2015年6月9日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
創世記
1:6 ついで神は「大空よ。水の間にあれ。水と水との間に区別があるように。」と仰せられた。
1:7 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。するとそのようになった。
1:8 神は、その大空を天と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第二日。
1:9 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
1:10 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。
1:11 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。
1:12 それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。
1:13 こうして夕があり、朝があった。第三日。
今、読んでもらいました創世記、一章六節から八節までを見ると、八節に書いてある天は、いったいどういう天でしょうか。この天は、主なる神がおられる天ではありません。この天とは、地球の周りにある空気なのではないでしょうか。
いったい空気は、そんなに大切ではないのに、主なる神はこれを造るのに一日を費やしたのは、どういうわけかと思う人もいるかもしれない。空気は、どうして必要なのかと考えるべきなのではないでしょうか。
第一の答えは、上の水、すなわち、雲と、下の水を分けるために、空気が必要です。もし、空気がなければ、雲は絶えず地上を覆い、私たちは濃い霧の中に、這い回らなければなりません。もし、そうなれば、自分を見ることができないし、星空も見えないでしょう。いつも湿っぽく寒く、決して、実は実らないでしょう。
これに対し、私たちは、雲は、そんなにたくさんないではないか・・・・と言うでしょう。けれども、あるところでは一年中、毎日、雨ばかり降っているところもあります。たとえば、アラスカのある地方がそうです。雨ばっかり降る。たくさんの水を運ぶ大きな川があります。たとえば、南アフリカのアマゾン川がそれなのです。この川は、あまり広いので、河口から四五〇キロ、さかのぼった地点で、対岸を見ることができません。まるで海のようです。また、その深さは一八〇メートルもあります。
ところが、このたくさんの水はどこから来るのでしょうか。もちろん、天から降ってくるのです。主なる神は、上の水と下の水を分け、その間に、空気の層を設けられたのです。これは、二日目の創造の御業でした。
続いて、空気はどうして必要であるかと言いますと、空気があるので、私たちは、呼吸をすることができます。もし、空気がなければ、物体の陰影を見つけることができません。空気がなければ私たちは、明るい面だけしか見ることしかできません。空気がなければ、朝焼けも夕焼けもありません。空気がなければ、空は青くはなく、真っ暗です。月の表面では、空気が稀薄であるか、または、全然、空気がありあせん。ですから、月から空を見上げると真っ暗です。
空気の私たちに大切な点は、空気があたかも、暖かい外套のように、地球を包んでいるところにあります。もし、空気がなかったら、地球の太陽に面する側は、太陽熱のためにだめになり、地球の反対側は、マイナス百度以上の冷たさになってしまいます。空気は創造の奇跡です。
主なる神は命令し、そして創造された。私たちのイエス様の父なる神が、全能の神であるとは、我々にとって、何と喜ばしいことでありましょうか。
第三番目の日に、主なる神は、いったい何を創造されたのでしょうか。
創世記
1:9 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
1:10 神は、かわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、それをよしとされた。
1:11 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。
1:12 それで、地は植物、おのおのその種類にしたがって種を生じる草、おのおのその種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ木を生じた。神は見て、それをよしとされた。
1:13 こうして夕があり、朝があった。第三日。
初めに地球は、水で覆われていました。主なる神は、創造の三日目に、陸地を上に引き上げましたので、陸ができたために水がたまり、それが海となりました。山々は、すばらしい神の創造の結果です。
詩篇の作者は、絶えず山を褒め称えました。山の上でアブラハムは、その子、イサクを生贄として捧げねばなりませんでした。主なる神は、シナイの山に下り、イスラエルの民に律法をお授けになりました。エリヤという預言者は、カルメル山にイスラエルの民を集め、天より火を呼びおろしたのであります。
イエス様は、最初の説教を山の上でなさったのです。イエス様は、山の上でよく祈られました。そして、イエス様は、山の上で変貌されたのです。山の上に十字架が立てられたのです。山の上より、イエス様は昇天なさったのです。イエス様が再臨される時、その足はオリーブ山におろされると、預言されています。山は、何とすばらしいものではないでしょうか。
山の高さに対して、海の深さがあります。主なる神は、人類が住むためにこの地球をお与えになったのに、この地球の三分の二が水で覆われているのは、どういう訳か、解りません。海の底には、三百メートル潜りますと、もうそこには、どんな光も届きません。それでも、その下になお、数えきれないほどの生物が生きています。それが、何の目的で生きているのかは解りません。海は暗い力です。
ノアの洪水の時、全人類と動物が海に飲まれ、イスラエルの民を追ってきたパロの軍勢も、紅海に飲まれてしまったのです。また、海では、日々、たくさんの人が亡くなります。海の底には、何が横たわっているのでしょうか。そこには、沈没した船、宝、また、人間の骨もいっぱいあるでしょう。将来、海は、その中から死人を出すとあります。
黙示録
20:13 海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
ノアの洪水の時、亡くなった人々や、紅海で沈められたエジプトの軍勢が、白き御座の前に立ち、裁きを受ける日がきます。新しい天と新しい地の時代には、海はなくなります。
黙示録
21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
光と空気と陸地の創造は、偉大な奇蹟です。それにもまして、生命の創造は実に偉大な奇蹟、そのものです。私たちは、約十万種類の植物があることを知っています。この十万種類の各種類には、それに類似した種類がまだ、たくさんあります。
いちばん高い山の上、また、いちばん深い海の底にどんな植物があるか、まだ解りません。太平洋の中には、三百メートル以上の高さの木があり、その枝は、海の上に出ています。サハラ砂漠の真ん中では、もちろん、人は住めません。けれども、そこには、いろいろな良い木が生育しています。その中でも、ナツメヤシの実は、非常においしい実です。マイナス五十度以上の北極でも、植物が生えています。これは、本当に奇蹟です。けれども、いちばん大きな奇蹟は、植物の種なのではないでしょうか。この種を人間の頭で理解することはできません。
今、ここに胡麻の種が一粒あります。これを植えると、三万の胡麻ができます。この三万粒の胡麻を植えると、九億の粒の胡麻ができます。これを、五年間、続けるならこの全地を覆ってしまいます。そうしたら、どうしようね?
このような生長と繁殖の力を、主なる神は創造の三日目に、種の中に入れたのです。植物は、私たちがそれを楽しみ、また、食べ物とするために造られました。新しい地にも植物があるようです。
黙示録
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
この創造のすばらしさについて、パウロも、ローマ書の十一章の中で、まとめて主を褒め称えたのです。
ローマ
11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
第四番目の日に、主なる神は、何をなさったのでしょうか。前に読んでもらいました箇所の中にも出てきたのですけれど、創世記一章に戻ります。
創世記
1:14 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、季節のため、日のため、年のために、役立て。
1:15 天の大空で光る物となり、地上を照らせ。」と仰せられた。するとそのようになった。
1:16 それで神は二つの大きな光る物を造られた。大きいほうの光る物には昼をつかさどらせ、小さいほうの光る物には夜をつかさどらせた。また星を造られた。
1:17 神はそれらを天の大空に置き、地上を照らさせ、
1:18 また昼と夜とをつかさどり、光とやみとを区別するようにされた。神は見て、それをよしとされた。
1:19 こうして夕があり、朝があった。第四日。
三日目に造られた植物は、太陽とは別の光を受けていたわけですが、植物にとって、太陽光線は必要ではないことが、科学的に証明されています。それが、どんな光であったかは、もちろん、知るよしもない。
太陽と月と星が造られた時、私たちは初めて、正確に時間を計ることができました。言うまでもなく、主なる神は、時間を計るために、太陽、また、月と星は必要はありません。いかなる精密な時計でも、太陽、月、星ほど、正確な時を教えてくれません。聖書においては、時間がたいへん大切です。時がなければ、秩序がありません。そこにはただ混乱があるばかりです。次の聖句を読むと、時間がいかに大切であるかが解ります。
ガラテヤ
4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。
『定めの時』とありますね。イエス様も、似たことばを言ったことがあります。
ヨハネ
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
なぜ、太陽と月と星があるのでしょうか。私たちを照らし、時を分かつためです。また、主なる神を褒め称えるために造られたものです。その他にも、別の使命を持っていることでしょうけど、それは私たちは解りません。
太陽は、この地を照らしているばかりでなく、その他、二千の地を照らしています。その内のひとつに木星があります。この木星は、この地球の千四百倍もあります。考えられません。この二千の天体に植物が生育し、動物が生きているかは、確かに解りません。
月は、硬直して生命がなく、ただ宇宙をめぐっています。これに対し、太陽は、我々の地球の千万倍もあります。太陽は、火の海と言われています。その熱さは、何十万度という熱さです。私たちは、それを太陽と地球がこんなにもという、考えられない寒さであり、また、熱さです。
けれども、私たちは、それを太陽と地球がこんなにも離れていながら、なお暖かいので、それを知ることができます。今、主なる神が地球をその御手につかみ、太陽に投げつけたとします、すると、地球は一瞬のうちに燃え尽きてしまうでしょう。それは、あたかも蝋(ロウ)の小さなかたまりを台所の火に投げ込むようなものです。
地球から大きな望遠鏡で太陽の表面を見ると、数千メートルの火の柱が舞い上り、また、崩れている様を見ることができます。けれども、もっともっと大きな太陽があり、我々の太陽より、もっと明るい太陽があります。
この宇宙でいちばん明るい星は、太陽の五千倍の光の強さを持っています。それは、想像することができません。天文学者たちは、星が突然、明るくなり、徐々に光を減じてくるのを十三回も見ました。そして、これらの星は、次には、姿を消してしまいました。太陽、月、また、目にみえる星々が無くなる日がくるでしょう。なぜなら、目に見えるすべてが焼き崩れる時がくると、聖書に預言されているからです。
天文学者は、また、暗いうちに突然、星が現れたのを七回も見たことがあります。この事実は、主なる神が新しく星を創造されたために起こったのか、また、その星があまりにも遠くにあるため、今までかかって光が地球に届いたかのどちらかです。
新天新地の時代には、日も月も星も必要ではない。もうすでに、イザヤという預言者は書いたのです。二千七百年前でしょうか。
イザヤ
60:19 太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。
黙示録
21:23 都には、これを照らす太陽も月もいらない。というのは、神の栄光が都を照らし、小羊が都のあかりだからである。
第五番目の日に成された奇蹟を、ちょっと見てみましょうか。
創世記
1:20 ついで神は、「水は生き物の群れが、群がるようになれ。また鳥は地の上、天の大空を飛べ。」と仰せられた。
1:21 それで神は、海の巨獣と、その種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、その種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造された。神は見て、それをよしとされた。
1:22 神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」
1:23 こうして、夕があり、朝があった。第五日。
創造の四日目が終わった後、地上は、きわめて静かでした。主なる神のみことばによって、魚と鳥が生じました。創世記一章で、「創造された」ということばは三回、出てきます。いちばん初めに、一章一節ですね。一章一節の原始の天地創造の時であり、二番目には、二十一節の動物の創造の時であり、三番目、二十七節の人間の創造の時です。
植物の場合に、創造されたと言っていないのは、ちょっと興味深いことです。植物の場合は、原始の創造の時に創造された植物の種が残っていて、創造主の三日目に神のみことばによって、この種は芽を出したものと思われます。原始の地球が混沌とした時、植物の種は残っていましたが、動物は全部、死に絶えてしまいました。だから、新しく創造される必要があったわけです。
五日目に、魚と鳥が創造されたのです。魚と鳥は似ているところがあります。魚も鳥も、体の形が流線型です。これは水の中を泳ぐにしても、空中を飛ぶにしても、いちばん抵抗の少ない形です。両方とも、足で動かず、ひれ、または、羽で体を運びます。魚も鳥も、扇の形をした尾をもっています。これは、方向を定めるのに便利です。魚には鱗があり、この鱗は、おもに組み合わせています。また、鳥は羽を持っています。これは、いずれも油を分泌して、水と寒さを防ぎます。魚の骨にも、鳥の骨にも、空気が入っています。
繁殖は、偉大な奇跡です。一匹のいわしは、時々、六万八千個の卵を持っていることです。鯉の場合は、一匹の鯉が三十四万二千個の卵を持っている時があります。タラは九百万個の卵を持っています。私たちの神の何という偉大なる奇跡の御業なのではないでしょうか。
六日目に行われた奇跡について、ちょっとだけ考えて、終わりたいと思います。
創世記
1:24 ついで神は、「地は、その種類にしたがって、生き物、家畜や、はうもの、その種類にしたがって野の獣を生ぜよ。」と仰せられた。するとそのようになった。
1:25 神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。
六日目に主なる神のみことばによって、陸地に住む高等動物が創造されたのです。これらの動物は、人間に共通しているところがあります。苦痛を持って生まれ、喜びと悲しみを感じます。死に対しては、人間と同じく苦しみ恐れます。
ここでは、『種類にしたがって』造られたという言葉が、たくさん出てきます。種類にしたがって創造されたと書き記されていますから、多くの人々が信じこんでいる進化論は、明らかに誤りです。あらゆる動植物は、はっきりと区別された種類に分けて造られたのです。この新しく回復された地球はすばらしかったでしょう。
創世記
1:31 そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。
どこにも、罪や呪いはありませんでした。いばらやあざみは、その時、ありませんでした。これらは、罪の結果として生じたものです。
イザヤという預言者は、将来のすばらしさについて多くのことを書いたのですが、一節だけ、ちょっと見てみます。
イザヤ
11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。
11:7 雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。
11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。
こういうふうにイザヤは、勝利の世界について預言したのであります。この箇所を見ると、狼と小羊がともに宿り、ひょうは子やぎとともに戯れる時代が将来、来ますから、罪の前には、猛獣もいなかったことは当然です。その時、動物は殺されず、人間は植物だけを食べていました。動物も共食いをすることなく、植物だけを食べていました。
創世記
1:29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
1:30 また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。
アダムがこのすばらしい地上で、どれくらいのあいだ、生存していたか、もちろん、解りません。
ノアの洪水がありました。ノアの洪水の前の地球とは、どういうものだったでしょう。アダムが罪を犯した時、主なる神はアダムに言ったのです。
創世記
3:17 ・・・・あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
アダムのわがままのゆえに、この全自然も、共に苦しむようになりました。その時から、雑草が生え、猛獣もできたのです。
ノアの洪水の後の地球とは、結局、今の地球です。ノアの時に、人間は主なる神を拒みました。へりくだろうとしなかったのです。これに対する主なる神の裁きとして、いわゆるノアの洪水が、この地球を襲ったのです。全地は一年間、水で覆われていました。もちろん、ノアの洪水の時、主なる神は山々を沈め、地表を平らにされたに違いない。洪水の終わった時に、主は、また、山々を持ち上げ、元通りにされたと考えられます。ですから、現在の地球はこの洪水によって変わりました。
創世記
8:13 ノアの生涯の第六百一年の第一の月の一日になって、水は地上からかわき始めた。ノアが、箱舟のおおいを取り去って、ながめると、見よ、地の面は、かわいていた。
ノアの見たこの土は、我々の生きている現在の地球です。もちろん、聖書は、また続いていろいろなことを言っています。たとえば、千年王国の地球についても、書き記されています。イエス様が再臨される時、この地球の表面は変わります。動植物の世界に変化が起こります。その時、地球は、罪の来る前のようになる。エデンの園のような喜びの場所となります。その時には、人間どうしの争い、動物どうしの争いもなくなります。
それだけではなく、新しい地球についても書いてあります。
第二ペテロ
3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、
3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。
3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。
3:8 しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。
3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。
3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
この箇所を見ると、地球の三つの状態が解りますね。まず、第一に、原始の地球。二番目に、混沌とした状態から回復された地球。水によって成った地球。それから、三番目に、火によって新しくされる地球です。
私たちが今、生きていいる地球は無くなってしまいます。けれども、火によって、全く別のものに変えられます。現在、生きているこの地球は、主なる神と人間が住むために、火によって、罪から洗い聖められます。その時には、太陽も月も、もはやない。夜もないとあります。
黙示録
21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
21:3 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
新しいエルサレムは、天から下って来ます。主の御座がこの地上に設けられることになります。けれども、主の御座のあるところには、天もあります。これが、我々の地球の未来であると、聖書は、はっきり言っているのです。
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