいる人々、いろいろなことで苦労している人々に、いつも繰り返し言います。詩篇を自分の祈りにしなさい。必ず、希望が湧いてきます。時代遅れなものではない。主は、きのうも今日も、いつまでも変わらないお方ですから、我々はどういう状況に置かれていても、祈ると主は必ず、答えてくださいます。

今まで、私たちは、いろいろな事実について一緒に考えてまいりました。すなわち、天地創造の永遠、以前の永遠について、主なる神の三位一体について、すなわち、三つにまして一つの神について、それから、主なる神は、創造の前に何を成さったのかについても、考えてまいりました。

それから、宇宙の創造について、そして、また、罪の創設者である悪魔について考えてきました。すなわち、罪はどこから来たのか、悪魔はどうしてやって来たのかということについてでした。今日(こんにち)も、悪魔が力を持っていることを見てきました。それと同時に、この悪魔は、イエス様の十字架により、完全に打ち負かされたことも考えてまいりました。

イエス様は、ご自分の死を通して、悪魔に判決を言い渡したのです。私たちは、未来を観察し、最後には、火の池に投げ込まれた悪魔の運命を見てきました。勝利者なるイエス様の側に立っている人はみな、将来、いかなる困難が起ころうとも、それによろこんで立ち向かうことができる人です。誰が、世界の支配者となるのでしょうか?主なる神でしょうか?それとも、悪魔でしょうか。キリストか。偽キリストか。世界の支配が問題です。それは、恐るべき戦いです。

世界歴史は、誰が支配者になるか――この闘争を繰り返してきました。主なる神が支配者となるのでしょうか。それとも、悪魔が支配者となるのでしょうか。この両者とも、天地の完全な支配を得ようと努めています。悪魔の願い、すなわち、自分がやりたいという悪い思いが、実現してきました。これが、いわゆる世界歴史なのではないでしょうか。

主なる神は、なぜ最初に、一撃のもとに、悪魔を殺してしまわなかったのでしょうか。その訳は、神によって造られた天使たちは、決して、死ぬことのない者として造られ、そして、今の悪魔は天使の王座、天使たちの頭(かしら)だったからです。

なぜ、最初に悪魔に判決が下されなかったのでしょうか。悪魔が、心の内に持っている悪い思い、「私がやろう!」という悪い思いが実現しなければ、主は、悪魔に対して判決を下すことができないからです。まず、悪い思いが実現されて、その次に、主の判決が下されます。

世界の支配が問題となっています。仏教、神道、マホメット教、キリスト教、これらの宗教のあいだの戦いが問題ではなく、世界の支配が問題です。主なる神と悪魔の戦いが問題なんです。悪魔の心の内にある悪い思いが実現しなければなりません。これが、今、話したように世界歴史の内容です。あらゆる宗教の後ろには、悪魔の働きがあり、人々をメクラにしています。宗教は全部、下から出たもの、すなわち、人間から出たものであり、下から上へ登ろうと試みます。宗教には、いろいろな目的がありますけど、その主な目的は、人と世界をより良くしようとすることでしょう。人間が、自分自身を助け、自分自身を救おうとする――これが、宗教が行おうとするところではないでしょうか。これは、全く悪魔の働きに他なりません。

真(まこと)の救いは、宗教ではありません。いのちです。上からの啓示、主からの啓示です。単なる教えではないから、学ぶことができません。イエス様は、「わたしはいのちそのものである」と言われました。まことの救いは、ひとつの人格者、すなわち、イエス様ご自身です。私たちは、イエス様の教えを学ぶかわりに、イエス様を、イエス様ご自身を体験しなければなりません。

使徒パウロの証しとは、本当にすばらしい証しです。読むたびごとに、いつもそう思っています。

ガラテヤ
1:11 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。
1:12 私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。
1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。

・・・・云々と、パウロは証ししたのであります。救われた人とは、どういう人でしょうか。もちろん、イエス様を体験した人です。生ける唯一の神が、罪人の内に御子、主イエス様を啓示された時、その罪人は、神の子となります。ヨハネは書いたのです。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

私たちが、この真の救いと、他の宗教の区別を理解すると、聖書がなぜこんなにも鋭く偶像礼拝をいさめているかが解ります。偶像礼拝は、害のないものではありません。偶像礼拝は、非常に有害なものです。あらゆる偶像礼拝の陰には、悪魔の働きがあります。世界の支配が問題です。主なる神と悪魔のあいだの戦いが問題です。それを忘れてはいけません。

今日は、ちょっと違う題名について、少し考えたいと思います。すなわち、地が始まってから終わるまでについてです。前に私たちは、宇宙の偉大さについて、少し考えました。確かに私たちは、宇宙の偉大さを理解することができません。我々の想像を超えているものです。太陽やその他の多くの星に比べ、我々の地球は、何と小さいものでしょうか。預言者イザヤは、次のように書いたのであります。

イザヤ
40:15 見よ。国々は、手おけの一しずく、はかりの上のごみのようにみなされる。見よ。主は島々を細かいちりのように取り上げる。

40:22 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。
40:23 君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものにされる。

私たちの住む地球とは、本当にちっぽけなものです。けれども、先ほど、問題は世界の支配だと言いましたが、この世界の支配をめぐる戦いは、この地上で行われています。したがって、この小さな地球は、救いの計画の中心点です。

地上に、主なる神は啓示されたのです。地上に、人の子となられたイエス様がお下りになられたのです。地上に、世界の救い主の十字架が打ち立てられたのです。地上に、主なる神と小羊なる主イエス様の御座ができるようになります。これらを考えますと、この地球が実に大切なものであることが解ります。ですから、今日から、この地球について、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。

初めだけなんですけど、七つの段階に分けることができるのではないかと思います。まず、原始の地球。二番目、混沌とした地球。三番目、回復された地球。四番目、ノアの洪水の前の地球。五番目、ノアの洪水の後の地球、すなわち、今の地球。六番目、千年王国の地球。そして、七番目、新しい地球。この七つの段階に分けることができます。

まず、原始の地球について、聖書は言っていますね。

創世記
1:1 初めに、神が天と地を創造した。

この事実は、聖書の冒頭に掲げられており、あらゆる啓示の元になっています。この事実は、神はいないという無神論者に、反対するものであり、また、すべてが神であるという汎神論に対抗するものです。また、神は、たくさんいるという多神論に反対し、物質だけを求める唯物論にも反対し、すべてのものは、初めより、常時に発展してきたという進化論にも反対するものです。

死んでいる生命のない原始から、どうして生命が生じることができるのでしょうか。生けるまことの造り主から生命が出た――この考えは、歴史的です。ところが、死んだ原子から生命が生じるなどという考えは、全くばかげたことです。

創世記
1:1 初めに、神が天と地を創造した。

原始の地球の創造については、この節にしかない。主なる神がお造りになったのですから、この原始の地球が、すばらしかったことは言うまでもありません。

イザヤ
45:18 天を創造した方、すなわち神、地を形造り、これを仕上げた方、すなわちこれを堅く立てられた方、これを形のないものに創造せず、人の住みかに、これを形造られた方、まことに、この主がこう仰せられる。「わたしが主である。ほかにはいない。」

主なる神のお造りになったものは、いつもすばらしく、また、完全なものです。主なる神は完全なるお方ですから、不完全なものをお造りになることはできません。化石を見ますと、原始の地球には、たくさんの植物、また、魚、動物が生息していたことが解ります。

この原始の地球が、どれくらいのあいだ、すばらしい状態のままであったのか、確かに解りません。主なる神は、悪魔をこの世の神、この地球の神と呼んでいるから、この地球は堕落前の悪魔に、その支配を委ねられていたことが想像されます。堕落前の悪魔は、美の極みであり、完全であり、神の光を帯びていた者でした。エゼキエル書を読むと、完全な者として造られた堕落前の悪魔が、火の石のあいだを歩いていたと書いてありますから、悪魔の堕落する前の地球は、実に、すばらしいものであったことが想像されます。

このすばらしさは、私たちが知るよしもありません。この主なる神の光を帯びていた堕落前の悪魔が、どれだけのあいだ、この地を支配し、主なる神との深い関係を持っていたかは解りません。けれども、この完全なものとして造られた地球は、混沌としたものになってしまいました。

創世記
1:2 地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり・・・・、

二節を読みますと、この地球は突然、形なく空しいものとなり、水がその地球にあったことが解ります。原始のすばらしい地球は、荒廃し、水だけがその表を覆っていきました。どこもかしこも真っ暗闇でした。全くの暗黒でした。なぜなら、主なる神のご臨在がなくなったからです。何が起こったのでしょうか。いったい誰のせいなのでしょうか。この創世記一章一節と二節の間で、何か恐ろしいことが起こったに違いない。

前に私たちは、天使たちの堕落を見てきました。天使の頭である者は、傲慢と自分を高くするという自分の意思、主なる神に対する反抗により堕落し、悪魔になりました。悪魔は、最初の罪を犯す者でした。罪を犯す者は、主なる神の聖なるご臨在の内に生きることができません。したがって、悪魔は追放されたのです。けれども、主なる神は、悪魔が自分の力をふるうことを許してくださったし、また、前の支配の領域を支配することもお許しになったのです。

悪魔は、主なる神と関係なく、支配することができました。どれくらい長く悪魔が支配していたか解りません。けれども、悪魔の支配の結果が、この創世記、一章二節です。「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり」と。

主なる神が地球をお造りになった時、そのあまりの素晴らしさに、天使たちは喜び歌っていたと、聖書は言っています。けれども、神なしの、悪魔だけの支配者のもとで、この地球は形なく、空しくなり、闇の淵がその表を覆い、水だけがその表面にありました。この荒廃は、悪魔の御業です。あらゆる植物、あらゆる動物は、水によって地の中に埋められてしまいました。何という恐ろしい主の裁きでしょう。その時、地球には、ぜんぜん光がありませんでした。その時、地球には、渇いた土地が少しもありませんでした。その時、地上に、生き物は少しもいませんでした。

今の地上は、不調和に満ちています。美しさと恐ろしさ、一致と混乱、生と死、喜びと嘆き、これらのものが入り混じっています。これは、自然界の不調和だけではなく、霊界の不調和でもあります。この不調和は、人類の歴史が始まってからやってきたのではなく、その前に、すでに起こった出来事です。

化石は、地の災害があったことを証明しています。創世記一章二節、「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあった」とあります。ヘブライ語を見ると、「覆っていた」の「いた」は、「なった」という意味が含まれていますから、以前には、すばらしい地球だったことがわかります。この「形なく、何もなかった」という言葉は、旧約聖書で、他にも二回、出てきます。これは、「滅びる」という意味で、主なる神の怒りの裁きの結果を現しています。

イザヤ
34:11 ペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、みみずくと烏がそこに住む。主はその上に虚空の測りなわを張り、虚無のおもりを下げられる。

形なく、何もない虚空、虚無とあります。

エレミヤ
4:23 私が地を見ると、見よ、形もなく、何もなく、天を見ても、そこには光もない。

4:27 まことに主はこう仰せられる。「全地は荒れ果てる。しかし、わたしはことごとくは滅ぼさない。」

へブル
11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

創世記一章二節を読むと、主なる神は、形なく空しくなった地球を再びすばらしい地球に回復せしめたことがわかります。この二つの聖書の箇所には、違いがあります。主なる神が最初の地球を造られたのは、何もないところから造られ、次に、空しくなったその地球は、再び良くされたことがわかります。

創造と回復の違いがあるわけです。ですから、創世記一章一節と二節のあいだに、悪魔が堕落したのに違いありません。聖書は、この点をはっきりと私たちに教えていない。もともと聖書は、天使の創造、また、悪魔の堕落を、我々に教えようとしているのではなく、堕落した人間が、如何にして救われるかという、救いの道を教えている書物なのです。

現在の地質学の研究で、地層を調べてみると、原始の地球の地層から、たくさんの植物、また、動物を見出すことができますけど、人間の骨はそこにはありません。ですから、原始の地球が、形なく空しくなったのは、人間が創造される前の出来事であったに違いない。

この混沌とした状態の地球が、どれくらい長く続いていたかは解りません。原始の地球と今の地球は、全く別ものですから、混沌とした時間を数えることが、もちろんできません。たとえば、原始の地球には、太陽がなく、北極でも南極でも、また、アメリカ、アフリカ、至るところに同じ植物が生育していました。これらの植物は、非常な速さで成長したことは確かです。このことは、石炭から、うかがい知ることができます。

なお、その当時、太陽がありませんでしたので、夜もなく、地球は非常に明るく、いつも同じ温度だったでしょう。なぜなら、堕落前の悪魔は、神の光を運ぶ者と呼ばれていたのであり、主なる神も、時々は、この地上にお出でになったことでしょうから。主なる神は光ですから、神のお造りになった地球も明るかったことでしょう。堕落した悪魔の支配のもとで、この地球は、言い表せないほどの荒廃をきたらしたのです。私たちの使う石炭も石油もその結果です。

古い地層は、大部分、地球が混沌とした時代にできたものであると考えられます。もし、回復された地球の時代に、古い地層が出来たのであるならば、創造主の一日は二十四時間とは考えないで、数千年の一定期間と考えるより仕方がありません。実際はどうであったかということは、私たちが召されてから、明らかにされ、示されるようになります。

主によって完全なものとして造られた地球、そして、悪魔の業によってだめになった地球についてだけではなく、回復された地球についても、書かれています。形なく、空しく水がその表をおおっていた地球を、主なる神は回復されました。創世記一章二節の後半、「神の霊は水の上を動いていた。」神の霊が形なく空しく、また、水だけの地球をおおっていたことは、一つの望みでした。

たとえ、我々の生活は、形なく空しく荒れ果てても、そこには、なお望みがあることを知るべきです。もっとも堕落した罪人にも、なお望みが残されています。主なる神は、六日間にわたる地の回復を始めました。

偉い聖書学者たちは、この六日間の一日一日は、二十四時間ではなかったと言います。その理由は、聖書によると、太陽が四日目に創造され、太陽によって時間を計ることができなかったからだという所にあります。聖書は、この『日』という言葉を明らかに、二十四時間の前にも用い、また、ある一定の期間にも、『日』という言葉を用いています。よく知られているコリント第二の手紙の六章ですか。

第二コリント
6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

救いの日は、一定期間に用いています。すなわち、この救いの日とは、五旬節から教会の軽挙までを意味しているのです。これに対し、他方、次のような意見があります。モーセは、四日目に太陽が造られたことを知っていたはずです。それにもかかわらず、モーセは、創造の最初の日も同じく、『日』と呼んでいます。もちろん、これは、主なる神の命令により、モーセが書いたものです。また、一週間を現在、七日に分けているのは、この神の創造に基づいています。

出エジプト記
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。――あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も。――
20:11 それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

主なる神にとって、創造されるのに長い期間を必要としません。二十四時間も必要としません。創造の一日は、二十四時間であろうが、それよりも長かろうが、それは何ら、信仰には関係がありません。

申命記
29:29 隠されていることは、私たちの神、主のものである。

私たちは、六日間にわたる主なる神の働きを見ると、本当に驚きます。第一番目の日に、主は光を造られたのです。

創世記
1:3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

何と簡単なことでしょう。何という主なる神の御業でしょう。詩篇の作者であるダビデは書いたのです。

詩篇
33:9 まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

主なる神は、ご自身を、「光の父」と呼んでおられます。主なる神は、近づきがたい光の内に住んでおられるとあります。

悪魔の罪の結果は、荒廃と闇夜でした。主なる神は身を引かれました。ですから、地は闇となったのです。しかし、今や主なる神は、新しく始められました。主なる神のみことばによって、光ができたのです。闇は悪魔によって来たものです。なぜなら、主なる神は、闇をお造りになりませんでしたから。光のない世界は、どんなものでしょうか。考えることができませんけど、間違いなく喜びのない世界であることが確かです。けれども、光とはどんなものでしょうか。わかりません。ただ、光は主から出るいのちの力であることは確かです。光はいのちであり、闇は死です。

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