2015年6月23日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
創世記
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。
2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
2:8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
人間の創造は、主なる神の永遠のご計画でした。主なる神は愛の神であるから、主はご自分の家族を持ちたいと思っておられます。主なる神は、ただ創造したかったのではなく、ご自分のいのちを宿した人間が欲しかったのです。主なる神は、人間を頼りない子供のような状態に創造されたのではない。肉体的にも霊的にも、完全な人間として、人間を創造されたのです。
初めての人間であるアダムは、地上のすべての動物、また、空のすべての鳥の名前をつけました。その能力を、持っていました。これは今、大学教授でも、おそらくできないかな。どうですかね。アダムの子孫は、大きな町を作り、また、楽器や鉄製品も作りだしたということです。ノアという男は、自分の家族と、すべての動物をその中に収めて、一年間、水の上に浮かんでおられるくらい良い舟を作りましたが、想像できないことです。
その頃の人間の寿命は、もちろん、だいたい千年近くありました。ですから、ノアの洪水前の人間は、肉体的にも、知的にも、非常に優れていたということです。これは、もちろん、いわゆる進化論と全く対立する考え方です。人間は、動物ではなく、決して、動物から発展してきたものではありません。実際には、人間は、主なる神によって、一瞬のうちに、完全なものとして、造られたものです。それが罪のために、だんだん、だめになってしまったのです。
主なる神は、初めの人間を、完全な者として造られました。そして、神は、その人間を、アダムと名付けられたのです。アダムとは、人間という意味です。この人間、このアダムは、神のもとに、この地を支配し、主なる神との交わりを持つことができる力を持っていました。アダムは、主なる神との完全な交わりを持っていたのです。彼は、主なる神を完全に信頼し、完全に服従していたのです。けれども、聖書を見るとわかります。全部、おかしくなったのです。
主なる神とは、どういうお方でしょうか。初めがなく、終わりもありません。永遠から永遠に至るお方です。造られたものではありません。いつも、存在するお方です。いのちの泉と呼ばれておられるお方です。ダビデは、詩篇36篇9節に、「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです」とあります。
主なる神のいのちについて、聖書は、何と言っているのでしょうか。このあいだ、学んだように、主なる神のいのちには、初めがありません。主なる神のいのちには、終わりもありません。主なる神は、他から、ご自分のいのちをもらいませんでした。ご自分のうちに、いのちを持っておられた。それから、主なる神のいのちは、満ち足りています。主なる神のいのちは、変わりません。主なる神のいのちは、受け継ぐことができないものです・・・・云々とあります。
いったいどうして、初めの人アダムが、神に似た者として造られたのでしょうか。主なる神は、聖書の中でご自分を、決して、説明していません。ご自身を啓示されるだけです。主なる神が、ご自身を啓示なさるので、私たちは、主なる神を知ることができます。
創世記を、初めからずっと、一節から25節までを読むと、次の言葉が出てきます。「主は言われた」、「主はご覧になった」、「主は分けた」、「主は造られた」、「主は司らせた」、「主は創造された」、「主は祝福された」などという言葉が、何回も何回も出てきます。『主なる神は言われた』とありますから、主なる神は、もちろん、考えたはずです。偶然はありません。神は造られたものではない。人間は、造られたものです。神は無限であり、人間は有限です。神は、天に属するのであり、人間は、地に属する者です。神は、神聖であり、人間は、人間的です。
これを考えると、主なる神と人間とのあいだには、非常な相違があると分かります。主なる神は、超人間ではなく、逆に、人間は小さな神でもありません。主なる神は、永遠のいのちという土台の上で考え、愛し、こころざしたのに対して、人間は、造られたいのちを土台として、考え、愛し、志しました。神は、造り主であり、人間は造られたものです。神は、支配者であり、人間は、この主に仕えるべきです。
初めての人間であるアダムは、造られた者ですから、造り主に従わねばなりませんでした。ですから、アダムの考え、愛し、志すことは、主なる神の支配の範囲内においてのみ、許されるべきでした。アダムは、考え、愛し、志す本当の自由を持っていました。けれども、それは、主の御心の範囲内より、出てはいけないものだったのです。
主なる神は、すべてを支配なさるお方です。主なる神は、造られたいのちを持っておらず、アダムのいのちは、造られたいのちでした。人間のいのちについて、聖書は何と言っているでしょうか。初めがあります。終わりもある。主から与えられたものであり、主なる神に、より頼んだものだったのです。そして、初めの人間のいのちは、変わり得るものでした。アダムのいのちは、誕生によって受け継がれるものだったのです。
ひとつの大切な質問は、何でしょうか。すなわち、主なる神はどうして、人間を造られたのかということです。主なる神は、人間が神の性質に与かるために、また、人間が神の愛に応えるために、そして、永遠のいのちを出すために、お造りのなったと、聖書は、はっきり言っているのです。天の使いたちが考え、志すことができるように造られたのですけど、天使たちは、決して、神の性質に与かることができません。ですから、神を愛することもできない。天の使いたちは、決して、神の子供になることができません。
ローマ
5:5 私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
人間は、主なる神を愛することができますから、主の心を満たすことができます。聖書の中では、天使たちの愛については、何も書いていません。主なる神は、アダムをご自身の性質に与かることができる者として、造られました。アダムは、神の性質を持ってはいませんでしたが、性質に与かる能力を持っていました。アダムは、神によって造られたいのちを持っていたのですけど、主なる神のいのちを持っていなかったのです。すなわち、造られていない永遠のいのちを持っていなかったのです。
主なる神は、どうして人間を造られたのでしょうか。主なる神は、愛の神です。ですから、神はご自分の家族を持ちたく思っておられたのです。主なる神は、ただ創造したかったのではなく、ご自身のいのちを宿した人間を欲しかったのです。
主は、人間が神の性質に与かるために、また、人間が神の愛に応えるために、お造りになりました。言うまでもなく、主なる神は、人間に、ご自身を愛することを強制なさいません。ですから、主は、人間に自由意志をお与えになったのです。主は、強制された愛を欲しくありません。したがって、人間は、主を愛するか、主を拒むかのどちらかを選ばねばなりません。また、主なる神は、人間に選ぶ機会をお与えになりました。
創世記
2:8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
16節、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい」とあります。これは、主なる神の意志の中で制限されていない自由そのものです。17節、「しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」アダムが、主の御心に従おうとするなら、アダムは、神の御心のうちに、留まっていなければなりませんでした。
『思いのまま食べてよい』と、『取って食べてはならない。』これは、人間に与えられた選択の機会でした。ここに、分かれ道がありました。一方は、主の御心の中にあり、他方は、主の御心の外にありました。一方には、主との交わりがあり、他方には、神との分離がありました。一方は、いのちであり、他方は、死でした。アダムは、選ばなければならなかったのです。アダムは、主に服従する自由、服従しない自由を持っていました。
今、ここに、質問を三つ、設けたいと思います。
第一番目、主なる神に従うのに、妨げになるものが、アダムの中にあったのでしょうか。アダムは、非常に良い者として、主の御手により、造られたのです。ですから、アダムの内には、主に従う妨げとなるものはなかったはずです。
二番目、主なる神に従うのに、妨げとなるものが、アダムの外にあったのでしょうか。主なる神が、エデンの園を造られたのですから、アダムの環境は完全であり、神に従う妨げが、アダムの環境にあったとは言えません。
三番目、主なる神とアダムの交わりは、アダムが無為に主に従うことのできるような交わりではなかったのでしょうか。アダムは、神との完全な交わりを持ち、また、主と全くひとつになって、共に働くことができたのです。アダムにとって、主に服従することは、難しいことではありませんでした。
今の三つの問いについて、もう少し考えましょうか。人間は主に似せて造られたのです。すなわち、考えること、感じること、志すことのできる道徳的人格として造られたのです。けれども、人間と神との違いは、人間が、造られた制限された終わりのあるいのちを持っているという点です。したがって、造り主に絶対的により頼まなければならないという点があります。この主と人間との類似性、すなわち、似ている点が、神の交わりと神と共に働く働きを可能ならしめているのです。
人間は、霊、たましい、肉体を持っています。次のことばを読むと分かります。
創世記
2:7 その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。・・・・
第一テサロニケ
5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
パウロはこう、テサロニケにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。もう一箇所、第一コリントの十五章、いわゆるよみがえりの書と言われるものです。
第一コリント
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。
この地球は、人間の住処であるべきでした。ですから、人間の肉体も、この地と関係深く、造られたのです。人間は、見ること、聞くこと、話すこと、嗅ぐこと、味わうことができます。人間の体は、この地に結びつけられていますから、いちばん低い者です。しかし、次のみことばを考えると分かります。
第二コリント
4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
人間の体は、いくら低いものであっても、聖霊の宮であり、義の道具、主の栄光のために用いるものです。
創世記
2:7 神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。
人間は、神によって、息を吹き入れられたちりです。人間の本質で、いちばん上に位するものが、人間の霊でしょう。人間の霊によって、人間は、主との結びつきを保つことができます。人間は、霊によって、主なる神を愛し、思い、礼拝することができます。人間の霊は、聖霊を受け入れることができ、聖霊を受けた時、新しく生まれ変わることを経験します。
地から造られた人間の肉体は、人間を自然と被造物に結びつけています。神から与えられた人間の霊が、人間を神と結びつけ、その霊が主なる神を認めさせます。人間だけが、霊を持っています。地から造られた人間の肉体、それから、神から出た霊、この二つが主になり、魂をつくり出されたのです。魂は、何かあるものではなく、考え、感じ、志す、自己です。ですから、人間は、「私は考えます」、「私は欲します」、「私は感じます」と、言うことができるのです。
第一の人アダムにおいては、霊が魂と肉体を支配していたのです。例えれば、霊が家の主人であり、魂は家の管理人であり、肉体は家の僕(しもべ)であったわけです。
魂は二つの世界を結びつけています。すなわち、魂は肉体を通して、目に見えるこの世と結びつき、霊を通して、目に見えない霊の世界に結びついています。人間は、この二つのうちのどちらの下にその身を置くかを、魂が決めなければならない。魂が肉体を支配し、魂は霊に支配されるべきです。第一の人、アダムは、そうでした。ですから、アダムのうちには、主なる神に従う妨げとなるものはなかったはずです。
聖書を読むと、人間の霊は、聖霊によって満たされ、聖霊に導かれると書いてあります。したがって、肉体と魂は、霊の下にあるべきです。もし、人間の霊が、聖霊と切れることのない絶えざる結びつきを持っているならば、聖霊から受けた啓示を、魂と肉体を用いて、外に表わすことができます。
アダムは、主の御心のうちで考え、感じ、志すことができていました。ですから、アダムの内には、主に従う妨げとなるものはなかったはずです。主なる神に従うのに妨げとなるものが、アダムの外にあったのでしょうか。主なる神がエデンの園を造られたのですから、アダムの環境は、言うまでもなく完全であり、神に従う妨げがアダムの環境にあったとは言えません。エデンという言葉を訳しますと、「好ましい喜びの国」ということになります。エデンの園には、人間の霊、人間の魂、人間の肉体を完全に満足させるものが備わっていました。だから、主に従う妨げがアダムの環境にあったとは言えません。
三番目、主なる神は、人間を完全な環境に置かれたばかりではなく、ご自身との交わり、また、働きができるようになさいました。主なる神が、ご自身と交わることを欲しかったのです。ですから、人間を神に似た者として、お造りになりました。人間は理解力、道徳意識、意思を持っていましたから、主なる神との交わりができたはずです。第一の人、アダムは、神と共に歩き、神と友のように語ることができたのです。第一の人、アダムは、神と共に働きました。人間は、被造物の支配者として造られたのです。人間は、神の道具として、神の思いを行う者として、創造されたのです。アダムは被造物に対する完全な支配者でしたが、神の下にある支配者でした。
第一の人は完全な者でした。また、第一の人は、第一の人の環境も完全でした。また、第一の人は、主なる神との完全な交わりを持っていたのです。
第一の人は、いつも神の下の支配者で満足しているのでしょうか。第一の人は、いつも神の御心の範囲内に生きたいと思うようになるのでしょうか。第一の人は、いつも聖霊に従うのでしょうか。
最後に、主なる神はご自分の永遠の計画について、新約聖書で、いったいどのように語っておられるかを見てみたいと思います。それには、七つの答えがあります。
第一番目、私たちは、世界の創造以前に、キリストによって選ばれた者です。
エペソ
1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
二番目、私たちは、主なる神の子たる身分を授かるようにと、あらかじめ定められた者です。
エペソ
1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。
三番目、私たちは、ご計画によって召された者です。ローマ書、8章28節、よく引用される、多くの人々にとって大切な箇所のひとつです。
ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
四番目、主なる神は、我々を御子のかたちに似た者としようとして、あらかじめ定められたのです。
ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
五番目、私たちの内にいる主イエス様は、栄光の望みです。
コロサイ
1:27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
六番目、私たちは完成を目指して、進もうではありませんか。目的は、完成されることです。
へブル
6:1 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。
完成を目指して進もうではないか。
七番目、多くの子らを栄光に導くことです。
へブル
2:10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
主なる神の永遠のご計画とは、何というすばらしいものでありましょうか。あなたは、世界の創造以前に、主イエス様によって選ばれた者です。神の子たる身分を授けられるように、あらかじめ定められた者です。ご計画によって召された者です。
主なる神は、我々を、御子のかたちに似た者としようとして、あらかじめ定められました。私たちの内にいる主イエス様こそが、栄光の望みです。私たちは、完成を目指して進もうではないか。キリストが、我々を栄光に導くと、約束してくださったのです。この事実について考えると、主を褒めよ!と、言わざるを得ないのではないでしょうか。
最後に、ヨハン・セバスチャン・バッハのひとつのカンタータの内容を紹介いたします。「私と私の生活を見ると、私の口から次の言葉が出てきます。主よ。神よ。あなたは私にために何を成されたのでしょう。たとえ私の舌が千枚あっても、あなたの成されたことを言い表すことができません。あなたは、何と善良なのでしょうか。あなたは、何と誠実なのでしょうか。あなたの愛は、何と豊かなのでしょうか。だからあなたに、賛美と栄光の歌を唄います。」
間違いなく私たちは、永遠から永遠に至るまで、生ける主なる神を、礼拝せざるを得ないことでしょう。
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